インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「音の公害」を減らしてほしい

歳を取ったせいか、人の多い場所が極端に苦手になりました。それでも東京に住んで、毎日通勤電車で都心まで出かけているんですからまだ「耐性」みたいなものは残っていると思いますが、年々それが目減りしているのを感じます。旅行なども、とにかく人が集まる観光地には行きたくありません。観光名所は極力避けて、なるべく人のいないところばかり探して行くようになりました。知人・友人からは「それの何が楽しいの?」と聞かれますが。

都心では、人の多さに加えてもう一つ、音の多さにもうんざりしています。都会の雑踏音や車の音などは仕方がないですが、駅や商業施設などでの不必要なアナウンスが多すぎると思うのです。もっともこれは歳を取ってからではなくて、学生時代から常に感じてきたことではありますが。駅構内や電車内でのアナウンスは、そのかなりの部分が自動化されていて、それだけでも十分にうるさいのに、そこにわざわざ駅員さんや乗務員さんがアナウンスを重ねてきます。

必要最低限のアナウンスはあってもよいと思いますし、むしろなくては困るんでしょうけど、ちょっと電車が遅れただけで何度も謝罪したり、車内マナーや忘れ物関係の注意喚起がなされたり。しかもそのボリュームが異様に大きいこともわれわれ乗客の疲労を倍増させてくれます。私がよく利用している東急線など、発車前に「電車が発車しますと揺れますのでご注意ください」という冗談みたいなアナウンスが入るんですよ。

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https://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_969.html

他にも階段やエスカレーターなどではひっきりなしに何かの注意喚起がなされています。中には視覚障害者用のチャイムや鳥の鳴き声(の合成音)などもあるのですが、そうした必要不可欠な音声が埋もれてしまうほどの音の洪水です。なぜ私たちの街はこんなにうるさいのでしょうか。これ、何とかならないのでしょうか。……と常々思っていたところに、cakesでこちらの記事を読みました。マレーシア在住の編集者・ライターさんの記事です。

cakes.mu

クアラルンプール国際空港では2018年に、アナウンスを極力やめる「サイレント・エアポート」宣言をして、話題になりました。これは公共のアナウンスをできるだけ減らす運動で、空港の「音の公害」を減らそうと、ロンドン・シティ空港やフィンランドヘルシンキ空港、スペインのバルセロナ・エル・プラト空港やシンガポールチャンギ国際空港などで行われている試みなのだそうです。

いいですねえ。確かにヘルシンキ空港など、ちょっとこちらが不安になるくらいアナウンスはありませんでした。それでもサインシステムはしっかりしているし、いざとなれば尋ねることができるカウンターもあって、全く不便は感じませんでした。音の公害に気づいて、対策を取り始めたところがあるというのは福音ですが、こうした空港がなぜそういう考えに至ったのかに興味があります。「アナウンスがうるさい」という苦情が多かったから、という理由ではなく、人間がもっと心地よくあることができる状態を科学や哲学の面から探求していった結果だといいですね。

日本の公共交通機関がこれほどまでに音声であふれ、注意書きがあちこちに貼られている最大の原因は、利用者の苦情への対応ないしは苦情の事前回避ではないかと思います。無体な要求を出す利用者も問題ですが、公共交通機関の側も物事を深く考えることなく、場当たり的な対応を重ねた結果なのではないかと。そして一度始まってしまうと、誰もやめようと言い出せない。私たちの国の一番悪いところが出ているのが、あの音の洪水ではないかと思っています。

加熱式たばこの「ステルス性」について

一昨日の東京新聞朝刊に、こんな広告が載っていました。新聞紙面1ページの1/3を占める、加熱式たばこ「glo(グロー)」の広告です。

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こうした加熱式たばこ、最近は往来でもよく見かけるようになりました。私はたばこの煙や匂いが大嫌いなために却って感覚が研ぎ澄まされてしまい、ほんの僅かな煙や匂いでも察知できるようになっただけでなく、前を歩く人の姿勢や動作から「あ、この人はこれからたばこを吸うだろうな」という未来を予知できる特殊能力まで獲得するに至りました(かなりの確率で当たります)。さらには、雑踏の中でもライターの「カチッ」とか「シュボッ」というかすかな音まで聴き取って回避行動を取るというスキルまで身につけてしまいました。

加熱式たばこの登場は、その特殊能力に新たな挑戦者となって現れました。ライターの音も聞こえないし、見た目もなにかのガジェットみたいでたばこっぽくありません。そのガジェットを口に加えているのを見てようやく「ああ、たばこなんだ」と分かるくらい。しかも紫煙がたなびかないから、これもよく分かりにくい。なるほど、加熱式たばこが「ステルス性」の高い製品だと言われるのもうなずけます。その有害性が指摘されているにも関わらず。

news.yahoo.co.jp

ところで上掲の新聞広告、どこか奇妙な感じがしませんか? 広告コピーは「スタイルとテクノロジーの新たな2つの楽しみ」だけで「たばこ」の文字がありません。わずかに左下の「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」という社名でたばこ広告だと分かるくらいです。でも加熱式たばこのユーザーにとってはこれで十分なんでしょうね。「glo と言えばアレでしょ」という暗黙の了解があるわけです。

しかしもっと奇妙なのは、たばこの広告につきものの警告文がないことです。「20歳未満の者の喫煙は法律で禁止されています」とか「喫煙は心筋梗塞脳卒中の危険性を高めます」とかの文言ですね。こんなのが許されるのだろうか、加熱式たばこの場合は警告文がいらないのだろうか……と訝しんでいたところ、今朝の新聞にはこんな広告が載っていました。

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同じ「glo」の広告ですが、こちらには警告文が入っています。マーケティングを目的とした広告に、こうしたネガティブな文言を付さなければならないという自己矛盾。そんな広告のありようにはたばこの持つグロテスクな一面が現れていて、私はいつも気持ち悪さを感じるのですが、ここで疑問なのは、なぜ一昨日の広告には警告文がなくてもよく、今朝の広告には警告文が付されているのかという点です。

それでちょっとネットで検索してみたら、日本におけるタバコ広告は、昭和59年に施行された「たばこ事業法」によって規制されていることがわかりました。新聞広告に警告文が付されているのも、この法律が元になっているんですね。

(注意表示)
第三十九条 会社又は特定販売業者は、製造たばこで財務省令で定めるものを販売の用に供するために製造し、又は輸入した場合には、当該製造たばこを販売する時までに、当該製造たばこに、消費者に対し製造たばこの消費と健康との関係に関して注意を促すための財務省令で定める文言を、財務省令で定めるところにより、表示しなければならない。ただし、輸入した製造たばこを博覧会において展示し即売する場合その他財務省令で定める場合は、この限りでない。
2 卸売販売業者又は小売販売業者は、前項本文の規定により製造たばこに表示されている文言を消去し、又は変更して、製造たばこを販売してはならない。

そうすると、一昨日の新聞広告に警告文がなかったのがますます不可解に思えるのですが、もう少し検索してみたところ、実際にどういう文言の警告文をどういった場合に付すのかについては、この法律に基づいた財務省の指針を受け、業界団体である「一般社団法人日本たばこ協会」が策定した「広告・販売促進活動に関する自主規準」に則っているということがわかりました。「glo」を販売している「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」もこの協会の会員ですし、現協会長は「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン」の社長さんです。

www.tioj.or.jp

ここに「注意文言等の広告表示に関するマニュアル」というのがありまして、そこには、①「紙巻たばこ、葉巻たばこ、パイプたばこ及び刻みたばこ」、②「かみたばこ及びかぎたばこ」、③「加熱式たばこの製造たばこ部分」、④「製造たばこ代用品」について、それぞれ付すべき文言が提示されています。

「glo」は加熱式たばこですから、一昨日の新聞広告に③で示されたような警告文が載っていないのは自主基準にもとるんじゃないの? と思ったのですが、ここで気づきました。③は「加熱式たばこの製造たばこ部分」なのです。つまり一昨日の広告は「glo」のガジェット部分だけの宣伝だから③に該当しないので警告文を載せず、今朝の広告は「上質なたばこ葉+フレーバー・リキッド」などと「製造たばこ部分」が含まれているから③に該当して警告文を載せたということなのですね。

謎は解けましたけど、こんな手法でたばこのさらなる普及を図ってくるとは姑息です。旧来のたばこは「たばこ部分」もなにもなく、全体がたばこですから丸ごと規制の対象になったわけですが、加熱式たばこには「ガジェット」と「たばこ部分」に分けることで、こうした「抜け穴」ができてしまったわけです。一昨日の広告はまさにそんな加熱式タバコの「ステルス性」がいかんなく発揮されたケースと言えるでしょう。

加熱式たばこは、そのガジェットを用いる「スタイリッシュさ」から、新たなたばこの中毒者層、とりわけ若い世代の中毒者層を増やすのではないかと私は懸念しています。日本たばこ協会には、こうした新たな事態に対処すべく、自主基準の改定を行うよう強く望みたいと思います。

能の謡を覚える

職場の学校での文化祭が終わって、後片付けも完了しました。一般教室を使って舞台を設営しているので、片付けが終わってしまうとまた元の見慣れた教室風景が戻ってきます。さっきまで照明が当たり、効果音が流れ、熱演が繰り広げられていたのに、なんだか夢から醒めたようで寂しい気分に。留学生の皆さんからも口々に「終わっちゃって、なんだか残念です」という声が聞かれました。

週末の連休を返上して文化祭の仕事をしていたので、今週後半はゆっくり……したいのですが、いくつか仕事が入っていますし、日曜日はお能の温習会(発表会)が控えています。もうちょっと腰を据えてお稽古したいんですけど、仕方がありません。通勤電車の中で謡を練習し、細君が外出した隙を見計らって仕舞の練習をしています。今回は「邯鄲」「東北」「経政」「女郎花」「雲林院」「半蔀」「春日竜神」の謡と「野守」の仕舞に出ます。

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もとより趣味の能楽ですが、素人の発表会とはいえ能楽堂の舞台を使って行われるのでかなり緊張します。しかもすべての謡を「無本」、つまり謡本を見ないでうたうので、全てを覚えた上で他の地謡のみなさんとも息を合わせなければなりません。みなさんお忙しいので稽古の時に一緒に合わせられるとは限らず、ほとんど本番前に一、二回だけ合わせるとか、下手をすると「ぶっつけ本番」ということにもなりかねません。

まあこれは仕方がありません。というわけで、少なくとも他の方の足を引っ張らないようにと通勤電車の中で謡を練習するわけです。もちろん声には出さず口中でうたっているのですが、興が載ってくると声が漏れているらしく、ときどき車内の乗客から怪訝な視線を向けられることもあります。

謡の文言は日本語とはいえ古文なので、なかなか頭に定着してくれません。それで謡本の字面を目に焼き付けたり、詞章を書いたり、いろいろなことをしてみるのですが、謡には節、つまりメロディーもあるので、語学のフレーズを覚えるのとはまたちょっと違った側面があるような気がします。結局、師匠のお手本の謡を何度も何度も繰り返し聴くしかない、それも聴けば聴くほど(そしてそれに合わせてうたうほど)覚えられるというのが経験則です。

謡が身体に入ってくると、面白いことが起こります。うたっていると、次の詞章が自動的に頭に浮かぶようになるのです。同時にその詞章が語っている内容が一種の風景になって目の前に立ち上がってくる。こういう感覚になるまで繰り返し聴かないと、私の場合は覚えられないみたいです。さっきiTunesのアプリで確かめてみたら、シテ謡を仰せつかっている「邯鄲」はもう百回以上聴いていました。それでようやく、どうにかこうにか定着する(それでもまだ不確かな部分も)のですから、我が脳のなんと非効率なことよと思います。

すてきな朝食屋さんの必要

「日本の朝にはカフェがない」。同僚の英国人講師から聞いた話です。彼は日本人のお連れ合いと一緒にゲストハウスを経営していて、海外からの観光客を受け入れているのですが、お客さんから一様にこう言われるそうです。日本に朝食を食べに行けるカフェがないのはどうして? と。

なるほど。もちろんファストフードのお店や、スターバックスみたいなコーヒーショップはありますし、「駅ナカ」にも早朝から飲食店が開いているところもあるし、コンビニだって朝早くからおにぎりやサンドイッチなどを売っていてイートインスペースもあるんですけど、そういうのではなく、温かい飲み物とともに朝食が食べられてゆっくり今日の観光プランを考えることができるような気の利いた個性的なカフェがない。まったくないわけではないけれど、とても少ない。そういうことなんですね。

確かに欧米を旅行していて重宝するのは、こうした早朝からやっているカフェとかダイナーとかバールなどの存在です。アジア圏だって、屋台などを含め豊富な朝食の選択肢がありますよね。私も中国や台湾などに行くときは、ホテルの決まりきった朝食は遠慮して今日の“早餐(朝ごはん)”はどこに行こうかと考えるのが楽しいです。そういう豊かな朝食の、それも「外食文化」が日本には乏しいような気がします。「立ち食いそば」なんかは日本らしい外食文化で私は大好きですけど、異文化の方々におすすめできるかというと、ちと「微妙」……。

qianchong.hatenablog.com

ところで、新宿駅の南口に「バスタ新宿」というバスとタクシーの巨大ターミナルがありまして、この界隈はバスツアーなどに参加される外国人観光客の姿を多く見かけます。そのすぐそばに最近気の利いたカフェができました。もともとここはパン屋さんで、私はよくランチ用のサンドイッチを買って職場に向かうのが日課だったのですが、今年の夏前に閉店してしまいました。残念だなと思っていたら、数ヶ月の改装を経て、パン屋さん兼カフェにリニューアルしたのです。

パンの販売スペースは以前の1/3ほどに縮小され、残りを独自の食事メニューが食べられるカフェ(兼イートインスペース)になり、お店の前にもたくさんの椅子とテーブルが置かれるようになりました。これは明らかに、外国人観光客の「朝食カフェ需要」を見込んでのリニューアルですよね。

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このカフェは朝の七時半から開いていて、卵をメインにした独自のハンバーガー類が食べられます。値段がちょっとお高いですけど、かなりおいしい。案の定、連日外国人観光客でいっぱいになっています。私個人としては、ランチ用のサンドイッチなどがなくなってしまったので以前よりも利用頻度が下がってしまったのですが、お店としてはこれは正しい選択だと思います。

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eggslut.baycrews.co.jp

スマホの「ながら」を自分本位に取り戻す

先日読んだ、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』。「注意経済(アテンション・エコノミー)」に身も心も乗っ取られてしまわないための提言がいくつもなされているのですが、まずすぐに実践して効果があったのは、スマホによる「ながら」をやめることでした。

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デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

qianchong.hatenablog.com

いささか悪趣味ではありますが、通勤電車の中で観察していると、実に多くの(ほとんどと言ってもいいくらいの)人が、スマホで次々アプリを乗り換え、しきりに画面で指をタップしたり滑らせたりしています。あるいは「Pokemon GO」をはじめとするゲームに興じているか。私はゲームは一切やらないんですけど、かつてはスマホSNSやニュースサイトやブログや動画サイトや音楽ストリーミングサービスなどをひっきりなしに切り替えながら利用していました。

特にSNSは、自分でも呆れるほどに、何度も何度もチェックしてしまうのです。何かをつぶやいた後とか、ブログに記事を投稿したときなど、「その後、何か反応があったかな」と、酷いときには数分おきにチェックする始末。冷静に考えればそんな短い時間で反応があるわけがないのですが、なぜかスマホを手にとって最新の状態を確認したくなってしまう。これは明らかに中毒です。

またSNSやニュースサイトは、いったんチェックし始めるとそこから次々に違う情報にアクセスして、あっという間に時間が過ぎていきます。後から考えれば、なぜそんな内容に興味を持ったのか疑問に思うようなものにまで惹きつけられるリンクがあまりにも多すぎるんですね。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_174.html

それで、こうした中毒や無限のクリック連鎖を引き起こすアプリをすべてスマホから削除しました。Chromeのようなブラウザは残してありますが、なるべく検索しないようにしています。検索すると、様々な情報に注意喚起されて時間を費やしてしまうからです。要するに、スマホを電話やメールとメッセージアプリ、そしてGoogle Mapのような地図くらいにしか使わないと決め、移動中の暇つぶしに使わないということです。

しかも、ごくわずかのアプリを除いて、すべての通知機能をオフにしました。これも『デジタル・ミニマリスト』に触発されてのことです。スマホに通知が届くと、ついそれを確認したくなってしまう。それでなくても最近のスマホとアプリは実に「スマート」で、繰り返し使っている機能などは知らないうちに「これをやる時間ですよ」みたいな通知が来るようになっています。これらすべてが、自分の時間を奪っていくのです。

宮仕えならともかく、フリーランスの方はメールやメッセージや電話の通知を切るのは「営業」的に不安かもしれません。かつての私がそうで、常に手にスマホを持って移動していた時期もありました。通知を見逃すのが怖くて。しかしこれも、何かが歪んでいるような気がします。『デジタル・ミニマリスト』には、そうした方に対してもある程度スマホ依存から抜け出すことが可能になる処方箋が示されています。

移動中にスマホで暇つぶしをしないというのは、最初はちょっとした「禁断症状」が起きました(YouTubeを開こうとして「ああ、削除したんだった」と気づくとか)が、すぐに慣れてしまいました。とはいえ全く使っていないわけではなくて、依然として移動中にスマホは使っています。ただしスマホで使うアプリは、語学の単語やフレーズを覚えるためのQuizletと、能の謡を覚えるためのiTunesだけにしました。

矛盾している? いえ、暇つぶしを、他者からのインプットや他者へのアウトプットに占領されるのではなく、自分が本当にしたいインプットやアウトプットだけに絞るということなのです。

「つれあいにモノ申す」が気持ち悪い

東京新聞の朝刊に、週に一回掲載されている「つれあいにモノ申す」というコーナーがあるんですけどね(過去の掲載分はこちらから)。読者が「長年連れ添った夫や妻への注文」を投稿するコーナーなのですが、ほとんどは妻から夫への不平不満や愚痴で、読んでいてこれほど気分の悪くなるものもありません(なら読まなきゃいいんですけど)。

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気分が悪いのは不平不満や愚痴ではなく、ここに登場する年配の男性諸氏の、あまりにもあまりな振る舞いの数々が、です。しかし、毎週毎週そういう男性ばっかり登場するので(というか「モノ申す」だから、そういう投稿を選んでいるんでしょうけど)、私としては少々「ホントかよ?」と疑問を呈したくなります。ホントに世の中の男性、なかんずく高齢の男性はこんな「クソジジイ」ばっかりなんでしょうか(おっと失礼)。何だか、サラリーマンはみんながみんなメタボで恐妻家みたいな「サラリーマン川柳」に通じるものを感じます。

しかし、現実には高齢者に限らずこういう男性は世に溢れているようで、細君に聞いた話では、知人の女性の夫は、その女性が風邪で寝込んでいる時に起こしに来て「オレのご飯は?」と聞いたとか、また別の知人は、これも風邪で寝込んでいる時に台所のシンクの洗い物をそのままにしていたら、夫が起こしに来て「洗い物がたまってるぞ」と宣ったとか。

東京新聞の「つれあいにモノ申す」欄は、深刻な人生相談的テイストというよりは、夫のとんでもなさを暴露し合う「大喜利」的なノリではあると思うんですけど、同じ男性の立場からするとちょっと情けないというか悔しいというか……で気分が悪くなってしまうのです。

この欄には毎回5つほどの「告発」が載るのと同時に「感謝編」や「家庭編」と題して逆のパターン、つまり夫婦の仲睦まじさを報告するものや、「デキた夫」の自慢なども1つ載っています。まあ一服の清涼剤的な配慮なんでしょうけど、こちらは他人ののろけ話を聞かされているようなもので、「大喜利」的な面白さがありません。

私はこんなのを新聞の朝刊に載せる必要があるのかって、それこそ東京新聞に「モノ申」したいくらいなんですけど、ここまで書いて、ふと思いました。そうか、この欄は「とんでもなさ」をこれでもかとばかりに並べることで、読者に「ウチはここまで酷くない。よかった……」と思わせる効果があり、かつ「人の不幸は蜜の味」的にけっこう楽しんで読んでいる層があるのかもしれないと。う〜ん、悪趣味です。そして、そういう趣味の悪さが一読気分の悪さを催させるのかもしれないと思いました。

デジタル・ミニマリスト

線を引く、付箋を貼る、ページの端を折る……本を読んでいるときに何か心に響くものを感じて、こうしたことをやっている方は多いと思います。あるいは読みながら考えたことをメモ帳に書いておくとか。ところが年に何度か、そうした行為が追いつかなくなるほど心に響きまくる本に出会うことがあります。私はいつも薄い小さな付箋を貼るのですが、そんな付箋で本が膨れ上がらんばかりになり、まるで全編が自分に向けて書かれているように感じてしまう。きっとそんな本が自分にとっての「良書」なのでしょう。

不思議なことにそういう「良書」は、ネットで書評を読んだり、Amazonなどでたまたま「おすすめ」に出てきたりして購入したものより、なんとなくぶらっと書店に立ち寄って買い求めたとか、図書館でタイトルや装幀にひかれて「ついで」に手にとったような本に多いのです。とある駅ビルの、時間つぶしのために入った書店で見つけたカル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』もそんな一冊でした。

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デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

帯の惹句には「デジタル片づけ」とか「テック界の『こんまり』」などと書かれており、書名にある「ミニマリスト」とも相まって*1、最初手にしたときは「ああ、また断捨離系のライフハック本かしら」などと思ってしまいました。

私は基本的にあまりモノを持たないシンプルな暮らし方が好きで、その意味では断捨離やミニマリズムにも共感するところしきりなのですが、自分でも実践してみて悟ったのは、行き過ぎた片づけやミニマリズムは却って人間の感性を脆弱にするのかもしれないという点でした。人間はもう少し複雑かつ矛盾を抱えた存在であり、あまりにも理詰めでシンプルを突き詰めていくと、生きる気力のようなものが減退したり、周囲(家族や友人や同僚など)との無用な軋轢を生んだりする……というのが、いろいろ実践してみた上での私なりの結論です。

だから最初はこの本にもやや醒めた視線を送っていました。でも書店で手にとってパラパラと眺めてみると、飛び込んでくる記述がひとつひとつ心に響くんですね。こういうのが「本に呼ばれる」という感覚なのでしょうか。そして、これは単なるライフハック本ではなく、筆者はもっと深い哲理を語っているのだと気づいてすぐに購入したのでした。ベースにはスマホ依存からの脱却が大きなテーマとして据えられているのですが、話はそこだけに留まっていません。

折しも私は最近、ネットとのつきあい方、とりわけSNSの使い方に大きな問題を感じていました。ふと気がついてみると、一日のうちのかなりの時間をネットでの検索や閲覧に、それもあとから考えればさして重要でもない事柄に費やしていたのです。またスマホを手放せず、絶えずSNSをチェックしたり、動画を見たり、音楽を聴いたりしており、しかもそれらをじっくりと読んだり見たり聴いたりではなく、ポンポンと読み飛ばし、見飛ばし(という言葉はないか)、聴き飛ばしている自分にも疑問を感じていました。

それでほとんどのSNSを退会し、Spotifyのような音楽配信サービスもやめました。とはいえこのブログを書き続けていることもあって、結局それをTwitterにも流し、折に触れて反応をチェックし、コメントに対応し、アクセス数に一喜一憂する……みたいなことを続けていました。それでも自分は移動中にスマホでやっているのは語学の練習か謡曲を覚えることくらいなので、まだマシかな、自分はSNSスマホの中毒ではないよね、と思っていたのです。

qianchong.hatenablog.com
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でも、やはりまだ何かしっくりこない。そんなモヤモヤを抱えていたところ、この本に「呼ばれた」のです。この本では、今まで私が考えてきたことを「それでいいんじゃないかな」とお墨付きを与えてくれただけでなく、そんな個人レベルの話をはるかに超えた巨大ネット産業の構造、特に「注意経済(アテンション・エコノミー)」と呼ばれる産業構造が、いかに金銭的な利益のために人間の心理的弱点を利用しているかについて、驚くべき(しかし冷静に考えればもっともな)事実を教えてくれました。

詳細はぜひ本書にあたっていただくとして(なにせ貼った付箋の数が膨大で、とてもじゃないけど紹介しきれません)、ひとつだけ。この本はよくあるタイプの自己啓発本などでは全くなく、むしろ「デジタル片づけ」を出発点としてよりよい人生とは、人間らしい暮らしのあり方とは……と問いかける哲学書のような趣きです。しかもそれがここ十年から二十年ほどの間に起こった人類史的には大事件といってもいいほどのネットの深化とスマホの発展を踏まえて、今とこれからにおける私たちのあり方を考察する内容にもなっています。

翻訳もとても読みやすく、訳注もとても親切です(翻訳者は池田真紀子氏)。それだけに、巻末に付されている著名なミニマリスト氏による解説は、こう言っては大変失礼ですが、本文の内容をなぞっている読書感想文のような体で少々残念でした。ここはやはり、翻訳者ご自身による解説が欲しかったなあと思います。

*1:原題は『Digital Minimalism』ですが、なぜか「ミニマリスト」となっています。

留学生による日本語劇

秋に入り、文化祭の季節がやってまいりました。私が奉職している学校のあるキャンパスでも、学生さんが様々なイベントを行います。このキャンパスは大学院・大学・専門学校の複合施設なのですが、私が担当している専門学校の、通訳や翻訳を中心に日本語を学んでいる留学生は、恒例の日本語劇を披露します。今週末の連休が本番なので、目下通し稽古の最中。まだまだ台詞が不安定だったり、もうひとつ「恥」を捨てきれていなかったりする部分もありますが、何とか本番では自分なりの達成を感じてほしいと思っています。

今年は一年生が『世界三大料理』、二年生が『通訳機械の反乱』というお芝居を演じます。いずれもネットにある脚本を元に、原作者さんのご了承を得て大幅に改変させていただき、上演台本にしています。日本語を学んでいる留学生のお芝居というと、とかく「日本昔ばなし」みたいなのとか、そうでなければ「内輪受け」に偏った内容になることも多いのですが、それでは面白くないので、容赦のない日本語の台本を作り、スラングおちゃらけた言い回し、時事を盛り込んだ内容、哲学的で難解な言葉まで喋り倒すことを念頭に置いています。

これはまた一面、語学や通訳が持つ一種の「演劇性」に着目した試みでもあります。母語ではない言語で話すという語学も、誰かに成り代わって話すという通訳も、ある程度までもう一人の自分をイメージすること、言い換えればある種の「芝居っ気」が求められると考えられるからです。そこまでいかなくとも、人前でわかりやすく堂々と話すテクニック、パブリックスピーキングのテクニックは留学生のみなさんがこの先どんな仕事に就いてもきっと役立つ。そう考えて私たちは演劇訓練をカリキュラムに組み込んでいます。

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世界三大料理』は、現在のところ「三大」に数えられるフランス料理・中華料理・トルコ料理の座を狙って、その他の料理が攻勢を仕掛け争奪戦が巻き起こるというドタバタ喜劇です。『通訳機械の反乱』は、ある企業で最新の通訳機械を使って面接を行っているうちに機械の思わぬ脆弱性があらわになり、通訳機械が高度に発達した世界では外語を学ばなくなった人類の「知」が退化するのではないか……という未来を予見する、と、こう書くとなんだか高尚ですけどその実これもドタバタ喜劇、です。入場無料。ぜひご高覧賜りたいと思います。

D館の「D38」教室です。

  世界三大料理 通訳機械の反乱
11月3日(日) 13:00/14:00 13:30/14:30
11月4日(月) 10:00/11:00/13:00/14:00 10:30/11:30/13:30/14:30

http://www.bunka.ac.jp/contents/2019bunkasai.pdf

「日本語モード」のその後

先日、中国語圏の留学生と、非中国語圏の留学生とで、日本語の(特に口語の)上達具合にかなり開きが出る、という話題を書いたのですが……。

qianchong.hatenablog.com

そのあと、華人留学生のクラスで通訳訓練を行った際に、あまりにも日本語への訳出がこなれていない(というか、そもそも日本語になっていない方がほとんど)ので、あれこれと訳出のポイントや日本語の語彙や文法の指摘をしたあとでいったん訓練を中断して、上述の話題を話してみました。せっかく高いお金を払って日本に留学しているのに、もったいないんじゃないですか……って。

「正直に申し上げて、みなさんの日本語への訳出は、ふだんから留学生に接している学校関係者なら分かってもらえるかもしれないけれど、通常のビジネスの現場では箸にも棒にもかからないレベルです」と、あえて強い表現で、でもそこはそれ「ハラスメント」にならないようニコヤカに伝えてみたのです。厳しいことを笑顔で伝えるのが、ポイントです。

そうしたら、一部を除いて(まあ教育には「歩留まり」というものがあります)みなさんけっこう真剣に聞いていました。しかも「それは何となく感じていました」という留学生も多かったのは意外でした。今年の四月に一緒に入学してきた「英日クラス」の留学生が、どんどん日本語が流暢になっていくのに比べて自分たちは……と、ご本人たちも内心忸怩たる思いがあったようです。

それで、一部の留学生は「これからはお互い日本語で話そう!」などと燃え上がっていて、さっそく華人留学生どうし日本語で「タバコを吸いに行きましょう」とか言い合っていました(そこからですか)。なかなかいいな、素敵だな〜と思ったのですが、今日になってみたら、みんな怒涛のごとく中国語でしゃべりまくっていました。あああ……。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_876.html

やはりこういうのは、意志の力でどうこうできるものではなく、仕組みとして日本語を話さざるを得ない環境に追い込まないと無理なのかしら。でも私たちが中国に留学していたときは「日本人同士でもあえて中国語で話す、それが“酷(cool)”だ!」みたいなコンセンサスが成立していたんですから、みなさんだってやればできると思うんですけどね。

受刑者に本を差し入れる「ほんにかえるプロジェクト」

昨日の東京新聞朝刊、特報欄に掲載されていた「ほんにかえるプロジェクト」の記事には様々なことを考えさせられました。中国生まれで、十四歳の時に日本へ移住した汪楠氏が始めた、全国の受刑者に無償で本を差し入れるという活動です。

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汪楠氏自身もかつて犯罪に手を染めて長く服役したことがあり、その時の経験から生み出されたこのプロジェクトについて、「更生のために必要なのは人との触れ合い。次は本。どんな自分でありたいのか、どんな人生を送りたいのかを考えるきっかけになるから」と語っています。なるほど、本を臆することで誰かが自分のことを思ってくれていると感じることができるし、もとより読書は自分の想像力を耕すことができる営みですからね。

汪氏自身もティーンエージャーの頃から不良集団に関わり、その後も反社会的組織のもとで暴力に明け暮れたそうです。それは多感な時期にいきなり異国へ連れてこられたうえに、自分を支援してくれる存在がいなかったばかりか、いじめに遭ったことなどが元になっているとのこと。これは、外国人労働者の受け入れに伴って様々なルーツを持つ人々とその子供たちが増えているこの国の現在において、対応が急務でありながら後回しにされている問題とつながっているように思えます。

多文化共生が、きちんと政策や行政の施策として取り組まれなければ、それは社会全体のリスクとして跳ね返ってくる。異文化の中で疎外感を深めた汪氏は「中国帰国者や二世を差別する日本社会を恨むように、窃盗や暴力事件を繰り返した」そうです。もちろん様々なルーツを持つ人々の存在がそのまますべて社会の負の側面に結びつくわけではありません。そこは注意深く差別や予断や偏見を排していく必要があります。

しかし、すでに移民を数多く受け入れ、多文化共生を図ってきた欧米などの国々でも、それらの政策や施策が必ずしも理想的な形で機能していない現実を見るに、その後ろを追いかける日本は同じ轍を踏んではいけないし、だからこそより積極的にこの多文化共生という課題に取り組むべきです。特に多文化のルーツを持つ子供たちへの教育支援は、その大事な柱のひとつではないでしょうか。汪氏の半生と現在の取り組みからは、そうした教訓を汲み取れるのではないかと思ったのです。

www.nippon.com

ご自身が異文化の中で苦しんだ経験を持つ汪氏は、このプロジェクトを「受刑者のためだけじゃない、俺自身の更生のため、俺の人生を生きるためにやっている」とおっしゃっています。ネットで検索してみたら、プロジェクトのホームページはエラーになって見られませんでしたが、「応援サイト」というページにたどり着きました。ページの一番下に、書籍やカンパの送付先が記されています。私もぜひ、この活動を支援したいと思います。

inorinohinshitu.sakura.ne.jp

華人留学生の頭がなかなか「日本語モード」にならない

職場で私が担当している学科には約80名ほどの留学生がおりまして、そのうちの半分が英語と日本語で、残りの半分が中国語と日本語で、通訳や翻訳やビジネスなどを学んでいます。「英日クラス」の留学生に英語の母語話者は少なく、大半が第二言語として英語を話す人々です。つまり母語タイ語ベトナム語やフランス語やイタリア語やスウェーデン語や……などであるわけですね。母語を介さず、どちらも第二言語である英語と日本語で学んでいるんですから、その苦労もひとしおだと思われます。

その一方で「中日クラス」の留学生は、そのほとんどが中国語の母語話者です。つまり母語である中国語と、第二言語である日本語で学んでいるわけで、「英日クラス」の留学生に比べれば語学、あるいは通訳や翻訳の訓練という点でははるかに有利な条件にあると思います。ところが面白い(というのが適切かどうかは分かりませんが)のは、入学から卒業までの間に日本語の力が飛躍的に伸びるのは「英日クラス」の方に多く、逆になかなか日本語が上達しないのは「中日クラス」の方に多いという点です。

でもこれ、留学生のみなさんをつぶさに観察してみると「さもありなん」という感じがします。「英日クラス」の方は、なにせクラス全体の共通言語が日本語しかないので、自然に、というかある意味しかたなく日本語で話し続けることになります(英語も話せるけど、これはかなりレベル差があります)。「英日クラス」と「中日クラス」が一緒に行う課題も多いのですが、その場合でも「中日クラス」の留学生との共通言語は日本語ですから、結局学校にいる間はずっと日本語を聞き日本語を話すことになる。そりゃ上達もしようというものです。

ところが「中日クラス」の方は、ずっと中国語で話しているんです。日本語の上達を目指してわざわざ日本に留学してきたのに、「英日クラス」の人や教師と話す時以外は日本語を話さず、母語である中国語で思いっきり意思疎通している。水は低きに流れるもので、まだまだ発展途上の日本語で拙い意思疎通をするよりは、中国語を話したほうがラクだし手っ取り早いんですね。でもこれじゃいつまで経っても日本語の上達は望めません。というわけで、入学してきたときは日本語がほとんど同じレベルだったのにも関わらず、卒業するときには「英日クラス」の留学生に大きく水を開けられているのです。

もちろん個人差はあって「中日クラス」の中にも天才的に日本語が上手な人もいますが、全体的に見れば明らかに上述のような傾向が見られます。これは日本人(日本語母語話者)が海外へ留学するときなどにも指摘される問題です。私が中国に留学していた頃は、一つの大学に何百人も日本人留学生がいるという一種の「ブーム」期で、よほど気をつけないとつい日本語を話してしまうというリスクがありました。実際、もう何年も中国に留学しているのに、拙さ全開の中国語しか身に着けていない日本人留学生はいました。欧米でも日本人コミュニティに入り浸ってちっとも上達しない……という話を聞いたことがあります。

それで私は、日本人留学生と話すときもあえて中国語で話すという、一種の芝居じみたことを自分に課していました。頭の中が日本語モードになっている間は、中国語を聴き、中国語で考え、中国語で話すことなど覚束ないだろうと思っていたからです。私の周囲にもそうした芝居じみたやり方を意気に感じて(?)つきあってくださった方は多かったです。当時の“同学(クラスメート)”に感謝しています。

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https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_195.html

というわけで私は現在も、華人留学生のみなさんに繰り返し頭を日本語モードにするよう呼びかけ、華人同士でも日本語で話すように勧めています。語学は畢竟一種の「お芝居」であり、多少の(やりすぎは禁物ですが)演じる気持ち、あるいはトライアルを恐れない気持ちがないとなかなか肉体化されないからです。語学がお芝居であることに着目して、演劇訓練なども行っています。でもこれまで、いくつかの学校で足掛け十年以上華人留学生と接してきましたが、こうしたお芝居的に日本語を話そうとする方は皆無……とまでは言いませんが、ほぼいませんでした。

まあ語学はやりたい方がやりたいだけやればいいので、何も私があくせくしなくてもいいんですけど。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」と言いますしね。ただその一方で、これは構造的な問題でもあると思います。だって「英日クラス」の留学生は、そもそもが日本語を話さざるを得ない環境に置かれているから日本語を話して上手になっていくのです。「中日クラス」の華人留学生も「英日クラス」の人と話すときはもちろん唯一の共通語である日本語で話しています。「馬に水を飲ませる」のではなく、いまふうに言えば「ナッジ(nudge)」みたいな方法で、華人留学生にもっと日本語を話させるすべはないかな、と考えています。

モノに「ご縁」を感じる

ジムでのトレーニングを終えて都心の裏通りを歩いていたら、小さな小さなギャラリーの前を通りかかりました。これまでにも何度も通っていて、いつも陶芸や絵画などの個展が開かれているのは知っていましたが、入ってみたことは一度もありませんでした。ところがその日は何か気になるものを感じて、ギャラリーの扉を押したのでした。

その日開かれていたのは二人展で、若手のガラス作家さんが作品を展示販売していました。小皿や花瓶や箸置きみたいなオブジェや……どれも掌に収まるくらいの小ささで、なおかつパステルカラーが基調のすりガラス処理をしたものが多いみたい。その時に「呼ばれた」のがこの小さな花瓶です。値段もお手頃。その場で購入してしまいました。

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実はずっとこれくらいの大きさの、そしてこんなイメージの花瓶を探していたのです。一昨年に細君のお父さんが亡くなり、実家を処分して位牌などを持ってきたのですが、狭すぎるうちの部屋には仏壇を置くスペースの余裕がないので、本棚に収まるような小さくてモダンな仏壇を探しました。でも市販のいわゆるモダン仏壇は、どれも微妙に「スピリチュアル」なテイストがまぶさってて、どうにも気持ち悪い(失礼)。それで近所の木工所さんにお願いして、シンプル極まりない仏壇(のようなもの)を作ってもらったのです。

qianchong.hatenablog.com

お灯明はイッタラの「KIVI」にLEDキャンドルです。このKIVIはすりガラス処理がしてあるので、明かりが適当にほんわかとぼやけて、モダン仏壇向きの落ち着いた雰囲気になります。今回見つけた小さな花瓶は、その雰囲気にぴったりだと思いました。

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私、あんまり「スピリチュアル」な言説は信じない人間なんですけど、時折こうしてモノから「呼ばれる」ようなことがあります。本屋さんでぶらぶらしている時なんかにも。こういうのが中国語に言う“緣份(ご縁)”なのかなと思うのです。花瓶を購入したら、お店の方がこの二人展のハガキをくれました。そこに作家さんのプロフィールが載っていたんですけど、私と同じ学校を卒業された方でした。おお……なんだかますます“緣份”を感じますね。

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肥満とBMI

ビジネスパーソンの年中行事、健康診断の結果表を受け取って一喜一憂したり、同僚の結果表と比べて「お前ヤバいんじゃないの」「なんでアンタに見せなきゃなんないのよ」「さあ今日から思う存分飲んで食べるぞ」などと大騒ぎしたりの季節が今年もやってまいりました。

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_467.html

私はここ数年、総合所見が堂々の「C」で推移しています。各検査項目はほとんどが「A」で、メタボリックも「非該当」なんですけど、血圧だけが上下とも高くて足を引っ張っています。しかしまあ、高血圧の基準についてはいろいろと医療業界の「大人の事情」的な話が絶えませんから、減塩など生活習慣に気をつける程度であまり気にしていませんし、降圧剤なども服用していません。

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それはさておき、今年の結果表で「おや?」と思ったのは、「肥満度」という項目の数値が 1.0%から 7.1%に急上昇していたことです。「BMI(Body mass index)」も 23.6で肥満の一歩手前(25以上が肥満です)。なんでこうなったかというと、筋トレした結果体重が 5kgほど増えたからです。肥満度は「(実測体重 − 標準体重)÷ 標準体重 × 100」で、BMIは「実測体重 ÷ 身長の二乗」で計算されるんですけど、成長期でもない我々は身長が変わらない以上標準体重も変わらないので、体重が増えればそのぶん肥満度とBMIも増えることになります。

でもこれって少々雑じゃありません? だって本当に肥満かどうかを判定し、体重コントロールの目安とするなら、例えば体脂肪率とかも加味したデータであるべきですよね(家庭用の体重計でだって測れるんだし)。現在の健康診断では(というかうちの事業所だけなのかもしれないけど)体重が筋トレなどの運動で増えようが生活習慣などの原因で増えようが、ひとしなみに「太った」として扱われちゃうのです。

……てなことをジムのトレーナーさんと雑談している時に話したら、「そうですよ。だから僕なんか『週七』で筋トレしてた現役選手の頃は毎年『超肥満判定』されてましたよ」とおっしゃっていました。そして「なんでBMIみたいな単純な基準が、何十年も変わらずに健康診断で使われているんでしょうね」とも。健康診断の結果は、もちろん血液検査や尿検査など大切な項目もありますけど、身体計測の項目についてはあまり一喜一憂しなくてもいいんじゃないかと思いました。

そういえば私たちが小中学生の頃は「座高」なんて項目がありましたけど、廃止されたそうですね。「足の長さ」が分かるってんで、みんなでバカみたいにキャーキャー騒いだことを思い出しました。

「雨上がり虹かかる」に意味を見出す人々

宮沢賢治氏の『春と修羅』に「報告」というたった二行の短い詩があります。私はこの詩を安野光雅氏の画集で知ったのですが、こんな不思議な作品です。

さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
青空文庫より

私は虹を見かけると単に「きれい〜」という感情以上のものは心に湧きませんが、この詩に出てくる虹には何か不穏で不吉なものを感じます。ネットで調べてみたところ、古来から虹はそれぞれの文明により吉兆とも凶兆ともされてきた面白い現象のようです。確かに、虹がかかる仕組みが解明されていなかった頃は、それをなにか特別な予兆だと人々が捉えたのも無理はないでしょうね。巨大ですし、追いかけていっても追いつかないですし、不意に現れたり消えたりしますし。そういえば「虹」が虫偏だというのも、どことなく「ただならない」感じがします(龍のメタファーらしいです)。

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https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_281.html

ところが、そんな古代ではない現代の、NHKのウェブニュースで「即位礼正殿の儀の直前 雨上がり虹かかる」という記事を見つけました。ネットで虹を調べている最中にたどり着いたのです。「22日の都内は午前中、天気が崩れ、時折激しく雨が降りましたが『即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀』が行われる直前に雨は上がり、一時青空が見えました。また、同じ頃スカイツリーにあるNHKのカメラは北の方角に虹がかかる映像をとらえました」という短い文章にアナウンスやナレーションが何もない短い映像。私は思わず「だから……?」とつぶやいてしまったのですが、あとからこのシンプル極まりない報道(?)に得も言われぬ感慨がじわじわと湧いてきて、記念にスクリーンショットを撮っておきました。

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これは何気ないようでいてとても興味深い現象です。いえ、雨が上がったとか虹がかかったとかの現象がじゃありません。公共放送局であるNHKがわざわざこれを一本の報道に仕立てて配信したということが、です。だって、儀式の直前に雨が上がり虹がかかったことをわざわざ伝えるのは何のためかといえば、そこに何らかの「価値」を見出したからでしょう? すごいことだ、ありえないことだと思って、そこにニュースバリューを見出したわけですよね。

こんなふうに、人為では如何ともし難い天候が、何かのタイミングで変わった(好転したとか、悪化したとか)とことさらに取り上げるのは、宗教関係ではよく見られるシチュエーションです。私は子供の頃から、母親の影響でとある新興宗教の価値観にどっぷり染まって育った過去があるんですけど、そこでは儀式の前に晴れただの、薫風がそよいだだの、台風が避けてっただの、気温が上がって温もりが訪れただの、とにかく奇跡や奇瑞をやたらに強調していました。でも冷静になって考えてみれば、どれも単なる自然現象で、要は自分に都合の良いように解釈しているだけです(ああ、カルトの洗脳が解けてよかった!)。

qianchong.hatenablog.com

まあ天皇制というものがそもそも一種の宗教性を帯びていますから、むしろ当然の流れなのかもしれませんが、熱狂的な「信者」が盛り上がっているのならともかく、公共放送のNHKがまるで宗教法人の広報誌まがいの報道をするのはどうなのかしらと思いました。NHKだけでなく、ネット上では多くの方が晴れ間や虹に特別な意味を見出していたようですけど、だったらその次の日が抜けるような秋晴れだったのはどう解釈するんですか。

天候は、人々の意思とは全く関係なく動く自然の摂理です。だからこそ人は大自然を前に謙虚にもなれるし、人生における諦念や希望も学ぶことができる。私はそう思っています。