インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」をめぐって

先日、Twitterのタイムラインでこんなツイートを見かけました(Twitterから距離を置こうといいつつ、まだ依存してますね)。

なるほど、先生は「教える」立場であって「教わる」立場ではないのだから、「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」と。このアンケートに回答した生徒さんは勉強、あるいは学習というものを「すでにそれを学習し終えた=マスターした人から学ぶこと」だと考えたのですね。

でも少し想像力を働かせてみれば分かりますが、どんなジャンルのどんな学びでも「ここまで学んだらそれで完成、おしまい」ということはあり得ないんですよね。学問だって、芸術だって、スポーツだって、何かの技術や技能だって、教える立場の人も日々学び続けているわけで、死ぬまでゴールはないのです。逆に「もうこの技術は完璧にマスターしちゃったから今は学んでない」という人が先生だったら、それこそ「ひどい」と言うべきです。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_136.html

私が最初に仕事として(報酬をもらう形で)教えたのは中国語でした。留学から帰ってきてすぐだったと思いますけど、いくつかの場所で初級のクラスを受け持ったのです。留学から帰ってきたばかりですから、中国語だってまだまだ発展途上です(というか、今でも発展途上ですけど)。そんな私が人様に「教える」なんてとんでもないと当時は思いましたが、依頼してくださる方がいる以上、断るのも申し訳なくて引き受けたのです。

教えてみて初めて分かりましたが、人に教えるというのは優れて「自分の学びになる」行為なんですね。教える以上は受け身ではいられず、その知識を分かったつもりで済ませておくこともできません。ましてや人に伝える以上、自分が学んだとき以上にその知識を腑分けして、客観的に見つめ直す必要に迫られます。そうやって学び直してみて初めて「ああ、これはこういうことだったのか」と気づくことも多いのです。「教える先生がそんなことじゃこまる」と言われるかもしれませんけど、そういうものなんだから仕方がありません。

というか、教える仕事に就いて20年になんなんとする現在でも、その状況はあまり変わっていないように思います。私はいつも自分の仕事を半ば自虐的に「自転車操業」と呼んでいますが、本当にその形容がぴったりくるほど、次の授業はどうしよう……といつも準備に追われています。そろそろ「ありもの」の教材と教案でラクに仕事をこなしたいという欲望は常にあるのですが、ついつい前回とは違う何かをと考えてしまう。これももしかしたら、教えることのなかに自分でも新たな学びがなければ全然面白くないからなのかもしれません。

「教えることが一番の学び」だというのは、実は色々な方がおっしゃっていて、教員の仲間内でもけっこうよく聞かれるもの言いのひとつです。先日もアーリック・ボーザー氏の『Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』という本を読んでいたら、「人に教えるという学習方法」という一節があって、こんなことが書かれてありました。

あるテーマについて深い洞察を得るには他人に教えるとよい、とは奇妙に——皮肉にさえ——思える。だがこの考え方には多大な研究の裏づけがある。教える人数の規模には関係なく、教えることによってその専門知識の理解は深まる。
研究者の世界では「プロテジェ効果」と呼ばれるが、これも実は知識応用の一形態である。あるテーマについて人に教えることで、私たちはその概念に自分なりの解釈を加える。そのテーマの何が重要かを明確にし、自分の言葉に直すことによって、専門知識を深めるのである。

こちらで一部が読めます。

そうそう、その通りなんです。冒頭のツイートにあった生徒さんは「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」と「奇妙」に思い「皮肉」をおっしゃったのでしょうけど、社会に出て、例えば企業などで上司に説明したり部下を指導したりするようになったら「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちるかもしれません。そうなるといいですね。