インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

安倍晋三氏の話し方

この間、私たちは何回か安倍晋三氏の記者会見における演説に接しました。自分の言葉で話さず、原稿を読んでいる、終始プロンプターを見ている……と評判がすこぶる悪いですが、原稿やプロンプターを見ていたとしても自分があそこまで話せるだろうかと考えたら、ちょっと気の毒なような気もします。人前で話す場数を踏んでいない方だったら、きっと安倍晋三氏ほどにも話すことはできますまい。

もちろん、だからといって安倍晋三氏をトップとする現在の政府のありようを評価するわけじゃありません。直近のアベノマスク・一世帯30万円・コラボ動画の「3密」ならぬ「3ミス」はいずれも正視に耐えませんでしたし、それ以前からモリカケ桜を見る会・検察人事に加えて国会軽視の所業の数々はとうてい看過できず、いますぐにでも首相ならびに国会議員の座を辞するべきだと思っています。だが人前で話すことの難しさについて言えば、ちょっと同情してしまうのです。

政治家は人前で話すことに長けているべき職業だと思います。だからその人前で話すという一種の「技術」を人一倍鍛えることに努力すべきだと思うのですが、大変失礼ながら安倍晋三氏にはそうした努力の跡があまり見られません。そういう人でも政治家に、首相になれるということは、日本では政治家に求める資質としてパブリックスピーキングはあまり重要視されていないということなのでしょう。欧米では子供の頃からパブリックスピーキングを学ぶと聞いたことがありますが、そういう訓練が少ない日本ならではの現象なのでしょうか。

日本にも弁舌さわやかな政治家はいますし、企業人などにはスピーチに長けた方をお見かけすることもありますが、総じて私たちは人前で話す技術にあまり力を注がない、力を注ぐ必要性に気づいていない、あるいは軽視する傾向にあるのかもしれません。たまさか弁が立つと、かえって小賢しく感じられたり、押し付けがましく感じられたりすることもありますし、「みなまで言うな」と阿吽の呼吸や暗黙の了解を求める心性が根強いからなのかも、とも思います。

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安倍晋三氏の話を聞いていてまず思うのは、滑舌が悪いということです。発言中のかなりの言葉が溶けてしまっていて明瞭に発音されていません。これはパブリックスピーキングの基礎に当たる部分で、ボイストレーニングでかなり改善されるのではないかと思いますが、俳優さんなら致命的だからとすぐにボイストレーナーのもとに駆けつけるところ。なのに氏はその必要性を感じていないらしいというのが残念です。私も滑舌が悪くてまだまだ訓練が足りないのでおこがましくはあるのですが。

もうひとつ、これは最大の欠点だと思いますが、安倍晋三氏のお話には思想や哲学が感じられません。自分の言葉で語っていない、原稿を読んでいるというのは、畢竟そこに自らの思想や哲学がないと感じられるからじゃないでしょうか。もちろん行政上の都合で官僚の書いた公式見解をなぞらなければならないこともあるでしょう。「大人の事情」で本音ばかり語ってはいられないということもあると思います。でも、例えば今次の新型コロナウイルス感染症の蔓延で国民全体が苦しんでいる時に、トップとして語りかける部分のその言葉さえ原稿を読み上げていて一個人としての思想や哲学が感じられないことに、嘆息せざるをえないのです。

たとえばこの動画は、めずらしく氏がご自分の言葉で語っているように感じられますが、思想や哲学は感じません。いえ、思想や哲学ったって、何も難解なことを語れというわけじゃないんです。そこに個人の培ってきた人間観というか人生観というか世界観というか、もっと卑近な言葉で言えば人情とか人間味とか……そういうものが感じられない。言葉が心に響かないんです。まあこんな短い動画であれこれ言うのも酷ですし、支持者や支援者の集会ではもっと心に響く人間味を発揮されているのかもしれませんが。

英国のボリス・ジョンソン氏、台湾の蔡英文氏、ドイツのアンゲラ・メルケル氏……今次の危機に際して各国のトップが国民に語りかける映像を様々見てきました。それらは私にとって、母語ではない言葉で語られているのでカッコよく聞こえる、格調高く聞こえるというバイアスがかかることは否めません。それでもこうした非常時に行われる会見や演説を聴き比べてみれば彼我の違いは歴然としています。それはまずは話し方の技術の問題です。そして思想や哲学、さらには教養や知性の問題でもあると感じるのです。

私が仕事で見聞きする中国語圏の“公眾人物(公人・著名人)”にはほれぼれとする話し手が多いです。まずはとにかく頭がいいんだなあと圧倒されるのですが、同時にそこにはその人ならではの思想や哲学を感じられ(それを自分が好きか嫌いかは別にして)、他人にどう話して、どう魅了して、どう動かせばいいのかという「技術」を鍛錬してきたことが感じられるのです。単に教養があって頭の回転が速いだけでなく、地道な努力で話し方を洗練させてきたのだろうなあと。しっかりとした基礎の上に建てられた揺るぎない構造物を見るような。

安倍晋三氏の話を聞いていて正視に耐えない(「正聴」に耐えない?)のは、ひとえにそうした基礎(技術)と構造(思想や哲学)がいずれもあまり感じられないからではないかと思いました。