著者とのご縁、というようなものがあるようでして、世上の評判高く、複数の知人友人からも「とてもいいですよ」と勧められて読んでみるものの、どうしても肌の合わない本やその著者という存在はあります。批評家で随筆家のR氏も私にとってはそんなお一人で、これまでに数冊購入して読んできましたが、なぜかどれも途中で読むのをあきらめてしまいました。
今回もとある新聞の書評欄で紹介されていたのに興味をそそられて、氏の近著を拝読してみたのですが、どうしても言葉が上滑りしているような感じが抜けなくて、私の心には響きませんでした。やはりご縁がないものとあきらめてかけていたところ、こんな一節がありました。「あいにく、私は料理がほとんどできません」。そのすぐ後には、本の選択肢があまりにも多くなりすぎてしまった現代という文脈で、このようなことも書かれていました。
空腹を満たす食べ物を見つけるのはむずかしくありません。しかし、からだの糧になるような食事とは何かが見失われ始めています。『食べる』という基本的な営みにおいてすら、こうした状況なのですから、どんな本を読み、どんな言葉に出会うべきかが分からなくなっても不思議はありません。
おっしゃることはとてもよく分かるのです。けれど、これはほとんど偏見や言いがかりのたぐいだと自分でも思いつつも、自分では料理ができないと言い置きながら(つまりは他の人に作ってもらっている)「からだの糧になるような食事とは何か」とか「『食べる』という基本的な営み」などとおっしゃるところに、なんともいえない「もやもや」を感じてしまいました。
以前にも書いたことがありますが、とある気鋭の評論家Y氏という方がいて、私はその方がネットで発表している社会論にとても共感していました。でもある対談で、ご自身がほとんど料理をせず「普段は外食依存の食生活」をしているとおっしゃっているのを読んで、とても意外に思いました。
もちろん人それぞれ、仕事や暮らしの状況は違うのですから、自分は料理はしない・できないという方もいるでしょう。でもその方はふだん、人間と自然の関係、都市と農村の関係、ネットと新しい人間関係などについて果敢に論じておられる。なのにその人間が生きることの根本にある(食べないで生きていくことはできません)食事作りを軽視している、あるいはその大切さに気づかれていないというのが、私にはどうしても解せなかったのです。
料理研究家の土井善晴氏は『料理と利他』でこんなことをおっしゃっています。
人間は食事によって生き、自然や社会、他の人々とつながってきたのです。食事はすべてのはじまり。生きることと料理することはセットです。
繰り返しになりますが、炊事をはじめとする家事のありようは人によって、家庭によって異なるでしょう。誰もが自分で食事をあつらえる必要はないのかもしれません。さらには向き不向きというものもあります。
とはいえもはや「男子厨房に入らず」の時代でもありません(上述のお二人はどちらも男性です)。身体的にかなわぬわけでもないのに料理や炊事を等閑視して、しかもそれをあまり大きなものとして捉えておられない、そこがとても不思議に感じられるのです。どんなに自身の本業が忙しくても、その本業を成り立たせるベースのところで炊事などの家事をこなしている方は大勢います(そしていまのところ、それがなぜか女性に過分に割り当てられています)。
約40年も前に書かれた田辺聖子氏のエッセイ「ラーメン煮えたもご存じない」には、インスタントラーメンひとつ作るにも大騒ぎする男性をユーモアをたたえながら描写したあとで、こんな辛辣な一段があります。
いくら四十男だからって、いくら会社で部長の何の、といわれてるからって、ラーメンのつくり方ぐらい、おぼえておけ。戦争にでもなったらどうする。(中略)ほんとに、今どき、ラーメン煮えたもご存じない文化人は、困るよ。
40有余年にわたって、男たちは(と性別で括るのももはや意味をなさないかもしれませんが)あまり変わってこなかったのかなと思います。少なくともきょうび、「料理ができない・料理をしない」というのをしれっと書けてしまうということ自体、それってどうなのーーそういう視点を少しは持ってもいいのではないか、そんなことを思いました。