インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

何のための語学?

Twitter阿部公彦氏(@jumping5555)が公開されていた「英語はしゃべれなくていいは珍説か」にひかれて、『アステイオン』082号を買いました。阿部氏の文章の他にも興味深い論考がたくさんあって楽しかったのですが、なかでもトマーシュ・ユルコヴィッチ氏の「母語は世界言語によって磨かれる」は、すべての外語学習者にとって示唆に富む内容だと思いました。


アステイオン 82 【特集】世界言語としての英語

ユルコヴィッチ氏いわく、「『別世界』を知り、意識することがこそが、外国語を学ぶ者に与えられる最も重要なことがらであると思う」。外語を使ってこれまで知らなかった世界に足を踏み出し、コミュニケーションを取れるようになることも魅力的ですが、それ以上に自分の内側に新たな意識を生み出せることが語学の最大の「実利」なんですよね。

その意識は、それまでの自分を否応なしにゆさぶり、変質させていきます。「外語を学んで使っている時の自分は性格が変わっているような気がする」というのは語学の仲間内でよく聞かれることなのですが、私はそれだけでなく、外語を学んだあとは母語を使う時の自分もそれまでの自分とは違っているような気がするのです。

ユルコヴィッチ氏は、「その他にも、別の言語を学ぶことでもたらされるのは、これまで考えついたり知ることもなかった、身の周りの現実に対する新しいまなざしであったり、新しく、豊かな価値ある経験などもあろう」と書いています。こういう明哲の言葉に接すると、世上よく聞かれる、外語を学んで「ペラペラ」に、という形容の何と皮相なことかと思いませんか。

さらに「ある意味では、単一の言語という基準のみで動いている世界など、つまらなくてうんざりするものだし、自分のことにしか関心がない閉じた世界と言える」とも。これは日本の我々がいま問われている大きな課題だと思います。良くも悪くも巨大な(ほぼ)単一の言語で社会を回していくことができる我々の。

私が職場で日々接する留学生のみなさんを見ていると、日本語と母語の二つの言語(留学生ですから当然ですが)以外にも、母語の中に標準語と方言が包摂されていたり(例えば中国語の“普通話”と“家郷話*1”とか)、国の公用語が複数あってそのどれにもアクセスできたり、さらには英語も使えたりと、めくるめくようなマルチリンガルの世界に生きています。

そんな留学生の皆さんに接して、英語一辺倒で早期教育とか、早期教育による日本語への影響とか、就職のための語学とか、アジア諸言語に対する抜きがたい偏った見方とか、それをめぐる議論で堂々めぐりをしているようにも思える私たちの現状は、これはもう本当に卒業しなきゃいけないなと思います。でもこの議論、本当に百家争鳴で、とても収拾がつきそうにありません。

夢物語ではありますが、私自身は、早期から子供に外語教育を行うのはもう少し慎重にして(つまり楽しく音になじむ程度にして、早くから「実利」を意識させない)、まずは母語である日本語を豊かにすることに注力しつつ、そも母語と外語を行き来するとはどういうことかというリテラシー教育を歴史や地理などの科目と絡めながら進めるのがいいなと思っています。

そののち、必要になった人が必要になった段階から今以上に比重をかけて外語の特訓を行い(エリート教育という批判が出るでしょうけど)、全国民が外語(特に英語)を話す必要はないという現実に即した選択をしたほうがよいと思います。そして、英語だけでなく様々な言語を学べるようにし、学ぶように勧めるのです。その際に、外語を学ぶのは「将来それを使って稼げる」というような理由を第一に持ってくるのではなく、上記の論考でユルコヴィッチ氏がおっしゃるような、新しいまなざしや価値ある経験を得るためのものと位置づけるのです。

国民がそれぞれ、様々な言語を学んで、様々な新しいまなざしや価値ある経験を獲得していけば、総体として豊かな多様性を内包した活力ある社会になるんじゃないかと思うのですが……あまりに楽観的かつ空想的に過ぎますかね。

とりあえず、語学はゼニカネのためじゃなくて、新しいまなざしや価値ある経験を得るためだというのを自ら実践するため、いま「マイブーム」であるフィンランドの言語を、この春から学んでみようと思っています。自分がまたどのように変容するか楽しみです。変容するくらいまで学習が続くといいんですけど。

*1:故郷あるいは先祖代々の土地にまつわる方言。