BLOGOSで偶然みつけたこちらの記事、とても興味深く読みました。現在国境も言語も超えて一元的に運営されているTwitterが、近い将来「分散型SNS」に移行するという話題です。特に「ドメインブロック」を利用して分散化したSNS同士が「嫌なら見るな」ないしは「嫌なものは見ない」を実現できるというのは、現時点での人類のありよう(というか限界)を如実に示しているようで興味深かったのです。
まずは、筆者である御田寺圭氏のこの記述。
私たち人間は、視覚的情報によって物理的距離感を推し量ることには長けているが、物理的実体の伴わない情報と自分との認知的距離感を取ることはきわめて苦手である。
だからこそTwitterを含むSNS上のコミュニケーションが「『自分には本来的に関係のないことかどうか』という判断を鈍らせてしまう性質を伴っている」とおっしゃるのです。
これは本当にその通りだと思います。SNSを眺めていたらあっという間に時間が過ぎてしまうというのは、ひとえにこの本来は自分に関係なかった事柄に延々つきあわされ、リンクを辿らされた結果です。また、感動や憤怒や落胆や驚愕やらの感情をやたらに刺激されて、大勢が「脊髄反射」的に反応した結果「炎上」が起きるのも、こうした距離感の不全が関係しているのでしょう。
私はこうしたいわば「身の丈サイズの距離感」を失うことが自分の時間をどんどん奪っていくことに耐えられなくなり、ほとんどのSNSから足を洗ってしまいました。いま使っているのはTwitterだけですが、それも自分からツイートしたり、誰かのツイートに便乗したりすることはやめてしまいました。
さらに、Twitterのこの「設計変更」の背後にある事情を御田寺氏はこう分析しています。
すなわち、グローバル社会が理想的に追求してやまなかった「多様性」とは「相互理解を前提とした共生」を結実するのではなく「相互理解が無理であることを理解したうえでの決別」へと終着するということだ。
はああ、なんとも情けない人類ではありますが、今の段階ではまだ人類に「相互理解を前提とした共生」としての多様性を受容できる器が備わっていないのではないかと。
もちろんこれは反面、価値観の異なる存在の排除を肯定することになり、まんま差別的な思想だと受け取られる向きもあるかと思います。また様々な問題や課題から目を背け、「臭いものに蓋をする」ことにもつながらないのかと。でも私には、現時点で人類の多くが、SNSというお手軽なツールを介して脊髄反射的に攻撃し合うという幼児性から脱することができていない以上、無用な争いを避ける・リソースをもっと他に割くという点でむしろ建設的ではないかとも思いました。
私がほとんどのSNSから足を洗おうと思ったのは、もっと「自分の持ち場」で自分のなすべきことをやろうと思ったからでもあります。すべての問題にコミットし続けていたら、心身ともに疲れ果ててしまいます。広く関心を持ち続けることはもちろん大切ではあるものの、自分の器量を越えて関わることはできない。なのにSNSは「これにも関われ、あれにも関われ」と不断に袖を引っ張り続けるのです。
もとより人間はすべての人と分かりあうことなどできないし、分かりあうことのできない人が自分のすぐそばで暮らすことを長く許容するほど器用で柔軟な認知機能を有していない。
御田寺氏が記事の終盤近くでこう書かれていますが、これはいったん自分の生まれ育った環境から抜け出て、異文化や異言語の環境で暮らしたり学んだりしたことがある方には案外ストンと胸に落ちる認識ではないでしょうか。「話せば分かる」「誠意があれば伝わる」がもっとも頼りなく聞こえるのが、そうした異文化や異言語の環境ですから。
世界は自分が考えているよりもずっとずっと広い。この言葉は私にとって、人々の多様性を自覚させるための呪文です。でも同時に、その多様性とは自分ひとりでは受け止めることができないほどに、言い換えれば自分が考えているよりもずっとずっと多様なのだ、多様すぎるほど多様なのだということを、私はよく分かっていなかったのかもしれないと思いました。