インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ジムやサウナに見る「がさつ」

「がさつ」という言葉がありますね。言葉や行動や動作が下品で荒っぽいことを形容する言葉で、ネットで検索してみたら「粗末」とか「粗野」という漢字を当てている文章もありましたが、語源辞典には動詞の「がさつく」が形容動詞化した言葉ではないか、とありました。擬音語の「ガサガサ」からもわかるように、なんだかこう繊細さに欠けていて落ち着かない印象を人に与える……といった感じでしょうか。

ネットで検索するとき、「がさつ」のあとにスペースを入れると変換予測の候補が現れますが、Googleでは「がさつ 意味」につづいて「がさつ 女」が表示されました。う~ん、私見では「がさつ」な方は女性よりも男性に多いような気がしますけど、これは世の男性がより「がさつ」に対して冷ややかな目を向けているのか、男性の女性に対する勝手な理想像の押しつけが為せるわざなのか、はたまた世の女性自身が「がさつ」な同性に対してよりシビアなのか……まあ真相はよくわかりませんし、そもそも性別でカテゴライズすること自体が時代遅れですよね。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_225.html

話を戻しまして、いま私が「朝活」で通っているトレーニングジムには、あちこちに数多くの張り紙や注意書きがされています。そのほとんどはマナー遵守を呼びかけるもので、それ以外にも繰り返し館内アナウンスが入って「マナー・ルールへのご協力とご理解をお願いいたします」と呼びかけられます。なるほど、それだけマナーやルールを守らない方が多いということなんでしょうね。

確かに、マシンを使ったあと備え付けのタオルで汗を拭かない人、スパの浴槽で頭までざぶんと潜っちゃう人、サウナ室の中でひげ剃っちゃう人人、ロッカールームでスマホを使う人(盗撮防止のために使用禁止なんだそうです)……いろいろいらっしゃいます。まさに「がさつ」です。しかもそのどれもが中年男性。いやまあ、スパやサウナは女性エリアに行ったことないから、あちらの様子はわからないですけど。もちろん、それを圧倒的に上回ってマナーを守っている方が多いんですから「世の中そんなもん」かなとは思いますが、中年男性のこの「がさつ」さはどうにも度し難いですねえ。

そういえばこないだ、遅ればせながらParavi(パラビ)でドラマ版の『サ道』を見たんですけど、面白かった一方で何となくリアリティに欠けているなあと思ったのは、出てくる男性キャストがみんな上品すぎるからでした。わはは、ジムやサウナなんかでよく見かける「がさつ」な男性がぜんぜん出てこないんですね。だいたいサウナで全員申し合わせたように股間にタオル巻いてるのも「ありえない」。実際はみなさんもっと「がさつ」です。でもそんなところにリアリティを求めちゃったら、もはやドラマではなくなっちゃうでしょうし、そもそも誰も見たくないです、そんなの。

www.tv-tokyo.co.jp

「犠牲」を美化しないでほしい

東京新聞の一面に毎朝載っている「筆洗」というコラムがあります。朝日新聞の「天声人語」や日本経済新聞の「春秋」と同じような、論説委員の持ち回りによるコラムですが、昨日の「筆洗」はラグビーワールドカップの日本代表チーム敗退を受けての内容でした。

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「われわれが胸を打たれるのは犠牲をいとわず、血を流し傷つきながらも同じ方向へ進んでいく無骨な姿なのだろう」……う~ん、そこに胸を打たれるか、と違和感を覚えました。私はそもそも個人ではなく国家の名を掲げて競い合うスポーツの大会が苦手ですが、それはまさにこのコラムの言葉に現れているような、全員を同じ方向に向けようとするファナティック(熱狂的・狂信的)な精神が垣間見えるからです。

私だって、アスリート個々人の努力や研鑽には感動しますし、称賛も惜しみません。でもそれを膨張させて「誰もが自分のことで精いっぱい。考え方もそろわぬ。そんな時代にあって」犠牲が尊いなどと粗雑な一般化をしないでほしい、それが社会全体のありようとしての模範的な姿だと美化しないでほしいと思います。文中では犠牲が「今の時代には古めかしくさえ聞こえるキーワード」と一応の留保がつけられていますが、スポーツの戦術を社会全体の精神にまで敷衍するのは危ういのではないでしょうか。

今回のラグビーワールドカップでは、他にもいろいろと気になることがありました(まだ終わっていませんが)。そもそもラグビーワールドカップは国籍主義をとらず、日本代表チームも様々な出自やルーツを持つ選手が集まって結成されているというのに、合宿では日本刀と鎧兜を飾って(ユニフォームも鎧をイメージしたデザインです)武士道を強調し、「君が代」に歌われている「さざれ石」を見学するために宮崎県日向市の大御神社に出向くなど、自国中心主義、あるいは自民族中心主義があまりにも前面に押し出されていました。

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いっぽうで日本へ観戦に訪れた外国人への「おもてなし」として、その国の国歌をみんなで歌うという「スクラムニゾン」なる活動もありました。これも、国歌が往々にして国威発揚のために用いられ、人々のファナティックな感情を焚きつけるために使われてきた負の側面を踏まえれば、無邪気にすぎるのではないかと思いました。特に「君が代」を歌うことに関して、私たちはもっと内省が必要ではないかとも。その点に関してはすでにこのブログに書きました。

qianchong.hatenablog.com

またこちらの報道にあるように、日本代表選手のお一人が百田尚樹氏の『日本国紀』を読んで「日本人はどういう種族なのか、どうして日本人の勤勉さや真面目さ、礼儀正しさが生まれたのか、どういう歴史が背景にあるのか。(中略)日本人は昔から続く育ち方や文化があるから、今の強さに繋がっていると思うと、すごく誇らしく思うし、もっと強くなった気がしますね」などと語っているのを見ると、ここにも自民族中心主義や「日本スゴイ」がにょきにょきと頭をもたげているなあと心ざわめくのです。

the-ans.jp

私は、こうやって人々の心を一方向に集約していこうとする動きに、とても危険なものを感じます。そしてスポーツの大会というのは、それも国際大会というものは、そんな危険な動きを容易に起こさせてしまうものだという点について、私たちはもっと敏感であっていいと思います。

折しも、あの無謀な「インパール作戦」にもなぞらえられる東京五輪2020が進行中です。今回のラグビーワールドカップでさえこうなんですから、来年の夏はどれだけ自民族中心主義や「日本スゴイ」や「犠牲」や「結束」や「みんなの心をひとつに」などが強調されることか。今からうんざりですが、知らず識らずのうちに乗せられて熱くなっていく心に対して、きちんとクールダウンできるような回路を自らに残しておかなければと思っています。

座り心地の良いバランスボール

バランスボールを買いました。職場で椅子のかわりに使うためです。腰痛が慢性化してきて、特に椅子に座ってデスクワークをしていると必ず「しくしく」してくるので、骨盤を立てるクッションを買い求め、椅子の背もたれを取ってみました。それでも、どうしても悪い座り方の癖が抜けないので、いっそのことバランスボールにしてみようと思って。

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職場のデスクワークにバランスボールというと、なんだかIT系ベンチャーのおしゃれなオフィスみたいですが、私、バランスボールにはちょっとしたトラウマがあります。以前の職場でも腰痛に悩まされてバランスボールを使ってみたのですが、周囲の職員への「根回し」を怠っていたためか、ずいぶんと反発を招いてしまったのです。直接面と向かっては言われませんでしたが、人づてに「何だあいつは。お遊びみたいなボールを椅子代わりにして」と最古参の職員が非難していると聞かされました。

いま考えるとあまりにも理不尽な気がしますが、その職場が極めて保守的な雰囲気だったのと、当時私はその職場でかなり浮いた存在になっていて、針のむしろに座らされているような日々だったことなどが重なった結果です(結局辞表を出しました)。人間、一度誰かに「こいつはどんなに叩いても大丈夫だ」というレッテルを貼ってしまうと、どんどん攻撃がエスカレートするもの。でも叩いている側は「我に正義あり」ですから叩いている意識はありません。ただただ叩く対象が極悪非道不倶戴天の敵になってしまうのです。中国語に言う“妖魔化”というやつです。

というわけで、今回は事前に「根回し」をしました。もっとも今の職場は、少なくとも私の部署はとても風通しがよいので、特に根回しする必要もないくらいなのですが。みなさん私の腰痛遍歴を知っているので快く賛成してくれました。というわけでAmazonで購入したのが、これ。椅子やインテリアとして使うことを念頭にデザインされたバランスボールです。

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バランスボール 65cm vivora

早速届いて、今使っていますが、ざっくりしたファブリックの表面なので、座り心地がとても良いです。バランスボールのゴムのツルツルベタベタ感がなく、ソファーに座っているような感覚。しかもコロコロと転がっていかないよう、底にちょっとした工夫がしてあったり、持ち運びやすいように取っ手がついていたり。ちょっとお高いんですけど、買って正解でした。長時間のデスクワークになるときは、これで時々骨盤を動かしたいと思います。

大声に頼らないで人を動かす

私は声が大きいです。もともと演劇訓練などをやっていて地声が大きいというのもあるんですけど、そこへアナウンス学校やボイストレーニングなんかに通って「通る声」を訓練した結果、出そうと思えばどでかい会議室や教室じゅうに「ビリビリ」と響き渡るほどの大声を出すことができるようになってしまいました。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_31.html

教師という仕事は、特にそれが40名も50名もの大人数を相手にしているときなどは、時にこの大声が役に立ちます。何かの指示を出す時、注意を引きつける時、何かの行動をやめさせる時……。同僚の先生方が精一杯声を張り上げて指示をしていても、時にぜんぜん伝わらないことがあるんですけど、声は単にボリュームだけではなくて、「通るか通らないか」も大きな要素なんですよね。

音声は単なる空気の振動なんですけど、何かこう、手に取ることができる物質的な側面があり、その物質(例えばボールみたいなもの)が相手のもとまで届くかどうかは発声の技術によって異なります。極めて非科学的な説明ではあるんですけど、たしかにそういう側面がある。だからアナウンスの訓練などでは声をボールに見立て、そのボールが届いたかどうかについて指導や「ダメ出し」が行われたりします。「ああ、手前でコロコロ転がってしまいましたね」とか「私の頭の上を飛び越えて言っちゃいました」のように。

通る声は、例えば「命令」や「号令」などに威力を発揮します。アナウンス学校の同級生には自衛隊の方や、いわゆるDJポリスみたいな方もいたように記憶していますが、やはり通る声(+時によってボリューム)が必要な持ち場があるからなのでしょう。私もこの「武器」を使って、一瞬のうちに注意をひきつけたり、いつまでもザワザワとおしゃべりをやめない生徒さんたちを黙らせたりしてきたわけです。

……しかし。

私は最近、そんなやり方に強い違和感を覚えるようになりました。ボリュームの大きい通る声を発した瞬間は、みなさん「うっ!」と怯んで静かになるんですけど、またしばらくするとザワザワしだすのです。それでまた同じように声を発したり、時には一喝(恫喝?)したり。でもこれって、一種のハラスメントじゃない? と、自分で自分のありように居心地の悪さを覚えるのです。おいおい、いまさらかよ、という感じではありますが。

qianchong.hatenablog.com

大声を出す→全員シーンとなる、ってのは、その瞬間はなんだか達成感というか成功感があるんですけど、しょせん力で抑えつけているだけですから持続性がありません。それでまた大声を出す……ということを続けていると、結局長時間大声を出しっぱなしになります。いくらアナウンス訓練やボイトレなどで、長時間大きな声を出しても疲れない術を習ったとはいえ、だんだん疲れてきます。特に最近は歳のせいもあって(?)、何コマか連続で授業を持ったあとはぐったりと疲労困憊、しかも喉が痛い、ということが多くなりました。

これは何か根本的に間違っている。「北風と太陽」じゃないですけど、力で行動を変えようとすれば、人はより頑なに行動を変えまいとしてしまうんじゃないか。これでは悪循環ではないか……そんなことを考えながら、行動心理学や行動分析学関係、あるいはID(インストラクショナルデザイン)の入門書をいくつか読む中で、この分野の「古典的名著」らしい『うまくやるための強化の原理』を読みました。1984年にアメリカで出版されたこの本は、1998年に日本語版の初版が発行され、昨年までに8刷を重ねています。

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うまくやるための強化の原理

副題がいいですね。「飼いネコから配偶者まで」。といってもこの本は、意のままに人を動かす自分勝手な「調教」を勧めるものではなく、動物にせよ人間にせよ、何らかの行動にはそれぞれに理由なり目的なりがあり、そこにきちんと着目して対象の行動を変えてもらうにはどうしたらよいかという点が論じられています。行動分析学のイロハである「好子・嫌子(こうし・けんし)」をはじめ、強化やシェイピング、強制によらない行動の制御、やめてほしい行動をやめさせる方法などについて易しく書かれています。

正直、この本に述べられていることを現場でどう活用していけばよいかはまだ分からないのですが、少なくとも大きな通る声だけに頼ることなく、様々な方法を試みてみるべきだと思うようになりました。とりわけ、対象がなぜそのような行動を取るのかに対するもっと細やかな観察が必要だという点を痛感しました。やはり私はこれまであまりにも自分本位で他人に対する想像力に欠けていたなと思ったのです。

この本にはたくさんのヒントが提示されています。そのどれが「当たる」のか、そして自分がどう変わるのか、ちょっと楽しみになってきました。

語学は確かに役には立つけれど

現在、複数の仕事を掛け持ちしていますが、メインで働いている職場は東京都心のターミナル駅から歩いて10分ほどのところにあります。その道の途中にとあるオフィスビルがあって、その前を通るときはいつもビルの8階か9階あたりを見上げてしまいます。以前はそこに某語学学校の看板がありましたが、今は見あたりません。大手の語学学校チェーンではなく、マンツーマン指導を売りにした新進気鋭のベンチャー系(?)語学学校だったのですが、おそらく業界から撤退してしまったのだと思われます。

もうそこにあの学校はないと分かっているのに、つい見上げてしまうのは、かつて就職のための面接に行ったことがあるからです。7年ほど前に突然前の職場を辞めることになり、フリーランス(とはいえ実態はほぼ無職)の仕事と、認知症の兆しが見えていた義父と同居しての家事を両立させながら、ハローワークに通っていた頃でした。その学校は、ハローワークの職員が紹介してくれた数少ない求人情報のひとつだったのです。

ハローワークの紹介状と、履歴書や職務経歴書を持ってその学校を訪れると、マンツーマン指導用に細かく仕切られた小さな部屋の奥に創業者と思しき40絡みの男性がいて、面接を受けました。この方は、詳細は忘れましたが確かアメリカに留学されて英語とビジネスを学び、その経験をもとにこの学校を起業したとのことで、ベンチャー企業の創業者らしくカジュアルかつラフな格好で、日によく焼けており、とても明るく大きな声で、アグレッシブな印象の方でした。

この学校が求人を出していたのは、多分今後英語だけでなく中国語のマンツーマン指導にも進出しようとしていたからだと思いますが、面接の最初から私は「これは多分芽がないだろうな」という印象を受けていました。私がハローワークで希望していたのは、きちんと家計を支えるだけの収入が得られる固定の業務で、例えば学校の運営とかカリキュラムの管理とか、あるいは教材や教案の開発などを担当できる部門だったのですが、こちらの学校が求めていたのは、できるだけ低い時給で働いてくれる、マンツーマンの非常勤講師要員だったからです。

それでも創業者の男性は、すぐに追い返すのも申し訳ないと思ったのか、しばらく私との雑談につきあってくれました。その中で言われたことは今でもとてもよく覚えています。いわく「ずっと中国語の業界で、教師や通訳者や翻訳者をされてきたんですね。その年令(私のような40代、50代)まで単一のスキルでしかキャリアを積み重ねてこなかったとしたら、他に『つぶし』が効かなくてキツいですよね」。

えらくまた率直な物言いだと思いましたが、その通りかもしれないなとも思いました。語学って、特に英語や中国語などは、話せるようになりさえすればなんだかグローバルでワンダホーな未来が待っているような「信仰」がこの国にははびこっていますけど、実際には語学「だけ」ができてもあまり使える場所はないんです。その語学を使って何ができるかが大切なわけで、その「何」かができるためには、語学以外の知識や教養やスキルが大きくものを言うんですよね。


https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_45.html

私にしたって、今の職場に呼んでもらえたのは、語学の力というよりも(だって中国語だけに着目したら、ネイティブスピーカーのほうが数千倍上手だもの)カリキュラムの設計や教材の開発、様々な部署との連携みたいなところでこれまでの職務経歴が活かせたからです。このブログでもたびたび引用させていただいている松田青子氏の小説『英子の森』には、こんなくだりがあります。

グローバルって本当にあるんですかね? もし本当にグローバル化する社会なんだったら、どうして英語を使う仕事が日本にはこんなに少ないんですか? なんでわたしみたいに、どうにもならない状況の人がふきだまりみたいにいっぱいいるんですか? 英語学校も留学を斡旋する旅行会社もいい部分だけ見せて、後は責任取りませんって感じで、勝手すぎますよ。グローバルなんて都市伝説と一緒。信じた方がバカみたいっていうか。


英子の森 (河出文庫)

ここに言う「英語を使う仕事」は、要するに英語というスキルが純粋に活かせる仕事という意味ですけど(そして多くの語学学習者が、語学のスキルを純粋に活かせると思って学んでいるんですけど)、そんな仕事はないんですよね。ないと言い切って悪ければ、本当に本当に少ない。『英子の森』にはこんな描写もあります。

ネットの求人サイトを開いた。「職種」をクリックし、出てきた選択肢から「専門職/その他すべて」をクリックし、「美容師」「エステ・ネイル」「技術者」などの様々な専門職の中から、「通訳、翻訳」をクリックした。「専門職/その他すべて」3326件の中で、「通訳、翻訳」はたった8件だった。(中略)これ以外で、英語を使える仕事となると、今度は「教育」をクリックするしかない。

ハローワークに通っていた頃、英語ですらこういう感じのありさまですから(ハローワークにも同じような検索端末があるのです)、中国語はもっと悲惨な状況でした。就業相談のカウンターで対応してくださったハローワークの職員さんの顔には、例外なく「あなたの年齡や条件に合う仕事はないです」と書いてありましたもの。

語学は楽しいし、役に立つ。それはもちろんそうなんですけど、そして私は、我々はもっと真剣に語学を学ぶべきだとも思っているんですけども、でもそれだけじゃ人生なかなか辛いです。渡る世間は鬼ばかり。あらためて幼少時から英語教育に狂奔するこの国のありように疑問を覚えています。

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「能楽研修生ゼロ」の衝撃

先日、能楽はきわめて「現場性」を重んじる芸術形式なのではないか、だからその制約もあって観客動員が難しく、ひいては「ファン」の獲得も容易ではない……といった話を書いたのですが、昨日の東京新聞にはこんな記事が載っていました。国立能楽堂が行っている能楽師養成のための研修生制度の応募者がゼロだというショッキングな内容です。

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能楽師の伝統は古来から能楽師の家に生まれた方が「一子相伝」で受け継いできたもの(実子とは限らないにせよ)というイメージが強いと思います。実際、各能楽師の家では、子供がまだ幼いうちから稽古になじませ、子方などを演じる中で徐々に育てていくといったことが行われているそうです。でも現代では、それ以外にこうして成人してから能楽師を目指す方のための研修生制度もあるんですね。またこの制度以外のルートでプロの能楽師の道へ進む方も若干はいらっしゃるようです。

それにしても応募者がゼロとは驚きました。しかも記事によればその背景にあるのはやはり「食べていけるかどうか」という問題だそうです。まあこれは現代演劇の俳優さんだって、音楽を志すバンドの方々だって、スポーツ選手だって、さらには私たちのような語学で食べている者だって同種のジレンマがありますから、何も伝統芸能の世界に限った話ではないのですが、そもそも志してくれる若い方がいないというのは……私があと30歳若ければ応募していたんだけどなどと、とりとめのないことを考えました。

記事には「現在の学校教育では自国の伝統文化に慣れ親しむ機会が少ないようだ」という声も紹介されていました。確かに、国立劇場国立能楽堂などでは学生さんのための伝統芸能教室を毎年開催しています(うちの学校の留学生も毎年参加しています)が、これだって東京だからまだそういう機会があるんであって、全国規模で見ればそんな機会は寥々たるものでしょう。

「海外の国立劇場では、役者や音楽家などを抱えて生活を保証しているのが一般的」という指摘も記事にありましたが、本邦は「能狂言を観るような人間は変質者」と公言し文楽を「つまらない。二度と見に行かない」と評した某市長が、地元発祥の伝統芸能である文楽への補助金を見直すといったような顛末も記憶に新しいお国柄です。

明治維新の折に、武家の扶持を失って存亡の危機に立たされていた能楽を救ったのは、「外国の芸術保護政策の影響を受けて、国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や皇室、華族、新興財閥の後援など」(能楽協会のウェブサイトより)だったそうです。ここには若干国粋主義的な香りも漂っていますが、その一方で明治以前から、ときに鑑賞者として、ときに稽古者として能楽に慣れ親しんできた広範な人々の教養が社会的な素地として存在していたことも大きかったのではないかと思います。

www.wochikochi.jp

古典芸能のような「無形文化財」は、人が失われてしまったらそこで伝統が途絶えてしまいます。演じる側の人はもちろんですが、受け手の側の人だって欠くことはできません。昨今はやたら「日本スゴイ」が流行っており、「和ブーム」など伝統回帰の動きもないわけじゃないのに、それがごくごく表層的なものにとどまっていて、こうした伝統芸能のありようとちっともリンクしていないように感じます。本当に難しい課題だと思いますが、とりあえず私にできるのは……せっせと能楽を観に行くことぐらいなんでしょうか。

二年前、あのまま行ってたら死んでた。

言霊(ことだま)ってこともあるんだから、あんまり言わないでよ、と周囲にはたしなめられるのですが、毎日がしんどくてしんどくて、といっても精神的にではなく肉体的に不調が続いていた二年前、あのまま一念発起して「身体を動かそう!」と思わなければ、本当に死んでいたと思います。二年間、体幹中心のパーソナルトレーニングを最低でも週に二日、さらにこの春からは「朝活」としてのジム通いを週に五日続けてきた上での実感です。

そんなにジムに通い詰めていたら、筋骨隆々のマッチョになっちゃうんじゃないの、アンタ一体どこを目指してんの……と言われそうですが、相変わらずのユニクロが似合う中肉中背です。でもどこを目指しているのかと聞かれれば即答できます。毎度申し上げていることではありますが、健康です。「健康になりたい。健康じゃなきゃ、死ぬ」と。

怪しげな食品やサプリも、不自然なアンチエイジングも、ましてや回春や精力増強なんかとも無縁の健康。ただただ、ごく普通に健康であること、健康に暮らす体力を保つことが目的です。健康を損ない、体力が失われることが、いかにQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)を下げるのか、二年前のあの不定愁訴の嵐で痛いほどよく分かりました。

そう考えている方は多いようです。昨今は、私のような中高年のジム通いや筋トレが流行になっているのだとか。先週号の『週刊エコノミスト』でも「ビジネスマンがはまる筋力トレーニング」という特集が組まれていましたけど、Amazonに行って「中高年 筋トレ」などで検索をかけてみれば驚くほどたくさんの筋トレ関連書籍が見つかります。

数年前から「仕事ができる人」は筋トレをしている系の本が目につくようになりましたが、現在ではその主語が「中高年」や「40代、50代、60代」にシフトしてきているような印象が。『還暦筋トレ』とか『60(カンレキ)すぎたら本気で筋トレ!』などという本までありました。なんだかもう「年寄りの冷や水」って言葉が死語になりそうな勢いです(とっくに死語ですか?)。

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週刊エコノミスト 2019年10月15日号 [雑誌]

週刊エコノミストの記事によれば、中高年の筋トレが流行している理由は「筋肉はウソをつかない」からだとか。身体の衰えを実感し始め、「プライベートの生活も含めてどんなに努力しても思い通りにいかないことも増えて」くる中で、「筋トレは正しいやり方をすれば必ず目に見える成果をもたらす」ために「自己達成感にもつながりやすい」と。

世のビジネスパーソンはどんだけ心身ともに疲れてるんですかという感じですが、まあ私だって続けている理由は大体そのへんかな、と思います。中高年になっても、正しいやり方(これ、非常に大事です。また稿を改めて書きたいと思います)で筋トレをすれば、ちゃんとウェイトの数字が伸びていく上に、痩せるなり筋肉がつくなりの「おまけ」までついてくる。これがけっこうシンプルに嬉しいんです。

上述の記事には、そうしたポジティブな理由のほかに「足腰が衰えた両親が日常生活に支障を来している姿を目の当たりにして、『歩けなくなったら大変』という不安がジム通いにつながっている」というちょっと身につまされるような理由もありました。でもこれも要するにQOLの問題なんですね。ラジオ体操でもジョギングでもウォーキングでもいいんでしょうけど、頻繁に長時間やらなくてもそれなりに結果が出るというのがまた中高年の筋トレブームを後押ししているんだと思います。

能楽の「現場性」について

娯楽のジャンルが多岐にわたる現代。それも家から一歩も出なくたってネットで何でも済ませられるこの時代に、わざわざ数少ない能楽堂に足を運び、そこそこなお値段のチケットを買って、三時間も四時間もそこに座り、必ずしもすべてが理解できるわけではないように思える古典芸能の狂言や能を鑑賞する、そんな「奇特」な観客がこのさき増えていくことはあるのだろうか……先日お稽古に立ち寄った折、漏れ聞こえてきた「業界の声」です。

う〜ん、確かに、能楽は他の演劇や映画などと違って何日も連続で興行ということは基本的になく、通常はその日一回限りの公演であることがほとんどです。チケットも、例えば比較的安価でお求めやすい国立能楽堂での公演などは早々に完売してしまっていることが多く、たまさか興味を持った方がふらっと立ち寄る……なんてことがやりにくい状況*1。なるほど、そう考えてみると、ここまで「非効率」な娯楽は他にないかもしれません。

しかも、狂言はまだしも能は敷居が高そう。日本語ではあるけれど古い言葉なのでわかりにくそう。動きがあまりにもゆっくりで眠くなりそう。観客席にはお年寄りばっかりで「アウェー感」半端なさそう……これではますます新しい観客を獲得するのは難しいように思えてきます。実際には古い言葉であってもそこはやはり日本語で、よく聞いていればかなりのところまで理解できるものですし、曲(演目)によってはダイナミックな動きも多々あるうえに、お囃子などもある種のビートが効いていて血湧き肉躍る感じがしますし、見所(客席)にはいろいろな世代の方が観に来てはいるのですが。

能や狂言NHKEテレあたりでも時々録画が放映されているのですが、これは実際の舞台とは全く違った雰囲気になってしまいます。能楽はすぐれて「現場性」、それも一回限りのライブ性に大きく依拠した芸術形式なんですよね。能楽堂で演者と同じ空間に身を置き、同じ空気を呼吸しているときにしか分からない何か、それも、それを欠いてしまってはほとんどこの芸術が成り立たないとまで言えそうな何かがあるらしい。そんなこと言っちゃったら、じゃあ能楽堂がない、あるいは能楽の公演がほとんどない地方の方々は能楽を味わうことができないのかとお叱りを受けそうですが、その通りかもしれないと申し上げざるを得ません。ほんとうに申し訳ないですけれど。

能楽喜多流能楽師、塩津哲生師がご自身のウェブサイトに「能と私」というコラムを掲載されており、そのうちのひとつ「オスロ公演の充実感」にこんな一文があります。師は能楽の現場性はもとより、その現場の適正な規模にまで触れておられます。

能は客席の中に張り出し、横からも観ることができ、面の表情が肉眼で確りと捉えることが可能な能舞台という特殊な舞台で演じて初めて力を出すことができるもの。声も囃子の音も生で聞こえる、せいぜい四、五〇〇人に観せる広さが理想である。マイクを使わなくてはならない広さでは能のよさはとうてい解ってもらえない。ホールのステージのように緞帳で客席と舞台を区切った処などが初めから能を否定している。
Vol.07 「オスロ公演の充実感」 | 塩津哲生オフシャルサイト

私もそのとおりだと思います。でも、こうなると「興行」としてはさらに立ち行き難くなり、能楽がもっと普及してほしいけれどもその制約が半端ないというジレンマに陥ってしまう。私など一介の能楽ファンですからこうして無責任に文章を書き散らしていられますけど、玄人(くろうと・プロ)の能楽師の方々の、能楽の未来に対する心中やいかばかりかとお察し申し上げます。

しかし、そういう制約があるからこそ能楽舞台芸術としての(能楽には祭祀の側面もありますから、舞台芸術と単純に言い切れるかどうかは別にして)輝きを現代にまで保ち続けているのだとも思えます。そこで思い出したのが、授業の課題そっちのけで演劇に明け暮れていた学生時代に、みんながこぞって読んでいたので自分も競うようにして読み、しかし内容は全く覚えていない(というか内容を理解できていたかどうかも怪しい)、ピーター・ブルック氏の『なにもない空間』という本です。


なにもない空間 (晶文選書)

先日その懐かしい本を図書館で借りて(閉架になっていたので取り寄せてもらった!)読み返してみたのですが、その第一章は「退廃演劇」と銘打たれています。私はこの章を読んで、上述のような一回性・現場性・ライブ性を常とする能楽は、その退廃演劇から最も遠いところにあるのではないかと思いました。もちろん能楽にも時に「退廃演劇」的なものが現れることは否定できないにせよ、です。それはあの、巨大鉄道会社と提携して大宣伝を打ち、ロングラン達成をやたらと強調するどこかの劇団(私は劇場で数作品を観て、そのあまりの退屈さにのけぞりました)のようなあり方とは真逆に位置するものです。

……おっと、筆が滑りました。悪口は慎み、最後に今回『なにもない空間』で見つけた(以前読んだ時には、いかに頭に入っていなかったかがわかりますね)能楽に関する記述をご紹介しましょう。

わたしはまえにコメディ・フランセーズ一座の稽古を見たことがある。とても若い俳優がとても年をとった俳優のまんまえに立って、まるで鏡に映った影よろしく台詞としぐさを真似ていた。これは、たとえば、日本の能の役者が父から子へ奥義を口伝してゆくあの偉大な伝統とはまったく別のもので、それとこれとを混同してはならない。能の場合は、口伝されるのは「意味」である――そして「意味」とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。だが演技の外面を真似ることは、固着したスタイルを受けつぐことにすぎない。そんなスタイルは他のなにものにも関係づけることはできないだろう。
(文中の括弧は、原文では傍点)

わたしはこの一文に、能楽師のみならず、能楽に触れようとする私たちにも共通する、ある種の真理を見るものです。能楽堂の現場において、そこで演じる人々から私たちは「ひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できる」なにがしかを「口伝」されるのです。これこそ能楽が一回性・現場性・ライブ性を重んじる所以だと思いますし、また素人の我々が能楽のお稽古をすることに何らかの「よきもの」がある理由でもあると思います。

*1:数年前、国立能楽堂に定例公演を観に行って、ネットで予約しておいたチケットを発券していたら、横にいたフランス人と思しきご婦人が落胆している様子でした。当日券がなくて観るのを諦めた、次回また日本に来るチャンスがあったらその時はぜひ……とおっしゃる。なので、私のチケットを差し上げちゃいました。

成語なんかにリソースを割けない?

華人留学生の通訳訓練(中国語→日本語)で、“造句”をしてもらうことがあります。“造句(zàojù)”というのは中国語で、これを日本語で言えば「例文を作る」とでもなりましょうか。例えば通訳をしている際の「鬼門」のひとつ、成語やことわざや慣用句について、中国語と日本語を比較しながら覚えましょう、などという際に、華人留学生のみなさんにその成語・ことわざ・慣用句を使った短い文章を口頭で言ってもらうのです。

なぜ成語・ことわざ・慣用句が「鬼門」かというと、ふだんのおしゃべりレベルの会話ではあまり頻繁に登場しないものの、フォーマルな席(つまり通訳者が出向くような)ではけっこう使われ、特に背景に故事や典拠があるようなそれはかなり縮約された言葉になっているため、知らなければ即アウトという確率が高いからです。私、通訳をしていて一番血の気の引く思いがする瞬間は、発言者が“中國有句古話說……(中国の古い言葉にこういうのがありまして……)”などと話し始めたときです。

もちろん日本語の成語・ことわざ・慣用句には、もともと中国から入ってきたものも多く、中には“一舉兩得”→「一挙両得」のように全く同じ形のもの(発音は違うけれど)もあります。でもその一方で“雞蛋裡挑骨頭/吹毛求疵”→「重箱の隅をつつく」のように全く違う、というか、双方の風土や文化がそれぞれに色濃く影響した面白い表現もたくさんあって、なるほど、同じ人間の同じような発想であっても、お互いの表現がここまで違うのは面白いなあと思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_996.html

というわけで、留学生のみなさんにも「有名どころ」のよく使われる成語・ことわざ・慣用句を中国語と日本語のセットで覚えてもらおうということで訓練に取り入れているのですが、ただ暗記するだけじゃつまらないので、まず私が中国語の成語・ことわざ・慣用句をひとつ言い、生徒の一人を指名して“造句”してもらったのち、それを別の一人が日本語へ通訳する……というようなことをやっています。

qianchong.hatenablog.com

この練習をしている時に、気づいたことがふたつあります。ひとつは“造句”をする留学生の声がきわめて小さく、かつ速すぎること。もうひとつは“造句”した文章がきわめて単純なこと、です。

通訳というのは畢竟人前で話す作業なので、パブリックスピーキングを意識することは繰り返し伝えており、なおかつ自分が話した中国語を他の人が日本語に訳すという前提も理解しているはずなのですが、小声で一瞬のうちに喋っちゃう。もちろん恥ずかしさもあるのでしょう。それでも自分の母語である中国語での“造句”なのに、とても小さな声で自信なさげに、まるで今すぐここから逃げ去ってしまいたいとでも思っているかのように、ささささっ! と喋ってしまうのです。当然ながらそれを訳す生徒は聴き取れないことが多く、私は「もう一度ゆっくり、大きな声で言ってください」とお願いすることになります。それも繰り返し繰り返し、何度も。

“造句”が単純なことも気になります。例えば“八面玲瓏(八方美人)”だったら“他總是八面玲瓏(彼はいつも八方美人だ)”とか、“班門弄斧(釈迦に説法)”だったら“我對他班門弄斧(私は彼に「釈迦に説法」した??)”のように“造句”とも言えないような短い、論理も文構造も弱い文ばかり作ろうとするんですね。「彼がジムのインストラクターだとは知らずに、筋トレやダイエットを語ろうとしちゃった。危うく釈迦に説法をするところだったよ」みたいな文章を作ってくれたら、訳す方もやりがいがあるのになあ。しかも日本語ですらなく、母語である中国語での“造句”ですからね。

そういう単純な“造句”ばかりが続くので、私が(母語でもないのに!)例を示してみると「ほほー」というような顔をしているのがカワイイ、いえ、情けないですが、「みなさんはこういう“造句”を小学校や中学校でやらなかったんですか?」と聞いてみると、「死ぬほどやらされました」というお返事。う〜ん、それがトラウマで、もう二度とやりたくないということなのかな。それとも、通訳訓練なんて別にしたくないけれども、必修科目だから仕方なく参加しているということなのかな。

できるだけ小声で短く“造句”しようとする華人留学生のみなさんからは、とにかく自分のリソースはできるだけ割きたくないとでも言わんばかりのオーラが出ているような気がします。ふだんはあんなに大声で延々と喋っているのにね。成語・ことわざ・慣用句みたいな古臭くて手垢のついたような表現に自分のリソースを割こうと思えないのかな? 個人的には、成語・ことわざ・慣用句というのは、中国語や日本語のエッセンスが詰まった面白い領域だと思うんですけど……。

調べてから聞いてほしい

プロ野球選手のダルビッシュ有氏が、「せめてある程度勉強してからメッセージください」とSNSで発言したことが話題、という記事を読みました。ネットで調べ物をしていた際のことです。この発言はTwitterでなされたもののようですね。
news.nifty.com
なるほど、ダルビッシュ有氏は以前にも「筋トレ」や「ランニング」に関して傾聴すべき意見を述べておられたり、日曜日の報道番組『サンデーモーニング』のスポーツコーナーでレギュラーを務める日本野球界の大御所の、時代錯誤な不見識に対して胸のすくような見解を述べておられたり(詳細は「ぐぐって」ください)と、私は密かにその発言のファンなんですけど、今回も「おっしゃる通り」と快哉を叫びました。

それでTwitterまで元のツイートを見に行ったら、氏のこの主張に「ダルビッシュ有に聞くというのも調べる行為の範疇でしょ」と反論している「からあげ」なるハンドルネームの方がおり、そこに氏が「死ぬまで毎食唐揚げ食べとけ」と返していて、ユーモアというか毒舌の切れ味も鋭いなあと。

いやこれ、自らを大リーグのスター選手に並べるのも大変おこがましいのですが、私もいろいろな方から受ける質問で「せめてある程度勉強したり調べてから聞いてほしいな」と思うことが多いので、少しく共感したことでありました。

例えば先日、某通訳学校で受けた質問は「スピーチの通訳を練習したいんですけど、なにかいい教科書はありませんか」でした。それで私が、今現在入手可能な、有名どころの通訳訓練本をいくつか挙げて「読んでみましたか?」と聞いたら、どれも初耳だというので必死にその書名をメモに取ってらっしゃいました。

まあダルビッシュ有氏のように質問が殺到しているわけでもないので、教えて差し上げるのはまったく構わないのですが、例えばAmazonにでも行って「通訳 中国語」あたりのキーワードで検索をかけてみれば、私が挙げた通訳訓練本はすべて見つかるんですよね。なぜ、まずはそういう発想が出てこないのかなと不思議に思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_36.html

実はダルビッシュ有氏のツイートを見に行ったついでに、つらつらと他のツイートも見ていたら(Twitterはこれが怖いです。すぐに大量の時間を費やしちゃう。だから最近はなるべく触れないようにしています)、「翻訳者になりたいのですが、何から始めたら……?」といった質問に行き当たりました。

翻訳者や通訳者というのは、調べ物が7割8割、いや個人的には9割以上のお仕事だと思います。なのに初手からこう聞いている時点であまりこのお仕事には向いていないのではないかと思うのですが、そう申し上げたら初心者に厳しすぎるでしょうか。まあかつて初心者だった私みたいに、書店に行って「通訳」や「翻訳」と名のつく本を片っ端から買ってきて読むみたいな方法も非効率に過ぎる、もうちょっと人に頼ってもいいとは思いますけど。

夜中にトイレを探している

尾籠なお話で申し訳ないのですが、就寝中にトイレへ行くことが時々あります。若い頃にもありましたけど、歳を取って明らかに頻度が高まっている感じ。なるほど、いまや中高年のみが主な読者になったと思しき新聞の広告に「ノコギリヤシ」など頻尿対策の薬やサプリがやたら多いのもうなずけます。

とはいえ、私は今のところまだ頻尿というほどではなく、そのために睡眠が阻害されるというようなこともないのですが、少々うんざりしているのは、尿意のごく自然な帰結なのか、トイレを探す夢を繰り返し見ることです。あるときは迷路のように複雑な廊下が連なる古くて大きな旅館の中で、あるときはこれも巨大な校舎が立ち並ぶどこかのキャンパス内で、あるいは町工場が延々と連なる下町の路地裏で、とにかくあちこちを歩き回ってトイレを探す、探し当てても満員で入れないとか、壊れている……みたいなパターンが長々と続く夢を見るのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_46.html

まあこれ、夢の中で首尾よくトイレを見つけてやれやれ、と用を足すようになっちゃったら……そのときは「アテント」みたいな介護用おむつのお世話になるときなのかもしれません。だから延々探し回っているうちが花なのかもしれませんが、あの一種の「じれったさ」が延々続く夢にちょっと疲れてしまうのです。

お年寄りがよく言うんですけど、歳を取ると「寝るのにも体力が必要」なんですよね。だから朝早く目が冷めてしまうし、若い頃のように休日はお昼近くまで爆睡なんてこともできなくなるのですが、私もこれからさらに体力が落ちてきてしまったら、トイレを探す夢を延々見るよりも頻繁に目が覚めてしまう「夜間頻尿」に行き着くのかもしれません。つまり今はまだ体力があるから、目覚めずに延々夢を見続けることができるのかなと。

う〜ん、トイレを探す夢を延々見続ける「じれったさ」もしんどいですが、夜中にたびたびトイレに行って眠れなくなるのはもっとしんどそうです。今のうちにせいぜい体力を養っておこうと思います。

能舞台の簡素さと能装束の豪華さ

伝統芸能の能って、舞台はあんなにも簡素なのに、なぜ装束(衣装)はあんなにもデコラティブなのか……そんなことを思いながら展示を見ました。新宿は甲州街道沿いにある文化学園服飾博物館で現在開催中の「能装束と歌舞伎衣装」という展覧会です(11月29日まで)。

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https://museum.bunka.ac.jp/

能をご覧になったことがある方はご承知の通り、能舞台には通常の演劇につきものの緞帳や幕などがなく(登場人物が出入りするところだけ、小さな幕があります)、大道具といえるような大掛かりな舞台装置はほとんどなく、小道具にしても必要最小限かつかなり抽象化されたシンプルなものが多いです。

例えば中国の皇帝が住んでいるような豪奢な宮殿にしたって、畳一畳分ほどの平べったい箱の上に、竹と布で組んだようなか細い屋根が乗っているだけ。海水浴場の「海の家」だってもう少し豪華なんじゃないかと思えるくらい簡素です。源頼朝武蔵坊弁慶といった錚々たるメンバーが乗り込む船にしても、まるで一筆書きで描いたような船の輪郭だけを模した作りで、しかもそれをひとりの登場人物が「電車ごっこ」みたいにして舞台に持ち出すのです。

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「the 能.com」さん「船弁慶」の項より。右側の四人が乗っている(というか入っている)のが「船」です。

ところが、その簡素極まりない舞台に登場する人物は、いずれも豪華絢爛かつ大胆不敵なデザイン。金糸銀糸でもって花鳥風月その他の模様をあしらったものや、モダンアートと見紛うような抽象模様もあり、一見地味に見える色彩のものでもよく見るととんでもなく精緻な模様が織り込まれているなど、とにかく「デラックス」な装束を身にまとっています。

しかもサイズがまたバカでかい。武将なんかが履いているズボン(袴)など、片方だけで脚が十本くらい入りそうなほどの幅があるのです。老女物など枯淡を極めたような曲(演目)の装束や、一番「地味」である狂言方の装束であっても、現代の私たちからすればずいぶん格式が高いというか、「上等そう」ないでたちです。

もちろん舞台芸術ですから、生身の人間が着の身着のまま登場したって面白くもなんともないのかもしれませんが、でも現代演劇ではごくごくフツーの格好で、メイクすらしないものもありますよね。私は能の持つこの「なにもない空間から始まってなにもない空間で終わる」という究極のシンプルな劇空間でありながら、登場人物だけが超ド派手……というギャップに、なんとも魅了されるのです。

素人考えですが、能が生まれた頃の中世はまだここまでデラックスな装束は少なかったのかもしれません。それが後に武家の式楽となり、各大名家お抱えのもと(上記の展覧会に出品されている装束も、旧井伊家の所蔵品です)、江戸時代の産業の発展などもあいまってここまで進化してきたのでしょうか。

ともあれ、現代の私たちは、LEDの大スクリーンやら、レーザービームやら、ミラーボールやらの照明装置に慣れていますし、ド派手で奇抜な格好だっていくらでも目にすることができますが、中近世の人々はこういう度外れた綺羅びやかさの能装束をまとった登場人物たちが登場するたび、どんな気持ちで眺めていたんでしょうね。

留学生版「通訳機械の反乱」

ずいぶん以前のことですが、こんなディストピア小説のプロットを思いつきました。機械通訳が高度に発達した未来で、各言語の母語話者がそれぞれの母語の内輪だけで思考するようになった結果、思考のブレイクスルーがなくなってどんどん言葉がやせ細っていき、何百年かの後にはコミュニケーションの手段が「咆哮」、つまり鳴き声にまで退化しちゃう……というものです。

しかしながら小説を書けるような文才はまったく備わっておらず、どなたかが作品にして日経「星新一賞」にでも応募してくださらないかしらと思っていたのですが、そうだ、これを毎年秋に学校の文化祭で上演している、留学生の日本語劇に用いてみようってことで台本を書きました。ただいま、鋭意稽古中です。

「ili(イリー)」や「POCKETALK(ポケトーク)」みたいな通訳機械を企業の面接で使っているという設定にして、面接に訪れた英語話者や中国語話者と日本語しか話せない日本企業の社員(ちょっと悪意がありますね)がやり取りをしているうちに通訳機械が暴走して……ってまあ、プロット自体は『2001年宇宙の旅』以来くり返されてきた人工知能の反乱モノですが、この喜劇で工夫してしてみたのは、通訳機械を擬人化して、生身の留学生自身に演じてもらうという点です。

我々の学校にはたくさんの留学生、つまり英語や中国語を始め、諸言語のネイティブスピーカーが揃っているんですから、この強みを活かさない手はありません。ただ、普通に生身の人間が登場して諸外語をしゃべっても「機械っぽくない」ので、小さな箱状のブースを作り、その中に入って機械的な音声を演じてみたらどうかと考えました。それで、こんな「ポンチ絵」(……ってもう死語かしら)を描いて、こんなのを作りたいので材料費の予算をつけてくれませんか、そしたら留学生のみんなで工作します、と学校側にかけあってみました。

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すると「うちの学校にこういうのの制作部門があるから、そこに頼んでみれば?」というお返事。えええ、そうなんですか。何年も勤めているのに初めて知りました。実はうちの学校、系列のいくつかの大学や専門学校が一緒になったキャンパス内にあるのですが、美術系やファッション系の学部もあって、そこではファッションショーや展示会などをよく開催しており、その際に使う舞台装置を外注ではなく自前で作っているんだそうです。

連絡をとってみると、さっそく担当の職員がやってきて、私の拙いポンチ絵に次々「ダメ出し」をされました。いわく「ここんとこは多分強度が足りないから補強が必要だな」「ここんとこの角はアール(丸み)がついてるけど、正確な寸法は?」「電飾を仕込むって言ってるけど、この穴の間隔はどうすんの?」……すみませんすみません。それで色々とこちらの意向を伝えたら「まあ、じゃあそういうイメージで作ってあげるよ。ついでに全体を白く塗っとくから」。後光が差して見えました。

それで、中三日ほどで出来上がってきたのがこれ(仕事早い)。電飾はAmazonでクリスマス用のLEDイルミネーションを買って仕込みました。中に三人ほど留学生が座って、通訳機械のスイッチが入ってないときは上半身をかがめた状態で待機し、スイッチを入れると機械音が流れて、上半身を起こすと同時に電飾がチカチカ光る……という演出にしました。

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この写真は稽古風景ですが、ちょっと場末のキャバレーみたいなのがチープでいいですねえ。あるフランス人留学生は「ムーラン・ルージュみたい」と言っていました。まあ基本はドタバタコメディですから、こういう雰囲気がぴったりです。でもこのお芝居には、言語が退化して「咆哮」に行き着いちゃうというシーンも盛り込んでシリアスな一面も持たせてみました。

そして最後は、二人の狂言回しによるこんなセリフで締めくくられます。

A:バベルの神話には、とても深い意味があると思いません?
B:というと?
A:人間の言葉がバラバラになったからこそ、人間はその言葉の壁を越えようとして必死に勉強してきたわけでしょ。
B:自分のところにはない優れたものを学ぶために外国語を勉強してきたんですね。
A:そう、それが結果として人間の文明を作り上げてきたわけですよ。
B:なるほど、異なるものを知ろうと努力した結果、人類の知は深まったと。
A:そう、知は差異に宿る、人々の多様性にこそ宿るんです。

人々の多様性をまんま体現しているような留学生諸君の演技に期待したいと思います。上演は11月3日と4日。上演時間が決まったらまたブログにエントリを上げます。

腰痛の本当の原因がわかってきた

若い頃からたびたび腰痛に悩まされてきました。いわゆる「ぎっくり腰」みたいな重い症状になったことが数回。そこまで重くなくても、何かのはずみで腰に痛みが走るとか、痛くはないけれども何となく腰が張っていて不快感があるなどはかなり頻繁に起こります。それで腰を守るために、しゃがむときには手を膝に当ててサポートするとか、重い物を持つときには姿勢に注意するなどの動作が習慣となりました。

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https://www.irasutoya.com/2013/09/blog-post_2890.html

腰痛の原因は様々で、例えば椎間板ヘルニアのように身体の器質的な病変の場合はまた違う対処が必要なようですが、私の場合は骨や関節に問題があるわけではなさそうです。以前は骨がずれているとか関節が傷んでいるとか、漠然とそういうイメージで腰痛を捉えていて、だから整体や整骨やカイロプラクティックみたいな治療院にもずいぶん通ったのですが、慢性的な腰痛は一向に去ってくれないのでした。

ところが、男性版更年期障害ともいうべき不定愁訴の改善を目指して通い始めたジムで、体幹レーニングや筋トレをやっているうちに、まず長年健康診断の胸部レントゲンで所見が必ずついていた「脊柱側弯症」が治りました。さらにパーソナルトレーニングで「腰痛改善」を念頭に置いて指導してもらっていたところ、だんだん自分の身体の使い方の「癖」みたいなものが明らかになってきたのです。

私の場合、腰痛は骨盤の少しうえあたり、それも左側によく起こるのですが、ここには広背筋という大きな筋肉が走っています。複数のトレーナーさんの見立てによると、私は身体の使い方、しかも行住坐臥すべての身体の使い方において広背筋に無理な負担や緊張をかけるような動きになっていて、それがたびたび起こる腰痛の主な原因なのではないかというのです。

左側に偏って腰痛が起こりやすいのも、身体の使い方が左右で異なっている、つまり左右で「癖」の違いがあるからではないかと。実際、様々なトレーニングをやってみると、全く同じ動作なのに左右で可動域が全く違ったり、痛みや突っ張りなどの不快感の度合いが違ったりするのです。これ、ひとりでやっていても自分の身体の各部位がどこまでどんなふうに動いているかはなかなか分かりにくい。パーソナルトレーニングで細かく動きをチェックしてもらってはじめて、自分でも「あ、確かに動いていない」と実感できる部分がたくさん見つかりました。

そのうえで、日常の様々な動作における身体の使い方や注意するポイントなどを指導してもらって、それをなるべく意識しながら暮らすようにしています。畢竟、無意識のうちにアンバランスな身体の使い方を続けているうちに、その歪みが集中する場所で体の部位が悲鳴を上げ、痛みとなって現れる――それが腰痛ということになるのでしょう。

というわけで現在、オフィスで椅子に座る姿勢や、階段を降りる時の重心の落とし方、さらには歩く時の姿勢などにも注意しつつ、これまでについた「癖」を取り除くように努力しています。腰痛は単に腰だけの問題ではなく、全身の使い方にリンクしている問題だったわけです。そう考えると、腰痛になったから腰に湿布を貼るとか、コルセットを巻くといった対症療法は、少なくとも私の場合はほとんど意味がないということになります(まあ炎症を起こしている筋肉を鎮めるといった程度の効果はあるかもしれませんが)。

こうした歪みや「癖」は、整体や整骨やカイロプラクティックでもそれなりに改善させることはできるのでしょうけど、それよりも自分の身体を自分できちんと使えるようにすることのほうがより重要だと思います。以前にも書きましたが、身体の不調は、自ら能動的に動く・動かすことでより改善に近づくというのを改めて感じているところです。

qianchong.hatenablog.com

チヂミ大好き

韓国料理でポピュラーな「チヂミ」は雨の日に焼くのがいいんだそうですね。同僚の韓国人がそう教えてくれました。なんでも、チヂミを焼いている「ジジジ……」という音が雨音に似ているからなんだとか*1。雨の日はゆっくりチヂミでも焼いて、マッコリをちびちび飲むのがなんとも風情があるの、とその同僚は言っていました。うわあ、ちょっくらマッコリ買いに行ってくる!

ふだんからチヂミをよく作ります。これまではネットなどの情報を参考にしながら自分で小麦粉から生地を作っていたんですが、あるとき地下鉄の車内でこんな広告を目にしました。GOSEIさんの「宋家秘伝チヂミ粉」の広告です。

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http://www.go-sei.co.jp/whatnew/2445.html

ちょっとちょっと、この「桜エビ入り水菜チヂミ」ってのが、特においしそうじゃありません? というわけで仕事帰りにスーパーに寄ったら、この「チヂミ粉」が売られていました。当然その場で桜エビと水菜も買い込み、早速作ってみたわけです。

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おいしいです〜。何度か作ってみましたが、生地を桜エビと水菜の「つなぎ」程度に少なくして焼くのが、必要以上に「ぼてっ」とせず、表面がカリッとするコツみたいです。お好み焼きも大好きですけど、このチヂミも軽い味わいでいいですね。

すっかりチヂミにはまってしまったので、韓国人の同僚に「チヂミにおすすめの具材は?」と聞いてみました。彼女いわく「ズッキーニと玉ねぎをそれぞれ千六本に切って、小さく刻んだイカやタコを入れたもの」だそうです。それ、今度やってみます。

それから、ソウル出身の彼女によると、「チヂミ」というのは韓国南部の言い方で、こうした料理全体の総称としては「ジョン(전)」が標準的だそうです。漢字では「煎」ですよね。中国語も、こうやって少量の油で両面をきつね色になるまで動かさずに焼くことを“煎(jiān)”と言います。こういう「粉もん」は、本当に大好きです。

日本で「チヂミ」という呼称が人口に膾炙した理由は分かりませんが、独立行政法人統計センターが2011年まで公開していた都道府県別本籍地別外国人登録者数における本籍地情報統計によると(2012年からは統計がなくなりました)、在日韓国人の方々の本籍地で一番多いのが南部の「慶尚南道」と「慶尚北道」で、この二道で全体の半数近くを占めています。それでこの地方の言い方である「チヂミ」がいち早く日本でも定着したのかもしれませんね(勝手な想像です。お詳しい方、ぜひご教示ください)。

*1:Wikipediaには「荒天時は買い物が面倒なため、家に常備した小麦粉で食事を調えるという意味合いもある」と書かれていました。