インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

『三体』を楽しめる素養(のようなもの)

在宅勤務でなくなった通勤時間ぶんを利用して、書棚で積ん読になっている本を片っ端から平らげています。先日は劉慈欣氏の『三体』を(遅ればせながらに)読みました。

f:id:QianChong:20200429130121p:plain:w420
三体

中国語圏のみならず英語圏でも人気だそうで、続編の二冊をあわせた「三体」三部作で何千万部も売り上げているというベストセラーSF小説です。評判に違わず、ものすごいスケールで展開されるお話で、第二部・第三部ではさらにそのスケールが広がるとのこと(私は中国語版も未読です)。個人的には宇宙に関する話が大好きなものですから、アルファ・ケンタウリの三連星(と呼ぶには三つのうちの一つが極端に離れていますが)に想を得たこの作品も楽しんで読みました。

加えて中国の近現代史(特に文革)が絡んでいるのも個人的には興味をそそられた点でした。中華人民共和国の建国以降、反右派闘争、大躍進とその失敗、十年の動乱とも称される文革など、あまりにも苛烈な政治状況が続きました。この政治状況は膨大かつ広範な人々の暮らしにまで巨大な影響を与えましたが、それは単に暮らしや人生への影響のみならず、人々の世界観や価値観、人間観、さらには精神の奥底にまで深い影響(というか傷跡)を残し、かの国の人々はいまだそれを癒やし、総括し、昇華させる手段を持ち合わせていないように思います。

余計なお世話だと言われるかもしれませんが、私は彼の国の人々にとって、今後その癒やしや総括や昇華がとても大きな課題になるのではないかと思っています。現在のかの国は政治的にも経済的にも飛ぶ鳥を落とす勢いで、とてもそんな内省に腰を据えるような機運は見られませんし、下手をするとこのまま歴史の向こうに置き去りにしてしまいそうな勢いではあるのですが。

この作品はその歴史にあっと驚くような「総括」を用意します。それがあまりにも桁外れで、その桁外れっぷりが続編でさらに加速するらしいので、そこは今から楽しみではあるのですが……正直に申し上げて、私はその桁外れっぷりがゆえにあまり作品世界へ入り込むことができませんでした。

いやいや、何を言っているんだと。その桁外れっぷりを丹念に構築する技を堪能するのもSFの楽しみのひとつではないかと。

その通りです。これはもちろん作品のせいではなく、読み手である私のSF作品に対する感度の低さ、あるいは素養の乏しさゆえではないかと思います。設定があまりにも桁外れで奇異荒唐であると、とたんに興が醒めてしまうのです。優れたSFの読み手ならば、逆にそこに旺盛な想像力でもって現実以上のリアリティを立ち上げることができるのだろうと思いますが。

また私はゲーム(コンピュータゲーム、オンラインゲーム)というものに対してほとんど一片のリテラシーも持ち合わせておらず、その点でも作品世界へ入り込むことができませんでした。もちろんゲームをほとんどやったことがない人間(私にしても「皆無」ではありません)であってもこの作品で描かれる世界を想像できないことはないと思いますが、何かもっと本質的なところで、私はこの世界観に呼ばれていないような疎外感のようなものを感じながら読んでいました。

いや、これはもう致し方ないと思います。……にしても、同じく見たことがない、ほとんど荒唐無稽としか思えないような宇宙論の本にはわくわくするのに、『三体』の世界には入り込めなかっただなんて。頭が固くなっているのかなあ。私は宇宙は大好きだけど、宇宙には行きたくはなく「土から離れては生きられない(天空の城ラピュタ)」人間なんです。

ところで、ネットで散見したこの作品の感想に、登場人物の名前が読みにくくて、あるいは取っ付きにくくて、物語に入り込みにくいというものがありました。西洋ないしは欧米人の名前や日本人の名前で紡がれるSFだと気にも留めないのに、中国人の名前だとどこか不慣れな感じになっちゃうということなのかな。わたしたち中国語学習者にとっては、登場人物の中国人名がかえって入り込める要素だと思うので、これまた興味深いなと思いました。

でもこの本の監修者である立原透耶氏の解説を読むと、中国発のSF作品は今後ますますその存在感を増していくであろうことがうかがえます。先日読んだ『シン・ニホン』では、英語に加えて中国語も積極的に学ぶべきとの論が繰り返し提示されていて少々驚きましたが、そうやって学習者が増えていった先の未来には「中国SFの登場人物名が読みにくい」という感想もずいぶん少なくなっているかもしれません。