インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

あえて日本語で話すことが「クール」なのにね

先日、華人(チャイニーズ系)の留学生は、非漢字文化圏の留学生に比べて日本語の音声に対するこだわりが薄そうだ、それはたぶん漢字という強力なツールがあるために、日本語の音に頼らずとも深い理解が可能だからかもしれない……という話を書きました。

qianchong.hatenablog.com

もちろん個人差はあって、華人留学生でも日本語の発音やリスニングが極めて達者な方もいます。でも何年にもわたって大勢の留学生を観察してきた結果から見れば、日本語の「読む・書く」において漢字が大きなメリットになる華人留学生は、一方で日本語の「聴く・話す」においては漢字が逆にデメリットとして働いているように思われます。

特に「話せているようで実は話せていない」という点が顕著で、語彙も日本に関する背景知識も豊富なのに、口頭表現のレベルで損をしている方がとても多く見られます。具体的には日本語の発音、なかんずく撥音・拗音・促音・長音が曖昧なために、せっかく整った文型で言えても一般の日本語母語話者(私たちのように日々外国人に接しているわけではない方々)には通じにくい、あるいは不当に低い評価をされてしまうという方が多いのです。

もちろんこれは、国内的にほぼモノリンガルであるため、外国人の日本語の訛りを極端に許容しない、あるいは慣れていないという私たちの問題でもあるのですが。それでも華人留学生のみなさんは現在、周囲のほとんどが日本語母語話者という語学的にはとても恵まれた環境に暮らしているわけで、間違いや誤解を恐れずどんどん話していって欲しいと思っています。ところが、これもまたあまりその優れた「言語環境」を活用していないフシが見られるんですよね。

華人留学生はうちの学校でも圧倒的に人数が多く、約半数を占めています。それで、華人留学生同士で話をするときは当然のことながら中国語で話をしてしまうんですね。教室を覗いてみても、そこここで華人留学生のみなさんが中国語のマシンガントークを展開しています。もちろん「非」中国語母語話者の留学生と話すときは日本語になるのですが、口語力で彼らの後塵を拝している華人留学生はどうにももどかしそうです。それが華人留学生同士の会話になると、とたんに水を得た魚のように中国語でしゃべり倒してしまうのです。

試みに先日の授業で、華人留学生のみなさんに「学校以外で、日本人の友人や知人と話すことはありますか」と聞いてみました。すると、アルバイト先の日本語母語話者と話すことはあるけれど、それ以外に日本人とつきあいがあるという人はごく少数だということが分かりました。学校では華人留学生同士で中国語を話し、学外でもその時間の多くと華人とのつきあいに費やして、あまり日本語の「実戦訓練」を行っていないのです。せっかくよい「言語環境」に身を置きながら、なんともったいないことでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_742.html

いささか自慢めくので気が引けますが、かつて私が中国に留学したときは「決して日本語を使うまい」と決意したものです。留学生寮では日本人留学生同士で相部屋をあてがわれたのですが、学校側に申し入れて「非」日本語母語話者と一緒にしてもらいました。お互いの共通言語は中国語だけ、とにかく中国語を使わざるを得ないという環境に自分を追い込みたかったのです。

さらに日本人留学生と話をするときも中国語を貫きました。こちらが日本語母語話者だとわかると「なぜ日本語を話さないんだ!」と怒る方もいましたし、最初はこちらも大したことを中国語で話せないのでまるでジェスチャーゲームみたいになったりもしましたが、続けているうちに「あの人はそういう人なんだ」という定評(?)ができて、みなさんが私に合わせて中国語で話してくれるようになりました。当時の私にとって中国語を話すことが「クール」であり、日本語を話すことは「ダサい」ことだったのです。

もちろん日本人同士のパーティなどでは日本語もずいぶん話しましたが、基本的には自分の頭を常に「中国語モード」にしておくことを心がけていました。通訳や翻訳の訓練をするような段階に至ればまた別ですが、語学の習得段階では頭の「言語モード」を器用に切り替えて話すのは至難の業です。どうしたってラク母語に戻って安住してしまう。それでは語学の習得はおぼつかないと思ったのでした。

それ以外にも、中国人学生と友達になって寮に遊びに行ったり彼らの授業に潜り込んだり(いずれも当時は禁止されていましたが)、積極的に街に出て市井の中国人とお話をしたり、列車で偶然知り合った消防署に勤めるおじさんと「相互学習(日本語と中国語を教え合う)」をしたり、とにかく与えられた「言語環境」を最大限に活かそうとしていました。まあ私は35歳にもなって脱サラのうえ留学したので、いわば背水の陣で今さら「青春をエンジョイ」している場合じゃなかったという事情もあったのですが。

そんなこんなを華人留学生のみなさんに話してみました。中国語母語話者同士が、あえて日本語で話すことが「クール」なんですよと。みなさん、とても真剣な面持ちで聞いていたので、多少は参考になったかな、積極的に日本語で話すようになってくれるかなと思ったのですが……授業が終わるやいなや、みなさん中国語のマシンガントークに戻っていました。

ポエムになっちゃった

Twitterのタイムラインで、とても興味深い写真を見かけました。門司港駅の改札に掲げられている横断幕の写真です。

なるほど、横断幕に書かれた日本語には主語がありませんが、これは門司港駅から出る列車は全て門司駅小倉駅に停まりますよ、どの列車に乗っても大丈夫ですよ、と旅客にお知らせする目的で掲げられたものなんですね。たぶん駅の改札で「この列車は門司駅に停まりますか」「小倉駅に停まりますか」というおたずねがあまりに多いので、いちいち答える煩雑さを解消しようと駅側が設置したものなのでしょう。

実は私の実家は北九州市にありまして、門司港駅にも何度も行ったことがあります。確かにこんな横断幕がかかっていたような記憶がおぼろげながらにありますが、そこに英語と韓国語と中国語が足されたんですね(以前はなかったように思います)。そして上掲のツイートは、その英語が少々不自然であり、それは主語を往々にして省略する日本語をそのまま訳した結果ですよと指摘されているわけです。

わははは(笑ってる場合じゃないけれど)、これは面白いです。門司港駅は九州の最北端にある終着駅でして、逆にここから出発する全ての列車はお隣の門司駅、さらにその先の小倉駅に停まって、それから各停や急行などに変わるんですね。そういうシチュエーションが共有されていればそれほど誤解を招くことはない訳文でしょうけど、それでも英語と日本語の大きな違い、主語の「絶対不可欠さ」を考慮に入れずに訳しちゃったというのが、興味深いと思いました。常々申し上げている、日本人の外語に対する「ナイーブ」な感覚が露呈しているような気がして。

qianchong.hatenablog.com

中国語も基本的には主語がはっきりと提示される言語ですが、この横断幕の訳文は主語のない日本語の曖昧さが悪い方に作用して、「このすべては門司駅小倉駅に停まる」……と何だか抽象的なポエムみたいになっちゃってます。まあこれも駅に掲げられている横断幕だから、たぶん全ての列車が止まるんだろうなと中国語母語話者のみなさんも理解してくださるとは思いますけど。せめて英語の“All trains”と同じように主語として“所有列车”か何かを入れるとよかったですね。

ちなみに韓国語の訳文ですが、同僚の韓国人に聞いてみたところ、特におかしなところもないし問題なく理解されると思う、とのお答えでした。

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時間よ止まれ [EPレコード 7inch]

脳卒中とタバコの関係

受動喫煙対策を強化する「改正健康増進法」の一部がこの七月から施行されます。この改正法は、例えば小規模飲食店内での喫煙が依然認められるなど「ダメダメ」な点も多いのですが、それでも一歩前進したことはよかったと思っています。この法改正によって、学校や病院や行政機関などの敷地内は原則禁煙になります。うちの学校でもこの改正に合わせて、キャンパス内にいくつもあった喫煙所が一つに集約されることになりました。

キャンパス内で若い学生さんが多く喫煙所に集って煙をくゆらせているのを見るたび、なんともいたたまれない気持ちになります。なんでまたタバコのような百害あって一利なしのもので、あたら若くて健康な身体と精神を損ない続けているのかと。個人の自由だ、大きなお世話だと思われるかもしれませんが、若いときの喫煙は私みたいな中高年になったときに大きなツケとなって戻ってきます。

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https://www.irasutoya.com/2014/08/blog-post_557.html

細君は二年前に脳卒中のひとつである「くも膜下出血」を発症し、奇跡的に生還しました。その際の経緯を文章にまとめて、公益社団法人日本脳卒中協会脳卒中体験記に応募したところ、入選になりました。先日その文章が載った小冊子が送られてきたのですが、細君の文章もさることながら、そのほかのみなさんの体験記ひとつひとつに打たれました。様々な疾患の中でも、一気にすべての身体の自由(物理的なものから精神的なものまですべて)を奪い、大きな影響をあたえる脳卒中脳出血脳梗塞など)の重大さや激烈さに、あらためて身のすくむ思いがしたのです。
www.jsa-web.org

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タバコの害については様々な研究結果が出ていますが、私が一番怖いと思っているのはこの「脳卒中」との関係です。例えばこちらにある国立がんセンターの研究でも……

・喫煙者は、非喫煙者にくらべ、男性で1.3倍、女性で2.0倍、脳卒中になりやすい。
・たばことクモ膜下出血の関係は強く、本数が増えるほどリスクが高くなる。
・男性では、たばこによってラクナ梗塞や大血管脳梗塞のリスクも上昇する。
脳卒中にならないためには、「たばこを吸わない」が原則。

……という報告がなされています。
epi.ncc.go.jp

タバコを吸い続けているけど高齢になっても元気だと主張している養老孟司氏のような人物もいますが、それはたまたま運がよかっただけでしょう。様々な研究結果を一切無視して、そんな僥倖を一般化するようなおよそ非科学的な態度の科学者(しかもお年寄り)に、若い人は決してたぶらかされてはいけません。

上記の「脳卒中後の私の人生」という小冊子は、日本脳卒中協会に申し込めば送料だけの負担で送ってもらえます。ぜひご一読をおすすめします。人生観が変わることうけあいです。
www.jsa-web.org

どうして私なんかに相談してくるのかな

教師という職業を長年(といってもほんの15年ほど、それも断続的にですが)やっていると、学生さんから、それも卒業後しばらく経ってから様々な相談を受けることがあります。それは学習上の悩みであることも多いですが、もっと重い、例えば就職についてとか、進学についてとか、人生設計についてとか、あるいは家族との関係についてだったりすることもあります。なかば「人生相談」に近いんですね。そうした相談のメールやショートメッセージやLINEをけっこう受け取るのです。

私自身は、仕事についても自分の生き方についてもそんなに自信があるほうじゃない、というかいつもバタバタと必死に生きているので、どうして私なんかに相談してくるのかなと思うことがあります。そんなに頼れると思われているのでしょうか。人生相談だったら私などよりもっと近しいご家族とかご友人に相談した方がよさそうですが、近しすぎるとかえって相談しにくいのかもしれません。それで家族や友人の次くらい日常的に顔を合わせている教師に相談するのかな。

cakes で連載されているコラム「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」では、写真家の幡野広志氏が多くの人から人生相談のメッセージが届くことに対して、こんなことをおっしゃっています。

さいきん少しだけぼくに質問をしてくる理由がわかってきた。相談を受けるとここぞとばかりに、相談者のことを否定して自分の考えを押し付ける人がいる。場合によってはそのまま説教や批判されることや、昔はさぁ~とまったく役に立たない過去の話をしだす人がいる。


ちなみにここでいう昔って、縄文時代のころの話でも江戸時代のころの話でもなく、その人の若いころの話です。彼らはただ自分の話をしたいだけなんです。ぼく自身も過去に先輩などに相談して、これをやられて嫌になった記憶がある。そういう人には二度と人生相談をしていない。こういう人が少なくないのだ。だから周囲に相談できる人が見つからず、ガン患者に人生相談をしてしまう。

cakes.mu

なるほど、やはり周囲に相談できる近しい人がいないので、私に相談してくるということなのかもしれません。

ただ、興味深いのは、そうしたご相談のメールなどに回答をしても、それっきりで返事が来ないことが多いという点です。ショートメッセージやLINEでは話しにくいから(この辺が「おじさん」的です)メールで、とメールアドレスをお教えしても、その後メールが届くことは少ないです。私に相談してみたものの、期待したような回答じゃなかったから「ああ、この人に頼ってもだめだ」と思って他の人に相談しているのかもしれません。

あるいは幡野広志氏がおっしゃるように、「ああ、この人は自分の考えを押しつけたり、過去の自分のことばかり語りたがってる」と思ったのかもしれません。私としてはそんなつもりはなく、相談にできるかぎり誠実に答えようとはしているのですが、基本的に「自分で決め、自分で解決すべき」だと思っているので、そういうスタンスがメールなどの文面ににじんでいるのかもしれません。それが素っ気ない返事に感じられるのかなと思います。

キャリアコンサルタントの資格を持っている細君によれば、相談者には大きく分けて二つのタイプがあるそうです。ひとつは自分で自分の気持ちを整理したいと思っていて、そのために相談という場を活用しようとする人。そしてもうひとつは相手に丸投げで「何かしてもらいたい」と思っている人。なるほど、相談してきて、それっきりお返事がない方というのは、その後者にあたるのかもしれません。他力本願で「何かしてもらいたい」。でも、最終的には自分で解決すべきことですよと言われて「それじゃない」と。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_340.html

ちなみに私自身は、あまり人に悩みを聞いてもらって自分の気持ちを整理しようとしたことはありません。もちろん人生の節々でいろいろな方にお世話になってきましたが、家族にも友人にも(友人があまりいないこともあるけれど)相談したことはほとんどなく、人に相談するよりはむしろネットを検索するとか本を読むとか(自己啓発本みたいなのも含めて)して、自分で決めて行動してくることが多かったです。

「それはアンタが強い人間だからよ」と言われることもあるのですが、私はむしろ弱い人間だからだと思います。人に相談できない・しないのは、自分の弱みを人に見せたくないというプライドの高さから来るんじゃないかと。そうやって自分の弱みをさらけ出して、あるいは腹を割って話すことができないがゆえに、親友と呼べるような存在も極端に少ないのだと思います。

翻訳の好みは人それぞれ

留学生の通訳翻訳クラスで「通訳翻訳概論」という授業を担当しています。通訳学や翻訳学の専門家でも何でもない私が担当するのは正直に申し上げて荷が重すぎるのですが、「そもそも通訳や翻訳とはどんな営みなのか」を様々な例を挙げながら学んでいくという内容で、不肖ながら私が受け持っています。

留学生のみなさんはこれまで日本語学校でひたすら日本語のレベルアップを目指してきた一方で、日本語から英語や中国語に訳す、あるいはその逆というのはほとんどやって来なかったので、「訳す」ということそのものがよく分からない、あるいは通訳と翻訳の違いが分からない……という方が意外に多く、それでこうした授業を作ろうということになったのでした。

先日は「意訳と直訳」と「信・達・雅」について、伊丹十三訳のW・サローヤン『パパ・ユーア・クレイジー』や、ネロを「清」・パトラッシュを「斑」とした日高善一訳の『フランダースの犬』、映画『カサブランカ』の名字幕「君の瞳に乾杯」、そのほかにも「インテル、入ってる」や「可口可乐(コカコーラ)」などなど、さまざまな例を紹介しながら、みなさんに時と場合に応じた翻訳のあり方について議論してもらいました。

さらに、村上春樹氏の『ノルウェイの森』から一節を拝借して、英語と中国語それぞれお二人ずつの翻訳者による翻訳を読んでもらい、これについても議論を行いました。

■原文(村上春樹・作)
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、 いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。


■英語訳(Alfred Birnbaum・訳)
The plane completes its landing procedures, the NO SMOKING sign goes off, and soft background music issues from the ceiling speakers. Some orchestra's muzak rendition of the Beatles' "Norwegian Wood." And sure enough, the melody gets to me, same as always. No, this time it's worse than ever before. I get it real bad. I swear my head is going to burst.


■英語訳(Jay Rubin・訳)
Once the plane was on the ground, soft music began to flow from the ceiling speakers: a sweet orchestral cover version of the Beatles' "Norwegian Wood." The melody never failed to send a shudder through me, but this time it hit me harder than ever.


■中国語訳(林少华・訳)
飞机刚一着陆,禁烟字样的显示牌倏然消失,天花板扩音器中低声传出背景音乐,那是 一个管弦乐队自鸣得意演奏的甲壳虫乐队的《挪威的森林》。那旋律一如往日地使我难 以自已。不,比往日还要强烈地摇撼着我的身心。


■中国語訳(賴明珠・訳)
這時,飛機順利著地,禁菸燈號也跟著熄滅,天花板上的擴音器中輕輕地流出 BGM 音樂來。正是披頭四的“挪威的森林”,倒不知是由哪個樂團演奏的。一如往昔,這旋律仍舊撩動著我的情緒。不!遠比過去更激烈地撩動著我、搖撼著我。

興味深かったのは、英語のAlfred Birnbaum訳とJay Rubin訳、中国語の林少华訳と賴明珠訳、それぞれ好みがほぼ半々に分かれたことです。しかも一方は村上春樹の文体をよく再現できているけれど、もう一方は「村上春樹っぽくない」という人がいる一方で、その同じ訳に対してまったく反対の意見も数多くありました。また一方を「意訳に傾いている」と思う人がいる反面、その同じ訳を「直訳に傾いている」と感じる人も。もとより翻訳に「正解」はないのですが、人によって受け止め方がこれほどまでに多種多様なのがおもしろいです。

中国語の翻訳については、やはり地域差で好みが分かれるようでした。つまり、中国大陸出身の留学生は林少华氏の翻訳を好む一方で、台湾出身の留学生は賴明珠氏の翻訳を好む傾向が強いです。これは予想通りで、やはり自分がこれまでに触れてきたタイプの文体をより読みやすく、好ましく思う一方で、同じ中国語ではあるけれども異なる文化背景(といってしまってよいのか分かりませんが)から生み出されてきた文体には違和感を持つようなのです。

うちの学校では、英語も中国語も巨大でグローバルな言語であるだけに地域差や文化背景によるバリエーションが多様であると認識すること、そうした多様性を積極的に受け入れて自らの小さな言語観に安住しないこと……を教学の柱に据えています。その狙い通り、今回も「センセ、この中国語は文法が間違ってます」と発言する留学生がいたりして、そしてそれについて反論がなされたりして、なかなかおもしろく刺激的な授業になりました。

……おもしろいんですけど、ひとクラス40人近くいて、しかもみなさんとてもポジティブで日本的な「空気読め」とは無縁の方が多い留学生で、そのみなさんがあちこちで英語と中国語と日本語で侃々諤々やっているものですから、こちらはその熱気につきあうだけでどっと疲れてしまいます。ああ、若さっていいなあああ。

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下着ブランド名としての「Kimono」をめぐって

Twitterで「#kimono」や「#KimOhNo」というハッシュタグのついた多くの着物(和服)写真がアップロードされていました。アメリカのタレント、キム・カーダシアン氏が自らプロデュースした矯正下着のブランド名を「Kimono」としたことに対して、日本の伝統的な服装である着物のイメージがこうした形で流布されることに抗議しようと多くの方がツイートしているようです。

ことの経緯は、こちらの記事に詳しくまとめられています。

www.bbc.com

キム・カーダシアン氏ご自身のツイートはこちら(キャプチャー画面です。リンクはこの下に)。

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https://twitter.com/KimKardashian/status/1143505431391854594?s=20

なるほど、これは確かに、写真にある種の強烈な「インパクト」があることも相まって、着物を愛する方々の間で「炎上」しているのは無理からぬところがあると思います。私も日本の着物という服は本来こんなふうに着られているんだよという一つの例を発信するのもいいかなと思って、自分の舞囃子の写真をハッシュタグとともにツイートしました。

ただ私は着物の写真をツイートしたものの、日本文化の侮辱だとか冒瀆だとか、それに抗議するといったスタンスは逆に国粋主義的な香りというかファナティックな感じがして抵抗があったので、単にハッシュタグだけをつけるにとどめました。だいたい日頃から着物をそんなに大切にしているのかと問われれば、少なくとも私はそれほど胸を張れないなとも思って。それでもハッシュタグ「#KimOhNo」を使っていますから、多少なりとも抗議のニュアンスはこもるんですけど。

こうした他の文化のアイデンティティを毀損しそうな危うい名称というのは、他にもたくさんあると思います。いまぱっと思いつくところでは、かつて風俗営業店の代名詞だった「トルコ風呂」や、喜納昌吉氏の『ハイサイおじさん』に出てくる「台湾はぎ(禿)」。「日本のチベット」というのも考えてみればかなり危ういですし、中国語にも“香港脚(水虫)”というのがあります(他にもありましたら、ぜひご教示ください)。

ただこれらはいずれもネガティブな、あるいは茶化したようなイメージがつきまとうのに対して、今回はむしろおしゃれな下着としての名称に「Kimono」を使われちゃったところがややこしい。こういう「ラクダ色(……は死語かしら、肌色?)」の下着は服の上から下着の線が目立たないので私も愛用しています。でも服としての「Kimono」が下着として商標登録されちゃったらやはり心中穏やかでない……などとつらつら考えていたら、フォロワーのMariChan(陳マリ)さんがこんな興味深いツイートをされていました。

へええ。ネットで検索したらすぐに見つかりました。アメリカはカリフォルニア州にある「Mayer Laboratories」という会社が販売している製品で、オフィシャルサイトの下に「Kimono CONDOMS」のバナーが「Rマーク(®)」つきで見えます。商標登録もされちゃってるじゃないですか。製品説明には「Made with premium natural latex using state-of-the-art Japanese technology」とあります。日本の企業と技術提携(?)したアメリカ製品みたいですが、中国語のネットショップでは「日本製造(日本製)」となっているところもありました。おお……。

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http://kimono-condoms.com/kimono-microthin-condom.htm

単なる想像ですが、キム・カーダシアン氏ご自身はあんまり深く考えずに軽い「ノリ」でネーミングをしたのかもしれません。商標登録うんぬんの行方は分かりませんが、仮にされたとしても米国内でのお話。米国で着物を売ろうとするときには影響はあるかもしれませんが、はたしてどれくらいの「市場」があるのかと考えれば杞憂に過ぎないかもしれません。着物を愛するみなさんはこれからもSNSなどで「Kimono」の文字とともにご自分の着物姿など、着物のありようを示す写真をどんどんアップされるといいかもしれませんね。私もやろうと思います。

体重が増えません

腰痛と肩凝りと不定愁訴の改善を目指してはじめたジム通いも「病膏肓に入」りつつあり、現在は「朝活」で週に5日、以前から続けているパーソナルトレーニングには週に2回通っています。体幹レーニングと「筋トレ」がメインなのですが、年齢が年齢だけにもうそんなに「マッチョ」にはなれません。まあ、なる気もないんですけど。

それでも、ベンチプレスなど続けているとついつい欲が出て、さらにトレーナーさんが上手にハードルを上げてくるのとも相まって、徐々に挙げられる重量が増えてきました。以前から自分の体重ぶんのウェイトを目標にしていたのですが、ついに先日その体重を超えました。次なる目標はこの重さを数回、あるいは数セット挙げられるようになることです。

ところで、ある程度の重量を上げようとすると、これはもう物理的に筋肉の絶対量が必要です。重力というのは極めて冷徹かつ非情な存在でありまして、小手先のテクニックでどうにかなっちゃうものではありません(正しい姿勢やマインドセットは必要ですが)。それで最近は炭水化物を少し抑えつつ、良質な蛋白質を多く摂ろうとしているのですが、これがまた中高年の悲しいところで、すでにもうそんなにたくさん食べられない身体になってしまっていました。いくら食べてもお腹がすいて仕方がなかった若い頃が懐かしいです。

手軽に蛋白質だけを摂るならプロテインという手もあり、実際トレーニング後には飲んでいますが、これだけじゃ寂しい。というわけで鶏の胸肉や、赤身の豚肉や牛肉、魚などを以前よりも多く炊事で用いるようになりました。それと同量かさらに多い野菜類、豆類とともに。それでもすぐに満腹になってしまいます。

トレーナーさんからは「筋肉がつけばそれなりに体重は増えますけど、ある程度体重がないとウェイトは上がっていきません。できれば積極的に食べてください」と言われているのですが、なかなか健康的に太ることができません。ご飯やパスタをどんと食べれば容易に太れるんですけど、良質の蛋白質で太るのはけっこう難しいんですね。

ということで、最近は脂肪がほとんどない赤身の牛肉を使ってよく「タリアータ」を作っています。

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世間的には牛肉の「サシ」が人気ですが、私はもうあの脂について行けないので、いつも赤身の牛肉ばかり買っています。ところが赤身の牛肉(のブロック肉)って存外手に入れるのが難しいんですね。でもスーパーによってはこだわりの仕入れ担当者がいらっしゃるのか、まったく脂身のついていない牛肉を売っています。しかもサシが入った牛肉よりずいぶんお安い価格で。

そういう赤身の牛肉には、脂のうまみとはまた全然違う、しかしとても滋味深い味わいがあるのが分かるようになりました。タリアータは牛肉を焼いて薄切りにするだけなので、調理もとても簡単です。「強火で何度も裏返す」という樋口直哉氏の作り方を参考にしています。

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チャイニーズのみなさんは立ち食いと冷えた料理が苦手

先日、華人留学生の通訳教材で“立餐宴會(立食パーティ)”という中国語が出てきたのですが、みなさんそこで一様に「うっ……」と訳出が止まってしまいました。ちなみに今、Googleの中国語インプットメソッドで「lican」と打っても、変換候補に“立餐”が出てきません。華人にとって立食はほとんど存在しない概念なんですね。というか、教材の“立餐”は日本語の「立食」をムリヤリ中国語に訳した感が強いです。

これまで何十人もの華人に「取材」してきたのですが、立ち食い、それも箸やお椀などの食器を使った立ち食いは「苦手」「身体に悪い」「どうしてもできない」という方がほとんどでした。来日何十年の華人でも、駅などの「立ち食いそば」は未経験という方が多いです。最近のごくごくお若い方はむしろ「立ち食いそば」を日本的なアイコンとして楽しんじゃうノリの方もいらっしゃるようですが。

華人のみなさんは、立ち食い全体が苦手なわけではなく、ファストフードみたいなのとか、屋台の食べ物なんかはよく立ち食いしています。でもお弁当とか、飲食店で食器、それも箸や食器を使うような場合は、立ち食いを敬遠されるようです。万やむを得ない場合はその場に「しゃがむ」。だから立ち食いそばはもとより、オープン当初は立ち食いが一種の名物だった「いきなりステーキ」とか「俺のフレンチ」みたいなのも、ちょっと想像の範疇を超えるみたいです。

ちなみに先日はお若い華人留学生のみなさんから「どうして日本人は『立ち食い』が好きなんですか? いつも忙しく働いてるから時間の節約ですか」と聞かれました。私はとっさに「う〜ん、多分そうじゃなくて、江戸時代に寿司や蕎麦なんかがファストフード的に広まって、それが立ち食いだったからじゃないかな」と答えましたが、根拠はありません。ちょっと調べてみましょうかね。

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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_624.html

私は立ち食いそばが好きですが、立食パーティというのは何度参加しても慣れません。片手でグラスとお皿を器用に持ち、人混みをかき分けて移動するのが下手なのです。最近は参加する機会もないので状況はわかりませんが、以前の日中関係・日台関係のレセプションなど、けっこう立食式(ビュッフェ形式?)の会が多かったように思います。食器を用いた立食が苦手な華人がゲストなのに、このあたりは「おもてなし」の想像力が働かなかったのかなあ。

ちなみに華人は冷え切った食事もあんまり好きじゃありません。もちろん中国系の料理にも冷たいものはありますけど、冷たいものを食べると身体に悪いと幼い頃から信じていますし、実際具合が悪くなる方もいます。お菓子やサンドイッチのような軽食ならまだしも、基本的に料理は「あつあつ」「ほかほか」、それも舌を焼くほどの……が大好きな人々なのです。

うちの学校でも、合宿などを行うと一番評判が悪いのは冷えた食事です。学校側には何度も申し入れているのですが、なかなか改善されません。予算の都合もあるんでしょうけど、華人がどれだけ難儀に思っているか想像しにくいんでしょうね、郷に入っては郷に従えとはいえ。

企業のランチミーティングなどでも上等な松花堂弁当なんか取ってくださることが多くて、これはむしろ海外からのお客様に日本風のお弁当を味わってもらいたいという「おもてなし」の発露なんですが、当の華人はというと、一応社交辞令で「おお、美しいですね」などとおっしゃるものの、あまり喜んでいません。せめて熱々のスープか味噌汁でもあれば救われるんですけど。

私はこれ、単に食事の好みをこえて、ほとんど宗教上の理由で何々が食べられないみたいなのと同じくらいの扱いをしなきゃいけないんじゃないかと以前から思っているのですが、わかってくださる日本側のクライアントは少ないです。中国系の料理って、それだけで一つの膨大な文化を形成していて充足できるからか、華人は食に対してかなり保守的なんですよね。朝はトーストに味噌汁で、昼はハンバーグカレーで、夜はチューハイ片手に「餅入りチーズキムチもんじゃ」とか、そういうクロスオーバーな(無秩序な?)食文化を享受している私たちにはなかなか理解が深まらないところなのです。

フィンランド語 41 …動詞の「棚卸し」その2

授業では引き続き動詞の「棚卸し」をやりました。一つの動詞をめぐって……

・現在形の肯定と否定
・過去形の肯定と否定
・現在完了形の肯定と否定
・過去完了形の肯定と否定
・命令形二人称単数の肯定と否定
・命令形二人称複数の肯定と否定
・第三不定
・第四不定詞(動名詞

……をどんどん作っていくのです。先生からは、実際に話すときにはいちいち「作り方はどうだったかな」と教科書やノートを見るわけにはいかないので、何も見ずにこれらが作れるよう繰り返し練習してくださいと指示がありました。

先生によれば、これでフィンランド語の「時制(テンス)」はすべて出尽くしたそうです。そうか、フィンランド語には動詞の未来形がないんですね。現在形で言って、文章に未来を表す言葉が入っていれば(例えば「huomenna:明日に」)即未来形になると。これは中国語でも同じですね。

棚卸しをやってみて分かったのは、現在の私の弱点は「過去形の否定」と「命令形複数」だということでした。

過去形の否定は否定辞「en 〜 eivät」の後ろに動詞の過去分詞がつくのですが、それを忘れて「否定辞+動詞の過去形」で済ませちゃってました。

lukea(読む・学ぶ・専攻する)

Minä en lukenut Me emme lukeneet
Sinä et lukenut Te ette lukeneet
Hän ei lukenut He eivät lukeneet

命令形複数肯定は、動詞が① VA、AtAutA、otA、itA タイプの場合は語尾の綴りをひとつ外して「kaa / kää」をつけ、②それ以外のタイプの場合はふたつ外して「kaa / kää」をつけます。否定は「Äikää」の後に語幹+「ko / kö」

Lukekaa ! Älkää lukeko !

あと大事なポイントとして「過去分詞」と「命令形複数」だけは「kpt」の変化がないということ、第三不定詞が表す代表的な意味「massa(〜している)」、「masta(〜してから)」、「maan(〜するために)」、「malla(〜することで)」、「matta(〜することなしに)」を覚えること、さらにふだん「tehdä(する・作る)」と「nähdä(見る・会う)」は元の形の「tekea」「nakea」、つまり「VAタイプ」として扱うところ、過去分詞と命令形複数では「dAタイプ」として扱うという点でしょうか。

過去分詞単数 過去分詞複数 命令形複数
tehnyt tehneet tehkää !
nähnyt nähneet nähkää !

棚卸し作業の手順

これらを踏まえて動詞の棚卸しをする際の手順も教わりました。「tietää(知る)」でやってみます。

1.現在形肯定を作る。

Minä tiedän Me tiedämme
Sinä tiedät Te tiedätte
Hän tietää He tietävät

2.三人称複数の「vät」を外した形から第三不定詞と第四不定詞(動名詞)を作る。

第三不定詞内格 tietämässä
第三不定詞出格 tietämästä
第三不定詞入格 tietämään
第三不定詞所格・接格 tietämällä
第三不定詞欠格 tietämättä
第四不定詞(動名詞 tietäminen

※この他にもまだまだ作ることができる形があり、それらはこの先で学ぶそうです。

3.現在形否定を作る。

Minä en tietä Me emme tietä
Sinä et tietä Te ette tietä
Hän ei tietä He eivät tietä

4.命令形を作る。

肯定 否定
単数 Tietä ! Älä tietä !
複数 Tietäkää ! Älkää tietäkö !

5.過去形肯定を作る。

Minä tiesin Me tiesimme
Sinä tiesit Te tiesitte
Hän tiesi He tiesivät

6.過去形否定を作る。

Minä en tiennyt Me emme tienneet
Sinä et tiennyt Te ette tienneet
Hän ei tiennyt He eivät tienneet

※「tietää」の過去分詞は例外的な作り方ですが、通常の作り方で「tietänyt / tiedäneet」としてもOKだそうです。

7.過去形否定で出てきた過去分詞を使って現在完了形(肯定・否定)と過去完了形(肯定・否定)を作る。

Minä olen tiennyt Me olemme tienneet
Sinä olet tiennyt Te olette tienneet
Hän on tiennyt He ovat tienneet
Minä en ole tiennyt Me emme ole tienneet
Sinä et ole tiennyt Te ette ole tienneet
Hän ei ole tiennyt He eivät ole tienneet
Minä olin tiennyt Me olimme tienneet
Sinä olit tiennyt Te olitte tienneet
Hän oli tiennyt He olivat tienneet
Minä en ollut tiennyt Me emme olleet tienneet
Sinä et ollut tiennyt Te ette olleet tienneet
Hän ei ollut tiennyt He eivät olleet tienneet

……と、これで棚卸しの手順が一通り終わりました。今学んでいる教科書にはおよそ150個ほどの動詞が出てくるのですが、そのすべてでこの変化ができるようにしてくださいと指示がありました。そして、とりわけ動詞の原形を覚えること、その他の単語もできるだけ暗記するように言われました。フィンランド語は単語の変化が激しいですが、それでも単語の「元の形」をたくさん覚えていることはコミュニケーションでも力を発揮するのだそうです。畢竟、単語の羅列でもある程度まで意思の疎通はできるからです。はい、引き続き頑張ります。

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Minä menen ravintolaan tapaamaan ystävää.

かつての光を失いつつある百貨店

私が子どもの頃、デパート(百貨店)というのはみんなの憧れの場所でした。週末に、家族総出で自家用車に乗り込み、長い駐車場の列をものともせずデパートに繰り出し、ショッピングや食事(大食堂でね)を楽しむ……というレジャー形式(?)があったのです。2019年の今となっては、ちょっと信じられないくらいですが。

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https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_8636.html

今の私は、デパートで買い物をすることはほとんどありません。服飾関係にしても雑貨や日用品関係にしても価格がお高いし、お高いがゆえにお客さんも少なくて買いにくいし、やたら声をかけられる接客が過剰だし、プラスチックゴミが世界的な問題になっているのにビニール類での包装も過剰だし、そもそも「何でもあるけど自分が欲しいものは何もない」というデパートは、すでに「何でもあって自分が欲しいものも必ず見つかる」ネットショップの好敵手たりえません。

きょうび、ファストファッションでもそこそこの品質ですし、品揃えが桁違いに豊富なネットショップで充分に物欲を満たすことができ、なおかつネットで唯一の難点だった試着ができないとかサイズ違いへの対応などにも、返品自由などいろいろなサービスが登場して、もはやデパートで服や雑貨などを買うメリットはなくなりました。

接客などの丁寧さがデパートの強みかもしれませんが、正直に申し上げてデパートの接客が丁寧で洗練されているとはあまり思えないんです。あまり具体的に書くのも「クレーマー」めくので気が引けますが、高級感をはき違えた慇懃無礼さがなんとも心地悪いですし、店員さんが意外に商品知識がなくてこちらが困惑することも多いです。あるデパートなど試着を申し出たところ、店員さんに「あ、試着室、遠いんで」とにべもなく断られてしまいました。いったい何キロ先に試着室があるのかな。

業界に詳しい知人によると「デパートの店員さんは、その会社のプロパーだけでなく、衣料メーカーからの派遣も多く入っているので、自分のメーカー以外の商品知識が薄かったり、そのデパートの接客品質を共有できていなかったりするのかもしれませんね」とのことでした。なるほど〜。でも客には分からないですよね、そんなこと。

カードを持ってかれるのが恐い

それから、デパートではカードで支払いをすると店員さんがカードを奥のレジまで持って行ってしまうことが多いですよね。あれもものすごく不安になります。お金の出し入れを客に見せないためか、レジは遠くの隠れたところにあって、それがデパートならではの接客だという「思想」なんでしょうけど、決済端末が進化していまやAppleStoreみたいに店員が端末を携帯してレジを廃止しているような時代なのに、いまだに何十年も前のシステムで動いているのは驚異的です。

中国も大昔は全ての商品が対面販売で、店員さんの「“没有”攻撃」を交わしながら何とか物を見つけて支払伝票を書いてもらい、それを別の場所にある“收銀處”(出納窓口)に持って行って支払いを済ませ、支払い済みとハンコを押された伝票を持って売り場に戻ってやっと品物を受け取れる……というシステムでしたが、日本のデパートの会計システムは2019年の現在でもそれに似たようなことをやっているのですね。

それに自分の番号が書かれたクレジットカードがいったん奥に消えるのって、恐くありません? 店員さんを疑うわけじゃないけど、スキミングでも何でもし放題じゃないですか。私は実際に番号を盗まれたことがあるので(デパートでじゃありません。ネット上でです)、正直に申し上げて長時間他人にカードを渡すのは恐いです。

デパートは、すでにその価格に見合うだけの付加価値はないんじゃないかと思います。ただ、唯一デパートの売り場でまだ独自の光を放っているように思えるのは、いわゆる「デパ地下」です。外国人観光客も多く集まっていて活気があり、活気があるから店員さんの表情も明るくイキイキしているように思えます。でもここも例えば「駅ナカ」みたいな売り場がどんどん充実してきているので、将来にわたっても安泰かどうかは分からないですよね。

シャドーイングにご用心

外出しているときは、たいていイヤホンを耳に装着して音を聞いています。音楽を聴いたり、能の謡を覚えるために聴いたりすることもありますが、たいていの場合は語学教材の「シャドーイング」をしています。中国語を使う仕事に向かうときは、速めの中国語教材をずっとシャドーイング。なんだかんだ言って“土生土長的日本人(生まれも育ちも日本の人間)”なので、朝一番で「どんっ!」と中国語が出てきにくいため、口慣らしというか「暖機運転」をしているのです。

最近はフィンランド語の教科書の音声を繰り返し聴きながらシャドーイングしていることが多いです。フィンランド語は語形変化が激しいので、教科書の文章を丸暗記してもあまり応用が利きにくそうなのですが、とにもかくにもフィンランド語の音に慣れるために、そしてフィンランド語の語感を身体に染みこませるためにシャドーイングしているのです。

ただし往来でシャドーイングするときは、あまり大きな声は出せません。出してもいいけど(雑踏では結構な声量でやっています)「変なおじさん」になっちゃうので、特に電車の中などでは口中で「もごもご」と、あるいはごくごく声量を絞った小声でシャドーイングしています。が、時折夢中になって興が乗ってくると声が大きめになっているらしく、電車内などで「何、この人?」的に振り向かれることがよくあります。

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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_5366.html

先日はスーパーで夕飯の食材を物色しながらシャドーイングしていたら、見知らぬおじさんがこちらを睨んでいるのに気づきました。それでも気にせず小声でシャドーイングしながら買い回っていたら、なんとそのおじさんが声をかけてきました。いわく「なんかオレに文句でもあるのか」。どうやらシャドーイングしていたフィンランド語が、そのおじさんへの悪口に聞こえたみたいなんですね。

私は最初おじさんから声をかけられたことにも気づかず(だってイヤホンで音を聞いてるんですから)、何度か声をかけられてようやくイヤホンを外して「はい? 何か?」と応じたのですが、その様子を見ておじさんも「なんだ、ひとり言を言ってるのか」と言い捨てて向こうへ去って行きました。勘違いしたことが気恥ずかしそうなご様子でした。私は思わずその背中に「すみません、語学のシャドーイングをしてたんです」と返しましたが、全然説明になっていなかったですね。だって「一般の方」にとって、外語をシャドーイングするという行為そのものが理解の範疇を超えてますもの。

いやはや、見知らぬおじさん、ごめんなさいね。それにしても、今後はシャドーイングの「声漏れ」にもう少し気をつけようと思いました。あらぬ誤解を招いて、後ろから刺されたりしたらシャレになんないもの。

中国語圏の学生における発音とリスニングの弱点について

私が担当している留学生の通訳クラスは、中国語圏の学生と「それ以外」の学生がほぼ半々で在籍しており、中国語圏の学生は日中・中日通訳を訓練し、「それ以外」の学生は日英・英日通訳を訓練します。「それ以外」の学生には英語の母語話者もいますが、多くは英語を使うそのほかの国々の学生です。

「そのほかの国々」の学生は、本当は自分の母語と日本語の間の通訳を学びたいのですが、こちらにそのメソッドがないことと、教員がいないこと、それにそうした通訳の市場が日本では極めて小さいこと、就職先も限られることなどから、仕方なく(?)日英・英日通訳を訓練しているのです。欧州やインド、あるいはアジアのシンガポールやマレーシア、インドネシア、タイ、ベトナムミャンマーなどの学生が多く、南米のブラジルやアルゼンチンの学生も在籍しています。

ただし、そうした「そのほかの国々」の留学生は、みなさん英語がとても達者です。もちろん英語が達者だから入学試験をパスしてきたわけですが、母語以外に英語を学び、さらに日本語も学んで、英語と日本語間のいわば「第二言語同士」の通訳を学んでいるというのは、考えてみれば我々日本語母語話者にはなかなか想像ができないくらいのものすごいことをしていますよね。

さらに、英語を半ば準母語として、あるいは国の公用語に近い形で使わざるを得ない国が世界にはたくさんあるのだということ、それに比べて日本はとても恵まれているのだということ、日本語はそれほど「巨大な言語」なのだということも、私たち日本語母語話者はあまり実感として分かっていないのかもしれないと常々思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_891.html

閑話休題

私は中国語圏の学生と「そのほかの国々」の学生の両方を受け持っているのですが、通訳訓練をしていると、この二つの「群」には明らかな違いがあると感じます。中国語圏の学生は明らかに日本語の発音や発声、とくに非日常的な(普段のおしゃべりには使わないような)言葉――複雑な外来語(カタカナ語)やテクニカルターム、専門用語、マイナーな人名・地名などなど――の発音や発声が「そのほかの国々」の学生に比べて劣っているのです(もちろん例外はありますが)。

「劣っている」という言い方はちょっと失礼ですね。中国語圏の学生は、そうした語彙へのこだわりが薄いと言った方がいいかもしれません。日本語には(中国語もですけど)同音異義語が多く、同音でなくても発音の似通った単語がごまんとあります。そんな言葉の数々をきちんとクライアントに伝わる形で言い分けるには、長音や撥音、促音、拗音などなどをきっちりと踏まえる必要がありますが、その辺のこだわりがとても薄いように感じるのです。

これはもう明らかに「漢字」の存在が大きくものを言っていると思います。ありとあらゆることを漢字で表現する国々の人たちであるだけに、物事の理解の中心には「漢字」がどっかと腰を据えているようなのです。そして漢字で森羅万象を切り取った瞬間に、中国語の漢字の発音が脳内に響いてしまう。それが発音や発声に大きく干渉しているようです。ご自分ではきちんと日本語の語彙を言っているつもりなのに、全然言えていない……そうした齟齬に悩まされるのですね。

ちなみに日本語母語話者が中国語を学ぶときにも似たような現象が起きます。中国語圏の人ほど漢字に依存してはいないものの、やはり漢字に頼って言葉を操ろうとするがゆえに、発音や発声が手薄になるんですね。留学している時も、漢字を知っている日本人留学生よりも、漢字をまったく介さないで中国語の音を学んでいる欧米人留学生の方が発音が達者だ……などという話をよく聞きました(もちろん個人差や、向き不向きもありますが)。

また漢字の存在が大きい中国語圏の学生と日本語母語話者の学生に共通していることですが、映像を使って聴解訓練をすると、映像や画面のフリップ・字幕などに助けられて何となく聴けた気になっているものの、映像を消して純粋に音声だけにしたとたんに聴けなくなるというのもよく指摘されることです。

うちの学校の華人留学生にも同様の傾向があるので、例えばプリントなど刷り物を配って説明するときにも、まずはプリントを配らず、こちらが先に話して理解を確かめてからプリントを配るようにしています。逆に声の説明だけで済ませると、みなさん「ふんふん、はいはい」と聴いて分かっているような顔をしているものの実は全然聴き取れてなかったということがたびたび起こるので、あとから刷り物を配って再度確認してもらうようにしています。

ことほどさように、文字、特に漢字の力は大きいんですね。なにせ一目見ただけでかなり深い意味まで了解できてしまうのですから。それがまた漢字の素晴らしい点でもあるのですが、同文同種ではなく同文異種である中国語と日本語の間の学習においては、この点をきちんと踏まえていなければ……と常に意識に上らせるようにしています。自分が教えるときも、そして学ぶときにも。

こちらはかなり以前の動画ですが、上海にある日本語学校の先生が、どうやったら日本語のリスニング力が上がるかと問われてこんなことをおっしゃっています(2:26あたりから)。

youtu.be

中高级同学呢,经常会跟我说:“杨老师啊,我考试呢,总是听力分数不高,但是其实我日剧动漫我好像看懂。”那其实我要非常一针见血地告诉你,其实你没有看懂。你的问题是借助着画面,借助着字幕,借助着前后文,好像这里的意思你能取下来了,对吧?


中上級の学生がよくこんなことを言います。「先生、僕はリスニングテストの点数がいつも悪いんですけど、日本のドラマやアニメは聴き取れるんですよね」。でもハッキリと申し上げましょう。実は理解できていないんです。つまり画面や字幕に、あるいは前後のつながりに助けられて分かったような気になっているんですね。

中国語を学ぶ我々にとっても傾聴に値するご指摘だと思います。

定期健診とPMCT

歯医医院へ定期健診に行って来ました。十年以上前に歯列矯正をした歯科医院です。年に一回の定期健診で毎回思うのですが、ついこのないだ検診をしたばかりのような気がします。一年が経つのがはやい、はや過ぎる。先生も「こんにちは、あれ? もう一年経った? はやいなあ」と驚いていました。先生はたぶん私と同年代だと思いますが、どんどん人生の時計の進み方がはやく感じられるようになるんですかね。

健診では「ちゃんとリテーナー(保定器)を使い続けている人はほとんど崩れないね」と言われました。そう、歯列矯正は矯正が終了した時点から身体の成長、あるいは加齢に伴って徐々に形が崩れていくものとされています(矯正開始時にちゃんと説明があります)。それを少しでも防ぐためにリテーナーをつけるのですが、たいていの人は数年でやめちゃうらしい。でも私はせっかくお金をかけて矯正したんだからもったいないと、十年以上経ったいまでも就寝時には必ずリテーナーを装着しているのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_25.html

一年ごとの定期健診では、合わせてPMCTも受けます。PMCTというのは「Professional Mechanical Tooth Cleaning」、専門的機械歯面清掃(せんもんてききかいしめんせいそう)という聞き慣れない名称ですが、30~40分ほどかけて歯石や汚れの除去、洗浄、弗素コーティング、虫歯の検査など、歯の全面的なクリーニングを行ってもらうものです。

クリーニングのあとには歯磨きの指導もあります。今回は前歯の裏側に歯石が比較的多かったので、歯磨きの時は歯ブラシを縦にしてここから磨き始めるように言われました。また奥歯周辺の歯ぐきが加齢によって下がってきているので、歯を磨く時はなるべく歯ぐきに圧力をかけないよう優しく磨くように、そのために歯ブラシを握るのではなく、ペンを持つようにして、歯ぐきにかかる力を減らすことなどを指導されました。

こうした定期検診のおかげで虫歯とは無縁になりましたが、若い頃の不摂生でほとんど全ての奥歯には詰め物が入っています。もっと早くから歯のケアを考えておけばよかったと思います。でも少なくともこれからは、今の状態をできるだけ長く維持できたらと思っています。自分の歯で何でも食べられるというのは、健康に関する条件の中でも筆頭にあげるべき大切なポイントだと思うのです。「歯磨きのあとに口を漱がない」という驚異の「イエテボリ・テクニック」も絶賛継続中です。

qianchong.hatenablog.com

フィンランドのサーモンスープ

サーモンのスープを作りました。サーモン以外にも野菜をたくさん入れた、飲むスープというより食べるスープです。初めてフィンランドに行った時に食べたこのタイプのスープがおいしかったので、それ以来何度も作っています。

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後にフィンランド語を学び始めて知ったのですが、フィンランド語でこのサーモンのスープは「lohikeitto」。「lohi(ロヒ)」がサーモンで「keitto(ケイット)」がスープです。ちなみにフィンランド語で台所(キッチン)は「keittiö(ケイッティオ)」、料理する(煮る・沸かす)という動詞は「keittää(ケイッター)」。というわけで「keitto」は単にスープというより、日本語でいえば「ごはん」くらいのニュアンスなのかもしれません。具だくさんのこうしたスープが、ミートボールよりもトナカイ肉の煮込みよりもよりフィンランドらしい庶民的料理の代表格なのかなと勝手に想像しています。

こちらはヘルシンキの庶民的なレストラン「コルメ・クルーヌア」で食べた「lohikeitto」です。

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このスープにはディルが欠かせません。何度も作ってみて分かったのは、このスープの決め手は、仕上げに散らす多めのディルにあることでした。魚の臭みを消してさらに爽やかな香りを足すためなので、お飾り程度ではなくどさっと入れるのです。本場のレシピはまったく知らずに作っているのですが、細かく切った野菜を三〜四種類くらい入れると味に深みが出るようです。あと、生クリームも(まあバターや生クリームを入れればたいていのスープやシチューはおいしくできちゃうのですが)。

同じような作り方をするミネストローネだと、生クリームは使いませんがニンニクをみじん切りにして入れたいところ。ですが、私はこのスープには入れないほうがいいような気がします。なんとなく、ニンニクを入れると南の地方の料理っぽくなるような気がするのです。北欧のスープはもう少しシンプルな方が「らしい」かなと思います(たんなる個人的な妄想です)。

本当の翻訳の話をしよう

村上春樹氏と柴田元幸氏の『本当の翻訳の話をしよう』を読みました。雑誌『MONKEY』に掲載された、小説(なかでもアメリカ近現代の)や翻訳に関する対談を収めた一冊です。本のタイトルはティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう 』へのオマージュですね。

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本当の翻訳の話をしよう

いくつかの対談はすでに雑誌で拝見していたのですが、こうやってあらためて読んでみると、お二人ともアメリカ文学が本当にお好きなんだなあ、そして翻訳という作業が何よりお好きなんだなあと、その思いが伝わってきます。だからアメリカ文学とその翻訳に関して対談している部分は、ほとんどオタクというかマニアというか、あまりに細かくかつディープな話題で盛り上がっていて*1、それほど詳しくない人間からするとちょいと「おいてけぼり」をくわされている感じもします。それでも話がアメリカの社会や近現代の歴史にも及ぶので興味深いことこの上ないのですが。

私は海外文学の忠実なファンとはとても言えない、つまりそれほど多くを読んでいないので、こうしたアメリカ文学の作品論や作家論的なところにはあまり入り込めませんでした。でもそのかわりに「日本翻訳史 明治編」と題された、日本における文芸翻訳の黎明期、今とはかなり異なる翻訳のあり方を縷々紹介している部分は身を乗り出すようにして読みました。

鴻巣友季子氏の『明治大正 翻訳ワンダーランド』でも紹介されていた森田思軒や黒岩涙香、さらには坪内逍遙二葉亭四迷森鷗外らの訳業についても、原文も引きながら解説されています。鴻巣氏の本では、かの『フランダースの犬』の初訳(日高善一訳)でパトラッシュは「斑(ぶち)」でネルロは「清(きよし)」と訳されていたなど、現代とはずいぶん異なる翻訳のありようが面白かったのですが、この柴田元幸氏の論考でも明治期の翻訳には「いろんな選択肢があった」として黎明期ならではの試行錯誤があれこれ参照できて楽しいです。

浄瑠璃調シェークスピア

中でも面白かったのが、坪内逍遙の手になるシェークスピアジュリアス・シーザー』の翻訳です。小見出しには「江戸を引きずっていた翻訳」とあるのですが、その前書きで坪内逍遙自身が「今此国の人の為めにわざと院本体に訳せしかば(日本の読者のことを考えて、浄瑠璃っぽく訳しました)」とことわっているように、文体の雰囲気がまるで浄瑠璃、あるいは歌舞伎か文楽の世界なのです。個人的には能楽の謡本を読んでいるような気分になりました。例えば、こんな感じです(舞婁多須・軻志亜須は、それぞれブルータス・カシアス)。

公園前の大街頭、群る府民、蜂のごとく、舞婁多須、軻志亜須の前後を囲み、騒ぎ立ちて声々に、(府民)名聞聞かん。主意を聞かん。殿下を殺せし所以をば、承らんと罵る声、さながら広き羅馬府の、百万の家一時に、崩るゝ許りに騒がしき。舞婁多須は声はりあげ、(舞)然らば人々某が、所以逐一公演台に、只今演説致すべければ、いざとく我に随ひこられよ。イヤナニ軻志亜須氏、足下は彼方の街頭にて、処をかへて演説あれ。……

声に出して読んでみると、まんま能楽の謡本です。しかも戯曲だから(府民)とか(舞=ブルータス)などと誰の台詞であるのかの指定がありますが、これも謡曲にある「同音(地謡)」や「シテ(主人公)」といった指定にそっくり。幕末から明治初年は能楽が衰退して大変な時期にあったわけですが、元は武家の式楽であった能楽謡曲が広く庶民にも親しまれていたという江戸時代のバックグラウンドがあったからこそ、明治に入って西洋の文物がどっと翻訳され始めた時にもそれが地続きで引き継がれていったのかなあなどと想像しました。もっとも翻訳の文体はこのあとほどなく「言文一致」によって大きく変化していくことになるのですが。

翻訳の「心得」

「翻訳王」とも称された森田思軒は翻訳の「心得」を四つの原則にまとめており、それもこの章で紹介されています。これも中国近代翻訳論の祖ともいえる厳復の「信・達・雅」を彷彿とさせ、興味深い。森田思軒は漢文の素養もあった人だそうで(この時代の文学者はおおむねそうでしょうけど)、西洋の文物を翻訳する際に中国、あるいは漢語の存在が大きかったという点も指摘されています。特に面白いと思ったのは森田思軒が坪内逍遙にあてた手紙で、『マクベス』の坪内逍遙訳を賞賛したくだりについて、こんなことが書かれています。

訳の難きは、其の一辞一句に就て之を邦語に翻へすの難きにあらず、唯だ同じ意味ながら、斯辞斯句が、斯の場合に於る気勢と声調とには将た孰づれの邦語か最も之に称なふべきやを判断するの難きなり。其の一辞一句を善修するの難きに非ず、其の一辞一句が如何にせば一章と諧和し、一篇と好合し、承上起下、撇開推拓、転折過渡、皆な渾然自然にして……

この部分、柴田元幸氏は「漢語が難しいですね」とおっしゃっており、特にこの「承上起下、撇開推拓、転折過渡」の部分など「サッパリわかりません」として、この文章が収められた加藤周一丸山眞男篇の『翻訳の思想』でも「不詳」との註があることが紹介されているのですが、これ、中国語を学んだ方なら比較的容易に理解できそうじゃありませんか? 要するに「文章の前後のつながりに留意しながら、時に大胆に意味を押し広げ、あるいは別の意味へと発展させる」という感じでしょうか。そのいずれの方法もみんな「渾然自然」でなければならないと。

単なる素人の感慨ですけど、こういう文章に接するたびに、中国語と日本語の長きにわたる深い関わりと、漢籍の素養があったがゆえに西洋の言葉を日本語に移植できた明治の先人のすごさ、そして中近世と近現代の日本語には断絶があるようで実は連綿と受け継がれているものが確かにあることを感じて、うれしくなります。さらには言語的にはまったく異なるにもかかわらず、ここまで深い関係を切り結んできた中国語と日本語の奇跡的なありようについてもある種の感動を覚えるのです。こういう感動を味わえるのもまた、中国語を学ぶ小さな「余禄」なのかもしれません。

*1:特に冒頭に収められた、古典の新訳・復刊に関する「帰れ、あの翻訳」では、紙面の下半分が膨大な註で占められていて、わははは、読みにくいったらありゃしません。