先週から腰の調子が悪くて、その影響なのか右脚のももまで腫れているような違和感があって、難儀をしています。
こういう時は、二十代の頃からお世話になっている上井草の「ゴッドハンド」先生のところへ駆け込むのですが、その時は何となく回復したような状態になるものの、やはり違和感は消えず。こういう違和感が長引くたびに痛感させられるのは、やはり健康でないとQOL(クオリティ・オブ・ライフ/生活の質)そのものが下がってしまうなあ、ということです。さらに、身体が健康でないと、気持ちまですさんでくるなあ、ということです。
「天命を知る」歳をこえたあたりからの、訳の分からない「不定愁訴」に耐えかねて、体幹トレーニングや筋トレに加え、節酒や節食を行って半年あまり。一時期「降圧剤服用寸前」まで上がっていた血圧も正常値の範囲近くまで下がり、夜中に痛みで目が覚めてしまうほどの肩凝りもなくなり、何もかも投げ出したくなるほどの疲労や不快感はかなり軽快したのですが、それでもこのしつこい腰痛だけはなかなか立ち去ってくれません。
それでも、腰痛を理由にトレーニングをサボり始めたら最後、きっと「やめちゃおうかな」というダークサイドに堕ちることは分かっているので、昨日も仕事が終わった後ジムに向かいました。いつものトレーナーさんが他の方についていたので、昨日は別のお若いトレーナーさんが指導してくれました。
この方はもともと野球をやっていて、その後整体や柔道整復を学ばれたそうで、トレーニングの合間にいろいろと、腰痛や肩凝りを防ぐための貴重なアドバイスをいただきました。そして、その方とお話ししているときに、ふと“頓悟*1”したことがありました。それは「自分で動かないと変わらない」ということです。
腰痛にしろ肩凝りにしろ、その他の「不定愁訴」にしろ、長い間悩まされて来て自分なりにいろいろな方法を試してきました。それらは病院に行ったり、薬を飲んだり、整体やマッサージやカイロプラクティックなどに行ったり……で、もちろんそれらも効果はあるんでしょうけど、畢竟これらは自分の身体そのものを自分で考えて動かしていないんですよね。ほとんどすべてを医師や薬剤師や整体師や専門の方々に預けているだけで。
体幹トレーニングなどの指導を受けていて感じるのは、身体の使い方やメンテナンスって、とてもデリケートで繊細な感覚と思考、さらにはイメージ力が必要だということです。自分の身体を専門家に預けて「ああ、気持ちいい」となるのは文字通り気持ちいいんですけど、自分で意識して、考えてはいない。
それがトレーニングでトレーナーさんに指導されている時は、しょっちゅう細かい指摘や指導が入りますし、トレーナーさんが実際に身体のあちこちに触れたり、支えたり押したり引いたりされるので、その度に自分で自分の身体を調整することになります。そういう能動的な身体の使い方が蓄積されて初めて身体の不調も解消されていくのだ——それが今回の“頓悟”でした。
私が通っているジムでは、プロや社会人や学生で野球やサッカーやバトミントンなどの競技をされている方が多く調整をされています。その調整風景を横目で見ながら私のような「おじさん」も上がらない腕を上げたり、開かない股関節を開いたりと、ぶざまな姿を晒しています。
私自身はスポーツ競技が苦手、というかはっきりいってキライで、野球もサッカーも試合は全然見ないし、ニュース番組でもスポーツコーナーになるとテレビを消しちゃうし、2020年東京五輪もはっきり「開催反対」を唱えちゃうような人間ですけど、ジムで目にするアスリートのみなさんの、驚くほど繊細な調整と、それに対するトレーナーさんの指導には、いつも敬意を覚えています。やっぱりその道のプロはすごいのです。
*1:「悟る」という意味の中国語ですけど、個人的にはもうちょっと繊細で複雑な語感で捉えています。なんというのかな、ちょっとした気づき、というか、分かっているような分かっていないような不安定な状態だったのが「ことっ」と小さな音を立てて落ち着いたような感じ。