インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

料理と利他

土井善晴氏と中島岳志氏の『料理と利他』を読みました。出版社の企画で行われたオンラインイベントを書籍化したもので、基本的にはお二人の対談です。私は対談本にあまりいいイメージを持っておらず、それは単に対談を文字に起こしただけで、文字数の割には深みがなかったり話題が散漫だったりしがちだからなのですが、この本は別格でした。話題は料理から暮らし全般、はては地球全体の環境にまで及び、特にコロナ時代ならではの哲学的思索を促してくれる、示唆に富む一冊でした。

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料理と利他 (MSLive!Books)

土井善晴氏といえば、「油揚げは日本のベーコン」とか「なんでもマヨネーズかけたらだいたいうまい」とかの至言が個人的に膝を打ちまくりで、大ファンの料理研究家です。特に氏の『一汁一菜でよいという提案』は、家庭料理と暮らしや自然、はては人生との関係にいたる深い哲理を淡々とした筆致で語る名著でした。その哲理が、今回の『料理と利他』でもとてもわかりやすく披露されています。

興味深い話題はいくつもあるのですが、特に自らの感覚を大切にする方法としての日々の家庭料理、という視点に深く共感しました。これは日々買い物をして料理を作る中で常に感じていることですが、炊事は、その流れ全体が細かな感覚と、その感覚を使った判断の繰り返しで成り立っているんですよね。

いえ、なにもプロの料理人が作るような凝った料理のことを言っているのではありません。また「男の料理」みたいなホビー的料理のことでもありません。ごくごく普段の、それこそありあわせの材料で、それも忙しい時間の合間を縫って作るような料理においてこそ、そのすべてのプロセスが細かな感覚で支えられているように感じるのです。逆にその感覚を活かせない炊事は、とたんにつまらなく苦しいものになり、その結果、美味しくもなくなるというか。

中島 土井先生がおっしゃっていることで非常におもしろかったことは、献立というのは料理名から入るのではないと。その日の天気、気分、体調、素材から今晩なにをつくろうかというのを考えていく。(中略)私たちはどうしても、このレシピでこれをつくるんだということで身構えて、それでものを買いに行くと見えなくなるものがあるかもしれないんですね。


土井 先に結果を考えていると、自分の感覚所与をほとんど使わない。結果がレシピのようなもので決まっているとしたら、それは料理をしているということになるのかということですよね。(中略)なにかに頼った瞬間に自分はサボりだす。(中略)レシピどおりに作ったとしたら、それは七〇点以上にはならない。自分の感覚を使いながらつくると、一〇〇点、あるいは一二〇点のものが出てくる可能性もある。(111ページ)

料理においては「感覚所与(難しい言葉ですが、ここでは自分の感覚が最初に受け取ったものを大切にする、感覚を信じるという意味で受け取りました)」が大切だというこの部分は特に同感です。

私の場合、日々の献立は冷蔵庫の残り物の記憶とスーパーで出盛りのもの、特に新鮮なものとの兼ね合いで決めることが多いです(もちろん時には「今日はもう絶対に餃子を作ろう」と思ってスーパーに行くこともありますが)。何十年も買い出しをしていると、今日はどれが新鮮で「買い」なのかが分かるようになります。野菜のちょっとした色やハリ、肉や魚の色味や切り口などの本の微細な情報をほとんど無意識のうちに見定めて買っている。逆に、料理やメニューを決めて買い物に行くと、新鮮ではないのに渋々買い求めたりして、ろくなことになりません。

また料理を作っているときにも、温度の調整や味付けの分量や、洗い方、切り方、混ぜ方、それに複数の料理を同時並行的に作っているときの時間の配分……もう無数に自分の感覚を使って細かい判断を重ねています。それらはもうすでに身体に馴染んでしまっていて、感覚を使って判断しているとさえ自覚できないほどですが、日々の料理を繰り返すことで、つねに自分の感覚をリファインしているように私には思えるのです。このあたりのことを土井氏は「自分の無限の経験と今目の前にあるものから受ける刺激を重ねて悟性がはたらくんです」とおっしゃっています。

日々の食事作りをことさらエラそうに語るつもりはありませんが、少なくともこの営みは、人がどうより良く行きていくかについての健全な感覚のベースを作ってくれるものだと確信しています。だからできるだけ加工食品や外食やコンビニ食品に頼ることなく、素材から自分の手と感覚を経て一つ一つの料理へと変化させていくプロセスの中で、人間らしい感覚を維持し続けたいと思うのです。

名前は出しませんが、とある気鋭の評論家がいて、私はその方がネットで発表している社会論にとても共感していました。でもあるとき、ご自身が対談の中で、ほとんど料理をせず「普段は外食依存の食生活」をしているとおっしゃっているのを読んで、驚きました。もちろん人それぞれ、仕事や暮らしの状況は違うのですから、自炊はしない・できないという方もいるでしょう。でも普段あれだけ人間と自然の関係、都市と農村の関係、ネットと新しい人間関係などについて論じておきながら、その生き方の基本にある(食べないで生きていくことはできません)、しかも自らの感覚のおおもとを作ってくれる食事作りを軽視している、あるいはその大切さに気づいていないというのが、私にはどうしても解せなかったのです。

この本にも引用されていますが、『一汁一菜でよいという提案』にはこんなことが書かれています。

大きな問題に対して私たちができることは何かというと「良き食事をする」ことです。

この基本的なスタンスは、今回の『料理と利他』でも通奏低音のように流れています。そしてまた、冒頭にはこんな言葉もあります。

人間は食事によって生き、自然や社会、他の人々とつながってきたのです。食事はすべてのはじまり。生きることと料理することはセットです。

ほんとうに、そのとおりだと思います。