インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

FIRE

今朝の新聞に「FIRE」を目指す人々のお話が載っていました。FIREとはご案内の通り、“Financial Independence, Retire Early(経済的自立と早期退職)”のことです。給与収入に頼らずとも資産の運用益などで暮らしていける状態を達成すべく、とくに若い世代のなかに目指そうとする方が増えているというお話でした。

一時期「セミリタイア」という言葉がもてはやされましたけど、この言葉から連想される40代や50代の中年以降の早期退職どころではなく、20代や30代からFIREを実現して自由な暮らし・あくせく働かなくてもいい暮らしを実現しようということですね。

私、このFIREとは全然違うんですけど、大学を卒業したときにまさに「自由な暮らし・あくせく働かなくてもいい暮らし」にあこがれて就職をせず、熊本県の田舎で農業のまねごとを始めました。晴耕雨読の生き方を目指そうとしたわけです。もっとも実際には就職をしないんじゃなくて就職できなかっただけですし、FIREを目指す方々のような資産などまったく持っていない状態での無謀な冒険でした。

なおかつ、それまで都会でしか暮らしたことのなかった私にとって、田舎の閉鎖性はまったくの想定外でした。資産がうなるほどあって、地域社会とはまったく隔絶されたような環境を構築できるのであればまだしも、そうしたものがなにもない人間がぽんと地域社会に飛び込んでも、相手にされるわけはありません。

もちろんこれはもう数十年前の状況ですから、当時よりさらに過疎化・限界集落化が進んだ現代の地域社会では逆に大歓迎されるのかもしれません。もちろん地域によっても様々な違いがあると思います。でも当時私が悟ったのは、暮らしのコストが高く、ストレスも大きい大都会での暮らしが実は懐の広いものであるのかもしれないということ、その規模や多様性ゆえに様々な属性の人間が生きて行きやすい空間であるのかもしれないということでした。

新聞記事の最後に載せられていた、記者のひとことが心に残りました。

ただ、ファイア側の人に忘れてほしくないのは、世の中にはファイアできない人も多数いて、その人たちの現実の働きによって、自らの生活が成立していること。

そうなんですよね。自分ひとりで完結できているように思えるライフスタイルも、よくよく考えてみると大きな社会の中における相互依存や協調の網の目の中で生かされているのだということが分かります。アルムの山の上で孤高の暮らしをしているように見えるハイジのおじいさんだって、時々村に降りてきてはチーズを売り、それなりに交易をしていたのです。

これも昨今もてはやされている「ミニマリズム」のライフスタイルだって、社会インフラへの依存なくしては考えられない、つまりミニマリストお一人の中でそのライフスタイルは完結しているものではないという指摘がありますよね。

件の記事には、すでに30歳でFIREを実現したという方のこんな言葉がありました。「ファイアは働かないことではない。社会に対する責任を忘れてはいけない」。その通りだと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_392.html