インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィードバックをもらえるありがたさ

通訳学校は現在、秋学期の生徒募集時期ということで、どちらの学校も無料公開講座セミナーなどを開催されています。eラーニングやネット動画を使った教材も増えている昨今、毎週毎週教室に足を運んで訓練する昔ながらのやり方じゃなくてもいいんじゃないかと思われる方もいらっしゃると思うんですけど、私は、自分がかつてこうした学校に通った、あるいは現在も別の言語で毎週語学学校に通っている実体験に照らしても、通学には通学の大きなメリットがあると思います。もっとも私がこう語ると、単なる営業トークになってしまうんですけど。

通学するメリットのひとつは「フィードバックがもらえる」という点です。もちろん講師の先生からのフィードバックも貴重なんですけど、それと同じくらいクラスメートからの意見がとても参考になるのです。特に通訳学校や語学学校などは一般的に習熟度が同じレベルの方と一緒のクラスになっています。そういうほぼ同レベルで“志同道合(志を同じくする)”のクラスメートに、自分でも気づいていなかった弱点なり欠点なりを指摘してもらえる、これは本当にありがたいことでして。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_79.html

例えば私のクラスではよく「サマライズ」という訓練を行います。これは中国語なり日本語なりのまとまった音声や映像(五分間くらい)をメモを取りながら視聴して、その後すぐに別の言語で(難しければ同じ言語でも)一分間ほどに圧縮(要約)して話す、という訓練です。初めて見聞きした内容の、その骨子となる部分や重要な理路の流れを素早くつかみ、目の前にいる人にわかりやすく話すという訓練で、リスニングやスピーキングはもちろん、理解力や記憶力、当意即妙の表現力などが鍛えられます。

かつて私が通訳学校に通っていたときにもこの「サマライズ」訓練をやりましたが、そのときにクラスメートから指摘された多くの事柄は今でもよく覚えています。いわく「あなたは話すときに体が揺れている」「押しつぶされた猫みたいな声で喉がつらそう」……などなど、いずれも自分ひとりで練習しているときには全く気づいていなかった欠点を指摘してもらったのです。こうした欠点はそのままクライアント(お客様)の前でも出てしまうわけで、それはデリバリー(通訳の訳出)の評価にも直結します。

日本人にしろ華人にしろ、遠慮してはっきりした批評を述べたがらない方が多いので、この訓練を行うときは「自分のことは棚上げで」と繰り返し助言しています。目の前でサマライズをしているクラスメートを自分がお金を出して雇った通訳者だと仮定して、その上でそのクラスメートのパフォーマンスにお金を払えるかどうかという観点で批評してくださいというわけです。「自分のことは棚上げ」にしないと、お互い「何よ、じゃあアンタはできるの? やってみなさいよ!」ってな感じで険悪なムードになりかねませんから。

ともかく、こうやって「自分ひとりでは気づかなかった欠点を他人に指摘してもらえる」というのが、学校に通うメリットのうちでもかなり大きなものだと思います。人は誰しも自分に甘くなりがちですし、それにひとりで練習なり訓練なりをしていても「だからどうした」という気持ちになりがちなんですよね。例えば市販の通訳教材を使って録音を聞き、それを訳し終わっても……「で?」という感じがしませんか。何もフィードバックがないというのは、とても虚しい気持ちになるものなのです。

そこへ行くと教室では講師やクラスメートがフィードバックをくれますし、それ以前に他人に自分のパフォーマンスを聴かれている、見られているというだけで緊張感なりプレッシャーなりが、自宅でひとりで訓練しているときとは全く違います。

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https://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_314.html

そういえば、筋トレだって、自分一人でベンチプレスしていても、なんだか張り合いが少ないです。自分なりに目標を定めてやっているとはいえ、やり終わってもなんのフィードバックがないというのは、なかなかに虚しいものがあります。以前ひとりで一年半ほどジムに通っていた時期があるのですが、終始ひとりでやっていたためか、驚くほど効果が(ダイエットにしても筋肉増強にしても)ありませんでした。

これがパーソナルトレーニングだと、常にトレーナーさんが声をかけてくれますし、意識をすべき体の部位を触って教えてくれますし、終わったあとには声をかけてくれたり、課題点を指摘してくれたり、褒めてくれたりする。お世辞だとはわかっていても「ナイスファイト」とか「素晴らしい」とか「体幹が強くなりましたね」とか言ってもらえると、モチベーションも上がる。人間ってそういうものですよね。

中島敦の『名人伝』に出てくる弓の達人・紀昌みたいに、一人で山にこもって黙々と修行を重ねて高みに到達する孤高の方もいらっしゃるでしょうけど、私のような意志の弱い凡人は、やはり誰かにフィードバックをもらいながらでないと上達は望めないみたいです。

レイパユースト

この夏はフィンランドの田舎をレンタカーで旅行して、よく沿道のスーパーで食材を買い込んでいました。そのときに偶然買って食べたチーズがとてもおいしくて、すっかり気に入ってしまいました。見た目は「焼いたはんぺん」みたいなこのチーズ、名前は「leipäjuusto(レイパユースト)」。フィンランド語で「ieipä」がパン、「juusto」がチーズなので、「パンのようなチーズ」ってことなんでしょうか。おもしろい名前です。

ウィキペディアに「レイパユースト」の項目があって、そこには「噛むと『キュッ、キュッ』と音のするような弾力のある食感が特徴」と書かれていました。たしかにそのとおりの食感で、それも魅力のひとつだと思います。カッテージチーズをギュッと固めて、表面に焼き目をつけたという感じです。

ja.wikipedia.org

レイパユーストは料理の食材というよりお菓子やお茶うけの分類なのでしょうか、フィンランドの湖でカヤック遊びをしたときも、休憩時間にガイドさんがレイパユーストに黄色いベリーのジャムを乗せて出してくれました。レイパユースト自体はなんのクセもなくごくごくほんのりと薄い塩味がするだけなのですが、それが甘いジャムによくあっているような気がしました。

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この黄色いジャムは「lakka hillo(ラッカヒッロ)」といって、クラウドベリー(ホロムイイチゴ)のジャムです。ガイドさんによると、中央フィンランドや南フィンランドではレイパユーストによく合わせるジャムだそうで、そのお話の通り、街の市場などではこの黄色いベリーのジャムが大きなバケツみたいな容器でたくさん売られていました。

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一方このレイパユーストは、フィンランドのスーパーなどではだいたいどこでもパック入りで売られている、いたって安価な食材ですが、要冷蔵であまり日持ちがしないみたい。というわけで、たくさん日本に持って帰りたかったのですが、今回はあきらめました。

それでも東京に戻って、あの味が忘れられず、試みにネットで「レイパユースト 東京」と検索してみると……なんと自宅近くにこのレイパユーストを販売しているお店があるではないですか。さっそく昨日、仕事帰りに寄ってみました。


http://www.lammas.jp/

店頭のショーケースには並んでいなかったのですが、お店の方に聞いてみると「ありますよ」とのこと。冷凍されていますけど、懐かしの(?)レイパユーストです。しかもこのお店には、あのカヤックのガイドさんが供してくれた黄色いクラウドベリーのジャムまで売られていました。輸入品なのでフィランド現地に比べるとかなりお高いですが、せっかくなのでどちらも買い求めて帰ってきました。

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こんなマイナーな食材まで売っているなんて、すごいですね。さすが食に貪欲な、というか、他の国々の方から見ればほとんど「節操がない」と言われそうなくらいクロスオーバーな食生活――朝はご飯に味噌汁、昼はカレー、夜は中華といったような――を展開する日本ならではです。

フィンランド語 45 …複数形登場

ほとんど「ボケ防止」で始めたフィンランド語の学習は細々と続いています。先日フィンランドを旅行して、多少なりとも看板が読めたり、単語の羅列程度であっても話が通じたりすると、やっぱり楽しいものですね。

学校での授業はどんどん進んで、複数形が登場しました。これまでにも「複数主格」というのだけは学んでいて、例えば「kissa(猫)」が「kissat(猫たち)」と、「t」が目印という認識だったのですが、フィンランド語はその他の名詞や形容詞の格も全て複数形になるのです。しかも格によって複数形の作り方が異なるという……さすがに「悪魔の言葉」と言われるだけのことはあります(褒めてます)。

ただ複数の「属格」「分格」「入格」以外は同じ作り方だということで、まずはそちらから学びました。目印は複数主格(対格も)の「t」に対して「i」です。あれ、「i」は過去形の目印でもあったんじゃないの……ということでまた混乱しそうな予感がしますが。

基本的には単数の活用語幹(つまり「ie子」やkptの変化を済ませたあと)に「i」を足し、さらにそれぞれの格語尾(つまり内格なら「ssA」、出格なら「stA」など)をつけるんですけど、重要なのは「i」が入ることで「母音交替」という現象が起きることです。この現象は過去形でも起きました。

①活用語幹の最後が o ö u y の場合、母音交替は起こらない。
talo(家):talossa → talo i ssa → taloissa

②活用語幹の最後が e ä の場合、e ä が消える。
joki(川):jokella → joke i lla → jokilla
tytär(娘):tyttärestä → tyttäre i stä → tyttäristä

③活用語幹の最後が a の場合、単語の最初の母音が o u なら a が消え、それ以外なら a が o になる。
koira(犬):koirasta → koira i sta → koirista
kirja(本):kirjassa → kirja i ssa → kirjoissa

④活用語幹の最後が i の場合、 i が e になる。
pankki(銀行):pankissa → panki i ssa → pankeissa

⑤活用語幹の最後が長母音の場合、短母音になる。
maa(国):maassa → maa i ssa → maissa

⑥活用語幹の最後が二重母音の場合、最初の母音が消える。
työ(仕事):työssä → työ i ssä → töissä

⑦三音節以上の単語で、活用語幹の最後が a ä の場合、名詞は a ä が o になり、形容詞は a ä が消える(例外あり)。
ravintola(レストラン):ravintolassa → ravintola i ssa → ravintoloissa
ihana(素敵な):ihanassa → ihana i ssa → ihanissa

⑦番はいろいろと例外があるようで、例えば「omena(リンゴ)」は「omenoi-」と「omeni-」のどちらもOKみたいです。でもまあこれで、よりヴィヴィッドな表現ができるようになりますね。私は以前こんな例文を作ってみたことがあるのですが……。

Miksi sinä opiskelet suomea?
Koska minä pidän suomen metsästä ja järvestä.
なぜフィンランド語を学んでいるの?
フィンランドの森と湖が好きだからです。

なんだか質問と答えが噛み合っていない稚拙な例文ですが、それ以上に、これだと「森」と「湖」が単数形なので、フィンランドのある特定の森や湖が好きということになっちゃうんでしょうね。正確に表現するなら「森たち」「湖たち」と複数形にしなければならないと。このへんは日本語とぜんぜん違う発想で面白いです。

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Miksi sinä opiskelet suomea?
Koska minä pidän suomen metsistä ja järvistä.

「まあいいか」の練習

先日「オーウェル思考」という言葉を知りました。『1984』や『動物農場』『カタロニア讃歌』などを書いた作家のジョージ・オーウェルを連想したんですけど、全く違っていて、英語の“Oh, well(まあいいか)”なんだそうです。

gendai.ismedia.jp

日頃から「まあいいか」と思うようにすると、イライラが減り、自分の仕事に集中できます。(中略)大切なのは、自分と相手との「価値観・考え方・やり方」は違うのだということを知っておくことです。

なるほど。私は最近、東京の「ストレスフル」な環境に耐え難くなってきていて、その原因は東京の人の多さと、その多くの人が互いに発信している「イライラ」あるいは「不機嫌」にあるんじゃないかと思っているのですが、それは人々が(自分も含め)「まあいいか」と他人を許容することができない、つまり互いに寛容になれていないからなんでしょうね。

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この記事は講談社の『現代ビジネス』というサイトに掲載されているので、主に仕事の効率や生産性向上という観点で書かれていますけど、この「まあいいか」は暮らし全般にあてはめて考えてもいいのではないかと思いました。

以前東急電鉄が電車内マナーに関する一連の広告を作成して話題になったことがありました。「歩きスマホ」や「電車内での化粧」に対して、「ありえない」「みっともない」とそうした行為を諌める内容で、賛否両論がネットなどで飛び交っていました。

youtu.be

私は当時このCMを留学生のみなさんに見てもらい、この内容についてどう思うか、また自分の国でこうした啓蒙活動(?)がなされているかをたずねてみました。そこでの大半の意見は「別にいいんじゃないですか」というものでした。つまりそこまでマナーの徹底を求めなくてもいいのではないか、求めても仕方がないのではないかというわけです。

qianchong.hatenablog.com

中でも、とある台湾人留学生の意見は、シンプルだけれどとても心に残りました。「みっともないかも知れないけど、そういう人なんだと思うだけ」。つまり世の中には色々な人がいて、自分の想像を超えたような人もいるのは当たり前のことで、それを変えさせようとか糾そうなどとは思わないというわけです。まさに「まあいいか」ですよね。

世の中の不合理や不条理に対して、すべてを「まあいいか」で済ませてしまうのはどうかとも思います。おかしいことはおかしいと言わなければならないこともある。でも身の回りすべてのことに異議申し立てをしていたら、上記の記事にもあるように相手に自分の「価値観・考え方・やり方」を当てはめようとしていたら、それはイライラしますし、疲れてしまいます。

オーウェル思考」の対局にあるのは「マスト思考」なんだそうです。マストは“must”、つまり「〜すべき」という考え方で、その例が上記の記事にもたくさん書かれていますが、これにあてはめれば私など典型的な「マスト思考」の人間です。そしてその「〜すべき」を自分にだけ適用しているならまだしも、他人にも期待していなかったかと自問自答したのです。答えは……していたなあ。そりゃイライラも亢進しようというものです。

私は昔から「自分に厳しい人」というのを一種の褒め言葉として認識してきたんですけど、その厳しさが漏れ出して他人にまで無制限に及ぶようになったら、これはもうパワハラ紙一重ですね。そしてそこには「イライラ」や「不寛容」や「不機嫌」の種もたくさん播かれていたわけです。東京の人の多さは当面どうしようもないけれど、自分のスタンスは変えることができます。というわけでいま、「不機嫌」の真逆にある「上機嫌」を自分に課すべく努力して練習しています。

……あ、こうやって「課すべく努力する」ってのが、そもそも「マスト思考」なんでしたね。

マンガ サ道(第2巻)

タナカカツキ氏の『マンガ サ道』第2巻を読みました。

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マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(2) (モーニングコミックス)

今年はサウナがとても人々の話題にあがる年なんだそうで、このマンガをもとにしたテレビドラマが放映中なのに加え、もうひとつ別のサウナをテーマにしたドラマも放映中です(私はどちらも見ていませんが)。さらに「サウナの本場」フィンランドと日本の外交関係樹立100周年ということで、サウナを始めとした様々なフィンランドの文化がメディアに載ることも多いみたいです。来月にはフィンランドドキュメンタリー映画『サウナのあるところ』もロードショー公開されるよし。まさにちょっとしたブームですよね。

www.tv-tokyo.co.jp
www.asahi.co.jp
www.uplink.co.jp

かくいう私も、そんなブームに乗ってサウナ好きになったひとりですが、そんな自分に驚いてもいます。だって私は生来の「あまのじゃく」で、人気があるとか流行しているとかブームになっているとか、そういうものには近づきたくない! という性格だからです。なのにどうしてサウナにハマってしまったのでしょうか。現在は朝活で毎日ジムに行っているので、平日は毎日サウナを利用しています。

朝からサウナに入ると、もうその時点で仕事をしたくなくなりそうですが、4、5ヶ月間ほど続けてきた実感からいえば、仕事をしたくなくなるというより、仕事に向かう気持ちがよりわいてくるという感じです。うまく言語化できないのですが、とても気持ちがスッキリとしているので、仕事にスムーズに入っていけるというか。空腹のときは頭が冴えているような気がするものですが、アレに似た感覚です。そう、適度にお腹が空くのもサウナの効用のひとつです。

こうしたサウナのあとの爽快感や開放感や、もっと進んだ多幸感みたいなものを、タナカカツキ氏は「ととのう」と表現されています。この「ととのう」「ととのった」はすでにサウナ・スパ業界では標準的な用語というか惹句のように用いられているようで、サウナに貼ってあるポスターなどにもよく使われています。この『マンガ サ道』にも、そうやって「ととのった」人々(作者を含めて)の様々な物語が並んでいて、読んでいるこちらもほんんわかと多幸感に包まれます。

実際のサウナはむくつけきオジサンばかりで、正直私はあの雰囲気はちょっと苦手です。オジサンを十把一絡げに語るのも失礼ですし、自分も紛う方なきオジサンなので語る資格すらないですが、まあ場の雰囲気からいえば、そんなに上品で静かで心安らぐような空間ではないんです。タナカカツキ氏も折りに触れ描写している、マナーのあまりよろしくない方々もいらっしゃいますしね。それでも、サウナと、それから水風呂と、さらに外気浴などの休憩を経た後に自分の中に生まれるのは、ちょっと信じられないくらいの爽快感であり開放感であり、なにより多幸感なのです。このギャップはなんなんでしょう。

思うに、サウナという一つの文化は、これまであまり文字や映像などに表現されてこなかったのかもしれません。いや、もちろん、これまでにもその魅力なり効能なりを言語化する試みはたくさんあったはずですが、それが広く認知されるまでには至らなかった。銭湯文化についてはかなり広く認知されていると思いますが、サウナ文化についてはまだまだですよね。それがいま時宜を得ていっせいに発信され始めたのかもしれません。

この点で、『サ道』のタナカカツキ氏を日本でただひとりの「サウナ大使」に任命した「日本サウナ・スパ協会」は、まさに炯眼であったというべきでしょう。私は昨日も、この第2巻の巻末に載せられていた「ととのいすぎちゃう全国のサウナ厳選50(第2弾)」にあった都内某所のサウナに行ってきました。ここはフィンランドのサウナ同様に自分でサウナストーンにお湯をかける「セルフ・ロウリュ(すごい和製芬語!)」ができるのです。もちろんしっかりと「ととのい」ました。

「失礼しました〜!」に見る日本人的な心性

飲食店内で時々「失礼しました〜!」って声を聞きますよね。店員さんがお皿やお盆やなどを落としたりして大きな音を立てたときに、すかさず言うアレです。私はアレ、とても日本らしい風景だなと思います。少なくともこれまでに訪れたり住んだりした海外では聞いたことがありません(もし日本以外での例をご存じの方、ぜひご教示ください)。

いきなり大きな音を立てるとお客さんがびっくりする。そうやってお客さんをびっくりさせてしまったことに対して、お店として謝る。「失礼しました〜!」にはそういう意味があるんでしょうけど、私が興味深いなと思うのは、この「失礼しました〜!」が結構な大声で、店内じゅうに響き渡るように発せられる点です。

もちろん、何かを落とした音が店内じゅうに響き渡っている手前、それに対する謝罪も店内じゅうのお客さん全てに聞こえなきゃ意味がないという理路なんでしょうけど、あの「失礼しました〜!」はお客に対する謝罪もさることながら、落とした自分への免罪も多分に含まれているような気がします。普段きわめて内向的な日本人がここまで素直に、即過ちを認めて大きな声で謝罪している以上、それ以上のクレームはもう受け付けません的な。これで最前の過ちは帳消しみたいな。

いえ、落として、すぐに謝るのは、とってもいいと思いますよ。大きな声も清々しいと思います。実際、私も若い頃飲食店でアルバイトをしていて、この「失礼しました〜!」を言った(叫んだ)ことがあります。でも言ったときに感じたんです。あ、これは免罪符だなって。物を落とした痛恨のミスを、とっさの大声で跳ね飛ばすような突破力(?)があるんですよね。ここまで素直に率直に大胆に謝罪しちゃっている以上、店長もそれ以上「お前、何やってんだよ」的な叱責を飛ばしにくい。せいぜい「ほら、さっさと片付けちゃって」と指示するくらいが関の山でしょう。

だから「失礼しました〜!」にはどことなく「ズルさ」が潜んでいるような気もします。何でもかんでもすぐ水に流してなかったことにしちゃう心性が隠れていると言ったら、言い過ぎでしょうか。あと、店内じゅうに響く声で一度言ってしまえばそれで済んじゃうというのも、考えてみればとってもお手軽ですよね。たぶん超高級レストランだったら、それぞれのテーブルを回って「先程は失礼いたしました」などと謝るのかもしれません。

私自身は、うっかり物を落とすのは仕方がないことだから、いちいち謝らなくてもいいと思っています。でも先日、昨日も書いたようにカウンター内がほぼ外国人労働者で占められている「丸亀製麺」で、厨房からかなり大きな音がしたんですね。大きなお盆かバットみたいなものをひっくり返したような。

その音にかなりびっくりして、おもわず身がすくむくらいだったんですが「失礼しました〜!」はありませんでした。そのときに私は一瞬「っとにも〜、なんだよ〜」と不満を感じてしまったんです。ふだん「いちいち謝らなくても」と殊勝なことを言っておきながら、実際にその場に出くわすとやはり謝罪を期待する。こういうパターン化された日本人的な心性からはなかなか自由になれません。

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余談ですけど、この「丸亀製麺」で私は「釜玉の並、温玉で混ぜて」と注文したんですが、多分中国系と思しきチーフ的な店員さん(釜からうどんを引き上げる担当)がインド系か中東系とお見受けした店員さんにうどんの丼を手渡しながら手短に「釜玉温玉混ぜ」と指示しました。そしたらその指示を受けた店員さんはなぜか「明太釜玉」を作っちゃった。するとチーフ的な店員さんが「違う!」と叱責して丼を奪い、中身を「ばあっ」と後ろのゴミ箱にあけちゃったんです……。

私はこの一連の流れを見ていて、なんだかとても複雑な心境に陥ってしまい、改めて作って差し出された「釜玉」もあまり美味しくいただけませんでした。これも日本人的な心性からすると、せめて客の見えないところで「ばあっ」ってやってほしいなと思っちゃう。

でもそれはこうやって外国人労働者に頼らざるを得ない社会になりつつある日本社会では詮無い望み、あるいはオーバースペックな接客への要求ということになるのでしょう。感性の異なる(そこに「良い・悪い」はありません)人々と一緒に暮らすというのは、ひょっとしたらこういうことなのかもしれません。

「外食の味が濃すぎてつらい」のその後

以前「外食の味が濃すぎてつらい」と独りごちたことがあるんですけど、最近はますますその傾向に拍車がかかってきてしまいました。特に東京は、どこで何を食べてもほとんどの場合味が濃すぎるというか塩辛すぎてつらいのです。いえ、これはお店のせいではなくて私個人のせいです。歳を取って、味の濃いもの、塩辛いものが本当に苦手になりました。血圧が高めだから塩分を控えなきゃ……という心理的なものも後押ししているのかもしれません。

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そこへいくと台湾は、もちろん例外もあるものの、どこで何を食べても東京に比べて格段に薄味で「ほっ」とします。特にここのところ毎年訪れている離島の澎湖諸島は、薄味の台湾料理の中でもさらに薄味で、本当においしいです。ここまで来るともう台湾料理とか、ましてや中華料理というカテゴリーとはまったく違う料理のような気がするほどです。

今回も、その薄味かつ奥深い味でうなったのが、毎回訪れている「福台排骨麵」の排骨混沌意麵。スペアリブとワンタンが入った麺ですが、こってり・ぎっとりの代名詞みたいなスペアリブがこの上なく上品で薄味です。あっさりしているのは、たぶん蒸しているからなんでしょうね。お店ではでっかい蒸籠から常に蒸気が上がっていて、その中にアルミの筒がたくさん並んでおり、そこに一人分ずつ衣をつけて揚げたとおぼしきぶつ切りのスペアリブと、なぜか大根がひとかけら。ここでホロホロになるまで蒸されたスペアリブと「ひだひだ」の多いワンタンが、麺の上に乗っかっているわけです。

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これがもう、見た目からはまったく想像できないほどのあっさり味・薄味で、何度食べても飽きません。お店の中は至って庶民的で雑然としていて、目の前でおかみさんがワンタンを包んでいるようなシチュエーションなんですけど、そういうのもまたこの飾らない味に一役買っているような。

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私がその「薄味+しかしながら奥深い味」に感動して、おかみさんに「本当においしいです。こんな麺料理、東京じゃ味わえません」と言ったら、「うちは麺も具もすべて自家製の手作りなのよ」と胸を張っていました。ワンタン作りを観察していたんですけど、普通よりかなり大きめの皮に薄くのばすように餡を塗って、ぺたんと折ったらそのままぐーっと指の跡がつくぐらい握り込んでいました。なるほど、そうやってできる「ひだひだ」にスープが絡んでまたおいしくなるわけですね。

qianchong.hatenablog.com

こういうのが東京でも食べられたらいいなあ。東京にも数多ある台湾料理屋さんで、特に台湾人御用達のようなお店を発掘してみようかなあ(在京台湾人の中には、やはり「東京の味は塩辛すぎる」とこぼす方が多いんですよ)。

そういえば上掲のエントリでは「丸亀製麺」の味が濃すぎてつらいという話を書いたのでしたが、最近いいことに気づきました。「釜玉」を頼めば、塩辛さを回避できるのです。ご案内の通り釜玉は、麺と卵を混ぜただけのいわば「味つけをしていないカルボナーラ状態」で、卓上の醤油を回しかけて全体を混ぜ、いただくものです。つまり回しかける醤油の量を自分で調整できるわけですね。これは助かります。なぜもっと早く気づかなかったかなあ。

ちなみに職場近くの「丸亀製麺」は、カウンターに居並ぶ店員さんのほとんどが外国人労働者であることに今日気づきました。「釜玉の並、温玉で。混ぜてください」などという注文に素早く応じるみなさん。自分が外国でお昼のピーク時にこういう注文を次々にさばけるだろうか……と想像すると、そのスゴさに頭が下がります。

よーく考えよう、お金は大事だよ。

新聞の朝刊を読んでいたら、こんな保険の全面広告が載っていました。新聞の広告は、その読者層を如実に反映してか、もはやお年寄り向けの健康食品・アンチエイジング・強精&回春・団体旅行・保険などなどばかりでうんざりしてしまうんですけど、この「月々ワインコインでお葬式代程度の保険金がもらえる死亡保険」というのはなかなかにインパクトがあります。

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隅のほうに小さな文字で書かれていますが、この保険は保険期間が1年間の掛け捨て型で、保険料は5歳刻みで変更になるとのこと。ワンコインというキャッチフレーズが有効なのは50〜54歳の女性だけで、その後は年齢が上がるほど保険料も上がっていくのですぐに「ワンコイン」じゃなくなっちゃいます。それはまあいいんですけど、私が興味を引かれたのは、これが保険会社にとってものすごくおいしい商品だなと思ったからです。

例えば現在の私が「大した蓄えもないし、いま自分が死んだらお葬式代も出せないな。よし、月々わずかの出費で万が一に備えられるなら」と毎月880円を払ったとしますよね。これは50〜54歳男性の月々の保険料です。一方で、この年代の男性の死亡率はというと、ちょうどうまい具合に厚生労働省の人口動態統計が五歳階級別に公表されています。ウェブサイトで誰でも見ることができます。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/dl/h5.pdf

これによると、最新の統計である平成30年における男性50〜54歳の死亡率(概数)は10万人あたり303人。つまり、仮にこの年代の10万人が保険に加入したとしたら(実際にどれだけの加入者がいるかは知りませんが)保険会社には1年間で10億5600万円(880円×12ヶ月×10万人)が入るのに対し、加入者の死亡に際して支払われるであろう保険金は3億300万円(100万円×303人)で、還元率は約29%です。宝くじの還元率が約45%、競馬は約75%などと言われますけど、それらに比べてもかなり低いですね。

同じように考えると、この広告に載っている死亡率が最も高い年代の60〜64歳男性でも還元率は約38%。もちろん保険会社の人件費や広告宣伝費など様々な要素は省いていますし、実際の収支はもっと複雑ですから、これはかなり単純化した計算ですけど。こんなギャンブルに手を出す方がいるのかしらと思いますが、保険会社がこうやって新聞に高額の全面カラー広告を打てるくらいですから、けっこう多くの方が手を出してらっしゃるのでしょうね。

作家の橘玲氏はブログで「年金で生活できる高齢者に保険は必要なく、金融リテラシーの高いひとはそもそも保険に加入しません」と書かれていました。私は金融に関して「リテラシー」と呼べるほどの知識はほとんどありませんが、それでも民間のこうした保険には一切加入していません。そして、新聞でこういう広告を目にするたび、なにかこう、とても落ち着かない気持ちに襲われます。老後が不安だからではありません。知識を学ぶことの大切さと難しさをいまさらながらに痛感させられるからです。

東京の「促イライラ性」について

北欧や台湾の、人が極端に少ない田舎ばかり巡って東京に戻り、仕事に復帰してみて自分でも驚いたことがありました。というか、以前から気になっていて改めてそれを確認したという感じなんですけど、それは東京にいる自分がなぜかいつも「イライラしている」ということでした。

もとより人が多い東京。さらにこの時期はまだ蒸し暑い東京ですから、イライラするのも当然だと思うんですけど、何かそれだけではない「イライラの小さな種」がそこここに散らばっているような気がするのです。それは例えば、駅のコンコースで目の前に少しゆっくり歩いている(周りの歩行者とのリズムが違う)人がいるとか、やんちゃ盛りの子どもが嬌声を上げているとか、電車の中で(主におじさん方の)タバコ臭や加齢臭が漂ってくるとか、まあ何とも他愛ないというか「そんなことでイライラするのもどうよ」というような些細なことばかりです。

それに同じようなことは北欧や台湾の都会でも遭遇するのです。でもその時はちっともイライラしていない。そりゃまあ当然かもしれません。異国にいるときはそれは旅の楽しく刺激的な体験の一部ですし、それに私自身、異国つまり「よそ様の国」にいるときは自分の行動を日本にいるときの八割から七割程度に抑制しようと心がけていて、何でもかんでも日本にいるときと同じような便利さや快適さを求めないと決めているからです。

そう考えると、日本の東京で私がいつもの「イライラ」に戻ってしまうのは、ひとえに自分が元々暮らす国だからということになるのかもしれません。オレの縄張りなんだからオレの好きにさせろというちょっと傲慢な心性が、それを阻む(というほどのものでもないけど)ものに対して「イライラ」をつのらせているのでしょうか。

しかし……この東京の「ストレスフル」な環境は、どうもそれだけではないような気がします。それが何であるかは分からないのですが、人の多さとか気候などだけではない何か独特の仕掛けなり存在なりがあるように思えて仕方がありません。最近、鉄道車内や駅構内などにこんなポスターが貼られているのをご存じでしょうか。こんなに「イライラ」をつのらせている人が多いというのは、ちょっと異常じゃないかと思うのです。

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https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201907088646_h_01.pdf

そういえば以前Twitterにこんなツイートに接しました(距離を置きたいといいながらまだ依存していますね)。

この方は普段アメリカに住んでいらして、時々日本に滞在されるようですが、日本の、特に東京における不快感の理由を、人の多さ、空間の狭さ、気候、雑然とした環境、そしてそれらに対する人々の内面に求めておられます。いわく「山ほどある小さな不快に我慢を重ねすぎて収拾がつかない状態になっているというか」。

なるほど、私だけではなく、もうほとんどのみなさんがそれぞれ「山ほどある小さな不快」にイライラしているのですね。そして大部分の方はそれを我慢しているけれども、我慢しきれない人が暴力に訴えて、その割合が看過できないほどに大きくなってきたので上掲のポスターのような対策も講じられるようになったのかなと。「人の生気を吸い取る何かものすごく強力な力」というのは、そうした人々の我慢が発するオーラみたいなものなのかもしれません。

私はオカルト的なものは一切信じない唯物主義者ですけど、この東京の不思議な「促イライラ性」にはまだちょっと合理的な説明を与えられないでいるのです。

SNSは「有用」だからこそ振り回される

Think clearly』で「心に響いた2、3個」のうちみっつめは、というかこれも「ふたつめ」に連なるんですけど、やはりSNSについてです。

SNSで、とくにTwitterで心かき乱されるのは、あまりにも悪意のある意思表示が、それも匿名で無責任に投げつけられていることが多いからだと昨日書きました。でも、タイムラインに流れるのはむろん悪意があって無責任な意思表示ばかりではありません。善意の責任ある立場やスタンスからの意見表明もたくさんあります。それらは例えば様々な社会問題であったり、国際的な問題であったり、あるいは自分の仕事や趣味に深く関わる貴重な情報であったりします。

以前の私は、そういう貴重な情報を惜しみなく共有しようとするSNSのあり方に強くひかれていました。そして私もそういう共有の一端に連なりたいと思って、積極的にツイートをしたこともありました。しかしここに来て、それが私にとってはやはり「承認欲求」と深く結びついた行為だと感じるようになりました。そしてまた、自分の生活リズムとはまったく関係なく飛び込んでくる(しかしそれはそれなり有用な、あるいは有用だと思わされてしまう)情報に振り回されてしまっている自分を見いだしたのです。

上述の本には、こんな記述がありました。

私たちの脳は、意見を吹き出す火山のようなもの。ひっきりなしに何かに対する意見や個人的な見解を発信している。訊かれた質問が自分に関連があろうがなかろうが、複雑だろうが単純だろうが、答えられる質問だろうが答えられない質問だろうが、そんなことに関係なく、能は答えを紙吹雪のようにまき散らす。


私たちには、質問が複雑な場合は特にそうなのだが、「即座に直感で答えを出す傾向」がある。そして意見を表明した後になってようやく頭で理性的に考え、自分の立場を裏づける理由を探しだす。(中略)こうした直感はほとんどの場合正しいのだが、複雑な質問の場合には、直感的に正しい答えを出せるものではない。ところが私たちは、それを正しい答えと勘違いしてしまう。


そして、直感があっという間に出した答えをどうにか「正当化」しようと、脳の中を大急ぎで探して、裏づけとなる理由や例やエピソードを集めてまわる。すでに自分の意見は述べてしまった後だからだ。

これは、TwitterなどSNSによく見られる感情的あるいは脊髄反射的な応酬の、ひとつの原因ではないかと思います。そしてまた文字数制限があるツイートに独特のあの、どこか高みから決めつけたような物言いの根幹にあるものではないかとも。そして筆者は、「現代が抱える問題点は、情報の過多ではなく、意見の過多だ」として、こう問いかけるのです。

思考の対象にするテーマは、意識して自分で選ぶようにすればいい。あなたがいま考えるべきテーマを、なぜジャーナリストや、ブロガーや、ツイッターのユーザーに決められなければならいのだろう?

もちろん優れたジャーナリストや、ブロガーや、SNSのユーザーの意見表明には、こちらの目を開かせてもらえるもの、それまでその存在に気づいてさえいなかった様々な問題についての有用な視点を与えてくれるものも多いです。それでも、そうした視点はなにもSNSだけで得られるわけではありません。ふだん新聞や雑誌や書籍を読んでいるなかで、もっとゆっくりと(ここが大切)、自分の頭で思考することに大きく軸足を置きながら(ここも大切)接して行くことだってできるはずです。

SNSには「意識の高い方々(イヤミで言っているわけではなく、本当に世の中の様々な事象に対して積極的に関心を寄せているという意味)」が多いからか、そこに流れてくる情報に思わず興奮や憤りや感動や落胆や笑いや……などなどを覚えてそのたびに血圧が上がります。そして私の脳はすぐにそうした一つ一つのメッセージに対して何か自分が旗幟鮮明にしなければならないような焦燥感を抱くのです。本当は誰もそんなこと求めていないのかもしれないのに。

そうした事象に無関心でいればいいとも思いません。社会の中で、人とつながって生き・生かされている以上、今後も積極的に関心を持ち続ける態度は必要でしょう。それでも、一個人がコミットできる範囲には限界があります。誠実であろうとすればするほど、そうした一個人の限界を超えて、過剰に思考を強要される——これはかなり心乱される環境です。これもまたSNSの負の側面ではないかと思うのです。

上述の本には、「個人ができることには限界がある」として「世界で起きている出来事に責任を感じるのはやめよう」というアドバイスもあります。これも「心に響いた」点でした。

世界で起きていることは、あなたの責任ではない。冷酷で、無慈悲に聞こえるかもしれない。だが、これが真実なのだ。(中略)各地で起きていることすべてに心を痛め、そのたびにああすればよかった、こうすればよかったと考えていたら、罪悪感であなたのほうがまいってしまう。あなたが精神的な苦痛を覚えても、現実に起きていることは何も変化しないのに。

SNSには、とくにTwitterには「拡散性」が高いという特徴があるため、そこでの意思表示がなにかの問題解決につながるかもしれないというある種の手応えや実感があります。それがますますTwitterでの情報収集と、それによる思考と、その結果の発信(ツイート)に走らせるのですが、そこまで自分の思考とSNSの力を過信してはいけないのではないかと思います。

またSNSではその時点におけるリアルな(と思われる)問題提起が次々になされるため、そしてそれに対する反応や動向もリアルで素早いため、ついついそれに何からのコミットをしていないと取り残されたような、あるいは後ろめたいような気持ちにさせられてしまう仕組みを含んでいます。でもそうした事々にいちいち反応していたら、結局自分の思考までも奪われてしまうんですよね。

私は時々、様々な団体や時には個人にも寄付をすることがありますが、世の中への、特に様々な問題や課題へのコミットの仕方としては、それが一番よいのではないか、あるいはそれが「せいぜい」なのではないかと思いました。私は私で、目の前の自分が直面している、あるいは自分が解決しなければならない問題に集中して取り組み、その結果稼いだお金の一部を世の中に還元すればよい(実質的にそれしかできないのかもしれない)のだと。

SNSとつきあいながら、そうした適度な距離感を保てる人もいると思いますが、私は根が単純なのか、瞬間湯沸かし器的な性格だからなのか、どうも極端に走りがちなんですよね。そういう人間にとって、あまりに意見や見解があふれているSNSはあまり近づき過ぎてはいけないのではないか、そう思うようになったのです。

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SNSの「毒」について

Think clearly』で「心に響いた2、3個」のうちふたつめは、SNSについてです。私はかつて中毒と自覚していたくらい(自覚できていたくらいだからまだ重症ではなかったのかもしれませんが)頻繁にSNSを使っていましたが、最近ではほとんどやめてしまいました。LINEは家族との連絡にだけ、FacebookもMessengerでの連絡機能だけ、Instagramは完全に退会し、Twitterもこのブログの投稿とそのリプライへの反応だけ。

Twitterにブログの更新を投稿しているのと、リプライに反応しているところにまだ「未練」を感じさせますが、もう自分からTwitterでつぶやくことはやめようと思っています。それならInstagram同様に完全に退会しちゃえばいいんですけど、Twitterは情報の鮮度が半端ではなくよいので、なかなか手放せません。それでもタイムラインをいったん見てしまうと、もともとは見る気もなかった新奇な情報につきあわされて時間がどんどん消費されてしまう(それだけ面白い、というかキャッチーな情報にあふれているんですね)ので、利用する目的意識を明確にもって使うようになりました。

具体的にはTwitterの検索機能で知りたい情報のキーワードを入れるという使い方だけ、ということなのですが(例えば電車の遅延情報など。鉄道各社の公式サイトよりずいぶん早いです)、そのためにはスマホTwitterのアプリを入れておく必要があります。これが非常によろしくない。スマホTwitterが入っていると、ついつい開いてタイムラインを眺めてしまうんですね。これをもうほとんど無意識のようにやるに至って「これはまずい」と思うようになりました。やっぱり、紛う方なき中毒ですよ、これは。

というわけで、スマホTwitterアプリは削除してしまいました。こうなるとTwitterで自分的には最後まで残っていた情報検索という使い方のメリットもなかば失われてしまったことになります。これはもう、完全にやめてもいいかなと思っています(こうやってグズグズしているところがまた中毒っぽい)。

『Think clearly』の「SNSの評価から離れよう」にはこんなことが書かれています。

「自分の内側にある自分自身の基準が大事か、それとも周りの人の基準が大事か」ということである。(中略)「周りがあなたをどう思うか」は、あなたが思っているよりもずっと、どうでもいいことだ。(中略)周りがあなたを褒めちぎろうが、反対に中傷しようが、そのことがあなたの人生に与える影響は、あなたが思うよりずっと小さい。あなたのプライドや羞恥心が大げさに反応しすぎているだけだ。

そうそう、SNSはフォロワー数やリツイート・リプライの数、「いいね!」や★の数など数値化された形で自分の「承認欲求」を満たす(あるいは損なう)機能が満載です。いったんこの仕組みにとらわれてしまうと、ものすごく心をかき乱されてしまうんですよね。少なくとも私の場合は。それだけ自分がプライドや羞恥心、いや虚栄心の強い人間なのだろうと思います。そうではない方にはSNSがとても有用なのでしょうけど、私のような人間には中毒をもたらす「毒」なんだなと思ったわけです。

SNSのような(自分にとっては)他人の評価や基準ばかり気にするように仕向けられるシステムからは足を洗って、自分の内側にある基準をもっと豊かにしたいと思いました。自分の内側にある基準を豊かにするためには様々な情報に接する必要があって、SNSもそのためのひとつのツールじゃないかと思いますけど、SNSは(特にTwitterは)あまりにも悪意のある強烈な、それも匿名の無責任な意思表示が多すぎます。それらにも心がかき乱されます。それよりは様々な本を静かに読む方ことのほうが自分には、特に心の健康にとっては大切だと思うのです。

SNSの利弊について考えるときに、こんな記事もとても参考になりました。どちらも有料記事ですがとても示唆に富んでいると思います。

cakes.mu

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始めてみて初めてわかる

旅先で「極東ブログ」さんの記事を読んでいたら、こんな本が紹介されていて興味を持ったので、Kindle版を買って飛行機内での時間つぶしのお供にしました。

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finalvent.cocolog-nifty.com

finalvent氏のおっしゃるとおり、この本は典型的な「自己啓発本」なのですが、なかなかに含蓄のある一冊でした。finalvent氏は「一読して読者の心に響くのは、そのうちの2、3個くらいかもしれない。でも、その2、3個が、かなり決定的だろうと思うのだ」ともおっしゃっていますが、これも同感です。

私の心に響いた2、3個のうちのひとつは、冒頭に出てくる「何を書くかというアイデアは、『考えているとき』にではなく、『書いている最中』に浮かぶ」という点です。これはもう本当にそのとおりで、私など毎日ブログを書いている時、まさにこの法則に身を委ねていることを実感しています。何を書こうかと考えてもあまり案は思いつかないのに、書き始めると次々に書きたいことが湧いてくるのです。

コラムニストの小田嶋隆氏がこんなことをおっしゃっています。同じ法則を述べていらして、これはある種の「真理」をついているのだと思います。

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)


まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。


ラジオデイズ『タコ足ライティング・オリエンテーション「人生とビジネスに効くコラム」』
http://www.radiodays.jp/item_set/show/718

しかも上述した『Think clearly』のロルフ・ドベリ氏は、この法則が「人間が行う、ありとあらゆる領域の活動に当てはまる」とも言っています。これも深く頷けるところで、どんな仕事も勉強も趣味や遊びも、とりあえず始めてみないとわからない、というか、始めてみて初めて次にどうすべきかが分かるし、その過程で徐々に身について行く、あるいは収穫できていくんですよね。最初から到達点まできれいにルートが見えていることはほとんど、いや、まったくないと言っていいと思います。

通訳学校でもよく「私はまだまだ実力が……などと言っていて仕事を承けないでいると、いつまでたっても上達しない。どんどん現場で学んでいくべき」などと言われるのですが、同じことを言っているのだと思います。一歩踏み出してみて初めて見える風景みたいなものが確かにあるんですね。

はい、今日のこのブログも、最初に書こうと思っていた内容とは違うところに来てしまいました。最初はSNSのことを書こうと思っていたのですが……でもまあそれでもいいのです。SNSのことはまた改めて書こうと思います。

台湾の「お節介」おじさん

台湾の台北で、丸一日分ぽかっと時間が空いたので、基隆に行ってみることにしました。台北駅から各駅停車で45分ほど、“雨都”の異名を持つ港町基隆は今日も雨でした。そういえば以前に来たときも春の雨が降っていましたねえ。お目当ては奠済宮というお廟近くの屋台街で「栄養三明治(栄養サンドイッチ)」を食べることだったんですけど、この日は何かのお祭りだったみたいで、紙銭がぼんぼん焚かれ、電飾きらめく祭壇では大音量で祈りが捧げられていました。屋台も全部お休み。

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ちなみに「栄養三明治」はこういうのです。台湾のB級グルメのなかでも、個人的には一二を争うおいしい食べ物です。

qianchong.hatenablog.com

仕方がないので、街をぶらぶら歩きながら基隆駅まで戻って、また台北行きの各駅停車に乗り込みました。私たちが乗ったのは基隆から二駅先にある八堵駅行きで、そこで宜蘭方面からやってくる列車に乗り換えて台北へ向かうつもりでした。二駅しか走らない電車なので車内はガラガラなんですけど、座席に座っていると、ホームから見知らぬおじさんが大声の台湾語で何やら怒鳴っています。何だろうなと思ってよく聞いてみると、どうやら「あんたら台北に行くんじゃないのか、この電車は八堵までしか行かないぞ」と言っているみたいでした。

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なるほど、私たちが外国人観光客だと踏んで、わざわざ親切に教えてくださったわけですね。台湾では何も話さなくても外見で外国人、あるいは日本人だと見抜かれてしまうのです(中国語を話すと、たいがい香港人だと思われます)。台湾では(台湾に限りませんが)ときどきこういう「お節介」に遭遇します。若い方はほとんどありませんけど、おじさんとかおばさんとか、一定年齢以上の方からはけっこう話しかけられる。それもこちらが中国語や台湾語を解するかどうかなどお構いなしに。私はこういうのが本当に大好きです。

私も東京のターミナル駅などで、地図やスマホを片手に困惑気味な外国人旅行者を見つけると、時間の許す限り声をかけるようにしているんですけど、それはこうした台湾などの「お節介」おじさん・おばさんたちに触発されてのことです。今日は今日とて、バスの中で珍しく外国人だと思われなかったらしく、そばに座っていたおばあさんから「このバスは“台大醫院(台湾大学病院)”に行きますかね」と聞かれたので「あと三駅ほどです」などとお教えしました。

こういう「見知らぬ同士が気軽に声を掛け合う」ってのは、東京で暮らしているとかなりの勇気が必要なんですけど、異国ではなぜか簡単にできちゃうんですよね。そういうのもまた旅の楽しみかもしれません。

観光名所の人混みに酔う

フィンランドから帰ってきて、東京の人の多さに酔いました。歳を取ったからか、昔は何ともなかった人混みがとても苦手になったのは自覚していたのですが、これだけ人の少ない場所ばかり訪れたあとに東京に戻ると、その「人圧」とでもいうもののあまりの違いに、身体が拒否反応を起こすみたいです。自分もその人混みを作り出しているひとりなんですから、勝手なものではありますが。

さっき試みに「人圧」で自分のブログ内を検索してみたら、この一年あまりで五回も弱音を吐いていました。「人混みに耐えられなくなってきた」と。それ以前はまったく書いていなかったのですから、これはもうここ数年のうちにそういう心の病を抱えてしまったということなのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

人混みが苦手ですから、旅に出ても人の多い観光名所にはあまり行きたくありません。ここ数年は台湾に何度か出かけましたが、いずれも離島や、離島のそのまた離島など、なるべく人のいないところを選んで行くようになりました。360度見回しても人の姿が見えない場所にくると、心底解放されたような気持ちになるのです。だったらそれこそ人跡未踏の荒野や原野にテントでも担いで行けばいいんですけど、そこはそれ夜には快適な宿に戻ってゆっくりパソコンをひらいてブログでも更新したいという……やはり勝手なものですね。

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今夏も台湾の離島、澎湖諸島の友人が今年から始めた民宿に泊まりに来ました。いつもはスクーターを借りて郊外を走り回っているのですが、今年は細君も一緒に来たので身体のことを考えて車を借りました。台湾は国際免許証が通用せず、日本台湾交流協会が業務を委託しているJAFによる「免許証の翻訳」がそのかわりになります。

www.jaf.or.jp

スクーターを借りるときはいつもこの“翻訳本”で借りていたので今回も持参しましたが、さる筋からの情報で国際免許証も持参したところ、これだけで車を借りることができてしまいました(離島だから管理が緩いのかしら……あまり公表しちゃいけないことのかもしれませんね)。ともあれ、この車で島の郊外ばかりゆっくりゆっくり、それこそ制限速度を守って風景を楽しみながら走りました。澎湖も馬公市の中心街は車が多いですが、それ以外はあまり走っていなくて「ストレスレス」です。

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それでも友人のすすめで湖西郷にある「摩西分海(モーゼの海割り)」を見に行きました。ここは海岸から沖にある小島までの間に、干潮時に砂州(というか岩の州)が出現するという観光名所です。以前にも来たことがあるのですが、その時は満潮でほとんど人がいませんでした。今回は友人から砂州の出現時間を教えてもらって、その時間に行ってみたのですが……。

澎湖諸島の観光客が全部集まってきたんじゃないかと思えるくらいの、ものすごい人混みで驚きました。車を停める場所を探すのに苦労し、人混みをかき分けて海岸を見るのに疲れ、現れた砂州もまあ写真で見たとおりで、あああ……やっぱり来るんじゃなかった。観光名所なんて、事前に写真で見ていた風景を確認するだけの場所だと自分に言い聞かせていたはずなのに。早々に退散してしまいました。

先日のタリン旧市街でも感じたことですが、有名な観光地にはもう行かないようにしよう(というか、もう心身ともにムリ)と改めて心したことでありました。

しまじまの旅 たびたびの旅 106 ……縮み行く日本のお手本として

フィンランドを旅行したのは二度目で、特に夏のフィンランドは初めての体験でしたが、いろいろ「いいな」と感じる部分がありました。もちろん、そうはいっても「隣の芝生は青い」の諺通り、とかくよそ様の国度はよく見えがちですし、旅人ならではのノスタルジーも多分に含まれてしまうことは分かっています。

また私のような外国人はお金を払って快適な旅を手に入れているだけで、実際にそこに住んでみれば、特に社会的に必ずしも恵まれているとは言いがたい立場で住んでいれば、また様々な問題に直面するであろうことは想像できます。さらに冬の雪や氷に閉ざされたフィンランドにはこの季節とは違った大変さが(その反対に魅力も)あるのでしょうけど、とりあえず今回の旅行で感じたことを記しておこうと思います。

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涼しい

昨年は北欧諸国にも前例のない猛暑が襲って、元々エアコンなどの設備がない(そもそも必要なかった)ために大変だったという話を留学生のみなさんから聞いていました。それで少々身構えていたのですが、実際には本当に涼しく湿度が低くて快適な気候でした。むしろ日によっては寒いくらい(日本の秋から初冬ぐらい)で、慌てて上着やセーターなどを買い込んだほどです。

特に、湿度が低いというのは、毎年東京の猛暑と湿気にうなされている私としては本当に快適に思えました。湿度が低いからか、空気が澄み切っていて、白くかすんだ感じがまったくないため、ものの輪郭や風景が遠くまでハッキリ見えるのです。コントラストがとても強いというか。この爽やかで透き通ったような空気感はどこかで味わったことが……そう、中国の哈爾濱(ハルビン)を夏に訪れたときと同じような感覚がしました。

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人が少ない

いわゆる夏のバカンスの季節だったからなのかもしれませんが、とにかく人が少ないです。田舎は言うまでもなく街の中も。首都であるヘルシンキ市内はさすがに観光客も加わって人が多めですが、それでも普段東京で朝から晩まで人混みにもまれて暮らしている私からすると、驚きの人の少なさです。人が少ないというのはこんなにも快適なものなのかと改めて感じました(自分もその人のひとりではあるのですが)。世界でいちばん人口の多い国や、人口密度の高い国ばかりお付き合いしてきたので、この開放感はまるで別の星に来たかのようです。

満員の電車やバスがないことはもちろん、街全体に人の気配がとても希薄で、騒々しさとはほとんど無縁です。これが清涼な気候と相まって、ストレスの少ない環境を作り出してくれます。駅や車内などのアナウンスもほとんどなくて、あっても次の駅名くらいだというのも(これはフィンランドに限りませんが)、普段過剰なアナウンスの洪水の中で暮らしている身からすると夢のように静かな環境でした(長距離列車では挨拶みたいなアナウンスもありました)。

人が少ないからでしょうか、車の数も少ないです。今回はレンタカーで都会から田舎まで走り回りましたが、タンペレのような大きな街でさえとても車が少なく、田舎に至っては前後にまったく車が見えないとか、五分も十分も対向車とすれ違わないとか、とにかく車が少なくて運転のストレスもほとんど感じませんでした。もちろん渋滞というものにも一度も巻き込まれませんでした。

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相互尊重

これもフィンランドに限った話ではないのですが、お店の入り口などで前の人がドアを開けたまま待ってくれるとか、横断歩道ではほとんどといっていいほど車が止まってくれるとか、どんなお店に入っても笑顔で対応してくれるとか(スーパーやコンビニなんかはさすがに別でしたが)、なにかこう人々がお互いにお互いを尊重する気風が感じられました。内心でどう思っているかはもちろん分かりませんが、少なくとも表面的にイライラした対応とか、民族差別的な対応などには一度も接しませんでした。

またこれは別のエントリで書きましたが、観光地でのゴミの少なさにも驚きました。街中もそこそこきれいですが、ただ、タバコのポイ捨てはけっこう見かけました。またヘルシンキの中心部はさすがに乱れた感じの場所もありますけど、それでも全体としてとてもきれいな、というか秩序の取れた街のたたずまいに感じられました。私はこうした様々な社会の側面にも、人々の相互尊重とでもいうべき精神を感じます。なにかこう、社会をよきものとして維持しようという人々の意思みたいなものが通底しているように感じられたのです。

電車内におけるベビーカーや自転車の置き場所がかなり広く取られていること、犬などのペットとともに電車に乗れることなども、相互尊重のひとつの表れのように思われました。一度など私はベビーカー置き場に立っていて、そばにいた男性から「あのベビーカーに場所を譲ってくれる?」とやんわりたしなめられました。こうした場所を作ることができたり、それをみんなが尊重できたりするのも、ひとつには人の少なさがそれを可能にしているのかもしれません。日本の特に東京などの大都市は人が多すぎて、こんなに「余裕」のある設定にはできないのかなと。インフラも、そして人の心も。

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合理的な仕事のありよう

これもフィンランドに限らない、というか日本が逆に世界の中でもかなり特殊なのかもしれませんが、都会も田舎も、お店の営業時間がとても短くて過剰な仕事をしていないように感じられました。コンビニであっても24時間営業などというところはほとんどありませんし、平日はともかく土日はもっと開いている時間が短くなります。もちろん夏の長い夕べを楽しむバーや飲み屋さんみたいなところは遅くまで営業していますが、そのぶん開業時間も午後や夕方からなどと遅いです。

公共交通機関も、早朝や深夜などは極端に本数が少なくなります。私はそれに気づかず、日本と同じ感覚で行動の予定を組んだりして、かなり焦った場面がありました。仕事の制服みたいなものも、警察などはさすがに統一されている感じですが、そのほかの職業はかなり自由な感じ。サラリーマンもみんながみんなダークスーツにネクタイなどということはないみたいです。

スーパーも人がいるレジの横にセルフ会計のレジが多く設置されていますし、レジ係の人も椅子に座っています。品物のバーコードを次々に読み込んで目の前のベルトコンベアに載せるだけ。あとは品物がだーっと流れていって客が自分で袋に詰めます。日本のスーパーのように、係の人が立ちっぱなしで、接客のためにしゃべりっぱなしで、買い物かごから精算用かごに一つ一つ品物を移すといった膨大な仕事が一切発生していません。こういう合理性は本当に素晴らしいなと思いました。

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もちろん閉口したこともあるけれど

そりゃフィンランドだって天国じゃありません。閉口したこともいくつかあります。そのひとつは路上というか屋外での喫煙率の高さです。老いも若きも男性も女性も、かなりの人がタバコを吸っていて、副流煙に悩まされることは日本の比ではありません(これもフィンランドに限りませんけど)。そのかわり屋内はどこでもきっちり禁煙が守られていて、日本のように禁煙といいつつ不完全極まりない分煙じゃないかとがっかりする、みたいなことは一切ありませんでした。

あと、食事はとてもおいしいけれど、私には塩辛すぎるかなと思うことが多かったです。加工食品も味つけの濃いものがけっこうあって、フィンランド人は塩辛いものが好きなのかなと思いました。日本でも中国でも北の地方は料理の塩味が濃いですが、フィンランドも北の国だから塩辛いものが好きという因果関係があったりするのかな?

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またこれは閉口というほどでもありませんが、場所によっては英語が通じにくいと感じるところもありました。まあこれは私みたいな中学校一年生レベルの英語話者に語る資格はないんですけど、フィンランドはどこでもほとんど英語で大丈夫かというと、そうでもないんだなというのが今回の発見のひとつでした。また逆に現地の方でもフィンランド語が苦手そうにお見受けする方もいました。

フィンランドの人口は増加傾向にあるそうですが、そのひとつの理由は移住者の増加なのだそうです。確かに街には多様な民族の人々が暮らしている様子でしたし、こう言っては失礼ですが比較的低賃金と見られるお仕事に従事されている方にはそうした移住者とおぼしき方々も多いようにお見受けしました。そういった方々はフィンランド語があまり得意ではないという状況があるのかもしれません。書店でフィンランド語の教科書など物色したときには様々な言語版(アラビア語対応のフィンランド語教科書などもありました)のものが売られていたのもそうした背景があってのことなのでしょうか。

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それにしても人口わずか550万のフィンランドが、なぜこんなに高度な社会秩序を維持できるのか、その点に興味を持ちました。もちろん通常の商品で24%という消費税や、税金の国民負担率が6割超であるなどに代表される税制があるからなのでしょう。それでも国土面積は日本とほぼ同じくらい(日本の九割くらいです)なのに、それほど少ない人口で国を運営していけるという現状には、今後人口が減り続け、同じように森林面積の多い日本が今後向き合わなければならない課題のヒントがあるのではないかと思いました。

もちろん日本は現人口が多いために様々なインフラが桁違いに多く、産業の構造も異なり、急峻な山々が多くてそのための治水や砂防や森林管理の仕事の大変さもまったく違い、地震や火山や台風などの自然災害とも常に向きあっていなければならないという点もフィンランドとは大きく異なります。ですから単純に引き比べてもあまり意味はないのかもしれません。それでもあの驚きの人の少なさと静けさの中で、高度な民主社会を実現させている(女性の社会進出など日本とは比べものにならないくらい進んでいます)フィンランドの現実に魅了されてしまったというのが正直なところなのです。

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