インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

東京五輪のボランティアは「人生最高の二週間」か「やりがい搾取」か

『ブラックボランティア』の本間龍氏と『東京オリンピックのボランティアになりたい人が読む本』の西川千春氏が対談という、ある意味奇跡的な(?)イベントに参加してきました。場所は下北沢の「本屋B&B」という、書店とイベントスペースを兼ねたような店舗。司会は西川氏の本の出版元であるイカロス出版の方でした。会場には新聞・テレビ局数社も取材に来ていました。

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私はすでに両方の本を買って読んでいましたので、ネットで情報を見つけてすぐに申し込みました。2020年東京オリンピックパラリンピックにおいて11万人の募集が予定されているボランティア。そのボランティアのあり方に関して全く主張の異なるお二人が、こうして公の場で積極的に議論しようとされる姿勢に敬意を表したいと思います。聴衆も冷静かつ真剣にお二人の話に聞き入っていて、ほんの僅かに会場から不規則な発言がありましたが、お二人とも冷静な対応ぶりで素晴らしいと思いました。

特に西川氏は「ネット上ではオリパラのボランティアに関する批判ばかりで、応援の声がほとんどないのがさびしい」とおっしゃっていましたが、そんな中でもこうして議論の前面に立たれるのはとても勇気の要ることだと思います。


ブラックボランティア (角川新書)


東京オリンピックのボランティアになりたい人が読む本 (3大会のボランティアを経験したオリンピック中毒者が教える)

最初に西川氏と本間氏がそれぞれ20分ほど、スライド資料も交えながらご自身の主張を述べられ、その後討論、休憩を挟んで会場からの質問用紙にお二人が答えていく、という形でイベントは進行しました。お二人のプレゼンは、ほぼ上掲のご著書の内容に沿ったものでしたが、本間氏は上梓後新たに判明した動向などを追加して話されていました。

とくに「ボランティアへの採用が決まった場合にマイナンバーの提出が求められるようだ」というお話。それが万一ボランティアを途中で辞退した場合などにもその情報が紐づけされて、その後の一生の不利益に繫がるのではないかという懸念には空恐ろしいものを感じました(西川氏もこの点については「そんなことが絶対にあってはならない」とおっしゃっていました)。

語学への軽視に対する質問

私は質問用紙に、おおむね次のようなことを書きました。

ほぼ単一言語社会といってよい日本では、言語を使う仕事に対する軽視が強く、通訳者に関しても「話せれば訳せる」といったような誤解が根強く残っています。このような状況で、通訳者をボランティアでまかなうことは「通訳は無償でよいのだ」という社会通念を強化することにならないでしょうか。とくに外語系の大学で積極的にボランティアへの参加を促すことは、まわりまわって将来語学で仕事をしていこうと思っている学生さんの首をしめることにならないでしょうか。ご自身も通訳者であり、かつ大学でも教えておられる西川先生のお考えをうかがいたいと思います。

この件については、私もこれまでにいくつかブログにエントリを上げています。
オリンピック・パラリンピックの通訳ボランティアについて
ボランティアに頼る「商売」はおかしいと思います
学校が後押しする「通訳ボランティア」について
オリンピックのボランティアと大学連携協定について

これらを踏まえていろいろと聞きたいことはありましたが、小さな質問用紙でしたので一番「ナマ」な「語学で食べられない問題」への影響を聞いてみようと考え、なおかつ私はこの質問用紙に名前を書きました。批判する以上匿名では失礼だと思ったからです。こんなピンポイントの質問は読み上げられないだろうなと思っていたら、司会の方はきちんと読んでくださいました。

西川氏は「語学への軽視はその通りだし、とてもよい質問だと思います」とおっしゃってくださいましたが、お答えは「将来通訳者になりたいと思っている学生にとっては、学習のモチベーションにもつながるし、通訳のみならず言葉を使って何かを行う経験を積むという意味でも意義深いと思う。ぜひ参加してほしい」というものでした。

また、オリパラの現場では主に「諸言語→英語」というように英語がキーランゲージになるので、実は日英・英日通訳者の必要人数はそれほど多くなく、したがって通訳というよりも広く外語を使う可能性のある業務(アテンドなど)により多くボランティア要員が割かれるであろうこと、また極めて重要な部署には有償のプロ通訳者を70〜80名ほど雇用する予定で、その予算も既に組まれているといった情報も披露されていました。

ただ西川氏のお話は、これはこの質問のお答えに限らず発言全体の基調がそうなのですが、とにかく五輪のボランティアは参加する本人にとってはかけがえのない貴重な経験になるものであり、他では得られない感動をもたらすものであり、その「レガシー」を残すことができるという「大義」の前には有償か無償かは問題ではない、という枠を超えるものではありませんでした。

成熟した民主主義の国だからこそ、こうした五輪のボランティアも「損得抜き」で集まるのだと西川氏はおっしゃっていて、その「豊かになった社会であるからこそ、市民による奉仕の精神も尊ばれる」という点については共感する点もありました。ですが、ことは被災地支援や弱者救済などではなく、超巨大な営利目的の商業イベントである五輪です。この根本的な問題について話が及ぶと、西川氏のお話は結局のところ「とにかくオリパラは素晴らしいんだ! 大好きなんだ!」という点に収斂、ないしはかき消されてしまうのです。

西川氏はとても弁舌爽やかで笑顔一杯、過去に三度参加されたボランティアでの体験談は「本当に楽しくて充実した日々だったんだな」とその高揚感は私にも充分に伝わりました。ご自身もおっしゃっていましたが、せっかくのお祭りだもの、「踊らにゃ損」というわけです。

ですが、五輪の「日向(ひなた)」の部分は手放しで賞賛される一方、「日陰(ひかげ)」の部分は「まあ実際にはきれい事ばかりじゃないですけどね」とお茶を濁されるのでした。

また周りはあれこれと批判するけれども、アスリート自身はやっぱり五輪に出たいと思っている、というご趣旨の発言もありましたが、そのアスリートの一部からも、現代のメダル至上主義によって競技そのものが歪められていく現状を憂う声が出ていることはご存知なのでしょうか。その点の内省が見られず、単純な五輪賛美に終始している点も気になりました。

qianchong.hatenablog.com

総じて現代における五輪の「大義」そのものには全く疑問を持っておられない。搾取の構造や、復興五輪やコンパクトな五輪と銘打ちながら実際には裏腹の現実、学徒出陣や無謀な作戦にもなぞらえられる強制的な動員の是非についてはほとんどスルーされてしまうのです。これはもう議論の依って立つフィールドが違いすぎます。

上記の私の質問は、ボランティアに参加する本人の不利益もさることながら、「通訳は無償でよい」という社会通念が強化されることによって、この国ではただでさえ低い通訳者の社会的地位がさらに低下し、それは回り回って国益を損ねることになるのではないかという懸念を踏まえたものでした。つまり参加する個々人よりも「通訳者など語学を用いる仕事のこの国でのありよう」にフォーカスしたものだったのですが、小さな質問用紙と基本的に会場からの発言ができないルールでしたので(でもこれは不規則発言を防止するという点でよかったとは思います)不完全燃焼に終わりました。

「成功してしまう」ことの怖さ

西川氏は、基本的なスタンスとして「ボランティアへの強要はあってはならず、参加したい人がすればよい」とし、ボランティアの志望者は海外からも10万人ほどは予想されており、募集人数をはるかに超える方が絶対に集まるとおっしゃっていました。その点については全く心配しておらず、むしろ組織委員会の不透明で無責任な体勢(出向者ばかりの大所帯だからという背景もあるそうです)や、夏の暑さ対策について本当に心配しているとのこと。この点については本間氏と全く同じ意見でした。

……であれば、やはり問題は本間氏が終盤で指摘されたように、今次の東京オリンピックパラリンピックが曲がりなりも「成功してしまう」ことだと思います。

炎天下のスポーツ大会という前代未聞のイベント運営も、「やりがい搾取」と批判の集中砲火をあびたボランティア募集も、巨額の税金と大量の動員でむりやり成功させてしまった・成功できてしまったというその「レガシー」は、今後同様の巨大商業イベントにおける大規模な搾取にも前例とお墨付きを与えてしまうだろうからです。語学に関する職業も今後、同様のイベントでは無償奉仕が常態化し、通訳者はますます食べていけない職業になってしまうかもしれません。

今月末からいよいよボランティアの募集が始まります。組織委の大会ボランティア8万人と東京都の都市ボランティア3万人。加えて分散開催される千葉県・神奈川県・福島県などでもこれとは別のボランティア要員を募集するそうです。さらには、いまや企業はもちろん大学・高校・中学校・小学校にまで予定されつつあるオリンピック教育を絡めた「動員」。

www.o.p.edu.metro.tokyo.jp

小学生に何の動員? と思われるでしょうか。例えば聖火リレーの際に沿道で小旗を振るなどのアレなどもそうですよね。こうした活動は学校単位で行われるでしょうから、ある意味大会ボランティアや都市ボランティアよりはるかに「同調圧力」がかかります。こうしたあれやこれやが、これから先二年間にわたって繰り広げられるのか……暗澹たる気持ちで会場を後にしました。

追記

ところで、上記の質問用紙には少々意地悪だなと思いつつ、このようなことも書きました。

『通訳翻訳ジャーナル』という、通訳や翻訳で食べていくことを目標に頑張っている人を後押しする雑誌を作っているイカロス出版さんは、この件についてどうお考えですか。

巨大な利権が絡む巨大な商業イベントであり、多額の税金を投入しつつその明細を明らかにせず、生命の危険がある状況下で雇用関係の発生しないボランティアを大量に動員することで責任回避をしようとしている五輪。そのイベントへのボランティア参加を無邪気に勧める西川氏の本を出版することと『通訳翻訳ジャーナル』の刊行は矛盾しないのか、それを聞いてみたかったのですが、この部分はカットされました。まあ「本間氏と西川氏への質問」と用紙に書いてありましたから、これは致し方ないですよね。

ペリリュー

都内の書店に立ち寄った際、偶然見つけた武田一義氏のマンガ『ペリリュー』を読みました。第5巻まで出版されており、現在も雑誌での連載が進行中の作品です。既に二年前から連載が始まり「日本漫画家協会賞」も受賞して話題になっていたというこの作品、今になってようやく知った不明を恥じているところです。


ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 1

タイトルからも分かるように、これは太平洋戦争末期の1944年にペリリュー島(現・パラオ共和国)であった日米両軍による戦闘と、そののち終戦後までも続けられた日本軍の残存兵によるゲリラ戦を描いています。このいきさつについては、以前NHKスペシャルで放映された『狂気の戦場 ペリリュー〜“忘れられた島”の記録〜』などでもその悲惨な戦闘の実態が伝えられていますし、また2015年に天皇と皇后がパラオ共和国を訪問された際、この島に立ち寄って慰霊を行ったこともよく知られています。

この作品はペリリュー島で起こった出来事を時系列に沿いながらつぶさに描いていきます。その悲惨さと非人間性はとてもではありませんが私の貧弱な語彙では表現しきれません。

でも、その悲惨で非人間的な現実の中で、登場人物たちがそれぞれの生を語るその語り口は、現代の私たちにも十分に理解できる問いであり悩みであり感慨であって、決して遠い昔の出来事のようには思えません。つまり、自分が同じ状況に身を置いたら、おそらく同じように苦しみ、怖れ、絶望し、あるいは生きたいという思いを振り絞っただろうなとリアリティを持って読めるのです。

作者の武田一義氏はこの作品を描くにあたって、「太平洋戦争研究会」や「近現代フォトライブラリー」、さらには戦後も続いたゲリラ戦でわずかに生き残り帰還した34名の方々で作られた「三十四会」をはじめとする元日本兵の方々、パラオ共和国の人々にも取材されているそうです。

武田氏のマンガにおける登場人物の造形は、一見こうした主題の作品には不釣り合いなほどの「キュート」なものですし、語り口もいたって現代風です。ですが、それがかえって戦場に身を置いていたのは特別な人々ではなく、自分と同じような人間なのであり(当たり前ですが)、しかも当時まだ20歳前後の若者たちが大半であった(そしてそのほとんどが命を落とした)という現実をもイメージさせ、不思議なリアリティを醸し出しています。

先般、台湾の離島のそのまた離島まで旅をした際、どの島にも先の戦争にまつわる日本軍の施設跡や日本統治時代の痕跡が見られ、そのつど「かつて、こんな遠い南の島のそのまた先まで出張ってきていた日本人」について考えが及び、粛然とした気持ちになりました。でも台湾どころではない、そのまたさらに南のフィリピンやパラオ諸島にまでも出張って、こうした歴史を作ってきてしまったわけです。かつての日本という国は。

この国の歴史を私たちはきちんと記憶にとどめ、今とこれからを考えるよすがにしていかなければならないと思います。

ステーキは「強火で何度も裏返せ」?

牛肉をただ焼いたの(つまりステーキですが)って、おいしいですよね。お高いからめったに食べませんが、スーパーで時折「三割引きセール」みたいなのをやっていて、その時は「タリアータ」を作るために思い切って買ってきます。

普段スーパーでは、オジサンやオバサン方が精肉のパックをあれこれ手にとってためつすがめつ吟味しているのを横目に「どれ買ってもおなじですよ」と心の中で思っているのですが、ことステーキ用の牛肉となると私も「ためつすがめつ」化していて、ああなんて身勝手な人間なんだろうと思います。

ステーキを焼くのって、ただ焼くだけとはいえ存外難しいです。とくにタリアータは肉の内側をローストビーフほど火を入れず「たたき」ほどレアでもなくというくらいに持っていきたいところですが、火加減とかが難しいし、中まで火が通っているかどうかが分かりにくいじゃないですか。

奉職している学校のイタリア人留学生に聞いた話では、本格的なタリアータはオーブンで作るそうですが、まあこちらは普段の炊事の延長ですからあんまり「男の料理的ホビー」なことはあまりしたくない……というわけで毎回適当に作りながらも出来不出来のばらつきに「もやもや」していたところ、こちらの記事に遭遇しました。

cakes.mu

ステーキを焼くときは、塩だけで胡椒は振らず、終始強火で2分30秒くらい、その間頻繁にひっくり返す……と。えええ、今までの「常識」と全然違う。胡椒は単に焦げるだけだから無意味? 焼き始めたらじっと我慢で動かさないんじゃなかったの? 詳しくは上記の記事にあたっていただきたいですが、これが科学的に解明されたおいしいステーキの焼き方、それもタリアータのような比較的気軽なステーキ応用料理にぴったりの調理法だとのことです。

で、さっそく試してみたところ……本当においしくできました! 終始強火なので外側はかなりかりっとした食感になり、中は火は通っているけれどもきちんとレア。タリアータにぴったりです。「成城石井」総菜コーナーの最近のヒット作(と勝手に思っている)「セミドライトマトのマリネ」もくわえて、どーんと野菜を使ったサラダにしてみました。ソースは以前拝見した野口真紀によるこちらの記事の、バルサミコ酢を使ったもの。

www.kurashijouzu.jp

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この焼き方を教えてくださった樋口直哉氏の連載、ほかにもがぜん料理がしたくなる記事がいっぱい。お勧めです。

cakes.mu

Twitter、ちょっと飽きちゃった。

節酒や筋トレなどの「習慣化」に触発されて、今度はSNSへの依存から抜け出すことを「習慣化」させようと思い立ちました。
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https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_338.html

SNSに類するものとしてこれまでに色々なサービスのお世話になってきましたが、現在ではInstagramも、mixiも、微博(Weibo)も、微信(WeChat)も、QQも、Google+も……、みんなやめてしまいました。

Facebookはいったん「完全退会」しましたが、一部の友人とMessengerを使ってやり取りする必要があって復活させました。以前はFacebookのタイムラインに書き込んだりブログのリンクを流したりしていたのですが、これはやめてしまいました。ことに、たまたまのぞきにいったタイムラインで「誰それとの友達記念日」なる珍妙なメッセージが出るに至って、以後はMessengerしか使わなくなりました。

Pinterestはあの写真の並び方と、出会う写真のテイストがとても好きなのでやめていませんけど、でものぞきにいくのはひと月に一度ほどなので、これもそのうち「断捨離」しちゃうと思います。

LINEは全くやる気はなかったのですが、家族やAirbnbの家主さんとのやり取りに使うことが多くて、渋々アカウントを作りました。こちらから積極的に使うことはまずありません。

結局、最後まで残って積極的に使っているのは、Twitterとこの「はてなブログ」だけです。それでもTwitterは最近、少々うんざりしてきました。あまりに偏った意見や居丈高な発言が多くて、その「情念」にさらされていると、見ているだけで疲れてくるからです。

考えたつもりになるのが怖い

Twitterでは、どなたかのツイートに共感してコメントしたりリツイートしたり、あるいはコメント付きのリツイートをしたりすることがありますが、それだけで何か「考えたつもり」になっている自分にいささかうんざりしてきた、ということもあります。ましてや、新聞記事のリンクになにがしかのコメントをつけてリツイートするにいたっては、まるでその記事の内容全体を最初から自分が考えていたような謎の全能感に浸ったりしがちじゃありません?

それにTwitterに浸りきっていると、つい世の中の動向も同じようなものだと錯覚してしまいがちなんですけど、実際にはどうなんでしょう。Twitterの、日本での月間アクティブユーザ数は現在約4500万人ほど。これ、すごく巨大な数に見えますよね。15歳以上の人口の約半分弱です。でも週1回以上アクセスするのがアクティブユーザとはいえ、普段感じているTwitterのツイートの「玉石混交感」からすれば、掬すべき意見はTwitterの他にも世の中にたくさんあるはずです。Twitterから完全に足を洗うことはしないまでも、もう少し他の世界にも耳を傾けて見るべきだと思ったのです。実際、仕事や私用でお目にかかる方の中にもTwitterをやっていない方は大勢いらっしゃいますし。

Twitterはその字数制限から情報の取得が手軽です。でもそれゆえに、情報の消費が刹那的かつ総花的になって、ある一つのテーマに沿って深く考えを下ろしていくという作業が疎かになるのではないかとも思いました。やはり時間はかかっても、いや、あえて時間をかけてでも専門書や文学書を読むべきではないかと。

SNSは「集思廣益(衆知を集める)」ための優れたツールではありますけど、その「知」自体をSNS「だけ」から集めてばかりいると、いわゆるネトウヨのような妄想を産む素地になるのではないでしょうか。刹那的に浮かんでは消える、でもそれだけに刺激だけはいちだんと強い情報ばかり追いかけていると、自分の頭で深く掘り下げて考える筋肉が衰えていくような気がします。

長い文章を書くための素材作りとして

Twitterはまた、自分の考えを短くまとめて発信するのにも向いています。それらは、世に問うというほどのものではないけれど、少なくとも自分の外に出す以上、ある程度は考えて、でもすばやく考えてとりあえず発信する訓練になる(Twitterのツイート前に何時間も文章を校正する方はほとんどいないですよね)。ツイートしているうちに反応があって、色々教えられることもありますし、自分の考えが修正されていくこともあります。

というわけでTwitterは、ツイートやツイートの連投を通して自分の考えをとりあえず文章にしておき、あとで編集して長い文章をブログなどに乗せるための下準備といった感じで使うのがいいのではないかと。いずれにしても、Twitterよりはブログのほうが文章の練習(私の場合はほとんどボケ防止ですが)になるんじゃないかと今は考えています。ですから文字通りの「短いつぶやき」はなるべくしないようにしています。

ともあれ、徐々にTwitterからも距離を置いていこうかなと考えています。Twitterの速報性や他のユーザとの「互動(インタラクション)」は大きな魅力ですが、速報性はその都度タイムラインを検索すれば事足りますし、他ユーザとの互動は承認願望という一種のダークサイドと紙一重ですし。でもまあ何にせよ、TwitterをはじめとするSNSに長時間浸るのだけはやめようと思います。

一時期は数分ごとにスマホTwitterを確認しなければ「むずむず」するほどの依存症めいた状態だった私ですが、ようやくまるまる一日、時には数日アクセスしないでも過ごせるまでになりました。この「習慣化」をもう少し続けて行きたいと思います。とはいえ、このブログをエントリさせたら、そのツイートをTwitterにも流すんですけどね。これもまた承認願望ですよね。

ご主人と呼ばれて困惑する

昨日、Twitterのタイムラインで拝見した、こちらのツイート。

なるほど、たとえば夫婦で訪れた客のうち、妻が自分のカードで支払ったのにホテル側はそのカードを夫に返す……と。そんなことがあるのですね。これはいくらなんでも、ひどいです。

私の同僚で、夫が米国人の日本人女性がいるのですが、彼女によると「夫が自分のカードで支払ったのに、私にそのカードを返されることがある」と言っていました。そうそう、日本では「ガイジンさん」は日本語が通じないとハナから決めつけて、日本人(に見えるほう)にカードを返す、あるいは話しかける(その外国人の夫が日本語で話していても!)ということが、割合よくあるようです。これも、ひどい。

完璧なサービスなど存在しませんし、また完璧を追求すべきでもないと思いますが(過剰なサービスの追求は労働の強化となって不幸を生んでいると思います)、こういう硬直化した意識は一朝一夕には変わらないのでしょうかねえ……。

ご飯は女性がよそうもの?

上記のツイートには、そのあとに連投されているツイートがいくつかあって(詳細はTwitterでご覧ください)、その中に「旅館などでお櫃が女性の側に置かれる問題」が含まれていました。

実は先日京都で、細君の快気祝いということで少々奮発して老舗旅館に泊まったんですけど、確かにご飯の「お櫃」は細君の側に置かれましたね。うちはいつも私の担当なので自分でお櫃を移しましたけど、これ、海外の方にも同じようにしているのかなと想像すると、ちょっと危ういような気もします。

だって、何も聞かれずにお櫃が女性の側に置かれたら、「女性の私がよそえってこと?」……となりそうじゃない? くだんの旅館では細君がいわゆる上座に座っていたんですけど、それでもお櫃は細君の側に置かれましたから、やっぱり「女性がよそうもの」というのがデフォルトなんでしょうね。

でもまあ、お櫃が置かれたときに「あ、私がやりますから(笑顔)」と言えば、次からは私の側に置いてくれるのかな。うん、がぜん興味がでてきました。次にあの旅館に泊まることがあったら、ぜひそうしてみたいと思います。

余談ですが、Twitterでは「ワインのテイスティングは必ず男性に振られる」というツイートがありました。確かにそうですね。割とお高いレストランでは「男性に渡されるメニューにだけ金額が書いてある」というのも、実際に経験しています。こういうのも、まあ伝統と言ってしまえばそれまでですけど、最初から男女の役割を決めつけちゃうの、私はやっぱり馴染めません。
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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_980.html

奥様と旦那様

上記の旅館では、私達につきっきりでお世話をしてくださるスタッフの方がいたのですが、この方は細君のことを「奥様」、私は「ご主人」と言っていました。たとえば配膳するときに、もうひとりのスタッフに向かって「こちらのお皿を奥様へ」などと指示するなどですね。

この「奥様」や「ご主人」という呼称、私はと~っても違和感があるんですけど、じゃあ自分がスタッフの立場になってみたらと考えると……けっこう難しいです。「お連れ合い」は不自然な感じだし、「妻さん・夫さん」はありえないし、名前で読んだら、披露宴の司会みたいですしねえ。この件に関してTwitterでつぶやいたところ、「お連れ様」という呼称もありますというご意見をもいただきました。

自治体の窓口などでもこうした呼称について色々と苦慮していて、たとえばある自治体では「妻さん・夫さん」に統一しているという話も聞いたことがありますが、こうした議論から新しい日本語が作られ、人口に膾炙していくまでには(そもそもそうした可能性があるのかどうかも含めて)まだまだ時間がかかるでしょうね。

ポルトガルのワイン飲み比べ

ポルトガルのワインと料理を楽しみながら、彼の地の食文化を知るという集いに参加してきました。編集者・ライターで「ポルトガル食堂」を主宰されている馬田草織氏とIDÉE SHOP共催のイベントです。

イベリア半島の西側、南北に細長く伸びる国土のポルトガルは、冷涼な北部から温暖な南部まで様々な気候風土があり、たくさんの土着葡萄品種があって、様々なワインが生産されているよし。かつて通ったワインスクールでは、やはりフランスやイタリアなどのワイン大国の存在感が大きくて、ポルトガルワインはあまりテーマに挙がらなかったのですが、それでも「ヴィーニョ・ヴェルデ(緑のワイン)」や酒精強化ワインの「ポート」「マディラ」などはけっこう飲みました。

今回は「夏の終わりを楽しむ」がテーマということで、爽やかな酸味が特徴の「ヴィーニョ・ヴェルデ」のほかに、比較的軽い味わいのワイン、さらに酒精強化ワインまで10種類ほどを少しずつ飲みながら、軽いおつまみを食べるという楽しいイベントでした。

ポルトガル料理って、イワシの塩焼きがあったり、お米を多用したり、他にもカステラや鶏卵素麺(実家がある福岡で一番好きなお菓子です)みたいなのが日本の甘味として定着していたりして、わたしたちの好みにも近いような感じがします。

かつてポルトガル領だったマカオへ行った際に食べたイワシの塩焼きは、オリーブオイルがかかってとても美味しかったです。ポルトガルの方はこれに赤ワインを合わせるそうですが、なるほど「ヴィーニョ・ヴェルデ」のような酸味が強くて軽い赤ワインなら、シンプルな魚料理にも合いそうです。

ワインはどれも美味しかったですが、やはり「ヴィーニョ・ヴェルデ」、それも珍しい赤の「ヴィーニョ・ヴェルデ」(赤い緑のワインですから、まんま補色で矛盾してますが)と、アルコール度数高めながらマスカットのような香りで軽やかな「アランブル」という甘口のワインが特に印象に残りました。
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https://www.wine-kishimoto.com/details/kip109.html
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http://www.pontovinho.jp/shop/g/g71287820/

おつまみはポルトガルふうの豚肉サンドイッチ「Bifana」のほかに、クミンの効いた人参とネクタリンのマリネ、サラダ、オリーブ、マルメロジャムと塩気の強い羊乳チーズの組み合わせなど。どれも肩肘張らないシンプルな料理でワインによく合いました。

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最近はあまりお酒を飲まなくなったのですが、たまにはこうやってあれこれ試飲するのも楽しいです。それでも「明日しんどくなると困るから……」と酒量は控えめ。後顧の憂いなくがぶがぶ飲むというのはもうできないし、あまりやりたくもない……そんな「お年頃」になってしまいました。

ところで、今回のイベントを主催された馬田草織氏はポルトガル料理に関する本を何冊も出されていて、私は以前から『ポルトガルのごはんとおつまみ』を愛読しています。この本にはワインによく合うポルトガル料理がたくさん載っていて、私もいろいろと作ってみましたが、ポルトガルならではの干し鱈「バカリャウ」のかわりに甘塩のタラを使うなど、日本で手に入る普通の食材で作れるのがとても親切です。


ポルトガルのごはんとおつまみ

さらにこの本で一番共感したのが、炊き込み系のごはんを「お酒のつまみ&シメ」として位置づけ、多くの紙面を割いていること。酒飲みはふつう「ご飯に酒~?」と敬遠しがちな組み合わせですが、これがもう、本当に美味しいのです。とくにそれほど高級でもない、気安く飲めるワインをどんどん開けながら炊き込み系のごはんを食べるのは至福のひととき。……続けていたら、確実にお腹周りがふくよかになりそうですけどね。

ついに髪の毛が「軟化」した

先日髪を切りに行って、担当の店員さんにこんなことを言われました。

「そういえば、髪の毛の質が変わりましたね」

この店員さん(美容師さん)とはもう十年以上のお付き合いです。毎回切ってもらっているのですが、私は何百人もいるお客さん(たぶん)のひとりですから、んな、客の髪質までいちいち覚えていないかもしれないのに、それでも「変わった」と感じられたのですから、よほどの変化に違いありません。

「変わった……って?」

「特に頭の両サイドですね。柔らかくなったというか」

それは端的に言って、加齢によって髪が細く柔らかくなったということなのではないでしょうか。おおお……ということは次の段階はこれがどんどん抜けていくと。まあそろそろ来るかなとは思っていたんですが。

「いえいえ、違います。薄くなっているわけではなくて、何というのかな、髪が生えている角度が変わったんです。以前はもっと頭皮からこう、直角に立ち上がっていましたけど、今はずいぶん角度がついて寝ているような感じなんです」

なるほど、確かに私は昔から髪の毛が太くて、しかも量が多かったです。いわゆる剛毛というやつです。中学生の頃、理科の時間に顕微鏡で髪の毛の太さを測るというのをやって、うちの班は私の髪を標本に使ったのですが、ミクロメーターの目盛りをはみ出して髪の毛がどんと横たわっており、計測不能だったという過去があります(どーでもいいですけど)。

髪の毛を切ってもすぐに伸びてきて、しかも垂直に立ち上がる感じなので、頭が「ぼわっ」と膨らんだ感じになるのがイヤでした。帽子をかぶってもメガネをかけてもさまにならないんですよね。だもんで、ウルトラスーパーハードな整髪料を使ったり、時には軽いパーマをかけたりして(今思い出しても笑えます)まで「ぼわっと膨らんだ感じ」を抑えていたんですが、ここへ来て髪の毛が素直に寝るようになったというのです。

なるほど、そういえば最近はワックスやジェルなどの整髪料を全く使わなくなりました。もうそんなに「つやばつける*1」歳でもないし、なんだか自分でも人の目など「どうでもいいや」と思うようになったからだと思っていたんですが、同時に、昔のように髪の毛が「暴発」した感じにならなくなっていたのでした。

こうなった理由はよくわからないのですが、たぶん節酒を続けたおかげで頭皮が柔らかくなったからではないかと思います。お酒をあまり飲まなくなってこのかた、頭皮がとても「健康」になったのです。以前は頭皮湿疹などで悩まされていましたけど、今はほとんどなくなりました。よくヘッドスパなんかで「頭皮を柔らかくする」というメニューがありますけど、あれと同じ効果なんじゃないかなと。

お酒を全くやめてしまうとなんだか人生楽しくなくなりそうですが、やっぱりたまに嗜む程度が私には合っているようです。まあ以前は一晩にワイン二本くらい飲んでいましたから、もう一生分あらかた飲み尽くしたということですかね。

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*1:福岡の方言で「カッコつける」。

語学の「戦略」について

外語の学習は楽しいものですが、よく聞く悩みは「長続きしない」ということです。いやいや、かく言う私もこれまで結構色々な言語に手を出しては「敗退」してきましたから、んなエラソーなことは書けません。

曲がりなりにも「ものになった」外語は中国語だけ。英語は、一人で海外を旅行するときに特段困らないくらいには話せますが、はっきり言ってずっと「低空飛行」のままです。なぜ中国語がなんとか「ものになった」のかを今から思い返してみると、これはもう入門や初級段階で先生に恵まれたからとか言いようがありません。

一番最初に習った学校の先生は、授業に遅刻してくるなど「論外」なことが多かったので、すぐに学校を変えました。この二番目の学校と先生は素晴らしかった。それは言うなれば「日本語母語話者の中国語初心者にとって、最大かつ最重要の課題は『発音』の習得である」という、長年の教育から導き出された結論から「戦略」を立て、その「戦略」に従ってカリキュラムが組まれていたからです。

外語学習において、この「戦略」(別に戦わなくたっていいんですけど)はとても大事で、しかもそれは学習者の母語と、学ぶ対象の外語の組み合わせによって様々に変わってきます。中国(中華人民共和国)はこのあたりの意識が明確で、中国語を世界中に広げるために国家ぐるみで多大なリソースを割いています。北京語言大学のような、外国人に中国語を教えることを専門に研究する大学があり、各言語の学生にどう中国語を教えるか、専門家がよってたかって研究しています。

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http://www.blcu.edu.cn/index.html

ひるがえって本邦では、日本語が世界でも十指に入るほどの巨大言語であるにもかかわらず、日本人はなぜか「自信なさげ」で、北京語言大学のような充実した専門機関はありません(国際交流基金くらいでしょうか)。

それでも日本語教育の現場では、たとえば「漢字圏の留学生と非漢字圏の留学生に対する教学方法の違い」などが盛んに議論されているようですから、やはり「学習者の母語と、学ぶ対象の外語の組み合わせ」については(当然のことながら)意識されています*1

話をもとに戻しまして……。

日本語母語話者が中国語を学ぼうとする際、最初に乗り越えるべき関門は「発音」です。「漢字が共通(全く同じではありませんが)だから、日本語母語話者が中国語を学ぶのはラクなんじゃないの?」とよく聞かれますが、漢字が同じなのに発音が違うので、実はかえって学びにくいのです。学ぶ端々から日本語の漢字の発音が干渉してきますから。

というわけで、日本語母語話者が中国語を学ぶ際の(入門・初級段階の)「王道」は、いったん漢字をはなれて、アルファベットの「ピンイン」(あるいは台湾なら「注音字母」)による発音を確実にマスターすることです。ピンインや注音字母だけで読み・書き・聞き取る(音声→ピンイン・注音字母)ことができること。これが「使える中国語」に向かうための第一歩であり「戦略」なのだと思います。

また日本語は動詞や形容詞などが活用(語形変化)し、助詞を多用するいっぽうで、語順はそれほど重視されません。中国語は逆に、動詞や形容詞自体は活用せず、語順を重視します。これらは膠着語屈折語孤立語などと分類されて、専門家の間では「何をいまさら」的な言語間の相違ですけど、私たち一般の人間が外語を学び始める際に、こうした言語の特徴に着目し、自らの母語の特徴と比較して「戦略」を立てるということはあまりなされないのではないでしょうか。

なんとなく、この言語を学んでみたいな~(あるいは仕事に使えるかな~)などと憧れて、語学学校の門をたたき、学習を開始するわけです。もちろんそれはそれでいいのですが、母語である日本語との差、ないしは距離、森羅万象の捉え方についてある程度の知識があると学びやすいかもしれません。もちろん教える語学学校側にはこうした点に基づいた、きちんとした、したたかな「戦略」があってしかるべきですよね(それを初手から学習者に明示できるかどうかはさておき)。

こう考えてくれば、外語を学ぶ際にとりあえず独学とか、その言語の母語話者(言語教育については素人の)について学ぶなどというのは、かなり「リスキー」な気がします。「戦略」を立てずに突撃していくようなものだからです。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_90.html

さて。

いま、ほそぼそと学習に取り組んでいるフィンランド語ですが、学校の先生のお話からして、入門・初級段階の現在としては以下のような「戦略」が立てられそうです。

フィンランド語は動詞や形容詞が活用する。のみならず名詞もどんどん語形変化する。……ので、まずは単語の原型を覚え、その活用のパターンを人称と合わせて繰り返し練習して体に叩き込む必要がある(さいわい活用の仕方は、パターンこそ多種多様ですが、かなり「機械的」で、例外は少ないようです)。

フィンランド語は語順を重視しない。語順で話す言語ではない。……ので、たとえば中国語や英語でやってきたような例文や基本的な文型の丸暗記という手法があまり効果的ではなさそう。そのぶんまずは単語を覚えて初歩段階から語彙を豊富にしていく必要がある。

フィンランド語には日本語母語話者にはほとんど意識されない「可算・不可算」の概念が強く反映されている。この点は英語と同じだが、英語よりもっと細かい不可算の概念がある。……ので、常に「可算・不可算」を意識する習慣をつける必要がある。

フィンランド語のご専門の方に言わせれば「ふふふ、甘いな……」ってことになるかもしれません。が、とりあえず現在のところ「戦略」にしているのは以上のようなことです(他に「戦略」に加えるべき点があれば、ぜひご教示ください)。

日本ではほとんどの方が英語は学習した経験があると思いますけど、その他の言語を学び始めるとき、やみくもに英語での経験を持ってきても上手くいかないかもしれません。やはり「戦略」のある学校なり先生なりを探して(語学学校でなくてもネットの情報でも)、日本語との違いを念頭に置きながら学んでいくといいんじゃないかと思った次第です。

あ、蛇足ですが「一週間でペラペラ」みたいな惹句はハッキリ言って眉唾の可能性がほぼ100%ですから、近づかないのが吉だと思います。

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*1:私は日本語教育については門外漢なので、認識の違いや最新の現状などについてご叱責・ご鞭撻たまわることができれば幸甚です。

フィンランド語 22 …文型の復習

これまでに出てきた文型を三つ、復習しました。

第一文型

「A olla B」の形で「AはBである」を表すものです。

Tämä on kirja.
これは本です。

第二文型

「〜ssA on 〜」や「〜llA on 〜」のような「〜に〜がある」を表す存在文、「人称代名詞+llA on 〜」のような「だれそれは〜を持っている」を表す所有文がこれにあたります。

Pöydällä on kirja.
机の上に(一冊の)本があります。

このとき「kirja(本)」の諸相によって格が変わります。

①Pöydällä on kirja. →単数主格(ひとつ)
 机の上に一冊の本があります。
②Pöydällä on kaksi kirjaa. →単数分格(ふたつ=ひとつ以外)
 机の上に二冊の本があります。
③Pöydällä on kirjat. →複数主格(ぜんぶ)
 机の上に全ての本があります。
④Pöydällä on kirjoja. →複数分格(いくつか=不定量数)
 机の上に何冊かの本があります。

本のように数えられる名詞については、それが「単数(①)」か「複数(②③④)」かによって名詞が変化するということですね。しかも複数には「ひとつ以外の複数(②)」か「全部(③)」か「不定量数(④)」かの三種類がありえると。

数えられない名詞については、単数分格をとります。

Lasissa on vettä.
グラスの中には水があります。

「vettä」は「水(vesi)」の単数分格です。

第三文型

動詞+目的語、つまり「〜を〜する」という文型です。

Minä luen kirjan.
私は(一冊の)本を読みます。

このときも「kirja(本)」の諸相によって格が変わります。

①Minä luen kirjan. →単数対格(ひとつ)※単数属格と同じ形
 私は一冊の本を読みます。
②Minä luen kaksi kirjaa. →単数分格(ふたつ=ひとつ以外)
 私は二冊の本を読みます。
③Minä luen kirjat. →複数対格(ぜんぶ)※複数主格と同じ形
 私は全ての本を読みます。
④Minä luen kirjoja. →複数分格(いくつか=不定量数)
 私は何冊かの本を読みます。

この第一・第二・第三文型で、全体の約六割ほどを占めるそうです。フィンランド語は、目的語の諸相、つまりそれが単数か、複数か、複数なら「いくつ」という定量か、全てか、それとも不定量か……をあらかじめ念頭に置いて話す言語なんですね。

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Hyllyllä on kirjoja.

働かざる者たち

端的に言ってこの習慣をやめたら「バカになっちゃう」ような気がして、いまだに紙の新聞を取って毎朝隅々まで目を通しています。

記事を読むだけならネット版の方が手軽で便利(大判の紙の新聞はスペースを取るので、例えば朝食を食べながら読むとか、混み合った交通機関の中で読むなどといった状況では極めて不便です)なんですけど、一度しばらく電子版に切り換えてみたら全然頭に入って来ないことが分かったので、紙媒体に舞い戻ってきたのです。

新聞紙って、雨の日に帰宅して、濡れた革靴の中に押し込む紙を確保できるくらいしかメリットが思い浮かばないし(ごめんなさい)、資源ゴミの日にひもで縛って出すのも面倒(特にその日が雨だったりすると)だし、検索やら記事のブックマークやらスクリーンショットやらいろんな意味で電子版のほうが断然便利なのですが、新聞(紙)を読むという習慣が以外に根強く自分に残っていて、ちょっと不思議ではあります。こういう言葉は自縄自縛になるから嫌いですけど、やはり「古い人間」ということになるんですかね。

しかも紙の新聞、広告がもう中高年向けのものばかり。全部が全部じゃもちろんないですけど、例えば今日の東京新聞朝刊をざっとめくってみても……

「リウマチはしっかりよくなっていく!」
「身近な人が亡くなった後の手続きのすべて」
「ピントだけが目の悩みではありません」
「全国に届ける“感動葬儀”」
「200億個の乳酸菌が入った青汁」
ちあきなおみの世界CDコレクション」
「我慢してきたその腰痛を内側から治していくお薬」
「夜、何度も…」

……と如実に読者層が想定できるラインナップ。

この最後の「夜、何度も…」なんて、具体的な症状の説明が一切ないのに、分かる年代の人には即座に分かるこの「ハイコンテキスト性」。ちょっとした感動すら覚えます。ことほどさように「古い人間」のための媒体なわけです。

そんな、いわば「斜陽」産業とも言われて久しい新聞業界ですが、その「新聞社の働かない人たちの生態を描く、サラリーマン漫画の最低到達点」(帯の惹句より)と銘打たれた、サレンダー橋本氏の『働かざる者たち』を読みました。最初はcakes(ケイクス)で有料購読していたんですけど、結局単行本を買っちゃいました。
cakes.mu


働かざる者たち (エヌ・オー・コミックス)

いやあ、面白い。目次の横にはもちろん「※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません」とクレジットが入っていますが、この小さなクレジットがやけに重みを持って感じられるくらいに、インパクトのある作品。多分にデフォルメされているであろうけれども、それが実はデフォルメじゃないんじゃないか……という気持ちを起こさせ、ある意味ホラーにも近い味わいを持っています。

誰しも労働に関しては自分なりのポリシーなり世界観なりを持っていて、それが組織、特に規模の大きな組織で働いている時には、組織のあり方と自らの「志」との間で多かれ少なかれ引き裂かれた状態にあることが多いですが、このマンガはそのあたりの機微をかなり露悪的なトーンと小っ恥ずかしいくらいの正論で交互にたたみかけてくる、そのストーリーテリングが爽快です。裏表紙に刷られた「すべての社会人に、彼が抱いたものと同じ問いをつきつける」っての、ホントにその通りですよ。

ところで、新聞は地域の販売店さんと契約して購読していますが、半年ごとに直接訪問されて契約更新のハンコを押すのがとても面倒です。醤油とか洗剤とか要らないのでネットでの直接購読契約みたいにできないかなと思うんですけど、こういうところにも地域の販売店さんなりの事情がからんでいるんでしょうね。上記のマンガには販売店にまつわるいわゆる「押し紙」についても一話が割かれています。いろんな側面で新聞ってのは古いメディアなんだなと思います。

母音の発声について

先日、謡のお稽古をしている際、師匠から「音程が上がったときの母音、特に『あ』の段が汚くなるので気をつけてください」と言われました。「以前よりもずいぶんきれいになりましたが、もう少し『引いて』丁寧に。でも声を小さくするわけではないですよ」とも。

謡には「上・中・下」などの音程があります。もちろん実際にはもっともっと複雑ですし、曲によっても多彩な様相がありますが、初心者の我々がまず気がつくのは「高い音・中くらいの音・低い音」というのがあるんだな、ということ。でもこの音程は、西洋音楽のように絶対的に決まっているものではなく、その場で謡に参加しているメンバーとの間で音程のすり合わせが行われて決まります。このその場限りの「インタラクション」が、謡の面白さのひとつではないでしょうか。

で、私の場合、この「上の音」へ上がるときに、音程が上がるぶん必死になって発声するからでしょう、やや声を張り上げるような、がなりたてるような音が入って「汚い」印象になるようです。音程が上がって確かに曲想的にも高揚するわけですが、だからこそ逆に「引いて」丁寧さと冷静さをもち、抑制的であらねばならない。けれど決して弱々しくなってはいけない……能楽にはしばしばこうした、一見相矛盾するような枠組みというか世界観が登場します。

特に「あ」の段にそれが顕著なのは、ひょっとすると中国語の発音を訓練したからかもしれないと思いました。中国語に限らず、どんな言語の訓練でも同じかもしれませんが、初歩の発音を習得している段階では、日本語の発音とは違う口や唇や舌などの使い方を繰り返し練習します。中国語の母音“a”は日本語の「あ」よりもずっと大きく縦に口を開けて、はっきりくっきり発音する……というぐあいに。

実際の中国語母語話者がそんなに口を縦に開けて母音の“a”を発音しているわけではないのですが、私達外国人が初手から中国語母語話者を真似ても習得はおぼつかないので、最初は大げさにやるわけです。

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じゃんぽ~る西氏の『パリ、愛してるぜ〜』より。


そうしたら、一緒にお稽古をしていたお弟子さんのひとりが、こんなことを教えてくださいました。この方は声楽関係のお仕事をされているプロの方です。いわく……

西洋音楽の声楽でも、以前は口を縦にできるだけ大きく開けて母音の『あ』なり“a”なりを発声するよう指導されていた。西洋人が大きく口を開けているように見えたからだ。ところが、実際には顎を落として口を大きく開けているというよりも、唇全体を大きく開けていることがわかってきた。顎が落ちると指摘されたような汚い音になりやすい。そこで現在では顎は大きく開かないような指導が行われている。

とにかく口を大きく開けて……という指導は、いわば野球などでの「ウサギ跳び」みたいな、現在では否定されつつある訓練だと、概略そんなお話でした。

なるほど~。西洋音楽と声楽と能楽の謡はぜんぜん違う世界ですが、そういう違う世界や分野の様々な知見を集めてああでもないこうでもないと「揉む」場面に接するのはとても興味深いです。そして、業界でなかば「常識」となっている知識についても、つねに疑ってかかるスタンスが必要だなとも思ったのでした。

なにこれ。もっとやらせてくれ。

肩こりと腰痛の予防、それに不定愁訴の軽減を目的にトレーニングに通いだしてほぼ一年。最初は体幹レーニングや体のバランス調整的なメニュー中心だったのですが、途中からトレーナーさんの勧めもあって筋トレをメニューに加えました。長年腰の治療でお世話になっているカイロプラクティックの先生からも、「ある程度筋肉があったほうが、腰椎に直接負担をかけすぎない(筋肉でサポートできる)という意味で腰痛になりにくいですよ」とも言われていたので、これは渡りに船だなと思って。

最初は「筋トレ」に対して「マッチョ」とか「ボディビル」とか「ピチピチタンクトップにタンニングマシンで黒々と焼いたテカテカの肌」みたいなイメージがあって(どんだけ偏ってるんだか)、ちょっと尻込みしていたんですけど、今ではすっかり楽しくなり、毎回嬉々としてダンベルやバーベルに向き合っています。

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https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_9904.html

筋トレ、特にベンチプレスのように比較的ハードなものは、たしかにきつくはあるのですが、そのぶん一種の爽快感があります。自分なりに実感できている爽快感は主に次の三つです。

他のことを考える余地がない

ベンチプレスなど「重量に直接向き合う系」の筋トレは、少なくともそれに取り組んでいる間は他のことを考える余裕がありません。トレーナーさんが常にギリギリの荷重を設定してくれるからです。たとえば12回を3セット挙げる場合、その合計36回でぎりぎり挙げきれるかどうか、最後の数回はほとんどムリ、というくらいの荷重に設定されます。

常にギリギリの状態で上げているので、全神経をそこに集中させており、他のこと、たとえば仕事の進捗や人間関係など、煩わしいことは一切考えられないのです。こういう状態はなかなか自分一人で作り出すことは難しい。トレーナーさんがいて、その指示で動いているからこそそこまで自分を追い込めるのだと思います。

この歳になって成長を実感できる

私はベンチプレスを20kgからはじめました。20kgというのは単にバー(鉄棒)だけで左右にウェイトはついていない状態。最初から3セット挙がりはしましたが、それでも「けっこうきついな」という感じでした。

それが先日は40kgまできました。ベンチプレスの40kgといえば、私くらいの体重の初心者が平均的に挙げられるとされている荷重で、それほど大したことはありません。

www.bestbody-navi.com

それでも、20kgのバーだけだったところから40kgまで荷重を倍に伸ばしてきたわけです。私くらいの中壮年層になると体力の衰えを感じ、若い頃にはできていたあれこれがだんだんできなくなっていく、普通にできたことができなくなっていく……という「イベント」が次々に現れます。

そんななか、逆に何かがどんどんできるようになっていく、成長を感じることができるというのは、とても嬉しいことです。もちろんそれは語学でも楽器でも何でもよいのですが、筋トレは荷重のkg数というシンプルな指標がどんどん伸びていくので、その成長を実感しやすいですし、他ではなかなか得難い喜びだと思います。

メンタル面も鍛えられる

これはトレーナーさんの存在が大きいのですが、プロのトレーナーさんはとにかく「さり気なくハードルを上げてくるのがうまい」。こちらがギリギリ挙げられる荷重をセットし、少し無理そうなら補助を入れたり、回数を減らしたり、荷重を数kg落としたり、逆に余裕をかましていると、すかさず荷重を上げたり、「はい、あともう1セット!」などと追加してくれたりします。

しかもこの「重量に直接向き合う系」は、途中で邪念が入って「ああ、だめだ」と思った途端に本当に挙がらなくなるんですよね。これがもう、見事なくらい「カクッ」と挙げられなくなる。それを避けるために、一度そのセットを始めたら、躊躇しない、挙げられるだろうかという疑念を差し挟まないというマインドセットが大切なんです。

単に「気合い」と言ってもいいんでしょうけど、もう少し地に足がついた感じというか、静かな闘志というか、自分の気持ちをそういうところに持っていくマインドセットを養うことができるような気がします。こういうのって、仕事にも活かせるんじゃないかなあと。

以前Twitterで拝見したこちらのツイートのように「なにこれ。もっとやらせてくれ」ですよ、筋トレって。

togetter.com

思いがけずかなった墓参

今年の二月に、こんなエントリを書きました。昔とてもお世話になった、今は亡き画家ご夫婦の思い出です。

qianchong.hatenablog.com

「先生の墓所も知らない私のささやかな夢は、いつかアッシジに行ってこの風景を探し出し、そこで受験時の『背叛』をおわびして、同時に『ありがとうございました』と言うことです」。こうエントリを結んで半年あまり、アッシジに行く前になんと、先生のご親戚の方からブログにコメントを頂きました。ネットで偶然、私のエントリにたどり着かれたのだそうです。そして、そのご縁で墓参を果たすことができました。まさに望外の喜びです。

私は東京でエスプレッソコーヒーの粉を買い、さらに墓所に近い神戸のフロインドリーブでパンを買ってから霊園に向かいました。

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先生ご夫妻はイタリアで長く暮らされたためか、エスプレッソコーヒーがお好きでした。ご自宅にはビアレッティ(Bialetti)のモカエクスプレスがあって*1、小さなデミタスカップに砂糖を何杯も入れて飲んでいました。

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でも当時はエスプレッソ専用の粉がなかなか手に入らず、先生ご夫妻は深入りしたコーヒー豆をできるだけ細かく挽いてもらうとおっしゃっていました。それで私が、あれは受験で東京へ行ったときだったかに、青山の紀ノ国屋*2でラバッツァ(Lavazza)のエスプレッソ粉を買ってきて先生ご夫妻に差し上げたら、たいそう喜んでくださいました。その後も何度か差し上げたような記憶があります。それで今回の墓参にもエスプレッソ粉を持参したのでした。

フロインドリーブのパンも先生ご夫妻には欠かせないアイテムでした。特に「ライ・ロール」と「グラハム・ロール」という食事用のパンがお好きで、「いつもまとめて買っている」とおっしゃっていました。当時のロールは細長い小型の円柱状だったと記憶していますが、今はもう作っていないようでした。それで今回は丸い形の「ライ・ロール」と「グラハム・ロール」、それに「ポンパニッケル」を買い求めて持参しました。

墓所は神戸の街と海を望む、見晴らしのよい高台にありました。あいにくの雨模様でしたが、お花を手向け、お線香をあげ、エスプレッソ粉とパンを供えて、往年のご指導とご縁に感謝の祈りを捧げました。

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ところで、今回の墓参にあたって、かつて私が通っていた絵画教室の場所をグーグルマップで探してみました。それはとある駅前にある古い団地の集会所だったのですが、航空写真で見る限り同じ団地がまだ残っているようでした。それで実際に行ってみたところ……

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なんと、その集会所まで残っていました! 記憶はおぼろげですけど、確かにこの建物です。母親に連れられた私は、ここで先生ご夫妻と初めてお目にかかったのでした。懐かしさが匂い立ちます。先生が「次回からは親御さんはついて来ずに、お子さんお一人で通わせてください」とおっしゃったことも思い出しました。先生ご夫妻はとても自律と自立を重んじる、優しくも厳しい方でした。

ご縁に感謝するとともに、あらためてネットの力に驚嘆しています。

*1:イタリアで昔から使われている定番の直火式エスプレッソメーカーですね。確かちょうどその頃、1979年に発表されたアレッシィ(Alessi)の9090という直線的デザインのエスプレッソメーカーが日本にも入ってきていました。でも先生が「モダンすぎるよね。やっぱりエスプレッソはビアレッティのこれじゃなきゃ」とおっしゃっていたのも覚えています。

*2:現在は青山Aoの地下に入っているスーパーです。もともとはあの場所にあった二階建ての高級スーパーでした。カルディみたいな輸入食品店がまだほとんどなかった時代で、広尾のナショナルスーパーマーケットと並んで異国を感じる憧れの場所でした。油圧式の超スローなエレベーターがあって、あれは食料品にダメージを与えないためだ、などといった「伝説」のあるスーパーでした。

同調圧力から逃れるためのメンター

鴻上尚史氏による人生相談を読みました。帰国子女のお子さんが学校のクラスで浮いた存在になっていると悩むお母さんの悩みに答えたものです。

dot.asahi.com

鴻上氏は「同調圧力の強さと自尊意識の低さが日本の宿痾」と喝破した上で、とても現実的な解決策を提案します。その策のいずれも、ご本人たちのある程度の忍耐と努力を必要とするものでした。私は、確かに現実的にはそうやって粘り強く「たたかって」いかなければならないよなあ、と思いつつも、そんな「たたかい」を必要としない社会にして行かなければならないよなあ、とも思ったのでした。

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https://www.irasutoya.com/2017/02/blog-post_57.html

日本における同調圧力の強さについては、日々色々な場面で痛感することしきりです。そして自分はそうした圧力から常に自由でありたい、逃れ続けていたいと思ってきた人間ですが、それでも知らず知らずのうちに同調圧力に屈していたり、時には自らその圧力に荷担していたりすることがままあって(特に教育という場に身をおいていると)、ちょくちょく「あ、いかんいかん」と軌道修正しています。

私が同調圧力から逃れるために、あるいは同調圧力を極力客観視できるようにするためのに「メンター(恩師・導く者といったような意味です)」としているは中国語圏の人々です。

中国語圏の社会にだってもちろん同調圧力のようなものはありますが、みなさん基本「あんまり気にしてない」。“蘿蔔青菜各有所好(蓼食う虫も好き好き)”、“上有政策下有對策(上に政策あれば下に対策あり)”、よそはよそ、うちはうち。人と違っても気にしないし、自分と違う感覚の人がいてもあまり関知しないのです。まあ中国語圏以外だって同様かもしれませんけど。

天津に留学していたころ、夏の暑い盛りには“膀爺”をよく見かけました。上半身裸で往来を闊歩しているおじさん(主に)です。海外では「北京ビキニ」などと称され、上半身全部脱いじゃう方以外に、シャツをたくし上げてお腹の部分だけ出してるおじさん(主に)も。「暑けりゃ、脱ぐ! それが何か?」というこのフリーダム。

“蹭涼族”という言葉もあります。“蹭”は「ちゃっかりもらっちゃう」みたいな意味で、デパートの扇風機やエアコン売り場とか、銀行とかコンビニとかに、涼むためだけに居座っちゃってる方々です。「暑けりゃ、涼む! 何か文句ある?」と。基本、他人が自分のことをどう思うかなんてあんまり気にしないんですね。

まあ日本にだって、家電量販店のマッサージ機に陣取ってるおじさんやおばさんは出没しますし、スーパーなどで少しでも製造年月日の新しい食品を取ろうと棚の奥に手を突っ込んで書き出している「ごうつくばり」さんはいますけど。

qianchong.hatenablog.com

それはさておき、最近私が「日本は特に同調圧力が高い社会なのかな」と感じたのは、とある公共交通機関におけるマナー広告を巡ってでした。一時期話題になったこの広告、中国語圏からの留学生はどう感じるのかなと思って、意見を聞いてみたのです。

youtu.be

特に後半の「電車内で化粧」については、ほとんどの留学生が「別に何も……」でした。「まあそういう人もいるのかな、という感じ」。これだけ価値観が多様化している現代の、特に大勢の人間が暮らしている大都会であれば、いろいろな人がいて当然だし、いちいち気にしたりしない……と。

むしろ「あんなに揺れている車内で、よくアイシャドーなど塗れるなと感心する」といった意見もあり、また「そもそも自分の国にいるときはメイクなんてほとんどしなかった。日本に来て、周りの方がみんなメイクしているので私も少しは、と思った」という、日本における新たな同調圧力の存在を教えてもらったりもしました。

そうなんですよね。中国語圏を旅していて気持ちが楽なのは、外見が現地の方とそれほど違わないので溶け込んでしまうことができ、誰も私のことなんて気にしてない(だからこっちも気にしない)という開放感です。まるで透明人間になったような感じとでもいうか。もちろん人様の国ですから「旅の恥はかき捨て」的な無礼はないよう心がけていますが、日本にいると常時まとわりついてくるような同調圧力を感じないのです。

まあそれは旅行者や留学生という一種の特殊な身分だからかもしれません。現地の社会に溶け込んで仕事や生活をするようになればなったで、また日本とは違う種類の同調圧力がかかるのかもしれません。それでも、彼の地の人々の“我行我素(他人がどうあれ私は私のしたいようにする)”という基本的な人生観には学ぶべきところがあるのではないかと思うのです。

もちろん、それが行き過ぎれば社会は秩序を失います。たとえば、中国語圏の留学生が異口同音に言う「日本は街がきれいです」というの、中国語圏のあちこちを見てきた目からすればまあその通りかなと思います。日本にだって「ポイ捨て」やら「歩きタバコ」やら公徳心の乏しい人はたくさんいますけど、それでも日本の往来はかなりキレイですし、社会の秩序も治安もそこそこ高い水準に保たれていると言えるでしょう。これは同調圧力の強い日本だからこそという側面もあるのかもしれません。

放っておけば人々が自分勝手に動いて秩序が乱れるので、たとえば大通りには横断を阻止するために延々フェンスを設置するとか、公共交通機関では入口と出口を別々に設けるとか、そうしたインフラへの支出がなくて済むのは、その秩序が人々の自発的な意思、あるいは相互監視(=同調圧力)によってある一定のレベル以上に保たれているからではないでしょうか。

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市中心屡屡上演跨栏秀 谁之过? - 草根播报

私はそうした日本のあり方も好ましく思う人間ですが、その一方で鴻上尚史氏が宿痾と指摘する同調圧力の高さも問題だなと思います。個々人が自立や自律を尊ぶ矜持と公徳心を保ちつつ、他人の行動や生き方には過度に干渉しないという、その「落とし所」はどのあたりなんでしょうか。

追記

鴻上尚史氏の人生相談、今週も「同調圧力」に絡む内容でした。

headlines.yahoo.co.jp

同調圧力の最も強いもののひとつが「世間」です。田舎になればなるほど、高齢者になればなるほど「世間」を強く感じます。つまりは、同調圧力が強まり、逆らえなくなるのです。

これは……。かつて田舎に憧れて移住して、結局あれこれあって東京に舞い戻ってきて、なおかつ自らが高齢者に近づきつつある私としては、ずしんと胸に響く記事です。同調圧力との「たたかい」は、よほど腰を据えてかからねばならないようですね。

笑顔訓練の必要

国や地域、年齢、性別やジェンダーを問わず、笑顔が魅力的な方に出会うことがあります。そんな方に接すると、こちらの気持ちまでほぐれていくのがよく分かります。「笑顔が魅力的」だなんて当たり前すぎるくらいの陳腐な形容ですが、なかなかどうして、これは一種の才能、それも天賦の才能ではないでしょうか。

実のところ私、これまでに笑顔に関する本を何冊も読みました。たぶん十冊はくだらないのではないかと思います。Amazonで「笑顔」を検索してみるとわかりますけど、「笑顔本」ってたくさん出版されているんですよ。それでも私はいまだに笑顔を獲得できていません。自分の性格の成せるわざかもしれませんが、これにはもう一つ理由があって、私の顔面は笑みを作りにくいのです。

昨年亡くなってしまいましたが、義父、つまり細君のお父さんと同居している頃、仕事でもプライベートでも色々と困難な局面があり、そこにすでに認知症が始まっていたお義父さんとのあれこれが重なったからでしょう、私は顔面神経麻痺を発症してしまいました。ベル麻痺という症状です。この症状はストレスなどで体力が低下している時に、ウィルスの感染によって引き起こされると考えられています。

qianchong.hatenablog.com
ベル麻痺 - Wikipedia

ベル麻痺の年間罹患率は10万人あたり20人と言われています。それほど珍しい症状ではなく、完治率も高いのですが、私は処置が遅れたためか、結局後遺症が残ってしまいました。左側の頬から口元にかけて、自由に動かすことができなくなったのです。

今では外見的にはほとんどわからないくらいになっていますが、意外なところに生活上の支障が出ました。幸い「商売道具」である言語の発声には影響しませんでした(表情筋と発話のための筋肉は異なるのだそうです)が、口笛が吹けなくなった。ストローで吸えなくなった。麺類をすすれなくなった。時々食べこぼしてしまう……等々。でもこんなのは大した支障ではありません。本当に残念なのは笑顔が作れなくなったことです。

笑顔を作るというのは畢竟「口角を上げること」です。上記の「笑顔本」でも、鏡に向かい、口角を上げる練習をするために割り箸を口にくわえるなど様々な方法が紹介されています。

でも私は左側の口角がほとんど上がらないので、本心ではどんなに笑っていても、外見的にはあまり笑顔に見えないのです。顔の左側が「素」のままなので、右側だけいくら口角を上げても、まぶしそうな顔になるか、せいぜいニヒルな笑い、よく言って照れ笑いにしかなりません。周りも、そして自分自身も明るくなることができるような自然な笑顔は、もう一生作れないでしょう。

もっと笑っておけばよかった、笑顔を作っておけばよかったと思います。単なる外見にすぎないとはいえ、やっぱり人を和ませる笑顔は歴然と存在するのです。笑顔が素敵な方に出会うたび、そう思います。

……とはいえ。笑顔はひとりひとり違うもの。そして表面的に作った笑顔(いわゆる「営業スマイル」など)と心からの笑顔は別物だとも思います。こうなった以上、私は私で、私なりの笑顔を作ればいいのでしょうか。もう一度鏡に向かい、訓練をしてみようかなと思います。

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https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_325.html