インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ふたたびあの「薄いビニール袋」について

スーパーのレジで「袋、要りません」と告げても、肉や魚や野菜をひとつひとつ薄いビニール袋に入れてくれちゃう。アレをどうやって避ければいいか……という話を以前書いたことがあります。

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そしたら、先日職場で偶然レジ袋や「マイバッグ」の話になった時に、英国人の同僚が同じことを言っていました。「あの薄いビニール袋は何の意味があるんですか」って。彼もマイバッグを持参するそうですが、毎回あの薄いビニール袋を断るのが面倒だとのこと。「僕、『袋は要りません』と言いましたよね?」とレジ係の人に詰め寄るんだそうです。おお……私はそこまでの勇気がないですけど、彼の気持ちはよくわかります。

なんというか、エコとか「もったいない」とかそういうのは全部すっ飛ばして、ほとんど自動的にビニール袋を使っちゃうその「思考停止感」に引っかかりを覚えるんですよね。中には「袋、要りません」と告げてあるのに、自動的に(習慣的に?)何枚もレジ袋をつけてくれちゃうレジ係の方も時々います。英国人の同僚は「レジ袋などを一切つけないというのをデフォルトにして、欲しい人がその都度告げるようにすべき」と言っていました。おお……さすがのロジカルシンキング。その通りです。

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https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_97.html

スーパーのレジで「袋、要りません」と言っているにもかかわらず、あの薄いビニール袋に入れてくれようとするのでその都度「それも要りません」と言うと、レジ係の方はちょっと意外という顔をします。それだけ奇妙な要求なんですね、現時点では。中には、スムーズなレジ業務を阻害されたとばかりに、あからさまに「ムッ」とした顔をされる方もいます。

まあレジ係の方にしてみれば、ただでさえクソ忙しい業務の最中なのに、そんな「意識高い系」の人の自己満足に細かくつきあっていられないよ、ってことなのかもしれませんけど。でも、だからこそ英国人の同僚の言うように、基本レジ袋は廃止にするほうが、レジ係の方もラクなんじゃないかと思います。先般フィンランドのスーパーで観察していたら、レジ袋はレジで告げると有料でつけてくれるシステムになっていました。そして薄いビニール袋は……そもそもそんなものは存在しませんでした。

この問題、日本でもけっこう以前から議論になっていますけど、いまだにはかばかしい進展が見られませんね。これは畢竟、私たち消費者の側がレジ袋について旧態依然とした考え方から抜け出せてないからなんでしょう。だからスーパー側も一歩前に踏み出せない。たかがスーパーのレジ袋ですけど、何かこう私たちの社会に蔓延する停滞感や閉塞感の一端が現れているなあという気がするのです。

自分の持ち場に対する矜持のようなもの

私の職場は都心のターミナル駅にほど近い街なかにあって、系列の大学や大学院、専門学校などが集まったビル群のようなキャンパスになっています。本館のメインエントランスに守衛さんがいて、すべての部署や研究室の鍵を管理しており、毎朝そこへ行って職員証を提示し、鍵を受け取って仕事場に行くのが日課です。

対応してくださる守衛さんは毎日違うのですが、二週間に一度ほど出会う若い守衛さん(おそらく二十歳代前半)は、私がカウンターに向かって歩いている段階、しかも「○○研究室です」と告げる前から鍵を手にしていて、すぐに手渡してくれます。キャンパス全体で様々な部署や研究室の数はたぶん数百は下らないと思いますし、もちろん私が有名人というわけでもないのに、なぜ?

というわけで、今朝もたまたまこの若い守衛さんだったので、思い切って話しかけてみました。
「部署を言わなくても分かるんですね」
「いつも鍵を取りに来られる方は分かります」
「顔を覚えているんですか?」
「そうです」

なるほど、私はいつも職場近くのジムで早朝から「朝活」ののち出勤するので、うちの研究室の鍵は常に私が受け取っています。とはいえ、そういう部署はこのキャンパス内にはたくさんあるはず。しかもこの守衛さんが鍵の受け渡しを担当されるのは毎日ではなく二週間に一度ほどなのです。人の顔と名前を覚えるのが極端に苦手な私には信じられない技術です。「それはすごいですねえ」と言ったら、「いや、そんな……」と照れてらっしゃいました。う〜ん、カワイイです。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_35.html

私はこの方のように、自分の職場や持ち場で求められるものは何かと常に考え、人知れず努力なり工夫なりされている方を心から尊敬します。もちろん部署名を聞いてから鍵を探して渡したって守衛さんとしての仕事は十分にまっとうしているのですから、人によってはこの若い守衛さんのような仕事の仕方を「オーバースペック」だと言うかもしれません。「働き方(働かせ方)改革」の声かまびすしい昨今にあっては、なおさら。

でも、様々な部署の教職員が入れ代わり立ち代わりやってきては鍵を受け取っていくその「現場」で、少しでもスムーズに効率的に鍵を渡せる方法はないかと考えた結果、できるだけひとりひとりの顔を覚えようとこの守衛さんは考え、それを実行に移したわけです。上司に「やれ」と命令されたわけでもなく、教職員に「遅い」と苦情を言われたわけでも(おそらく)ないのに。

これって、自分の仕事に対する「矜持」なんですよね。誇りを持って仕事をしているというか、仕事に自分なりの楽しみややりがいを見つけているというか。もちろんこういう仕事への姿勢を賛美し続けていくと、私の嫌いな「日本スゴイ」に行き着いちゃう危うさはあるんですけど、どんな職場や持ち場でも、あるいは国や地域を問わず、こうやって自分の仕事に誇りを持ち、前向きに誠実に働いている方はいます。そういう方に出会うと、とても嬉しくなって自分もぜひそうありたい……と思うのです。

ふたたび「外食の味が濃すぎてつらい」

ふだん仕事に出ている時のお昼ごはん、以前はたいてい簡単なお弁当を作っていましたが、最近は少々忙しくて職場付近の外食で済ませることも多いです。……が、以前にも書いたように、東京の外食はおしなべて味が濃く、塩辛くて、本当につらい。それで近くにある「丸亀製麺」さんに行って、自分で味を調節することができる「釜玉」や「釜揚げ」ばかり食べています。

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それでもたまには汁物のうどんも食べたくなるので「かけ」など頼むのですが、やっぱり塩辛くてそのたびに後悔します。仕方がないからコップの水を足したりしているんですが、先日は何を血迷ったかこの時期のおすすめという「玉子あんかけ」を注文してしまいました(寒かったから……)。そしたらこれがもう塩辛くて塩辛くて。あんかけだから水を足すのも何となく気が引けて、結局ガマンして食べました。あああ、塩辛さで眉間の奥あたりにジーンと痛みを感じます。

関西などで見かける、あのお出汁が「しゅんでる」薄味のおうどんが食べたいなあ。丸亀製麺さんには給水器があるんですけど、せめてあれをオフィスなどでもよく見かける温冷両方出る給水器にしてくれないかなあ。そうしたら「かけ」出汁も「釜揚げ」のつゆも少し薄めることができるのに。

というわけで、その日丸亀製麺で食べた時に卓上においてあった、このアンケートに答えて、最後の自由記述欄に上記のような意見を書いておきました。関東における外食チェーンだから、私のような意見が採用される望みはまずないと思いますけど、知人や友人に聞いてみたら外食の味の濃さに辟易している方は結構いるので、他にもそういう声が届いていることを祈ろうと思います。

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ま、あとはお湯を入れたマイボトルを持参するか……ですね。ほんと、外食産業のみなさん、もう少し、ほんのもう少しでいいので、味を薄くしてほしいです。お願い。

留学生のカンニングに対して

留学生の通訳クラスでは、学期の間に何度か「単元テスト(小テスト)」を行います。テストといっても、通訳している音声を録音して仕事に耐えうるレベルかどうかを判定するだけで、しかもその内容は事前に授業で一度訳したものです。実際の現場における通訳という作業が常に「初見」(つまり事前に音声を聴くことができる通訳業務などありえない)であることを考えれば、あまり意味がないような気もしますけど、まあ「それを言っちゃあおしまいよ」なので……。

単元テストはCALL教室で一斉に録音する形で行うのですが、教室に持ち込んでよいのは事前に各自が作成したグロッサリー(用語集)と筆記用具だけです。メモ用紙は別途白紙を配布します。「それ以外は持ち込んではいけませんよ〜」と伝えてあるのですが、少なからぬ留学生がスマホやら資料やらを持ち込もうとします。スマホや資料を持ち込んでも、通訳をしているその場で検索したり資料にあたったりする時間的余裕はないので別に構わないのですが、一応ルールとして伝えてあるにも関わらず、そのルールを守れない方が結構な割合でいるんですよね。

あまつさえ、カンニングをする人もいます。グロッサリーや資料の裏に、あらかじめ課題の訳文を書いておいて、それを読み上げようとするのです。試験中は教師が巡回しているので、そういった「ズル」をすればすぐに発覚するのですが、なぜそういう行為に走るんでしょうねえ。

まあ教師的には、あらかじめ課題の訳文を作る段階でむしろ人よりも勉強していると考えることもできるので、これも別に構わないと言えば構わないのですが、一応通訳のテストですからね。その場で、音声を聴いて、メモを取って、グロッサリーを頼りに訳出をする、その臨機応変なスキルを鍛えようとしているのに、なぜかこうやって「その場しのぎ」の姑息な手段に走る人がいるのです。

でもこれ、よく考えると回り回って自分自身の損になりますよね。だってそうやって「その場しのぎ」で逃げ回っていたら、いつまでたっても現場で通用する通訳のスキルなど身につかないじゃないですか。かつて通訳学校に通っていたときも、クラスメートの中には訳文をバッチリ作り上げてきて、訓練時にはそれを音読しているだけといった方がいましたが、私には不可解極まりない行為でした。一体何のために通訳学校へ通っているのか、と。

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https://www.irasutoya.com/2014/08/blog-post_282.html

今回は中国語母語の留学生三人ほどが、こっそりと訳文を見ながら訳していました。私は試験が終わったあとでそれを指摘して、「そんなことをしても、ちっとも自分のためにならないですよ。希望大家不要得過且過(その場しのぎ的なやり方はやめませんか)」と伝えました。

まあここは義務教育の現場じゃないので、カンニングするもしないも本人の考え方次第です。ただし、カンニングをすればその人の株は大暴落して、われわれ教職員の信用を失います。実際、カンニングの事実が教員室に伝わると「えっ、○○さんって、そういう人だったの?」と驚く先生方も多いのです。というわけで、「そうやって失った信用を取り戻すのは、みなさんが考えているよりも大変なことですよ。特に今後日本社会で働こうとか、日本人と協働しようと考えている方は、よくよく信用の大切さを考えてみてくださいね」とも伝えました。

まあ信用が大切なのは、別に日本社会に限った話じゃないですけどね。せっかく高いお金と時間をかけて日本に留学しているというのに、もったいない話です。もっとも、そういう不合理で刹那的な生き方をしちゃうのも若い方々ならではの特権かもしれません。ともあれ、次の単元テストが楽しみです。懲りずにまたカンニングをする留学生が出るでしょうか。それともみんな自分が日本に留学しようと思った「初志」を思い出して、実力で臨もうとするでしょうか。

「いいね」をしない+表示させない

カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』を読んで、すぐに実践してみたスマホによる「ながら」をやめること。これはほぼ完全に習慣づけることができました。「ほぼ」というのは、時折夕飯の献立の参考にするためにChromeで検索することがあるからですが、それ以外の「ながら」、つまりSNSや動画サイトやゲーム(これは元からやってませんが)などは一切使わなくなりました。

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デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

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もうひとつ、この本を読んだあとにやめたのは、「いいね」(あるいはその類い)をしない+表示させない、ということです。詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、「いいね」という機能は人の時間を激しく奪い、自己承認欲求を著しく亢進させるなんとも罪深い存在だと思います。

とりわけ「いいね」関係の通知が問題で、それは通知があるたびに、それを確認しに行きたくなってしまうからです。確認しに行ったら最後、そこを起点として次々に「注意経済」の誘惑に負けて時間を費やしてしまうことになり、また自己承認欲求を満たされてわけもなく興奮したり、逆に満たされずにがっかりしたり。いずれにしても心乱されることが多すぎるのです。

もちろん大事な通知機能もありますから、そこは吟味が必要ですが、例えばSNSの「いいねされました」系の通知、アクセスカウンターみたいなものは、スマホだけでなくパソコンのブラウザからも一掃したほうが自分の時間を確保できるのだとわかりました。

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https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

というわけで私は、例えばTwitterの♥とリツイートとリプライは、自分のブログに関するものだけに限定して、それ以外はやめました。要するに自分から何かをつぶやくことをやめたのです。Chrome拡張機能に入れていた「はてなブログ」の通知も削除しました。そして、SNSやブログは、時間を決めてその時間にだけチェックするようにするのです。一日に一回とか週末だけとか。

同時にSNSで「いいね」をしたり、「はてなブログ」のスターをつけたりするのもやめました。Twitterの♥は、備忘録的な意味合いもあって使っていたのですが、そもそもTwitterをほとんど使わなくなった(タイムラインを眺めた途端、次々に注意喚起されて時間があっという間になくなる)ので、これもやめました。ブログを更新して、誰かにスターをつけてもらうととても嬉しいのですが、それをチェックして一喜一憂するのもやめました。

「いいね」や♥やリツイートやスターは誰かとつながるツールでもあるので、その意味ではその「つながり」を自分から断つことになるわけです。これは自ら「不義理」を働くような気持ちになるのでちょっとした勇気が要りますが、やめてしまえば何でもありません。貴重な情報(それも無償で提供されている)に心から感謝しつつも、会ったこともないどなたかと繋がり続けることに過重な意味付けをしない、と決心するのです。

そして……自分の時間を取り戻し、自分の身の回りにいる人々(特に家族)との繋がりを取り戻すのです。

フィンランド語 48 …格変化の練習・その2

格変化の練習の続きです。「その1」で単語の語幹を求められるようになったので、それをもとにそれぞれの格に変化させていきます。格は、これまで習ったものだけでも単数12個・複数12個の、合計24個もあるのですが、そのうちの多くは機械的に作ることができます。例えば「kirkko(教会)」を例に取ると……

●kirkko(教会)
kptの変化:kk → k で「kirko」。

単数主格(辞書形) kirkko 複数主格 kirkot
単数属格(〜の) kirkon 複数属格
単数対格(〜を) kirkon 複数対格 kirkot
単数分格(〜を) 複数分格
単数内格(〜の中で) kirkossa 複数内格
単数出格(〜の中から) kirkosta 複数出格
単数入格(〜の中へ) 複数入格
単数所格(〜の表面で) kirkolla 複数所格
単数離格(〜の表面から) kirkolta 複数離格
単数向格(〜の表面へ) kirkolle 複数向格
単数変格(〜になる) kirkoksi 複数変格
単数様格(〜として) 複数様格

※他にも「具格」「共格」「欠格」がありますが、未習なので割愛します。

上記の表で、★以外の部分はいずれも「kirko」という語幹にそれぞれの格語尾がついていて、いっぺんに作れてしまいます。単数属格と単数対格、複数主格と複数対格は、それぞれ同じ形なんですね。

で、問題は★の部分ですが、まずは単数の復習から。単数分格、単数入格、単数様格は「kptの変化」をさせません(逆転はあり)。つまり「kirkko」だったら語幹はそのまま「kirkko」になるわけです。その上で……

■単数分格
語幹の最後が短母音 → Aを足す。
語幹の最後が長母音・二重母音 → tAを足す。
語幹の最後が母音+le,ne,re,se,te → eを消してtAを足す。

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※例外がいくつかあって、例えば「lohi(鮭)」は「lohta」、「lapsi(子供)」は「lasta」など。また単語の最後(語幹の最後ではない)が e で終わるものは短母音ならそのまま ttA を、長母音ならそのまま tA をつけます(huone → huonetta / tee → teeta)。また子音で終わる単語のうち、nen , uus , yys や 派生語に形容詞がある us , ys , os 以外はそのまま tA をつけます(kaunis → kaunista)。

■単数入格
語幹の最後が短母音 → 母音をのばして n を足す。
一音節で語幹の最後が長母音・二重母音 → h を足し、語幹の最後の母音を足し、n を足す。
複数音節で語幹の最後が長母音 → seen を足す。

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■単数様格
語幹に na を足す。

これで、単数形と複数形の一部について表が埋まりました。

単数主格(辞書形) kirkko 複数主格 kirkot
単数属格(〜の) kirkon 複数属格
単数対格(〜を) kirkon 複数対格 kirkot
単数分格(〜を) kirkkoa 複数分格
単数内格(〜の中で) kirkossa 複数内格
単数出格(〜の中から) kirkosta 複数出格
単数入格(〜の中へ) kirkkoon 複数入格
単数所格(〜の表面で) kirkolla 複数所格
単数離格(〜の表面から) kirkolta 複数離格
単数向格(〜の表面へ) kirkolle 複数向格
単数変格(〜になる) kirkoksi 複数変格
単数様格(〜として) kirkkona 複数様格

格変化の練習は、まだまだ続きます。

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Minä olin mennyt tähän pieneen kirkkoon.

いとしの水蓮菜

仕事帰りにいつものスーパーへ立ち寄ったら、台湾の水蓮菜が売られていてびっくりしました。水蓮菜は細長い緑色の茎だけが5、60センチから1メートルほどにもなる珍しい野菜で、台湾に住んでいた頃は、そのシャキシャキとした独特の食感が大好きで、三日とあけず食べていました。日本で売られているのを見たのはこれが初めてです。

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台湾では、スーパーや市場などで売られているほか、屋台などでも炒め物の具材とか“滷味”の素材として、長い茎をぐるぐる巻きにした形でよく見かけるのですが、それと同じ形で野菜売り場に並んでいたので、思わず「おおおおっ!」と声を上げてしまいました。それほど好きな野菜なのです。

この野菜はシンプルな炒め物にするのが一番おいしいので、ちょうどスーパーで安かったアサリと一緒に炒めてみました。最初に水蓮菜だけさっと火を通したうえで湯通ししてザルに上げておき、次にアサリをにんにくを効かせた酒蒸しのように炒め、最後に水蓮菜と合わせました。予熱を見越して少し早めに火を止めましたが、果たして抜群の歯ざわりでこの上なくおいしい炒め物になりました。

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この水蓮菜、蓮根のように池みたいな場所でないと栽培できないそうです。だから日本でもそう簡単に作るというわけにはいかないのかな? でももし日本でも栽培できてもっとたくさん出回るようになったら、きっと大人気になると思います。食感や味わい的には豆苗に似ていますが、豆苗よりも数段上のおいしさです。私は東急ストアのOisix売り場で買いました。お近くに東急ストアがある方は、ぜひ。

フィンランド語 47 …格変化の練習・その1

以前、動詞の活用(時制の変化)についてワークシートを作りまして、その練習は今でも継続しているのですが、フィンランド語はこれ以外にも名詞、代名詞、形容詞などが格変化を起こします。というわけで、その練習が加わりました。

格変化について

フィンランド語は日本語と同じ「膠着語」に属する言語で、例えば「猫」という単語があったら、「猫が」「猫の」「猫に」「猫から」「猫へ」みたいに変化するのですが、これを日本語のように「てにをは」などの助詞を使うのではなく、単語自体がその格を表すように変化するのです。

●kissa(猫)

単数主格(辞書形) kissa 複数主格 kissat
単数属格(〜の) kissan 複数属格 kissojen
単数対格(〜を) kissan 複数対格 kissat
単数分格(〜を) kissaa 複数分格 kissoja
単数内格(〜の中で) kissassa 複数内格 kissoissa
単数出格(〜の中から) kissasta 複数出格 kissoista
単数入格(〜の中へ) kissaan 複数入格 kissoihin
単数所格(〜の表面で) kissalla 複数所格 kissoilla
単数離格(〜の表面から) kissalta 複数離格 kissoilta
単数向格(〜の表面へ) kissalle 複数向格 kissoille
単数変格(〜になる) kissaksi 複数変格 kissoiksi
単数様格(〜として) kissana 複数様格 kissoina

※他にも「具格」「共格」「欠格」がありますが、未習なので割愛します。

語幹を求める

この格変化ができるようになるためには、一部の例外を除いてまず語幹を求める必要があります。辞書形でそのまま語幹になるものもありますが、語幹が辞書形から変化するものもあります。語幹が変化するのは、単語の最後が「i / e / 子」の時だけです。「ie子」を私は「いえこ」と読んじゃっていますが、要するに単語の最後が「i」と「e」と「いくつかの子音」で終わる場合に語幹が変化し、それ以外はそのまま格語尾をつけて構わないということです。上述の「kissa(猫)」は単語の最後が「a」ですから、語幹はそのまま「kissa」です。

さらに必要なものは「kptの変化」が起こります。「kissa」は該当しませんが、例えば「kukka(花)」だったら「kk→k」という変化が起きます。しかも格によってはこの「kptの変化」がないものもあってややこしいです。

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先生からはプリントが配られて、この「ie子」が語尾にある単語の語幹の求め方と、「kptの変化」パターンは覚えちゃってくださいと指示がありました。覚えたらその部分は黒塗りにして、いちいち参照しなくてもすぐに作れるようにと。ううむ、なかなか厳しいです。このプリントは先生のオリジナルですからここにそのまま載せるわけにはいきませんが、例えば「i」だったら、「外来語とフィンランド語と特殊に分かれて、外来語は不変化、フィンランド語は i が e 、特殊は veli が velje ……」のようにつぶやいて覚えるのです。

語幹の変化表をよく見ると「例外」や「複数」で「s」が「kse」になるものが多いです。この変化はフィンランド母語話者の中ではとてもポピュラーなのかもしれません。

それにしても、前にも書きましたが、母語話者はこうした変化をほとんど無意識のうちにできてしまうのがすごいですね。まあ日本語でも私たちは「一本(ippon)、二本(nihon)、三本(sanbon)」のような変化を無意識にできてしまいますが、これは非日本語母語話者からすると驚愕の変化です。もっとも、こうした変化は「より苦労せず言いやすい形に」という一種の言葉の経済性に則っているわけで、そこがとても人間らしいなと思います。

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Ilma muuttuu lämpimäksi.

「音の公害」を減らしてほしい

歳を取ったせいか、人の多い場所が極端に苦手になりました。それでも東京に住んで、毎日通勤電車で都心まで出かけているんですからまだ「耐性」みたいなものは残っていると思いますが、年々それが目減りしているのを感じます。旅行なども、とにかく人が集まる観光地には行きたくありません。観光名所は極力避けて、なるべく人のいないところばかり探して行くようになりました。知人・友人からは「それの何が楽しいの?」と聞かれますが。

都心では、人の多さに加えてもう一つ、音の多さにもうんざりしています。都会の雑踏音や車の音などは仕方がないですが、駅や商業施設などでの不必要なアナウンスが多すぎると思うのです。もっともこれは歳を取ってからではなくて、学生時代から常に感じてきたことではありますが。駅構内や電車内でのアナウンスは、そのかなりの部分が自動化されていて、それだけでも十分にうるさいのに、そこにわざわざ駅員さんや乗務員さんがアナウンスを重ねてきます。

必要最低限のアナウンスはあってもよいと思いますし、むしろなくては困るんでしょうけど、ちょっと電車が遅れただけで何度も謝罪したり、車内マナーや忘れ物関係の注意喚起がなされたり。しかもそのボリュームが異様に大きいこともわれわれ乗客の疲労を倍増させてくれます。私がよく利用している東急線など、発車前に「電車が発車しますと揺れますのでご注意ください」という冗談みたいなアナウンスが入るんですよ。

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https://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_969.html

他にも階段やエスカレーターなどではひっきりなしに何かの注意喚起がなされています。中には視覚障害者用のチャイムや鳥の鳴き声(の合成音)などもあるのですが、そうした必要不可欠な音声が埋もれてしまうほどの音の洪水です。なぜ私たちの街はこんなにうるさいのでしょうか。これ、何とかならないのでしょうか。……と常々思っていたところに、cakesでこちらの記事を読みました。マレーシア在住の編集者・ライターさんの記事です。

cakes.mu

クアラルンプール国際空港では2018年に、アナウンスを極力やめる「サイレント・エアポート」宣言をして、話題になりました。これは公共のアナウンスをできるだけ減らす運動で、空港の「音の公害」を減らそうと、ロンドン・シティ空港やフィンランドヘルシンキ空港、スペインのバルセロナ・エル・プラト空港やシンガポールチャンギ国際空港などで行われている試みなのだそうです。

いいですねえ。確かにヘルシンキ空港など、ちょっとこちらが不安になるくらいアナウンスはありませんでした。それでもサインシステムはしっかりしているし、いざとなれば尋ねることができるカウンターもあって、全く不便は感じませんでした。音の公害に気づいて、対策を取り始めたところがあるというのは福音ですが、こうした空港がなぜそういう考えに至ったのかに興味があります。「アナウンスがうるさい」という苦情が多かったから、という理由ではなく、人間がもっと心地よくあることができる状態を科学や哲学の面から探求していった結果だといいですね。

日本の公共交通機関がこれほどまでに音声であふれ、注意書きがあちこちに貼られている最大の原因は、利用者の苦情への対応ないしは苦情の事前回避ではないかと思います。無体な要求を出す利用者も問題ですが、公共交通機関の側も物事を深く考えることなく、場当たり的な対応を重ねた結果なのではないかと。そして一度始まってしまうと、誰もやめようと言い出せない。私たちの国の一番悪いところが出ているのが、あの音の洪水ではないかと思っています。

加熱式たばこの「ステルス性」について

一昨日の東京新聞朝刊に、こんな広告が載っていました。新聞紙面1ページの1/3を占める、加熱式たばこ「glo(グロー)」の広告です。

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こうした加熱式たばこ、最近は往来でもよく見かけるようになりました。私はたばこの煙や匂いが大嫌いなために却って感覚が研ぎ澄まされてしまい、ほんの僅かな煙や匂いでも察知できるようになっただけでなく、前を歩く人の姿勢や動作から「あ、この人はこれからたばこを吸うだろうな」という未来を予知できる特殊能力まで獲得するに至りました(かなりの確率で当たります)。さらには、雑踏の中でもライターの「カチッ」とか「シュボッ」というかすかな音まで聴き取って回避行動を取るというスキルまで身につけてしまいました。

加熱式たばこの登場は、その特殊能力に新たな挑戦者となって現れました。ライターの音も聞こえないし、見た目もなにかのガジェットみたいでたばこっぽくありません。そのガジェットを口に加えているのを見てようやく「ああ、たばこなんだ」と分かるくらい。しかも紫煙がたなびかないから、これもよく分かりにくい。なるほど、加熱式たばこが「ステルス性」の高い製品だと言われるのもうなずけます。その有害性が指摘されているにも関わらず。

news.yahoo.co.jp

ところで上掲の新聞広告、どこか奇妙な感じがしませんか? 広告コピーは「スタイルとテクノロジーの新たな2つの楽しみ」だけで「たばこ」の文字がありません。わずかに左下の「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」という社名でたばこ広告だと分かるくらいです。でも加熱式たばこのユーザーにとってはこれで十分なんでしょうね。「glo と言えばアレでしょ」という暗黙の了解があるわけです。

しかしもっと奇妙なのは、たばこの広告につきものの警告文がないことです。「20歳未満の者の喫煙は法律で禁止されています」とか「喫煙は心筋梗塞脳卒中の危険性を高めます」とかの文言ですね。こんなのが許されるのだろうか、加熱式たばこの場合は警告文がいらないのだろうか……と訝しんでいたところ、今朝の新聞にはこんな広告が載っていました。

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同じ「glo」の広告ですが、こちらには警告文が入っています。マーケティングを目的とした広告に、こうしたネガティブな文言を付さなければならないという自己矛盾。そんな広告のありようにはたばこの持つグロテスクな一面が現れていて、私はいつも気持ち悪さを感じるのですが、ここで疑問なのは、なぜ一昨日の広告には警告文がなくてもよく、今朝の広告には警告文が付されているのかという点です。

それでちょっとネットで検索してみたら、日本におけるタバコ広告は、昭和59年に施行された「たばこ事業法」によって規制されていることがわかりました。新聞広告に警告文が付されているのも、この法律が元になっているんですね。

(注意表示)
第三十九条 会社又は特定販売業者は、製造たばこで財務省令で定めるものを販売の用に供するために製造し、又は輸入した場合には、当該製造たばこを販売する時までに、当該製造たばこに、消費者に対し製造たばこの消費と健康との関係に関して注意を促すための財務省令で定める文言を、財務省令で定めるところにより、表示しなければならない。ただし、輸入した製造たばこを博覧会において展示し即売する場合その他財務省令で定める場合は、この限りでない。
2 卸売販売業者又は小売販売業者は、前項本文の規定により製造たばこに表示されている文言を消去し、又は変更して、製造たばこを販売してはならない。

そうすると、一昨日の新聞広告に警告文がなかったのがますます不可解に思えるのですが、もう少し検索してみたところ、実際にどういう文言の警告文をどういった場合に付すのかについては、この法律に基づいた財務省の指針を受け、業界団体である「一般社団法人日本たばこ協会」が策定した「広告・販売促進活動に関する自主規準」に則っているということがわかりました。「glo」を販売している「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」もこの協会の会員ですし、現協会長は「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」の社長さんです。

www.tioj.or.jp

ここに「注意文言等の広告表示に関するマニュアル」というのがありまして、そこには、①「紙巻たばこ、葉巻たばこ、パイプたばこ及び刻みたばこ」、②「かみたばこ及びかぎたばこ」、③「加熱式たばこの製造たばこ部分」、④「製造たばこ代用品」について、それぞれ付すべき文言が提示されています。

「glo」は加熱式たばこですから、一昨日の新聞広告に③で示されたような警告文が載っていないのは自主基準にもとるんじゃないの? と思ったのですが、ここで気づきました。③は「加熱式たばこの製造たばこ部分」なのです。つまり一昨日の広告は「glo」のガジェット部分だけの宣伝だから③に該当しないので警告文を載せず、今朝の広告は「上質なたばこ葉+フレーバー・リキッド」などと「製造たばこ部分」が含まれているから③に該当して警告文を載せたということなのですね。

謎は解けましたけど、こんな手法でたばこのさらなる普及を図ってくるとは姑息です。旧来のたばこは「たばこ部分」もなにもなく、全体がたばこですから丸ごと規制の対象になったわけですが、加熱式たばこには「ガジェット」と「たばこ部分」に分けることで、こうした「抜け穴」ができてしまったわけです。一昨日の広告はまさにそんな加熱式タバコの「ステルス性」がいかんなく発揮されたケースと言えるでしょう。

加熱式たばこは、そのガジェットを用いる「スタイリッシュさ」から、新たなたばこの中毒者層、とりわけ若い世代の中毒者層を増やすのではないかと私は懸念しています。日本たばこ協会には、こうした新たな事態に対処すべく、自主基準の改定を行うよう強く望みたいと思います。

能の謡を覚える

職場の学校での文化祭が終わって、後片付けも完了しました。一般教室を使って舞台を設営しているので、片付けが終わってしまうとまた元の見慣れた教室風景が戻ってきます。さっきまで照明が当たり、効果音が流れ、熱演が繰り広げられていたのに、なんだか夢から醒めたようで寂しい気分に。留学生の皆さんからも口々に「終わっちゃって、なんだか残念です」という声が聞かれました。

週末の連休を返上して文化祭の仕事をしていたので、今週後半はゆっくり……したいのですが、いくつか仕事が入っていますし、日曜日はお能の温習会(発表会)が控えています。もうちょっと腰を据えてお稽古したいんですけど、仕方がありません。通勤電車の中で謡を練習し、細君が外出した隙を見計らって仕舞の練習をしています。今回は「邯鄲」「東北」「経政」「女郎花」「雲林院」「半蔀」「春日竜神」の謡と「野守」の仕舞に出ます。

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もとより趣味の能楽ですが、素人の発表会とはいえ能楽堂の舞台を使って行われるのでかなり緊張します。しかもすべての謡を「無本」、つまり謡本を見ないでうたうので、全てを覚えた上で他の地謡のみなさんとも息を合わせなければなりません。みなさんお忙しいので稽古の時に一緒に合わせられるとは限らず、ほとんど本番前に一、二回だけ合わせるとか、下手をすると「ぶっつけ本番」ということにもなりかねません。

まあこれは仕方がありません。というわけで、少なくとも他の方の足を引っ張らないようにと通勤電車の中で謡を練習するわけです。もちろん声には出さず口中でうたっているのですが、興が載ってくると声が漏れているらしく、ときどき車内の乗客から怪訝な視線を向けられることもあります。

謡の文言は日本語とはいえ古文なので、なかなか頭に定着してくれません。それで謡本の字面を目に焼き付けたり、詞章を書いたり、いろいろなことをしてみるのですが、謡には節、つまりメロディーもあるので、語学のフレーズを覚えるのとはまたちょっと違った側面があるような気がします。結局、師匠のお手本の謡を何度も何度も繰り返し聴くしかない、それも聴けば聴くほど(そしてそれに合わせてうたうほど)覚えられるというのが経験則です。

謡が身体に入ってくると、面白いことが起こります。うたっていると、次の詞章が自動的に頭に浮かぶようになるのです。同時にその詞章が語っている内容が一種の風景になって目の前に立ち上がってくる。こういう感覚になるまで繰り返し聴かないと、私の場合は覚えられないみたいです。さっきiTunesのアプリで確かめてみたら、シテ謡を仰せつかっている「邯鄲」はもう百回以上聴いていました。それでようやく、どうにかこうにか定着する(それでもまだ不確かな部分も)のですから、我が脳のなんと非効率なことよと思います。

すてきな朝食屋さんの必要

「日本の朝にはカフェがない」。同僚の英国人講師から聞いた話です。彼は日本人のお連れ合いと一緒にゲストハウスを経営していて、海外からの観光客を受け入れているのですが、お客さんから一様にこう言われるそうです。日本に朝食を食べに行けるカフェがないのはどうして? と。

なるほど。もちろんファストフードのお店や、スターバックスみたいなコーヒーショップはありますし、「駅ナカ」にも早朝から飲食店が開いているところもあるし、コンビニだって朝早くからおにぎりやサンドイッチなどを売っていてイートインスペースもあるんですけど、そういうのではなく、温かい飲み物とともに朝食が食べられてゆっくり今日の観光プランを考えることができるような気の利いた個性的なカフェがない。まったくないわけではないけれど、とても少ない。そういうことなんですね。

確かに欧米を旅行していて重宝するのは、こうした早朝からやっているカフェとかダイナーとかバールなどの存在です。アジア圏だって、屋台などを含め豊富な朝食の選択肢がありますよね。私も中国や台湾などに行くときは、ホテルの決まりきった朝食は遠慮して今日の“早餐(朝ごはん)”はどこに行こうかと考えるのが楽しいです。そういう豊かな朝食の、それも「外食文化」が日本には乏しいような気がします。「立ち食いそば」なんかは日本らしい外食文化で私は大好きですけど、異文化の方々におすすめできるかというと、ちと「微妙」……。

qianchong.hatenablog.com

ところで、新宿駅の南口に「バスタ新宿」というバスとタクシーの巨大ターミナルがありまして、この界隈はバスツアーなどに参加される外国人観光客の姿を多く見かけます。そのすぐそばに最近気の利いたカフェができました。もともとここはパン屋さんで、私はよくランチ用のサンドイッチを買って職場に向かうのが日課だったのですが、今年の夏前に閉店してしまいました。残念だなと思っていたら、数ヶ月の改装を経て、パン屋さん兼カフェにリニューアルしたのです。

パンの販売スペースは以前の1/3ほどに縮小され、残りを独自の食事メニューが食べられるカフェ(兼イートインスペース)になり、お店の前にもたくさんの椅子とテーブルが置かれるようになりました。これは明らかに、外国人観光客の「朝食カフェ需要」を見込んでのリニューアルですよね。

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このカフェは朝の七時半から開いていて、卵をメインにした独自のハンバーガー類が食べられます。値段がちょっとお高いですけど、かなりおいしい。案の定、連日外国人観光客でいっぱいになっています。私個人としては、ランチ用のサンドイッチなどがなくなってしまったので以前よりも利用頻度が下がってしまったのですが、お店としてはこれは正しい選択だと思います。

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eggslut.baycrews.co.jp

スマホの「ながら」を自分本位に取り戻す

先日読んだ、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』。「注意経済(アテンション・エコノミー)」に身も心も乗っ取られてしまわないための提言がいくつもなされているのですが、まずすぐに実践して効果があったのは、スマホによる「ながら」をやめることでした。

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デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

qianchong.hatenablog.com

いささか悪趣味ではありますが、通勤電車の中で観察していると、実に多くの(ほとんどと言ってもいいくらいの)人が、スマホで次々アプリを乗り換え、しきりに画面で指をタップしたり滑らせたりしています。あるいは「Pokemon GO」をはじめとするゲームに興じているか。私はゲームは一切やらないんですけど、かつてはスマホSNSやニュースサイトやブログや動画サイトや音楽ストリーミングサービスなどをひっきりなしに切り替えながら利用していました。

特にSNSは、自分でも呆れるほどに、何度も何度もチェックしてしまうのです。何かをつぶやいた後とか、ブログに記事を投稿したときなど、「その後、何か反応があったかな」と、酷いときには数分おきにチェックする始末。冷静に考えればそんな短い時間で反応があるわけがないのですが、なぜかスマホを手にとって最新の状態を確認したくなってしまう。これは明らかに中毒です。

またSNSやニュースサイトは、いったんチェックし始めるとそこから次々に違う情報にアクセスして、あっという間に時間が過ぎていきます。後から考えれば、なぜそんな内容に興味を持ったのか疑問に思うようなものにまで惹きつけられるリンクがあまりにも多すぎるんですね。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_174.html

それで、こうした中毒や無限のクリック連鎖を引き起こすアプリをすべてスマホから削除しました。Chromeのようなブラウザは残してありますが、なるべく検索しないようにしています。検索すると、様々な情報に注意喚起されて時間を費やしてしまうからです。要するに、スマホを電話やメールとメッセージアプリ、そしてGoogle Mapのような地図くらいにしか使わないと決め、移動中の暇つぶしに使わないということです。

しかも、ごくわずかのアプリを除いて、すべての通知機能をオフにしました。これも『デジタル・ミニマリスト』に触発されてのことです。スマホに通知が届くと、ついそれを確認したくなってしまう。それでなくても最近のスマホとアプリは実に「スマート」で、繰り返し使っている機能などは知らないうちに「これをやる時間ですよ」みたいな通知が来るようになっています。これらすべてが、自分の時間を奪っていくのです。

宮仕えならともかく、フリーランスの方はメールやメッセージや電話の通知を切るのは「営業」的に不安かもしれません。かつての私がそうで、常に手にスマホを持って移動していた時期もありました。通知を見逃すのが怖くて。しかしこれも、何かが歪んでいるような気がします。『デジタル・ミニマリスト』には、そうした方に対してもある程度スマホ依存から抜け出すことが可能になる処方箋が示されています。

移動中にスマホで暇つぶしをしないというのは、最初はちょっとした「禁断症状」が起きました(YouTubeを開こうとして「ああ、削除したんだった」と気づくとか)が、すぐに慣れてしまいました。とはいえ全く使っていないわけではなくて、依然として移動中にスマホは使っています。ただしスマホで使うアプリは、語学の単語やフレーズを覚えるためのQuizletと、能の謡を覚えるためのiTunesだけにしました。

矛盾している? いえ、暇つぶしを、他者からのインプットや他者へのアウトプットに占領されるのではなく、自分が本当にしたいインプットやアウトプットだけに絞るということなのです。

「つれあいにモノ申す」が気持ち悪い

東京新聞の朝刊に、週に一回掲載されている「つれあいにモノ申す」というコーナーがあるんですけどね(過去の掲載分はこちらから)。読者が「長年連れ添った夫や妻への注文」を投稿するコーナーなのですが、ほとんどは妻から夫への不平不満や愚痴で、読んでいてこれほど気分の悪くなるものもありません(なら読まなきゃいいんですけど)。

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気分が悪いのは不平不満や愚痴ではなく、ここに登場する年配の男性諸氏の、あまりにもあまりな振る舞いの数々が、です。しかし、毎週毎週そういう男性ばっかり登場するので(というか「モノ申す」だから、そういう投稿を選んでいるんでしょうけど)、私としては少々「ホントかよ?」と疑問を呈したくなります。ホントに世の中の男性、なかんずく高齢の男性はこんな「クソジジイ」ばっかりなんでしょうか(おっと失礼)。何だか、サラリーマンはみんながみんなメタボで恐妻家みたいな「サラリーマン川柳」に通じるものを感じます。

しかし、現実には高齢者に限らずこういう男性は世に溢れているようで、細君に聞いた話では、知人の女性の夫は、その女性が風邪で寝込んでいる時に起こしに来て「オレのご飯は?」と聞いたとか、また別の知人は、これも風邪で寝込んでいる時に台所のシンクの洗い物をそのままにしていたら、夫が起こしに来て「洗い物がたまってるぞ」と宣ったとか。

東京新聞の「つれあいにモノ申す」欄は、深刻な人生相談的テイストというよりは、夫のとんでもなさを暴露し合う「大喜利」的なノリではあると思うんですけど、同じ男性の立場からするとちょっと情けないというか悔しいというか……で気分が悪くなってしまうのです。

この欄には毎回5つほどの「告発」が載るのと同時に「感謝編」や「家庭編」と題して逆のパターン、つまり夫婦の仲睦まじさを報告するものや、「デキた夫」の自慢なども1つ載っています。まあ一服の清涼剤的な配慮なんでしょうけど、こちらは他人ののろけ話を聞かされているようなもので、「大喜利」的な面白さがありません。

私はこんなのを新聞の朝刊に載せる必要があるのかって、それこそ東京新聞に「モノ申」したいくらいなんですけど、ここまで書いて、ふと思いました。そうか、この欄は「とんでもなさ」をこれでもかとばかりに並べることで、読者に「ウチはここまで酷くない。よかった……」と思わせる効果があり、かつ「人の不幸は蜜の味」的にけっこう楽しんで読んでいる層があるのかもしれないと。う〜ん、悪趣味です。そして、そういう趣味の悪さが一読気分の悪さを催させるのかもしれないと思いました。