きのうの東京新聞朝刊にロシア文学研究者・沼野恭子氏の記事が載っていました。はっきりとは語られていないものの、昨年から始まったロシアによるウクライナ侵攻によって、ロシア文学の研究者やロシア語を学んでいる学生にも影響が及んでいることがうかがい知れます。
私も長い間中国語を学んだり仕事にしたりというなかで、陰に陽に「何で中国語なんかやるの(やってるの)」と聞かれたり訝しがられたりしてきたものですから、大きな共感を持って記事を読みました。そしてまた、ロシアとともに中国の軍事的プレゼンスが増している(と、とみに報道されている)なかで、今後もますますこの記事にあるように「ネガティブな問いが投げかけられていく」のだろうなとも感じています。
沼野氏は「侵攻には断固反対するけれど、やみくもにすべてのロシアの映画や芸術を排除すべきではない」とおっしゃっています。そう、映画や芸術などの文化面に限らず、あらゆる分野でそういうスタンスが必要ですよね。中国にしたって、現在の中国共産党の統治になる中華人民共和国政府のありようと、「中国的なるもの」とはイコールではないはず。
なのに世間には、それをたったひとつのイメージで染め上げようとする人や、たったひとつのイメージで染め上げているという自覚すらもたずに嫌中なり反中なりを叫ぶ人がけっこういるのです。こうした「○○的なるもの(例えば文化や芸術)」と政治との距離感に関して、沼野氏は「ロシア語を勉強していけば、その違いをかぎ分けられるようになるはず」とおっしゃっています。まったく同感です。
言語を学べば、おのずとその言語を使っている人々や、その人々が営んでいる社会、さらにはその社会が内包されている世界のありさまがもっとクリアに(今ふうの言葉を使うなら「解像度を上げて」)見えてくるはず。逆に言えば、そういう視座を獲得することのない言語学習はニセモノ、とまでは言わないまでも底が浅いのではないかと思っています。