インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

SNSは「有用」だからこそ振り回される

Think clearly』で「心に響いた2、3個」のうちみっつめは、というかこれも「ふたつめ」に連なるんですけど、やはりSNSについてです。

SNSで、とくにTwitterで心かき乱されるのは、あまりにも悪意のある意思表示が、それも匿名で無責任に投げつけられていることが多いからだと昨日書きました。でも、タイムラインに流れるのはむろん悪意があって無責任な意思表示ばかりではありません。善意の責任ある立場やスタンスからの意見表明もたくさんあります。それらは例えば様々な社会問題であったり、国際的な問題であったり、あるいは自分の仕事や趣味に深く関わる貴重な情報であったりします。

以前の私は、そういう貴重な情報を惜しみなく共有しようとするSNSのあり方に強くひかれていました。そして私もそういう共有の一端に連なりたいと思って、積極的にツイートをしたこともありました。しかしここに来て、それが私にとってはやはり「承認欲求」と深く結びついた行為だと感じるようになりました。そしてまた、自分の生活リズムとはまったく関係なく飛び込んでくる(しかしそれはそれなり有用な、あるいは有用だと思わされてしまう)情報に振り回されてしまっている自分を見いだしたのです。

上述の本には、こんな記述がありました。

私たちの脳は、意見を吹き出す火山のようなもの。ひっきりなしに何かに対する意見や個人的な見解を発信している。訊かれた質問が自分に関連があろうがなかろうが、複雑だろうが単純だろうが、答えられる質問だろうが答えられない質問だろうが、そんなことに関係なく、能は答えを紙吹雪のようにまき散らす。


私たちには、質問が複雑な場合は特にそうなのだが、「即座に直感で答えを出す傾向」がある。そして意見を表明した後になってようやく頭で理性的に考え、自分の立場を裏づける理由を探しだす。(中略)こうした直感はほとんどの場合正しいのだが、複雑な質問の場合には、直感的に正しい答えを出せるものではない。ところが私たちは、それを正しい答えと勘違いしてしまう。


そして、直感があっという間に出した答えをどうにか「正当化」しようと、脳の中を大急ぎで探して、裏づけとなる理由や例やエピソードを集めてまわる。すでに自分の意見は述べてしまった後だからだ。

これは、TwitterなどSNSによく見られる感情的あるいは脊髄反射的な応酬の、ひとつの原因ではないかと思います。そしてまた文字数制限があるツイートに独特のあの、どこか高みから決めつけたような物言いの根幹にあるものではないかとも。そして筆者は、「現代が抱える問題点は、情報の過多ではなく、意見の過多だ」として、こう問いかけるのです。

思考の対象にするテーマは、意識して自分で選ぶようにすればいい。あなたがいま考えるべきテーマを、なぜジャーナリストや、ブロガーや、ツイッターのユーザーに決められなければならいのだろう?

もちろん優れたジャーナリストや、ブロガーや、SNSのユーザーの意見表明には、こちらの目を開かせてもらえるもの、それまでその存在に気づいてさえいなかった様々な問題についての有用な視点を与えてくれるものも多いです。それでも、そうした視点はなにもSNSだけで得られるわけではありません。ふだん新聞や雑誌や書籍を読んでいるなかで、もっとゆっくりと(ここが大切)、自分の頭で思考することに大きく軸足を置きながら(ここも大切)接して行くことだってできるはずです。

SNSには「意識の高い方々(イヤミで言っているわけではなく、本当に世の中の様々な事象に対して積極的に関心を寄せているという意味)」が多いからか、そこに流れてくる情報に思わず興奮や憤りや感動や落胆や笑いや……などなどを覚えてそのたびに血圧が上がります。そして私の脳はすぐにそうした一つ一つのメッセージに対して何か自分が旗幟鮮明にしなければならないような焦燥感を抱くのです。本当は誰もそんなこと求めていないのかもしれないのに。

そうした事象に無関心でいればいいとも思いません。社会の中で、人とつながって生き・生かされている以上、今後も積極的に関心を持ち続ける態度は必要でしょう。それでも、一個人がコミットできる範囲には限界があります。誠実であろうとすればするほど、そうした一個人の限界を超えて、過剰に思考を強要される——これはかなり心乱される環境です。これもまたSNSの負の側面ではないかと思うのです。

上述の本には、「個人ができることには限界がある」として「世界で起きている出来事に責任を感じるのはやめよう」というアドバイスもあります。これも「心に響いた」点でした。

世界で起きていることは、あなたの責任ではない。冷酷で、無慈悲に聞こえるかもしれない。だが、これが真実なのだ。(中略)各地で起きていることすべてに心を痛め、そのたびにああすればよかった、こうすればよかったと考えていたら、罪悪感であなたのほうがまいってしまう。あなたが精神的な苦痛を覚えても、現実に起きていることは何も変化しないのに。

SNSには、とくにTwitterには「拡散性」が高いという特徴があるため、そこでの意思表示がなにかの問題解決につながるかもしれないというある種の手応えや実感があります。それがますますTwitterでの情報収集と、それによる思考と、その結果の発信(ツイート)に走らせるのですが、そこまで自分の思考とSNSの力を過信してはいけないのではないかと思います。

またSNSではその時点におけるリアルな(と思われる)問題提起が次々になされるため、そしてそれに対する反応や動向もリアルで素早いため、ついついそれに何からのコミットをしていないと取り残されたような、あるいは後ろめたいような気持ちにさせられてしまう仕組みを含んでいます。でもそうした事々にいちいち反応していたら、結局自分の思考までも奪われてしまうんですよね。

私は時々、様々な団体や時には個人にも寄付をすることがありますが、世の中への、特に様々な問題や課題へのコミットの仕方としては、それが一番よいのではないか、あるいはそれが「せいぜい」なのではないかと思いました。私は私で、目の前の自分が直面している、あるいは自分が解決しなければならない問題に集中して取り組み、その結果稼いだお金の一部を世の中に還元すればよい(実質的にそれしかできないのかもしれない)のだと。

SNSとつきあいながら、そうした適度な距離感を保てる人もいると思いますが、私は根が単純なのか、瞬間湯沸かし器的な性格だからなのか、どうも極端に走りがちなんですよね。そういう人間にとって、あまりに意見や見解があふれているSNSはあまり近づき過ぎてはいけないのではないか、そう思うようになったのです。

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