インタプリタかなくぎ流

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外語学習で恥やプライドを捨てる勇気について

明治から昭和にかけジャーナリストとして、また随筆家や俳人などとしても活躍した杉村楚人冠(すぎむら・そじんかん)という人がいて、『外國語と芝居氣』という文章を書いています*1。いくつか文章を抜き出してみます。

年を取ると外國語を使ふのが馬鹿におつくうになる。(中略)これは老人の氣無性といふばかりではない。外國語を使ふといふやうな芝居じみた事がいやになつたのである。

つまり通譯などといふことは、一種の芝居であることが知れる。(中略)豈にひとり通譯のみならんや。總じて外國語を使ふのは、皆一種の芝居である。

どんな英語の達人でも、ドアに指をはさんで、痛いと思つた瞬間、それがロンドンの眞ン中でも『あ痛ツ!』といふ日本語が出る。それに相應する英語Ouch!といふ言葉がなかなか出るものではない。

この文章はその全体を読んでみると、当時の日本が国際的に孤立への道をひた走る中で英語教育の全廃を主張する内容で、今の感覚からすればとてもついて行けません。それでも「外国語は芝居」と喝破したのは、実は英語がとても達者だったという氏ならではだと思います。

「芝居」というと、何か人前で大袈裟なことをするとか、大声で誇張された語り方をするとか、とかくアグレッシブでエキセントリックなイメージを持たれがちです。だからそういうのが苦手な、あるいは嫌いな方は「外語は一種のお芝居」とか「外語には芝居っ気が必要」などと言われると困惑や反感を覚えるかもしれません。でも、私が考える「芝居っ気」は必ずしもそうしたものだけを意味しません。

だいたい私も極度に人見知りな人間で、見知らぬ人に声をかけるのはかなり苦手です。食べ物の好き嫌いはまったくないけれど、人の好き嫌いはことのほか激しくて、異業種交流会みたいなパーティに出席するのはほとんど「ムリ!」。でも語学における「芝居」はそんなに大それたことじゃなくて、なんというのかなあ、自分の中にある「恥」の感覚をほんの少しだけ捨ててみるという感じなのです。

考えてみれば当たり前なんですけど、外語は母語と違って、特にその初中級段階は言えることが極端に少なく、まるで自分が幼少時や赤ちゃんの頃に戻ったような状態になります。大人の自分としてはその状態がなんとも歯がゆく、心地悪く、そして恥ずかしいのですが、そこで少しだけ恥やプライドを捨てて自分をさらけ出さなければ、言葉を換えれば(その外語を使っている間は)とても非力で、知的水準が下がったようにさえ感じられる自分を良しとしてあげなければ、外語は学んで行けないんじゃないかと。

生徒として語学学校に通っていて、先生から例えばロールプレイなどを課された際に、お相手の方が恥を捨てられずにいるとやりにくいです。プライドが高かったり、恥ずかしがったりする方はロールプレイに非積極的(楽しんで参加してない)ですから。教材を使った会話練習などでも、全く感情を込めずにローテンションで抑揚なく、日本語的な母音ベタ押しの発音で平板にぼそぼそ話す方と一緒だと、なんだかこちらも感情を込めて話すのが気恥ずかしくなってくる。負の連鎖です。

逆に講師として教室で、例えば「お互いに自己紹介してみましょう」とか「家族のことを話してみましょう」などというタスクを出しても、時々「プライベートに関わることはちょっと……」とか「ひとり暮らしなので何も話すことがありません」という方がいて、困ってしまうこともあります。もう少しだけ自分をさらけ出すか、さもなければどうせ(?)語学の練習なんですから、いっそのこと20人くらいの大家族をでっち上げて、どんどん話してもらいたい。

でもそういう方はたぶん真面目で誠実で、杉村楚人冠氏がおっしゃるように芝居みたいな「はしたない」ことをするのは恥ずかしい、感情的に大声で話すのもみっともない、真実ではないことを語るのはよくない……と思っておられるのでしょう。それもまあひとつの見識ではありますが、もうちょっとだけ恥やプライドを捨てたほうが(少なくとも外語の「聞く」と「話す」は)習得しやすくなるんじゃないかなあと思います。

qianchong.hatenablog.com
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そうはいっても、どうしても恥を捨てられない人や内気な人もいます。大きな声が出せないという人もいる。むかしは通訳学校で「大きな声は出せません」という生徒さんに「でもあなたの家が火事になったら大声で『火事だ!』とか『助けて!』とか言うでしょう? 大きな声が出せないなんてウソです」などと迫ったりしていたんですけど、いまはもうそんなことは言わないようにしています。パワハラで訴えられるかもしれませんし。

ことほどさように「語学と芝居っ気」って、外語を学ぶ立場としても教える立場としても、けっこう奥の深いテーマだなと思っています。私個人の経験では、演劇のワークショップ的な訓練をほんの少しかじってみるだけでもずいぶん恥やプライドは捨てられるように思います。もちろん語学の目的は人それぞれで違うので、すべての人にこのアプローチが有効というわけではありませんが、外語を聞き話すことが目的ならほんの少しの「芝居っ気」、言い換えれば恥やプライドを捨てる勇気は必須の要素ではないかと思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/09/blog-post_98.html

*1:資料日本英学史 2 英語教育論争史』に収められています。