インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ちょっと勇み足だったかもしれない

しつこいようですが昨日にひきつづき、アン・モロー・リンドバーグの名言とされる「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」の出典が見つからない件……といいますか、どなたが “One must lose one’s life to find it” を「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」と訳されたのかについて。

この「名言」、Googleでダブルクォーテーションマークを使った完全一致検索をしてみると、ものすごくたくさんの引用が見つかるものの、出典に触れているものはありませんでした。そこで「期間を指定」して検索をかけてみたところ、2010年に「名言ナビ」というサイトで引用されているのが初出だとわかりました。ただし、こちらも出典は明記されていません。

meigennavi.net

2018年まではこの「名言ナビ」だけしか検索結果に現れないのですが、2019年になって突然ヒット数が増えます。この年は山口周氏の『仕事選びのアートとサイエンス 不確実な時代の天職探し』が出版された年で、この本の94ページにこの名言が引用されています。

「自分は何が得意か?」という問いは、転機を迎えた人ならごく自然に向き合わざるを得ないものですが、その問いに答えるために一日部屋に閉じこもって沈思黙考しても、あまり有益な示唆は得られません。とにかく運動量=モビリディを高めることで、色々と実際に試してみなければならないのです。
人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。
アン・モロー・リンドバーグ

さらに2020年、山口周氏の『ビジネスの未来』が出ると(この本にもこの名言が引用されています)、さらにヒット数が増えていきます。「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」は山口周氏のいわば「持ちネタ」のようで、ご著書以外にもさまざまなウェブサイトの記事でこの言葉が紹介されています。

honsuki.jp

というわけでこの名言は、山口周氏が「名言ナビ」から引用して使うようになったか、もしくはご自身で『海からの贈物』の原著 “GIFT FROM THE SEA” にある “One must lose one’s life to find it” を「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」と翻訳して紹介されるようになったかのいずれかで、その後急速に広まったのだろうと推測されます*1。またもちろん「名言ナビ」さんがどこからこの日本語訳を引いてきたのか(あるいはご自身で訳されたのか)、その出典を知りたいところです。

ただこれは昨日も書いたように、アン・モロー・リンドバーグの言葉ではなく、アン・モロー・リンドバーグが聖書から引用した言葉なのでした。

qianchong.hatenablog.com

ここでちょっと疑問に思うのは、1967年から新潮文庫で出版されている吉田健一訳の『海からの贈物』にはこの一文が聖書からの引用であることを示す「キリストの言葉通り」という補訳が入っており、これを山口周氏がスルーして「彼女の随筆にはそこここに柔らかな光を放つ宝石のような一文が埋め込まれていますが、これは中でも珠玉といえる至言でしょう」などと書かれるだろうかという点です。「そこここに」というからには、アン・モロー・リンドバーグの随筆(『海からの贈物』とは限りませんが)を読まれているはずでしょうし。

でもまあ、この件は究極的には山口周氏ご本人にうかがってみるしかないわけで、これ以上の詮索はやめておきましょう。ただ “lose one's life” を「人生を浪費する」と解したうえで「私たちは『浪費』や『無駄』という言葉に、非常にネガティブなイメージをもっています。でもその『浪費』こそが、自分らしい人生を見つけるために必要だとリンドバーグは言っているわけです(『ビジネスの未来』218ページ)」と解説してしまったのはやや勇み足、あるいは牽強付会のそしりは免れないものだったのかもしれないと思います。

そしてまた私もこのブログで、この「名言」を孫引きしたうえで「傍目には明確な目標を持っていないかのように見える遠回りや寄り道、あるいは無駄に思えるような行動に、意外な転機がつながっているのかもしれません」などと書いてしまったのは、いわば俗耳に入りやすいたぐいの名言の再生産にやはり勇み足で加担してしまったみたいで、内心少々忸怩たるものがあります。反省しています。

qianchong.hatenablog.com

*1:実は『仕事選びのアートとサイエンス 不確実な時代の天職探し』は2012年に出版された『天職は寝て待て』の改訂版で、この本ですでに「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」が引用されているようです

なぜ "aren't I" なの?

いつものように朝の通勤電車でスマホのDuolingoをやっていたら、連続記録が3000日になっていました。私はおもに英語を練習していますが、この間Duolingoはたびたび仕様が変わり、カリキュラムも何度か大幅に動いていて、こうやって8年近く取り組んでいてもまだセクション6のスコア70程度、CEFRでいえばB1レベルの内容です。

それでもこのレベルになるとリスニングやスピーキングでけっこうな長文が出てきてなかなか手応えがあります。私はいまのところ有料プランのSuperを使っていますが、最近リリースされたMaxには申し込んでいません。そしてもうすぐSuperのサブスクが期限を迎えるのですが、最近は定年を控えていろいろな出費を見直しているところなので、期限が来たらそのまま無料プランに戻ろうかなとも考えています。

とはいえ、基礎的な英語を地道に踏み固めるという目的で使うなら、Duolingoはとてもよくできているアプリではないかと思います。先日もこんな練習問題が出てきて、いまさらながらに発見がありました。それは「〜ですよね」と同意や確認を求めるときに使ういわゆる付加疑問文の作り方で、“I am 〜” で始まる文の末尾をどうするのかというものです。

このときのは選択問題や穴埋め問題だったので簡単に正解できましたが、よくよく考えてみればなぜ “aren't I” なんだろうと。たしかに “amn't I” なんて見たことがないですし “isn't I” もヘンだから、やっぱり “aren't I?” がよさそう。実際に母語話者がそう言っているのを聞いたことがあるような気もしますけど……でもやっぱり腑に落ちません。

それでネットを検索してみたら、すぐに「"aren't I" ←なぜamではなくareなのですか?」と質問している方がいるサイトが見つかりました。それによれば、文法的には “am I not” が正しいもののあまり使われておらず、“ain't I” という表現はあるもののかなり崩れたスラングなのでちょっと使いにくい……ので「妥協の産物として “aren't I” が登場していて、徐々に受け入れられつつある」とのこと。へええ、そうなんだ。
qa.weblio.jp
こちらにも同様の説明がありました。
eikaiwa.dmm.com
英語のサイトにもたくさん説明が見つかります。
www.britannica.com
www.merriam-webster.com
ほかにもいろいろなサイトに行って読んでみましたが、いずれも “aren't I” は文法的に正しくないものの、とりわけ極端にフォーマルな状況でもないかぎり例外的に使うのが普通、という説明でした。まあ「とりわけ極端にフォーマルな状況」で、自分語りのついでに「〜ですよね」などと尋ねるシチュエーションじたい、あまり想像できないような気もしますね。

コスパやタイパは禁句にしたい

いわゆる自己啓発本と呼ばれる書籍や、ビジネス系のWebメディアなどを読んでいて、仕事選びとかキャリア形成に関する話題になるとよく引用されている理論があります。心理学者のジョン・クランボルツ氏が1999年に発表した「計画的偶発性理論」です。

その理論をやや乱暴にぎゅーっと圧縮して表現すれば「キャリア形成の8割は偶然の出来事による」ということになります。これをどう受け取るかは人によって違うでしょう。だったら何か目標を立ててそれに向かって努力するなんて意味がないじゃん、と思う人もいるでしょうし、いやいや、だったらなおさらいろいろな努力をして偶然との出会いを増やす努力をすべきだと思う人もいるでしょう。

クランボルツ氏の主張はもちろん後者で、何か起きるのを待てと言っているわけではなく、意識的に行動することで偶然の出来事にめぐりあうチャンスが増えるとして、そのチャンスを引き寄せるために以下のような姿勢を心がけるべきだとしています。すなわち……

1.好奇心:新しいことに興味を持ち続ける
2.持続性:失敗してもあきらめずに努力する
3.楽観性:何事もポジティブに考える
4.柔軟性:こだわりすぎずに柔軟な姿勢をとる
5.冒険心:結果がわからなくても挑戦する
こちらのページから引用しました。

こう書かれてしまうと、ちょっと功利的にすぎる行動原則のように思えて、とたんに「それはまあそうでしょうけど……」とややシラけたような気持ちになります。自己啓発本にもよく「好きなことを仕事にしなさい」なんてなことが書かれていますが、それができれば苦労はしない、実際には世の中そう甘くないから好きでもないけどとりあえずは食べていくためにいまの仕事をしてるんだよ、という人が多いと思います。私もそうでしたし、いまもまあ、それに近いといえば近いです。

ただ自分のキャリアを振り返ってみるに、いまやっているような仕事についているのは、たしかにまったく自分の予期していなかった結果であり、その意味では偶然の出来事によってここまでたどり着いたというほかありません。その偶然の出来事を手繰り寄せるような具体的な努力をした自覚はあまりないものの、ただ上掲の5項目でいえば1と5、すなわち好奇心と冒険心は少なからずあったような気がします。

それをつづめて言えば「あまり後先考えずに取り組む」とでもいったところでしょうか。それはまあ私があまりアタマがよくないということかもしれず、そのぶん仕事でも私生活でもずいぶん遠回りやムダが多かったですが、いまになって思えば後先考えずにいろいろと手を出してきたことが案外悪くなかったのかもしれないとも思えるのです。

福沢諭吉の『福翁自伝』に「目的なしの勉強」と題した一節があって、そこにはこう記されています。

自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/1864_61590.html#midashi820


福翁自伝

これは「コスパ」とか「タイパ」などという言葉とはかなり無縁の態度です。私は語学業界の末席に連なっていて、いちおうは語学を飯の種にしていますが、語学こそはコスパとかタイパなどという観念とは一番遠いところにあらねばならないとひそかに信じているものです。でもそれを就活や将来のキャリア形成で真剣に悩んでいる学生さんに伝えるのは難しい。そんなこと言ったってセンセ、語学力が就活に有利なのは自明でしょ、センセだってそれでいまの仕事をゲットしたんでしょ。

そう言われれば返す言葉が見つかりません。それに実際のところ私だって留学生諸君にさんざっぱら「モノリンガルが大多数で外語習得の困難をあまり理解できていない人が多い日本では、とにかく流暢で耳障りのよい日本語を話せるようになることが就活にも有利」などとけしかけてきたのですから。

ただ、語学に限らずあらゆる勉強は(勉強だけでなくなにかの技能でも、あるいは趣味でも)、後先考えずに没頭する・できることが結果的にある種の深みや自分でも想像もしなかったレベルに到達しうる要素のひとつではないかとも思うのです。

先日読んだ山口周氏の『ビジネスの未来』にもこのクランボルツ氏の理論が引用されていて、そこでは「とにかく、なんでもやってみる」というアドバイスとともに、アン・モロー・リンドバーグ(ニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したチャールズ・リンドバーグの妻です)のこんな言葉も引かれていました。

人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。

傍目には明確な目標を持っていないかのように見える遠回りや寄り道、あるいは無駄に思えるような行動に、意外な転機がつながっているのかもしれません。ここには福翁自伝の「就学勉強中は自から静にして居らなければならぬ」やクランボルツ氏の「キャリア形成の8割は偶然の出来事による」と通底するものがあると思います。

コスパ」や「タイパ」は人生の禁句にしたいです。

qianchong.hatenablog.com

ブレッチリー・パーク

レッチリー・パークといえば、第二次世界大戦時にドイツ軍のエニグマ暗号を解読したアラン・チューリングが勤務していた場所として有名です。現在は映画『イミテーション・ゲーム』でも描かれていた暗号解読について紹介する博物館になっています。

web.archive.org

映画にも出てきた元は貴族の邸宅だったという本館(マンション)をはじめ、HUTと呼ばれる暗号解読のためのさまざまな業務が行われていた平屋の建物に展示があります。エニグマの本物が何台も並んでおり、チューリングたちが開発した解読機「Bombe」(こちらはたぶんレプリカ)、さらにはチューリングの執務室なども保存されています。

音声や映像なども駆使して、当時の緊迫感が再現されるような展示になっていて、広い敷地に建物が点在するのどかな雰囲気の施設ながら、私はひとりけっこう興奮していました。子供のころに暗号とか諜報活動などにいたく魅せられていて、将来は本気でスパイになりたいなどと考えていたのです。今考えれば、スパイになれるような資質が自分にあるとはとても思えませんし、まあならなくてよかったとも思いますけど。

エニグマの解読についてはチューリングの功績がとても有名で、生前の不遇な人生とはうらはらに、暗号解読者にして救国者として現在は讃えられています(ポンド紙幣の顔にもなってる)。それは間違いないのですが、今回改めてエニグマ解読への道のりを知るにつけ、実はさまざまな角度から行われていた人々の努力の結果であることを知りました。

ja.wikipedia.org

ウィキペディアの「エニグマ」項にある解読のパートでも簡単に紹介されていますが、最初にエニグマ解読の糸口をつかんだポーランドの人々をはじめ、数多くの努力が重ねられた結果でもあったのですね。こちらのページには今ふうに「集合知を高めるためにダイバーシティを活用した」と書かれていました。

ところでGoogleでブレッチリー・パークを検索すると、検索結果の一番上に出てくる強調スニペットの文字が、乱数表よろしくパタパタと切り替わって、やがて「ブレッチリー・パーク」に落ち着くんですね。こんなおもしろい遊びが隠されていたことも今回始めて知りました。

いまも日本語を学んでる?

きのう、オンライン英会話のチューターさんからそう聞かれました。そのチューターさんとは初めてのレッスンだったので、私が自己紹介しながら仕事は語学の教師をしていますなどと話していたら、“I've got a question for you as a teacher of a different language. Do you still study the Japanese language?(語学教師のよしみで聞くけど、いまも日本語を学んでる?)” って。

オンライン英会話でそんな質問をされたのは初めてでした。日本語の母語話者に「日本語を学んでる?」と聞くのは奇妙だと思われるかもしれませんが、私はこれ、すごくいい質問だと思いました。たぶん何かの語学を学ばれた方なら同意してくださると思うのですが、外語を学べば学ぶほど母語の大切さが分かるものだからです。豊かな母語のベースがあってはじめて、外語の能力も伸ばしていくことができるという実感とでもいうか。

よりシンプルに言うならば、母語でも表現できないような複雑で多様な概念は、外語ではもっと表現できないですよね。どんな感動も「ヤバい」のひとことで済ませてしまうような方が、amazing, awesome, brilliant, cool, excellent, fabulous, fantastic, great, incredible, magnificent, marvelous, nice, spectacular, splendid, wonderful ……などなどを使い分けられると想像するのは難しいです(私もここまではとても使い分けられないけど)。つまり、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているのだと私は思うんです。

qianchong.hatenablog.com

このチューターさんは英国人でしたが、自らもさまざまな言語にチャレンジしているそうです。そしてまた、英語母語話者には英語しか話せない(話さない)という人が多く、外語を学ぶことで異なる視点や認識や価値観から世界を捉えることができることの重要性を理解していない人も多いと残念がっていました。

When I'm reading English articles and practicing my pronunciation of English, people will say to me, you're an English teacher, you don't need to study. I'm like, no, I need to study because I'm an English teacher.
私が英語の記事を読んで発音練習をしていると、英語教師なんだからそんなことしなくてもいいのにと言われます。でも、英語教師だからこそ学ぶ必要があるんです。

そう言われて、思わず「同志!」と叫びそうになりました。こういう方に出会えてうれしかったです。


井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』145ページ

メタクソ化

「メタクソ化(enshittification)」という言葉を知りました。AmazonFacebookTikTokなど、ネットで隆興したプラットフォームが巨大化するにつれて、どんどんその仕組みが改悪されることでユーザーにとっての品質が下がっていくという、不可避とも言えるような傾向のことだそうです。ちょっとお下品な表現ではありますが、うまい日本語訳だと思います。にしてもブルシット・ジョブにせよメタクソ化にせよ、あちらの方々はshitがお好きですね。

p2ptk.org

この文章は主にTikTokの「メタクソ化」について語っているのですが、メタクソ化という言葉が内包している概念全体についても、とても分かりやすく書かれています。私はもう降りてしまいましたが、FacebookとかTwitter(X)など、この十年あまりで本当にメタクソ化が亢進したように思います。この記事ではAmazonで売られている電子書籍やオーディオブックについてもこう語られています。

それを購入するということは、DRMによってAmazonのプラットフォームに永久にロックインされることを意味した。つまり、Amazonで1ドルのメディアを購入すれば、Amazonとそのアプリから離脱する際にその1ドルを失うことになるのだ。

そうなんですよね。私は電子書籍がとても苦手で、それは本の厚みや手触りなどがないために読書体験がどうしても記憶に残らないからなのですが、こうやってAmazonに囲い込まれてしまうことにもどこか抵抗感があるからなんだろうなと改めて思いました。友人や家族とも共有しにくいし、古本屋さんに売って世の中にふたたび還流させることもできませんし。


https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_11.html

仕事がらこういう新しい言葉に出会うたび、これは中国語では何というのかしらとネットを検索する習いになっています。定着した言葉ではないようですが、中国語では少し上品に“垃圾化(ゴミ化)”となっていました。FT中文网の訳注が興味深かったです。より正確には「大便化」とでも訳すべきだけれども、ほんの少し上品に「ゴミ化」と訳すことにしたと。

Last year, I coined the term “enshittification” to describe the way that platforms decay. That obscene little word did big numbers; it really hit the zeitgeist.
去年,我创造了“垃圾化”(enshittification)一词来描述平台衰落的方式。这个粗俗的小词引起了很大的反响,成为了时代的潮流。(enshittification更贴切的翻译应该是大便化,不过为了和此前的惯例保持一致,我们还是翻译为略微文雅的“垃圾化”吧。)
‘Enshittification’ is coming for absolutely everything | 一切都将“垃圾化”?我们如何阻止它? - FT中文网

ネットを検索していたら、メタクソの「メタ」は「メタバース」とか「メタ言語」などの「メタ」と勘違いされるからあまり適切ではないのではないかという意見もありました。なるほど、現代ではそう捉える向きのほうが一般的かもしれません。「メタ・クソ化」つまり「超クソ化」となって、単に「クソ化」を拡大させただけみたいに聞こえちゃうじゃないかと(重ね重ね尾籠な表現ですみません)。

でも、かつて大阪で少年時代を過ごした私にはピッタリの訳語だと思えました。メタクソは要するに「メチャクチャ」をもう少し下品にした、関西ではかなり昔からある表現(もちろん「メタ」が人口に膾炙するはるか以前から)なんですもん。あと、私たちぐらいの年代だと、かつて『少年ジャンプ』で連載されていた、とりいかずよし氏の『トイレット博士』の「メタクソ団」が懐かしいかもしれません。小学生の頃の私は「メタクソバッヂ」を自作するくらいハマっていたんですよね。

そういう背景もあって私は「メタクソ化」がうまい訳だなと思ったわけです。ある新語の翻訳が適切かどうかの判断は受け手の年代などによっても左右されるということですね。「メタクソ化」と訳された方は、私と同じくらいの年代の方で、いっぽう「メタ」に引っかかった方は比較的お若いのかもしれません。こうなると、中国語で「ゴミ化」とやや上品に訳された方にはどういう背景があったのかなと(訳注では「以前からの慣例と一致させるために」と理由が書かれていますが)興味がわきます。

『MOCT』と『もうひとつの昭和』

中学生のころ、無線に興味を持ってアマチュア無線技士の資格を取りました。電話級といういちばん易しい資格でしたが、無線機を買うお金もなかったので無線局を開局することはあきらめました。その後高校でアマチュア無線部に出入りするようになって、そのクラブ局で初めて無線通信を体験しました。一定時間でできるだけ多くの無線局と通信することを競う「アワード」に徹夜で参加したこともうっすらと覚えています。

そのころ、もうひとつ夢中になっていたのがラジオで気象情報を聞いて天気図を作ることと、海外のラジオ局、とくに北京放送やモスクワ放送などの日本語放送を聴くことでした。たしか短波ラジオでなくても中波で聞けたはず。モスクワ放送のオープニングでかかるどこか寂しげな音楽がかすかに記憶に残っています。『モスクワ郊外の夕べ』だったような気もしますが、後年の記憶とごっちゃになっているかもしれません。

でも何事も飽きやすい性格なので、アマチュア無線も天気図作りも日本語放送の聴取もほどなくやめてしまいました。周囲の友人はモスクワ放送などに受信レポートを送ってベリカードを集めたりしていましたが、私はそこまでハマることはありませんでした。

そのモスクワ放送で日本語番組を担当していた日本人や、そこに連なる人々に取材した青島顕氏の『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』を読みました。第二次世界大戦から戦後の冷戦、さらにはソ連崩壊から今日のロシアによるウクライナ戦争にいたるまで、こうした歴史のなかでモスクワ放送に関わることになった人々の人生を丹念に追った一冊です。


MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人

そうした人々の物語もさることながら、私はこの本を読みながらずっと、言語を学ぶこと、つまり語学とはなんと奥の深いものであることかという思いが頭を離れませんでした。この本に登場する人々はそれぞれにロシア語という言語との関わりがあり、その言語を学んで使うことができたがゆえに、激動の歴史と政治の波の中でときに人生の喜びを見出したこともあれば、ときに翻弄されることにもなった人生であったわけです。

以前、黒田龍之介氏の『ロシア語だけの青春』で知った「ミール・ロシア語研究所」の授業風景や関係者のお話も出てきます。黒田氏のご本を読んだときにも思ったことですが、語学はここまでしなければ身につかない、ここまでする気がなければ語学はあきらめるべき、端的に申し上げて「語学を舐めるな」と言われているみたいでした。AIによる機械翻訳や機械通訳さえ実現しつつあるこんにち、おそらく学生さんたちからは「いったい何を言っているのか」とおよそ理解してはもらえないでしょうけど。

qianchong.hatenablog.com

もう一冊、知人のロシア語と英語の通訳者さんに紹介された、香取俊介氏の『もうひとつの昭和 NHK海外放送受信部の人びと』という本も古本屋さんで見つけて読みました。『MOCT』が発信する側に関わった人々の人生を追ったものであるのに対して、こちらはそれを受信する側の人々の人生を追ったものです。


もうひとつの昭和 NHK外国放送受信部の人びと

この本は、NHKの海外放送受信部(現在はすでに廃止されているそうです)に関わっていた人々の、その前史となる人生を掘り起こしたものです。つまりそうした人生の前提があって後年NHKの海外放送受信部に関わることになったという人々の群像を描いているわけですが、ここにも当然のことながら、言語・語学の存在が大きく関わってきます。それも戦争の時代が大きくからんでいるとなれば、諜報、防諜、情報収集、プロパガンダに語学が動員され、それを通して関わる人々の人生を想像もしなかった方向に連れて行くのです。

この本に登場するいずれの人生も、その数奇さにただただ圧倒されるばかりでしたが、なかでもルーマニアベッサラビアとロシア、そして日本という三つの国の歴史に関わりながら生きた、野村タチヤーナ氏のお話には深く考えさせられるものがありました。

特に、第二次世界大戦時にリトアニア領事として多くのユダヤ人にビザを発給したことで知られる杉原千畝に対する評価が、これまで喧伝されてきたものとは大きく異なる点に驚きました。そしてその理由がまた……私のようなものの憶測を差し挟むのは慎むべきですが、少なくとも私は「さもありなん」という心証を抱きました。この本はまだネットの古本屋さんでも手に入れることができるようですから、興味のある方はぜひご一読を。

この『もうひとつの昭和』は、最終章だけ少し雰囲気が変わっています。現在の(本書刊行時点での)NHKに対する批判、とくに公共放送としてのスタンスや真っ当なジャーナリズムのありよう、さらには日本の企業文化・企業風土におけるいわゆる「語学屋さん」に対しての冷遇ぶりなどを、かなり顔を紅潮させたかのような筆致で論じています。

その言語を使うことができたがゆえに、歴史に翻弄された人々。そうした人々の想いや無念までをも引き取ったうえでNHKや日本社会に対してなされている批判に、私はひそかに同意するものです。

通り魔のようなコメント

経済学者の成田悠輔氏が「聞かれてもない話を延々とする人は通り魔」とおっしゃっていた、とネットニュースで読みました。確かにそんな感じかもと思うと同時に、この「通り魔」的な感じは以前どこかで感じていたことがあるなあ……と考えることしばし、そうだ、SNSを使っていた頃だと思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

いまではもうSNSに類するものをほぼすべてやめてしまいましたが、一時期はTwitter(X)を中心に依存症とでも呼べるほどのレベルで浸っていました。その頃にいちばん不快に感じていたのは、ときおり自分の「つぶやき」が予想もしなかったほどの勢いで拡散されたのち、不特定多数の人々から投げつけられる心ない、あるいは悪意のあるコメントでした。

ご本人はおそらくそれほど考えてもおらず、脊髄反射的にコメントやリプライをされているのでしょう。なかには「オレはガツンと言ってやったぜ」的な快感で溜飲を下げている方もいるかと思います。いずれにしても、フォロワー数が増えるにつれてそういう人に遭遇する頻度も上がっていったというのが、SNSから降りた理由のひとつでした。

ひょっとしたら、同じように感じている方もいるかも知れないと思って「SNS コメント 通り魔」で検索してみたら、なんとこちらの「note」にズバリ「コメント通り魔。」という文章を書かれている方がいました。

note.com

心から同感です。悪口と批判は異なります。きちんとこちらの意図を把握してくださったうえでの誤解や思い込みなどへの指摘など、善意の批判であればもちろんとてもありがたい。でも、なかにはツイートの内容やそれまでの脈絡とはまったく違う方向から、罵声や悪口雑言を投げつけてくる人がけっこういました。それもほとんどが匿名で。

まるで暗闇から不意に出現して言葉を投げつけたのち、すぐに暗闇に消えていくような……まさに「通り魔」としか言いようがありません。SNSのみならず、ネットニュースでもECサイトでもこうした通り魔的コメントは散見されます。不特定多数の人々が書き込めるコメント欄やレビュー欄はできるだけ読まない、近づかないのが吉と心得ておきます。

チケットバイ

ふだん通勤には京王線新宿駅を利用しています。主にデパ地下直結のルミネ口か、京王新線都営地下鉄との共同改札、もしくは京王新線東京都庁寄り改札(新都心口)を使っているのですが、この新都心口でよく外国人観光客とおぼしき方々が困った表情で券売機のタッチパネルと格闘している光景が見られます。たぶん新都心口を出た先の、文化学園のお向かい辺りにホテルがいくつかあるので、そこに泊まっておられる方々が多く利用されるからではないかと思います。


https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_6155.html

しかもこの新都心口は無人改札です。それでみなさんタッチパネルと格闘されているわけ。以前は駅員さんがいましたが、改修が行われて改札機と券売機だけになり、駅員さんとのやり取りができるようにインターホンが設置されています。昨日の退勤時、ここでスマートフォンの音声通訳機能を使いながら、英語でインターホンに訴えている親子連れがいました。スマホで中国語から英語に訳していたので*1、つい聞いてしまったのですが「Suicaを買いたい」とのことでした。

ところがインターホンで応じた駅員さんが「ノースイカ、チケットバイ」と答えたので「???」となって混乱してしまいました。それで見かねて私が「お手伝いしましょうか?」とその親子連れに声をかけました。確かSuicaPASMOなどのICカード、それも旅行者が一時的に利用するような無記名のそれは半導体不足の影響で販売停止になっていたはず。それでその旨も説明したら「そうですか、ありがとう」となって分かれました。

親子連れと分かれたあと電車で帰宅しながら、いろいろと考えてしまいました。半導体不足の影響でICカードが販売停止になるのは仕方がないけど、台湾の「悠遊卡」や「一卡通」なんかは全然影響がないんだよな、さすがTSMCを擁する台湾、とか、新宿駅の南口と西口はいま大規模な再開発で地下通路がものすごく複雑なダンジョンになっているから、外国人観光客にとっては訳が分からないだろうな、とか。

でもいちばん不甲斐ないと思ったのは、申し訳ないけどあの京王新線の駅員さんです。無記名ICカードの販売停止を背景に、おそらく外国人観光客からの問い合わせは急増しているでしょうから、せめて簡単な英語で説明できるように定型文でも用意しておけばいいのではないかと思うのです。日本に来たんだから日本語を使えという主張も私はそれなりに同意ですけど、公共交通機関はもうちょっとだけ外国人観光客に歩み寄ってもいいのではないかと。

特に「チケットバイ」という日本語の語順そのままの英語(?)は、いくらなんでも志が低すぎるというか、外語に対する想像力がなさすぎるんじゃないかなあ。せめて「バイチケット」、あるいは “Please buy a ticket.” くらいは練習してもいいと思うんです。

いつも思うことですけど、そも外語とは、そして母語とは何か、言語や文化の異なる人々と接するとはどういうことかなどなどを(広く浅くでもいいから)涵養する「言語リテラシー」「異文化リテラシー」みたいな教育が求められると思います。早期英語教育にいそしもうとする、その前に。

qianchong.hatenablog.com

*1:なぜ中国語から日本語に訳されなかったのかは分かりませんが、変換の確かさなどで不安があったのかもしれませんね。

アルファベットの筆記体

留学生の一般教養クラスで、それぞれの国の言語政策について発表を行ってもらいました。中国の留学生が文字改革について説明してくれたあと、質疑応答の中でなぜか「以前は英語の授業で筆記体というものを学んだということですが……」という話になりました。

ありましたね、英語の筆記体。私たちは中学1年生から英語が必修になった世代ですが、最初に筆記体とブロック体でアルファベットを書く練習をしたものでした。薄い赤と青の線が入った専用のノートがあって、筆記体とブロック体の大文字と小文字をそれぞれ何度も練習したのです。


www.youtube.com

留学生のみなさんは、おおむね二十代から三十代くらいですが、国によって筆記体の練習をしたことがあるという人もいれば、「筆記体? なんですか、それ」という人もいました。アメリカの留学生は「カリグラフィーなんかを学んでいる人は知ってるでしょうけど、自分は書ける自信がないです」と言っていました。

私は中学生の頃に英語で文通をしていて、その時は筆記体を使って手紙を書いていました。ベルギーとモーリシャスペンパルがいて、赤と青の縁取りがあるエアメール封筒で……って、メールやチャットやSNSがここまで普及した現代においては、もはやなんのことだかわからないでしょうね、文通だのペンパルだのエアメール封筒だのって。そういう時代があったのです。郵便代金を節約するために、蝉の羽のように軽くて薄い便箋を使ってですね、封筒には “VIA AIR MAIL“ とか “PAR AVION” とか書いてですね。


https://www.etsy.com/listing/1277672304/vintage-air-mail-letters-group-cursive

とまれ、パソコンが普及してからこちらは、私も筆記体を使って英語を書くことなどまったくなくなっていました。でも試みにホワイトボードに書いてみたら、大文字はちょっと怪しかったですが小文字はすべて完璧に書けました。こういうのって、マニュアル車の運転と同じで身体が覚えているものなんですね。アメリカの留学生には「とてもきれいです」と褒められました。

「本来の呼び名が尊重されるべき」について

けさの朝日新聞天声人語」に、蘇州の日本人学校の送迎バスで、刃物を持った男に襲われた子どもたちを守ろうとして亡くなった胡友平氏に関連して、名前の読み方についての考察が載っていました。「人は誰でも、その本来の呼び名が尊重されるべきだろう」。胡氏に敬意を表する気持ちは私もまったく同じですが、仮に「フー・ヨウピン」さんとお呼びしたとしても「その本来の呼び名が尊重」されたとは言えないかもしれない、と考えました。

この件、つまりチャイニーズの名前の呼び方については多くの方がさまざまな意見を述べておられて、かくいう私も以前こんな記事を書いたことがあります。

qianchong.hatenablog.com

このときにも書きましたが、私はこの「本来の呼び名が尊重されるべき」についてはどちらかというと懐疑的なんです。理由は、①日本語とは異なる中国語の母音や子音や声調をカタカナで表すのには限界があり、仮にカタカナで読んだところで正確でもないし本来の呼び名の尊重にもならない、②人名は様々な例外があり、読み方の統一は却って混乱を招くし、ほんとうの国際理解・異文化理解・異文化交流にもつながらない、③言語の違いによって異なる人名の呼び方をしているのは「日本だけ」ではない、などの理由からです。

中国語を解さない日本語母語話者であれば、多くの方が「フー・ヨウピン」さんというお名前の6つのカタカナを「高高・高低低低」というイントネーションで声に出されると思います。「フー・チンタオ(胡錦濤)」や「シー・チンピン(習近平)」などと同じように。でもこれは中国語の声調からはけっこう離れてしまっています。「フー」の母音 “u” だって日本語の「う」と「お」の中間くらいの音ですし……もちろん「こ・きんとう」よりは「フー・チンタオ」のほうがよりマシという考え方はあるかもしれませんし、へえ、中国語の発音ではそんな感じになるんだという気づきは大切かもしれませんけど。

ただ私は、お互いが漢字を共有していても、いや、共有しているからこそ、それぞれの文化で異なる音が生まれ、時に面倒くさくて複雑ではあるけれど豊穣な世界を生み出していると考えたい。「本来の呼び名が尊重されるべき」という考え方の後ろには、どこか原理主義にも似た「イデオロギッシュ」なものを感じてしまいます。原音を尊重しているようでいて、その実、日本語の発音がベースになっているという点からは一歩も抜け出ていないのです。とにかく原音尊重だと斉一でポリティカル・コレクトネス的な方向に持っていきたいのは分かるけど、それは逆に思考停止に陥っているのかもしれません。もっと現実の人間の営みと諸言語が混在するこの世界の実相をそのまま受け止めたほうがいいような気がするんです。

それにこうした言語の違いによって異なる人名の呼び方をしているのは「日本だけなのだと改めて痛感」する必要もないように思います。たとえば “Rothschild” が言語や国によって「ロスチャイルド」だったり「ロートシルト」だったり「ロッチルド」だったり(このカタカナ表記だって不完全ですが)しますし、“Levi Strauss(Lévi-Strauss)” だって「レヴィストロース」だったり「リーバイストラウス」だったりします。それぞれの言語の話者が、それぞれの言語のやり方で自らを呼んだり、他者を認識したりしている。

言語をめぐる諸相はとにかく多種多様で複雑で、だから世界はおもしろい。ほんとうの国際理解・異文化理解・異文化交流とは、互いに異なり複雑な現実を踏まえつつ、受け入れ、時に清濁合わせ飲みながら落としどころを探り、他者のありようにも想像力をはたらかせることであって、気持ちよく斉一的な方向に持っていくことではないと思います。

Coffee Break English

移動中やジムでのトレーニング中によく英語のポッドキャスト番組を聞いています。以前は BBC の 6 minutes English を聞いていたのですが、ここのところはもう少し「やさしめ」の、オンライン英会話のチューターさんが紹介してくださった Coffee Break English を楽しんでいます。このページは Season1 ですが、上部にあるメニューの Podcasts から Coffee Break English を選ぶと最新の Season4 まで聞くことができます。


https://coffeebreaklanguages.com/tag/coffee-break-english-season-1/

すべてのエピソードが無料で聞けるこのポッドキャスト、有料会員になるとスクリプトやボーナス音声や単語集などいろいろな特典が利用できるみたいですが、私はとりあえず無料で、番組を聞くことだけやっています。番組だけ聞いていてもかなり勉強になると思うからですが、これだけの内容をタダで聞かせてもらうのも申し訳ないので(広告などもいっさい入りません)、そのうち課金しようかしら。

ポッドキャストに出演しているチューターの Josie さんと Mark さんはスコットランドの方ですが、取り扱う英語(そのエピソードのメインパート)は世界中の様々な英語話者を選んでくれています。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語、ほかにもカナダ人や南アフリカ人やその他の英語話者、さらにはドイツ人やイタリア人が、その土地に関係のあるトピックをご自分の英語で語ってくれるのです。

6 minutes English は基本的にイギリス英語でしか話していませんから、こちらはその点でもいいなと思いました。オンライン英会話でも意図的にいろいろなアクセントの方をチューターに選んできたので、最近は私もだんだん聞き分けができるようになってきました。ああ、これはどこそこの人かしら、などとエラそうに推測したりして楽しんでいます。

Coffee Break English は、英語のレベル的には CEFR の A1〜A2 にあたる初中級といったところで、ちょうど私のレベルにぴったりです。毎回おおむねひとつの文法事項に絞って解説が行われ、それを上手に盛り込んだエピソードになっているのもとてもいいと思います。私はこのポッドキャストで英語の文法用語、たとえば“preposition(前置詞)”とか“present perfect(現在完了)”とか“phrasal verbs(句動詞)”とか“infinitive(原形・不定詞)”とか“modal verbs(助動詞)”などの言葉になじみました。

文法事項の説明もとてもていねいですし、発音についてもイギリス英語ではこう言うけれども、アメリカ英語ではこうなどと綴りの違いも含めて詳しく解説してくれます。また基本的な語彙でもおろそかにせず、「これはどういう意味?」と相手に聞いて、もうひとりが平易な英語で説明するという、その説明の仕方もとても勉強になります。

私は最近 YouTube のプレミアム会員をやめたので、語学関係の動画も広告が入ったり、スリープモードで聞けなくなったりしてしまいました。でもこちらのポッドキャストならそういった煩わしさもありません。アテンション・エコノミーに絡め取られてあれこれ気が散る YouTube より、こちらのほうが落ち着いて学べそうです。もうすぐ Season4 を聞き終わるので、そうしたら最初の Episode に戻って、今度はディクテーションしてみようかなと思っています。

ところでこの Coffee Break シリーズには、英語の他にフランス語・スペイン語・ドイツ語・イタリア語・中国語・スウェーデン語、ゲール語まであって、Coffee Break English でチューターとして出演されている Mark さんがそのすべてに出演しているみたい。しかも以前メールで届いたニュースレターによれば、現在日本語のコースも準備中なんだそう。Mark さん、いったい何者なんでしょう。そのうち Coffee Break Finnish も作ってくれたらうれしいんですけど。

狗沒拿賽

通訳クラスの授業が終わったあと、台湾の留学生がスマホの写真を示しながら「センセ、これ分かります?」と聞いてきました。


https://www.newsday.tw/news/68460

“狗沒拿賽(ㄍㄡˇ ㄇㄟˊ ㄋㄚˊ ㄙㄞˋ/gǒu méi ná sài)”、ゴウ・メイ・ナア・サイ、ゴウメイナアサイ……ゴメンナサイ、日本語ふうの國語(台湾華語)です。しかも最後の“賽”は台湾語で言うところの「糞」なので*1、全体では「犬は糞を持っていっていない」という文になって、飼い主が犬のフンの始末をしていなくて「ごめんなさい」という意味になるんですね。文字の音と意味をかけたうえに、日本語にもかけてあるのが上手ですよね。

ところで、ここに描かれている柴犬はおそらく、先日亡くなった「かぼす」さんですよね。ネットミームとしてつとに有名な「かぼす」さんですが、こんなところにまで派生していたとは。


https://x.com/kabosumama

*1:“呷賽(ジャサイ)”で「糞を食べろ」という罵り言葉になります。くだんの台湾人留学生に「日本語にも『クソでも喰らえ』ってのがありますよと告げたら、異様に盛り上がって喜んでいました……教育的にまずかったかしら。聞いて分かるのはいいけど、自分から使っちゃだめですよとお伝えしておきました。

映画『メッセージ』と Arrival

オンライン英会話で、自分の母語とは異なる様々な言語を学ぶことは大切ですよね、みたいな話をしていたら、チューターさんから Arrival って映画を見たことはある? と聞かれました。アライバル、アライバル……どこかで聞いたような、見たようなとしばし考えて、そうか『メッセージ』だ!と思い至りました。それで話が盛り上がったのですが、どこで原題を覚えていたのか。たぶん、原題の Arrival(到着)と邦題の『メッセージ(Message)』じゃ映画の味わいがちょっと違うんじゃないか……などと考えて、それで記憶の片隅に残っていたのだと思います。


メッセージ

とはいえ、映画の味わいとかなんとかエラソーなことを言っておきながら、実はこの映画がどんな結末だったかほとんど覚えていなかったので、もういちど見直してみました(以下、おおいにネタバレがあります)。





そうしたら、鑑賞後の深い余韻を何度も反芻することになりました。地球に「到着」したエイリアンの言語を解読していく過程で、主人公の言語学者・ルイーズは、過去→現在→未来という線形の時間認識とはまったく異なる非線形の時間認識を持つ言語(それが円環状の「文字」で象徴されています)を理解していき、人生に対してそれまでとはまったく異なる認識を獲得します(ここでは「思考や認識や世界観はその言語の影響を受ける」というサピア・ウォーフの仮説が引用されています)。

なるほど、だからエイリアンたちは人間にそうした「異なる思考や認識や世界観」を伝えるために(そこには世界中の国々がいがみ合うのではなく協力し合うべきというコンセプトもおりこまれています)「メッセージ」を寄こしたのだと、だから邦題の『メッセージ』でもいいのかもと納得しかかったのですが、逆に、ではどうして原題は Arrival なのだろうと興味が湧きました。そこで英語でこの映画の解説をしているサイトなどをあれこれ検索していたら、Youtubeのこの動画に行き当たりました。


www.youtube.com

とても腑に落ちる解説で、動画の最後には T. S. エリオットの詩の一節が引用されていました。

The end of all our exploring
will be to arrive where we started
and know the place for the first time


すべてわれらの探検の終わりは
われらの出発の地に至ること
しかもその地を初めて知るのだ
岩波文庫 T. S. エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治訳)

ご覧になった方はお分かりだと思いますが、この映画は物語の一番最後、エンドロールが現れる直前で初めて ARRIVAL というタイトルが画面に表示されます。円環構造が閉じて最後と最初がつながった、それが到着、至ることの意味なんですね。終わりが始まりという円環構造。そこにはおそらく死への「到着」も包含されており、かつそれが新しい「誕生」にもつながっている。手元の辞書で調べたら英語の “arrival” には時や新しい物などの到来、訪れ、出現*1、そして新生児の誕生という意味もあるのでした。

エリオットの上掲詩には、その前段にこんな一節もあります。

What we call the beginning is often the end
And to make and end is to make a beginning
The end is where we start from.


われらが初めと呼ぶものはしばしば終わりであり
終えるということは始めるということ
終わりとはわれらの歩み出るところ
(同上)

こうやって紐解いてくると、この映画の題名としてはもはや Arrival 以外に考えられなくなりました。もちろん日本人にあまりなじみのない英単語(空港などで目にはしますが)より、外来語としてじゅうぶん人口に膾炙している「メッセージ」を選んだのは配給会社としてもしかたなかったところかもしれません。それでもこの邦題から、この映画の主題がたんなるエイリアンからの謎のメッセージみたいな皮相な捉え方をされてしまうと、作品の深みを味わうことができなくなるのではないか(最初に見たあとほとんど内容を忘れてしまったような私みたいに)、そんなことを思いました。*2

なお、この映画 Arrival については、検索している途中で見つけたこちらのサイトの物理学的な側面からの解説もとてもおもしろかったです(ただし、やはりネタバレがおおいにありますのでご注意を)。

fansvoice.jp

*1:エイリアンも「出現」するのです。

*2:映画 Gravity に『ゼロ・グラビティ』と真逆の意味でつけられた邦題に接したときも似たような感覚を味わいました。要は「ゼロ」がないと無重力環境の恐怖が伝わらないという判断だったのでしょうけど、この作品も最後まで見てのちのちまで反芻するに足るポイントは、地上の圧倒的な重力(gravity)の存在に帰結するのだと私は思います。ここには、私たちが外語の映画を鑑賞するときのある種の限界が現れているような気もします。

これをなんというのかわからない

中国に留学したとき、初日に大学の寮で部屋をあてがわれて、まずやろうと思ったのが掃除でした。ほうきとちりとりと、あとぞうきんもいるかな……と思った瞬間、はたと考え込んでしまいました。中国語で「ほうき」と「ちりとり」と「ぞうきん」って、何ていうんだっけ。

留学するまでに、つごう五年くらいは中国語を学んできていました。奨学金を得るために中国語の試験も受けましたし、クラス分けの面接もなんとか突破して“高級班”に入ることができたというのに、日常生活でよく使う、そんな単語の数々がぜんぜん自分の中に入っていなかったのです。

これは「留学あるある」の典型例みたいで、それまで学んでいた教科書には出てこなかったたぐいの(しかし基本的な)語彙で困るとか、いざ街に出てみたらみなさん教科書みたいにはしゃべってなくてぜんぜん聞き取れないとか、そういうエピソードは多くの方が語ってらっしゃいます*1

それからは心を入れ替えまして、意識的に日常生活で目にする細々としたモノやコトについて、単語を収集し、覚えるようにしてきました。それでも当然ながら難敵はつぎつぎに現れるものでありまして、たとえば以前、台湾は台北合羽橋道具街的なエリア迪化街で「あれ」を買おうと思ったのですが、名前が出てきません。あれとは、皿ごと蒸した料理を蒸籠から取り出す時に使うこれです。


https://www.kvselect.com/190423000002

お店の方に「ほら、あの、蒸籠から、こう挟んで、熱いから……」と身振り手振りなども加えてようやく購入できたのもつかの間、昼ご飯を食べに入った食堂でまた「あれ」に出会いました。あれとは、食堂や屋台のテーブルに必ずと言っていいほど置いてあるこれです。


https://ynews.page.link/u3f2g

栓抜きじゃないんですよ。もちろん栓抜きとしても使えるようになってますけど、より重要な機能は上にあるでかいゼムクリップみたいな部分で。ちなみにこれ、中国大陸(中華人民共和国)出身の留学生は「なにこれ?」的な反応であるのに対して、台湾出身の留学生はほぼ全員が知っている、けれども名前は誰も知らないという品です。

支払い用の伝票を挟んでおくためのもの? ではなく(そういう使い方もできそうですが)、これは割り箸を包んでいるビニールの袋が風で飛ばされないように、ここに挟んでおくための専用器具です。最近はプラスチック製のもありますけど、この昭和の事務用品的な雰囲気ただよう金属製のこれをみると私はいつも、ああ、台湾に来たなあと感慨にふけるのです。

*1:“多少錢?(おいくら?)”だって「ドゥオー・シャオ・チィエン?」なんて言ってない、ほぼ「ドァルチェ?」にしか聞こえない……って。