インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「スクラムユニゾン」に対する若干の違和感

先日、夕飯の支度をしながらテレビをつけていたら、ニュース番組で「スクラムニゾン(Scrum Unison)」という活動が紹介されていました。現在日本で開催中のラグビー・ワールドカップの試合前に、対戦相手国の国歌を一緒に歌うという「おもてなし」の一環なのだそうです。YouTubeには参加各国の国歌が言語とカタカナ、そして和訳の字幕つきでアップされており、それをみんなで練習して、試合当日の国歌斉唱で歌い、相手国に対する敬意を示そうという活動のようです。

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rugby-rp.com

他国の国歌を、その国以外の人々が歌って敬意につながるのかどうかは分かりませんが、それはさておき、ニュースではこの活動に参加されているお一人の日本人が「海外でも『君が代』を歌ってもらったらうれしいから」とおっしゃっていました。私はここに若干の違和感を覚えました。日本の国歌とされている「君が代」は、他の国歌と同列に語ることができないないからです。言うまでもありませんが、それはかつて侵略の道具として使われた歴史を持っています。国旗とされている「日の丸」や、2020年東京五輪の大会組織委員会が会場への持ち込みを禁止しないと表明して物議を醸している「旭日旗」も同様です。

今回のラグビーワールドカップ参加国の中には、かつての戦争で日本と関わりのあった国々が多く含まれています。例えば英国やオーストラリアにしても、多くの捕虜が犠牲になった「サンダカン死の行進」など、長く癒えることのない傷跡を日本は残してきたのです。それも「君が代」や「日の丸」や「旭日旗」のもとで。先日試合が行われたサモアだって、大東亜共栄圏の拡大を目論む日本が攻略を目指して作戦を立案していた国です。
ja.wikipedia.org
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こうした歴史を踏まえれば、たとえ平和な現代に行われるラグビーの国際試合であっても、「君が代」を歌ったり歌ってもらったりすることに、少なくとも私たち日本人は無邪気に喜んでいる場合ではないんじゃないかと思うのです。いくら国内法で正式な国歌と定められているからといって、それでこの歌にまつわる歴史的な経緯が帳消しになるわけではありません。

手垢のついた議論と思うかもしれません。でも一度深呼吸して冷静になり、立場を変えて考えてみてください。かつて自分の国を侵略してきた、あるいは侵略しようとした国家が敗戦後もなお同じ国歌を歌い続け、同じ国旗を掲げ続けていると知ったら、やはり心穏やかではいられないでしょう。

日本の私たちは、戦前からひと続きの同じ国歌や国旗を用い、それを国威発揚の手段として使っていることに対してもう少し恥を知るべきです。それに、そもそもラグビーは国籍主義を取っていないんじゃなかったですか? だったらここに国歌を持ち込んで敬意だの「おもてなし」だのと語ること自体に、あまり意味はないんじゃないかと思うのです。

実はサモア戦の直前にも夕飯の支度をしながらテレビをつけていたのですが、試合前にサモアの選手が行う「シヴァ・タウ」という「ウォークライ(闘い前に上げる鬨の声)」について、アナウンサー氏は「チームを鼓舞し、相手への敬意を込めます。かつてサモアを侵略しようとした国に対して、団結する姿勢と独立心を示すために始まったとも言われます」と解説していました(動画:1分48秒頃から)。たぶんアナウンサー氏は全く意識されていなかったと思いますが、これはシャレにならないですよ。だって上述したように、日本はまさにその「かつてサモアを侵略しようとした国」なんですから。

いつまで戦争責任云々と言っているんだ、いつまで謝罪し続ければいいんだ、という声もあるでしょう。私だって、戦後の日本がそれなりに謝罪あるいは補償や賠償を行い、戦後の平和な世界の構築に対して貢献をしてきた歴史を否定するものではありません。ただ私たちは、先人の起こしたこの負の歴史を、まだ完全に乗り越えてはいません。かつて加藤典洋氏が『敗戦後論』で指摘されたように、自国の戦没者をきちんと弔うことすらできておらず、さらには侵略したアジアを始めとする諸国との関係もねじれたままです。

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敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

「おもてなし」の精神やよし。ラグビーのワールドカップを通して他国への敬意と自国への誇りを胸に刻むのもよいでしょう。でもそうした、どこか高揚した気分のうちにも、私たちは冷静に侵略の歴史を受け止め、いまだに戦後をうまく処理できていないこの国に対する、諸外国からの冷ややかな視線を意識すべきではないかと思ったのです。

加藤典洋氏はまた『戦後入門』でこう書かれています。

相手からの敬意、尊敬は、自分が相手に、あるいは国際社会に対し、「悪」と見なされる行為をしたばあいには、それをしっかりと謝罪し、その謝罪の意思を受け止めてもらうことからしか、生まれません。

そして、憲法九条に一指たりとも触れぬという護憲とは一線を画し、ご自身の示した改憲案における「非核条項」に関連して、こう述べるのです。

それは日本の被爆体験をはじめて戦後の国際社会の秩序のなかに組み込む意味をもっています。そこで日本は、これらの積極的な国際社会への関与を背景に、米国に対して、戦後はじめてとなる原爆投下に対する抗議と、謝罪要求を行うのがよいというのが、私の考えです。このことは「謝罪」を要求し、要求されること、またこれに誠実に応じ、あるいはそれから逃れようとすることが、国際関係のなかでどういう意味をもつことであるかを、私たちに教えるでしょう。


この謝罪要求には、当然ながら、これまで他国からなされている日本への謝罪要求に誠実に応じるという行為が先立たなければなりません。すなわち、中国からの南京虐殺事件等をめぐる謝罪要求、韓国からの従軍慰安婦問題等をめぐる謝罪要求に、正当な謝罪を含む誠実な対応と、侵略の事実をしっかりと認めたうえでの二度と同じ過ちをくり返さないための施策の提示を行う必要があります。

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戦後入門 (ちくま新書)

私はここに、とても前向きで明るい未来を見出すものです。これからの日本がこの課題をきちんと克服できたあかつきには、スクラムニゾンもその意義をぐっと増すに違いありません。もっともその際に日本が採用している国歌がどのようなものであるべきかは……自明のことですよね。