インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

中国語のあまりに巨大な存在感について

何十年か前、はじめて香港へ行ったときのこと、とあるお茶屋さん(茶葉の販売店)で中国語(北京語)を使ったら、あからさまに無視されたことがありました。何度話しかけても、まるで私がそこにいないかのように無視をする。私も海外ではいろいろな目に遭ってきましたが、ここまでの差別的な対応は初めてでした。

私のそばには二人連れの若い日本人観光客がいて、その店員は笑顔で接客していました。実はこの日本人観光客は英語で話しかけていたのです。店員が私には「塩対応」だった理由はこちらの風体が怪しかったからという可能性もありますが、ともかくこれは、中国語を使うことでネガティブに受け止められることがあるということを知った最初の体験になりました。

台湾で働いていたときはもちろん中国語を使っていましたが、私は自分の「北京ふう」あるいは「大陸ふう」な中国語にどこか居心地の悪さを感じていました。台湾でも北京語ベースの中国語(“國語”と台湾の人々は言います)が広く使われていますが、私がいた台湾南部はそれとはかなり発音の異なる“台語”(台湾語)が主流の社会。だからといって「北京ふう」が忌避されるということはもちろんないのですが、冗談交じりでよく“北京腔”(北京訛り)と言われていて、ここでも若干のネガティブ(というほどではないけれど)な空気がありました。

新疆ウイグル自治区をあちこち旅行したときにも中国語を使いましたし、それですべての用が滞りなく足せました。当時は私の中国語に対するネガティブな反応も感じませんでしたが、中国政府による同化政策が苛烈を極めているいまだったらちょっと臆して使いにくいかなと思います。少なくともどこかに後ろめたいような気持ちを感じざるを得ないでしょうね。

中国語圏というのはかくも広大で、中国語(北京語・普通話)が話せれば東アジアから中央アジアのかなりの範囲で使うことができ、その意味では便利な言語ではあります(それどころか欧米でも便利だったりする)。ただその中国語のあまりに巨大な存在感について、一学習者としてはもう少し内省的でありたいな……とも、ここ数年考え続けています。

qianchong.hatenablog.com

最近、中国・内モンゴル自治区における中国語教育強化のニュースにたびたび接しています。先日は新聞の読者欄でご自身の体験を紹介されている、この投書を読みました。十八年前にして、この状況。かの国の覇道は近年に始まったことではなく、非常に根深いものなんですね。

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こういう状況をみるにつけ、そしてその背後にあるものをつらつらと考えていくうちに、自分が中国語を教えていることにも一種の侘しさが漂ってきてしまいます。もちろん言語そのものに罪はありません。問題はそれを使う人間の側にあります。英語もそうですけど、広い範囲で多くの人々に使われ、そのプレゼンスが高まっている言語を使うときには、どこかにもう一つの醒めた視点が必要なのではないか。そんなことを考えています。