ヴィクトール・エミール・フランクル氏*1の『それでも人生にイエスと言う』を読んでいたら、こんな一節がありました。
私たちが不死の存在だったら、私たちはなんでもできただろう、しかしまたきっとなにもかもあとまわしにすることもできただろう(中略)死というもの、終わりというもの、さまざまな可能性の限界がなくなることによって、あることをまさにいま行動に移す理由、ある体験にまさにいま没頭する理由がなくなるのです。(47ページ)
いやほんと、そのとおりだと思います。「何でもできる、いつまでででもできる」という境地を手に入れた瞬間から、何もできなくなる、いつまで経ってもできなくなるというこの逆説。いつか確実に死ぬことがわかっているからこそ、目の前のことに取り組めるんですね。
私は語学が仕事であり趣味でもありますけど、そこそこ使えるようになるまでには地味で地道で辛気臭い作業を大量に繰り返し行わなければならないのが語学です。こんな営み、自分に時間が永遠に与えられたとしたら、きっと取り組む気にもならなかったんじゃないかと。
日頃、つねに家事や仕事に追いまくられていて、勉強する時間が足りない足りないと嘆いています。でも、たまさか時間がぽかっとあいたら、これ幸いとばかりに朝から晩まで勉強しているかといえば、そんなことないんですよね。いやまあ一日二日くらいは喜々として取り組むでしょうけど、一ヶ月二ヶ月も続くだろうかと考えると、少なくとも私は自信がありません。
しかも自分の年齢を考えると、たとえばいま趣味で学んでいるフィンランド語など、自分の頭と身体が比較的しっかりしている間に「そこそこ使えるようになる」かといえば、かなり心許ないと思います。なのになぜ学ぼうとするのか。そして早晩死んでしまえば、それまでに蓄積した知識も技術も自分の身体とともに消えてしまうというのに。
それはたぶん、有限の時間のなかで自分が生きる意味みたいなものを見いだせるからなんでしょう。時間に限らず、財力もそうかもしれません。そりゃある程度のお金はあるに越したことはないですし、ある程度のお金があるからこそできることも多いです。でもずっと働かなくてもいいほどの財力を手に入れてしまったら、私のような人間ははたしていま以上に活き活きと生きていくことができるだろうか。
たしか堀江貴文氏だったと思うのですが*2、「FIRE(Financial Independence, Retire Early)なんか目指すな」とおっしゃっていました。やりたいことをできるようになるために、いまはそのやりたいことを我慢して資産形成したり節約したりするなんてバカげている、やりたいことがあればいますぐやればいいじゃないかと。
正直に申し上げて、堀江氏のおっしゃることにはいろいろと疑問や違和感を抱くことがある私ですが、これはそのとおりだなあと思いました。「あることをまさにいま行動に移す」、「ある体験にまさにいま没頭する」というのが、有限の時間に生きる私たちにとってとても大きな意味を持っているんですね。
*2:検索してみたら、この記事が見つかりました。https://toyokeizai.net/articles/-/597664