ずいぶん以前のことですが、こんなディストピア小説のプロットを思いつきました。機械通訳が高度に発達した未来で、各言語の母語話者がそれぞれの母語の内輪だけで思考するようになった結果、思考のブレイクスルーがなくなってどんどん言葉がやせ細っていき、何百年かの後にはコミュニケーションの手段が「咆哮」、つまり鳴き声にまで退化しちゃう……というものです。
しかしながら小説を書けるような文才はまったく備わっておらず、どなたかが作品にして日経「星新一賞」にでも応募してくださらないかしらと思っていたのですが、そうだ、これを毎年秋に学校の文化祭で上演している、留学生の日本語劇に用いてみようってことで台本を書きました。ただいま、鋭意稽古中です。
「ili(イリー)」や「POCKETALK(ポケトーク)」みたいな通訳機械を企業の面接で使っているという設定にして、面接に訪れた英語話者や中国語話者と日本語しか話せない日本企業の社員(ちょっと悪意がありますね)がやり取りをしているうちに通訳機械が暴走して……ってまあ、プロット自体は『2001年宇宙の旅』以来くり返されてきた人工知能の反乱モノですが、この喜劇で工夫してしてみたのは、通訳機械を擬人化して、生身の留学生自身に演じてもらうという点です。
我々の学校にはたくさんの留学生、つまり英語や中国語を始め、諸言語のネイティブスピーカーが揃っているんですから、この強みを活かさない手はありません。ただ、普通に生身の人間が登場して諸外語をしゃべっても「機械っぽくない」ので、小さな箱状のブースを作り、その中に入って機械的な音声を演じてみたらどうかと考えました。それで、こんな「ポンチ絵」(……ってもう死語かしら)を描いて、こんなのを作りたいので材料費の予算をつけてくれませんか、そしたら留学生のみんなで工作します、と学校側にかけあってみました。
すると「うちの学校にこういうのの制作部門があるから、そこに頼んでみれば?」というお返事。えええ、そうなんですか。何年も勤めているのに初めて知りました。実はうちの学校、系列のいくつかの大学や専門学校が一緒になったキャンパス内にあるのですが、美術系やファッション系の学部もあって、そこではファッションショーや展示会などをよく開催しており、その際に使う舞台装置を外注ではなく自前で作っているんだそうです。
連絡をとってみると、さっそく担当の職員がやってきて、私の拙いポンチ絵に次々「ダメ出し」をされました。いわく「ここんとこは多分強度が足りないから補強が必要だな」「ここんとこの角はアール(丸み)がついてるけど、正確な寸法は?」「電飾を仕込むって言ってるけど、この穴の間隔はどうすんの?」……すみませんすみません。それで色々とこちらの意向を伝えたら「まあ、じゃあそういうイメージで作ってあげるよ。ついでに全体を白く塗っとくから」。後光が差して見えました。
それで、中三日ほどで出来上がってきたのがこれ(仕事早い)。電飾はAmazonでクリスマス用のLEDイルミネーションを買って仕込みました。中に三人ほど留学生が座って、通訳機械のスイッチが入ってないときは上半身をかがめた状態で待機し、スイッチを入れると機械音が流れて、上半身を起こすと同時に電飾がチカチカ光る……という演出にしました。
この写真は稽古風景ですが、ちょっと場末のキャバレーみたいなのがチープでいいですねえ。あるフランス人留学生は「ムーラン・ルージュみたい」と言っていました。まあ基本はドタバタコメディですから、こういう雰囲気がぴったりです。でもこのお芝居には、言語が退化して「咆哮」に行き着いちゃうというシーンも盛り込んでシリアスな一面も持たせてみました。
そして最後は、二人の狂言回しによるこんなセリフで締めくくられます。
A:バベルの神話には、とても深い意味があると思いません?
B:というと?
A:人間の言葉がバラバラになったからこそ、人間はその言葉の壁を越えようとして必死に勉強してきたわけでしょ。
B:自分のところにはない優れたものを学ぶために外国語を勉強してきたんですね。
A:そう、それが結果として人間の文明を作り上げてきたわけですよ。
B:なるほど、異なるものを知ろうと努力した結果、人類の知は深まったと。
A:そう、知は差異に宿る、人々の多様性にこそ宿るんです。
人々の多様性をまんま体現しているような留学生諸君の演技に期待したいと思います。上演は11月3日と4日。上演時間が決まったらまたブログにエントリを上げます。