インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

退化を空想していたら現実はその先を行きつつあった

華人留学生の通訳クラスではいま、日本語の成語や慣用句やことわざを学んでいます。中国語もこうした言葉は豊富ですが(というか、中国から入ってきたものが実に多い)、それらを引き比べて覚えていくと、双方の文化の違いや言語表現の発想の違いが分かってとても面白いのです。「なるほど、あちらさんはこういう森羅万象の切り取り方をするのか〜」という「マクロな言語観」とでもいうものがじわ〜っと染みてくる。

例えば「重箱の隅をつつく」は中国語では“雞蛋裡挑骨頭(卵の中に骨を探す)”とか“吹毛求疵(毛を吹き分けてキズを探す)”などと言います。また「案ずるより産むが易し」とか「成せば成る」は“車到山前必有路(山の麓に行ってみれば必ず道は見つかる)”とか“船到橋頭自然直(船は橋のたもとにつけば河の流れに従って自ずから真っ直ぐになる)”。もちろん他にも表現の方法はいろいろとありますが、同じ暮らしの知恵、或いは人生の機微みたいなものを、それぞれこういうふうにとらえるのか〜と興味は尽きません。

また中国語の成語には汲めども尽きぬ魅力をたたえたものが少なくありません。私が好きなのは例えば“蜻蜓點水”。トンボが水面に産卵するとき、尾っぽだけをちょんちょんと水につけながらホバリングしますよね。そこから「物事の上っ面だけをなでるように学ぶ」とか「深く掘り下げない」ことを表します。

また“餘音繞樑”は、音楽や歌声が美しくて味わい深いことを指します。「余韻が梁をめぐる」という形容がなんとも詩的でヴィヴィッドではありませんか。“大智若愚”も好きな言葉です。日本語にも「大知は愚のごとし」と入っていますが、あまり人口に膾炙していませんね。本物の賢者はその賢さをひけらかしたりせず、逆に一見愚か者にみえるくらいだ、と。たった四文字だけでこの味わい。中国語を学んでよかったと思える瞬間です。

すべてが「ヤバイ」に収斂していく

ところで、成語や慣用句などの入った中国語の発言を日本語に訳してもらうとき、適切な、あるいは細かな日本語の表現が思い浮かばないと、いきおいざっくりとした訳出になることに気づきました。その成語や慣用句などが“褒義(ポジティブな語義)”であれば「すごい」、“貶義(ネガティブな語義)”であれば「ひどい」一択になってしまうのです。ある意味仕方がありませんし、だからこそ対にして「定訳」を覚えていく意味もあるのですが、ふとこれが昂進すると両方「ヤバイ」になるのかな、と思いました。

他樂於助人,真是名副其實的大善人。
彼は進んで人助けをして、ほんとにヤバイです。


他是個表裡不一、名不副實的人,你可別太相信他。
彼は表裏があってヤバイから、信じちゃいけないよ。

う〜ん、昨今は美しい風景を見ても、カッコいい服を見つけても、美味しい物を食べても、血圧が上がっても、雨が降りそうなときも、出席率が足りなくて単位を落としそうなときも、ぜんぶ「ヤバイ」で済ましちゃいそうな勢いです。であれば、こうした言葉がどんどんやせ細っていく流れに対抗して、成語や慣用句などを一対一で覚えるよりむしろ、千言万語を費やしてその意味を説明する方がいいのかもしれません。特に自分の母語にはない発想のもの、あるいは母語にしかない発想のものを別の言語で表現することそのものが知的訓練になるのではないかと。

たとえば“雪上加霜”を「泣きっ面に蜂」と訳すだけでこと足れりとせず、積雪の上に降霜することの大変さや「まいったなあ感」をいろいろな言葉を動員して説明するのです。そのほうがよほど日本語の訓練になるのではないかと思いました。千言万語を費やして語るのは楽しいはずです……よね?

言葉が退化する(かもしれない)未来

そんなことをつらつらと考えているうちに、「機械翻訳が高度に発達した未来で、各言語の母語話者がそれぞれの母語の内輪だけで思考するようになった結果、思考のブレイクスルーがなくなってどんどん言葉がやせ細っていき、何百年かの後にはコミュニケーションの手段が咆哮にまで退化しちゃう」というディストピア小説のプロットを思いつきました。

以前、今後機械翻訳が飛躍的に進歩して、異言語や異文化に対する興味も警戒も共感も反感も怖れも憧れも単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界が登場したら、知は深められて行かないのではないかという空想をしたことがあるのですが、深められないどころか退化しちゃうという妄想です。

qianchong.hatenablog.com

「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いですよね。バラバラになった差異を乗り越えようとして、人類は知を豊かにしてきたわけですから。知は差異に宿るわけです。それが差異を全く感じさせないほどまでに成熟した機械翻訳に全て取って代わられたら、これはもう神のご意志に背くわけで、さしずめ逆バベルの塔、あるいはバベルの井戸とでもいったところかな。

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まあそんな単純な未来はきっと訪れないと思いますが、子供を幼児期から不用意に多言語環境に置き、結果いわゆる「ダブルリミテッド」になってしまったとおぼしき生徒に数多く接してきた(今も接している)私は、母語の十全な寛容を軽視して半ば無軌道に早期英語教育に奔走しようとしている現在の状況を憂いつつ、ひょっとしたら知の退化は起こりうるかもしれないと思っています。

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追記

ここまで「下書き」に書いておき、日が改まった今朝、Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきました。

これはすごい。武田砂鉄氏は『日本の気配』で安倍首相や管官房長官の答弁について「この方々は日本語の限界に挑んでいるのであろうか」とおっしゃっていましたが、ここまでくるともう「限界に挑む」というよりハッキリ「退化」ですよね。言葉が、言語が、思考が溶解しています。ひと頃よく言われた「言語明瞭意味不明」でさえありません。

現実は、私の三文ディストピア小説のプロットなどよりはるかに先を行こうとしているのかもしれません。