インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しまじまの旅 たびたびの旅 90 ……タンペレでもサウナ

ヘルシンキを後にして、列車でタンペレ(Tampere)へ向かいました。夏の観光シーズンなのであらかじめネットでチケットを予約しておいたんですけど、車内は割合すいていました。例によって駅の改札等は皆無。列車上で検札があって、スマホのメール画面にあるQRコードを読み取ってもらうだけです。

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窓からは麦畑や湖、そして森が次々に見えてきて、フィンランドらしい風景に。私は都会もきらいじゃないけど、やっぱりこういうほとんど誰もいない風景が好きです。

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タンペレに着くとかなり肌寒く感じました。昨年の夏は猛暑で大変だったという噂を聞いていたんですけど、日本の晩秋ぐらいの気候です。Tシャツやポロシャツぐらいしか持ってきていないので、これは参りました。仕方がないので、スポーツ用品店で適当なウインドブレーカーや薄いコットンセーターなどを買い込みました。

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タンペレに来たら行ってみたかったのが、有名な「Rajaportti sauna」です。ここはフィンランドで現在も残る公共サウナのうち、最古参の場所だそうです。バス停を降りてすぐ、道路脇に普通の住宅みたいな建物があって、SAUNAの看板が出ていました。

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ロッカーすらなくて、私物はサウナ室手前の部屋のベンチに置いておくだけ。私は営業開始時間の直後に行ったので、最初はあまり人はいませんでしたが、すぐにお客さんでいっぱいになりました。いろんな言語が聞こえていたから、私のような旅行客も多いのだと思います。

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シャワー室もないのですが、サウナ室は二階建てというかロフトがついた部屋みたいな構造になっていて、ロフトに当たる部分が熱いサウナで、下の階はほとんど熱くありません。そこでぬるま湯や水を浴びてから外へ涼みに行くという寸法のようです。草花がたくさん植わった庭にベンチが並んでいて、ここも涼んでいると至福の気分を味わえます。

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併設のカフェもあったので、コーヒーを一杯飲んで帰りました。「Saanko kupin kahvia?(コーヒーを一杯もらえますか?)」と聞いたら通じたのでうれしかったです。

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しまじまの旅 たびたびの旅 89 ……サウナハットを買う

公衆サウナがあまりに心地よかったので、もうひとつ行ってみました。これも住宅街の中にぽつんとある「Kotiharjun Sauna」です。普通に人や車が行き交う(とはいえすごく少ないですけど)通りにバスタオル巻いただけのサウナ客が涼んでいるというのもなかなかの光景です。ここもカードで支払いができました。しかしこの「番台」みたいなカウンターがあって、みなさん飲み物を片手に涼んでいる光景、やっぱり日本の銭湯の雰囲気を思い出します。

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ロッカーは鍵のついているところが空いているので、どこを使ってもいいとのこと。その奥にシャワー室、そのまた奥にサウナがありました。壁に薪が積んであって、20〜30人くらいは入るんじゃないかというくらいの、かなり大きな部屋です。ここは石を熱するタイプじゃなくて、薪を燃やす巨大なストーブというか「かまど」みたいなのでサウナの熱気を作っているみたいでした。客はその巨大な「かまど」の壁面に直接水をかけて「ロウリュ」をしていました。

かなり急な階段状になっている一番上だけは「すのこ」が敷いてありますが、そのほかはコンクリートの床で、入り口近くに置かれている小さなひとり用の「すのこ」を使って座るみたいです。この床がかなり熱いので、私は足置き用にひとつ使いました。それでもかなり足の裏が焼ける感じがします。ロウリュ用のブリキのバケツに水を入れて自分のそばに置き、何度も床に水を撒いているおじさんもいました。

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開店間もない時間帯だったのでお客さんは少なかったですが、みなさん涼むときはロッカールームの大きなテーブルで談笑していました。私はひとり外に出て涼みましたが、不思議に恥ずかしくないんですね。なんというのか、地域の文化として当たり前の光景なので、誰も驚かないし、自分も別に気にならないという感じです。

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ロウリュをされると、耳の先が痛いくらい熱いです。横にいたおじいさんはサウナハットをかぶっていて、アレがほしいな〜と思い、サウナからの帰り道にスーパーやデパートで物色しました。さすがサウナの国だけあって、サウナ用品コーナーがありました。おじいさんがかぶっていたのとたぶん同じと思われるサウナハットを見つけ、ついでにサウナマット(座る場所に敷くもの。公衆サウナでは持ってない方がほとんどでしたが)も買いました。

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しまじまの旅 たびたびの旅 88 ……はじめての公衆サウナ

フィンランドで一度公衆サウナに行ってみたいなと思っていました。それでスマホGoogle Mapで「public sauna」と検索してみたらたくさん見つかったので、そのうちのひとつ、少し校外の「Sauna Hermanni」に行ってみました。アパートの一階にある公衆サウナです。

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小さな看板と、最初は通り過ぎてしまったくらい地味な入り口の奥に小さな窓口があって、12.5ユーロを支払いました。日本円で1500円くらいですか。カードでも支払いができ、レシートをスマホに送ってくれました。公衆サウナは日本の銭湯そっくりですけど、けっこう高いですよね。バイクの後ろのドアが入り口です。

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でもはじめて行ったこの公衆サウナはとにかく気取ってなくて、素晴らしかったです。ロッカーの鍵を受け取るときに「タオル持ってます?」と聞かれましたが、私は持参したので借りずに済みました。どういう感じのサウナだか分からなかったので一応水着(海パン)を持って行ったのですが、こちらのサウナは日本の銭湯同様に全裸です。サウナから出て休憩するときだけバスタオルを腰に巻くという感じ。

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サウナ自体はとても狭くて六〜七人も入ればいっぱいという感じでしたが、この日は先客が三人ほどしかいませんでした。「どこから来たの?」「観光?」などと少し話をしましたが、あとはみなさんゆるゆると過ごしているといった風情。サウナ室内は薄暗くて、わずかにスモークっぽい香りがしました。「ロウリュするけど、いい?」と聞かれたので「どうぞ」と言うと、長い柄のついた柄杓で二度三度。とたんにものすごい熱気がきました。こうやって、タオルで仰ぐ熱風ではなく、実際に焼けた石に水をかけるロウリュも初めての体験でしたけど、こんなに熱くなるものなんですね。

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受付に小さな犬がいて、ロッカーで服を脱いでいるときにお客さんのひとりが「ここで飼われてる『Sauna dog(サウナ犬?)』なんだよ。あいつもサウナに入るんだ」と教えてくれました。「ホント?」と半信半疑だったんですけど、一度サウナから出て涼んで、もう一度サウナに入ったら、この犬が中で寝てました。扉の下に15センチくらいの隙間があるんですけど、そこから入るみたいです。冗談じゃなくてホントに「サウナ犬」だったんですね。

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ここのサウナには水風呂はないですけど、サウナから出て、冷水を浴びて、それからアパートの外にしつらえてあるベンチのところまで裸足で歩いて行って涼みました。みなさんビールを飲んでいるので、私も(2ユーロでした)。周りは普通のアパートが建ち並んでいる団地みたいな場所なんですけど、誰も気にしないこの「ユルさ」がいいですね。こうやって、一度フィンランドでサウナに入って、外で涼んでみたかったのです。でも時差ボケが続いているせいか、ビールを飲んだら急速に眠くなってきました。

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しまじまの旅 たびたびの旅 87 ……ふたたびのフィンランド

ふたたびフィンランドにやってきました。フィンランド語は言語的に英語などの語族とは大きく異なるそうで、ラテン語系の単語からの類推がしにくいので、以前旅行したときは街のそこここに書かれているフィンランド語がまったく分かりませんでした。でもあれからフィンランド語を学び始めてずいぶん単語を覚えたからか、今回はあちこちに書かれてある言葉のうち、読めるものが多くてかなり新鮮な感覚でした。

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スーパーの外壁。「kaikki hyvä on lähellä.(すべてのよいものは近くにあります)」という感じですか。

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ピザ屋さんの看板。「Olemme avoinna perjantaina ja lauantaina kello 5 asti !(私たちは金曜日と土曜日の5時まで開いてます!)」。おお、読める読める。

街中でバスやトラムに乗って現地の人のおしゃべりを聞いたり、民泊で借りている部屋のテレビをつけたりすると、もちろんほとんど聴き取れないものの、知っている単語やフレーズがぽつぽつと出てきて、これもなかなか楽しいです。これで自分からも自由に話せるようになるとさらに楽しいのですが。でもイミグレーションで「どれくらい滞在しますか」と聞かれたのでフィンランド語で答えてみたら、「Puhutko suomea?(フィンランド語を話せるの?)」と言われ、「Puhun, mutta vähän.(はい、でも少しだけ)」と会話が成立してうれしかったです。

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空港で公共交通機関のチケットを買いました。以前はSuicaみたいな緑色のカードを買ったのですが、現在は廃止(?)されてスマホアプリになっていました。アプリをダウンロードしておいたので、カード決済で簡単にデイチケットが買えました。

www.hsl.fi

電車やトラムは検札時(滅多にないけど)に見せるだけ、バスは乗るときに運転手さんに見せるだけ。チケットがアクティブな時は乗れるエリア(ABCなど)が画面に大書され、なおかつ下の歯車みたいな模様(HSLヘルシンキ交通局のロゴ)がくるくる回るアニメーションになっています。なるほど、これならバスの運転手さんも一目で確認できますよね。

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民泊もネットで予約しましたが、鍵は近くのコンビニに預けてあって、そこでピックアップする方式。レジで名前を告げたらすぐに鍵の入った封筒を渡してくれました。これは他の都市でもやってますけどとても便利です。日本のコンビニではこうしたサービスはやってるのかな。実情は知りませんが、規制だなんだでたぶんできないでしょうね。民泊自体もあまり普及していないですもんね。

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話には聞いていましたが、さすが緯度の高い北欧の夏、とっても涼しいのに加えて、夜がいつまでも暗くなりません。夜の10時くらいになっても、まだ夕方の明るい頃という感じ。民泊の部屋はカーテンがないので、かなり明るい中で寝ることになりましたが、時差ボケ対策のために飛行機内で一睡もしなかったのですぐに寝ることができました。

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フィンランド語 44 …ふたたび時制について

フィンランド語の学習も「現在形」「過去形」「現在完了形」「過去完了形」を学んで、ずいぶん複雑なことが表現できるようになってきました。先生が繰り返し強調されるのは、特に過去形と現在完了形の違いです。

Minä kävin Suomessa viisitoistavuotiaana.
私は十五歳の時にフィンランドへ行った。(過去形)
Minä olen käynyt Suomessa.
私はフィンランドへ行ったことがある。(現在完了形)

日本語だとどちらも「行った」という過去形的(?)な表現になるのでちょっと混乱するのですが、フィンランド語の過去形は「過去の一点における叙述」というのがポイントで、ゆえに過去の一点を表す単語が入っていれば過去形として動詞を動かす(過去形にする)と。「viisitoistavuotiaana(十五歳の時に)」とか「kaksi vuotta sitten(二年前)」とかいうのが「過去の一点」ですね。

一方現在完了形は、その行為なり事象なりが今に至るまで続いているというのがポイントで、「フィンランドへ行ったことがある」というのは、フィンランドに行ったという事実が今に至るまで続いているので現在完了形で表されていると。今では行って戻ってきてるんだから過去形になるんじゃないのと思っちゃうんですけど、そこがネックなんですね。これは英語でも同じ考えだと思います。

先日は第三不定詞を使って、こんな作文をしました。

Minä olen aina tottunut juomaan vihreää teetä ruoan jälkeen.
私はいつも食事のあとに緑茶を飲む(ことに慣れている=習慣にしている)。

これも「olen tottunut」で現在完了形が使われていますが、今に至るまでその習慣が続いているからだと。なるほど。中国語には明確な過去形や現在完了形はなくて、アスペクト(態)を使ってそれらを表現するのが普通です。

我十五歲的時候去過芬蘭
私は十五歳の時にフィンランドへ行った(ことがある)。

これは「過」というアスペクトを使って「行った」とも「行ったことがある」とも言っています。じゃあ中国語では明確な現在完了形はないのかと言えばそんなことはなくて、例えばこういうふうに言えます。

我學芬蘭語學了兩年了。
私はフィンランド語を学んで二年になる。

最後にある「了」ひとつで「これまで二年学んできて(たぶん)これからも学び続けていく」という現在完了形を表しています。最後の「了」がないと「我學芬蘭語學了兩年(私はフィンランド語を二年学んだ)」となって、過去のある時期における二年間に学んだとも、今に至るまで学んできたとも取れるやや曖昧な表現になります。これは過去完了形とも言えるし、過去形とも言えますね。

まあ言語が違うんですから引き比べてもあまり意味がないんですけど、フィンランド語も中国語も「非母語話者」である私はそういう違いが面白くて仕方がないのです。ちなみにフィンランド語に明確な未来形はなく、未来を表す言葉が入っていれば即未来形(「形」というのもおかしいけど)になるそうです。これは中国語といっしょです。

Minä käyn Suomessa huomenna.
明天我去芬蘭
私は明日フィンランドに行きます(訪れます)。

「huomenna」や「明天」が入っているだけで、文章自体は現在形なんですけど、これで未来形になると。この点は英語などのほうがよほど複雑で難しいですね。

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Sinun kannattaa käydä Suomessa.

左派ポピュリズムかもしれないけれど

昨日の朝、フジテレビのワイドショー情報番組『とくダネ!』で放送されていた「れいわ新選組」の国会議員お二人の特集を見ました。とても考えさせられる内容でした。YouTubeにもいくつか映像が上がっていますが、これらはすぐに削除されてしまうかもしれません。

youtu.be

重度の障害があるお二人の当選が決まってからの国会の動きは素早いもので、来月の臨時国会開会に向けてバリアフリー化が一気に進められています。番組でも紹介されていましたが、かつて八代英太氏が初めて車椅子で登院した当時、国会はほとんど無対応だったそうですから、隔世の感があります。それだけ人々の意識が変わり、社会がより成熟したことの表れでしょう。それだけにその原動力となったお二人の当選には単なる当選以上の大きな意味があったと思います。

今朝の新聞では、国会議員として報酬を受け取ると停止されるとされていた公費による介護サービスについても、その費用を当面参議院が負担し、なおかつ厚生労働省参議院からの協議要請を受け「重度障害者が就労する際の介助のあり方を検討する姿勢を示した」とのことです。

この急速な変化はとても大きなインパクトを持って有権者に受け止められるのではないでしょうか。誰に投票してもどうせ同じと異様なほどの低投票率が続いている中、少数野党である「れいわ新選組」への一票がこうして国会を動かす力になった・それぞれの一票が積み重なると国会は動くのだという実感を持てるからです。

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番組では、お二人が国会議員として活動する上でどういった環境が必要なのかについて、様々な角度から紹介をしていました。この部分もとても勉強になりましたが、特に印象深かったのは上述した舩後靖彦氏が質問に答える際の「間」と、その発言の方法でした。ALSを発症している舩後氏は、文字のボードを見てその眼球の動きを介護者が読み取って伝えるという形で発言されるのですが、当然ながらその過程にはある程度の時間がかかります。

質問をして、舩後氏の答えを介護者が伝えるまでに、一つ目の質問は約20秒、二つ目の質問は約2分近くかかりました。その間テレビはほとんど無音状態の「間」に。普段ほんの数秒の無音さえも忌避するようにとにかく言葉や音を流し続けるテレビにあって、これは本当に印象的かつ象徴的な場面でした。

またその介護者の方が、どのように文字盤から発言を読み取るのかについての細かな技術についても説明されていて、これも深く印象に残りました。キャスターの小倉智昭氏が「弱者に国の予算を多く割ける国ほど、僕は民主国家だと思うのね」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。

山本太郎氏や「れいわ新選組」の動向を「左派ポピュリズム」と批判する方もいますが、少なくとも私は日本の政治の現状に対して少しでも異なる意見や多様な意見をぶつけ、少しでも健全な民主主義を取り戻すためには、多少のポピュリズムに訴えてでも問題提起を図り、より多くの有権者に訴えかけていく必要はあると思います。現状はそれくらいの「毒」も必要なほど「安倍一強」による弊害が蔓延していると思うからです。

「GLOBE+」のこちらの記事では、政治学者の山本圭氏がこのように述べています。

近年でも、「#MeToo」(ミー・トゥー)運動や、LGBTの権利を求める動きなどは、従来の多元的社会の中で埋もれてきた課題です。これに対して「おかしいんじゃない?」という声が上がり、問題として可視化され、現状を変えることにつながった。このような声を引き出す機能はどこかに必要です。ポピュリズムは、その役割を果たす可能性を持っていると思います。

globe.asahi.com

もちろん現実の政権運営は、理想通りに行かないことも多いでしょう。アメリカのトランプ政権を見るまでもなく、ポピュリズムが行きすぎた結果の混乱もあり得るでしょう。だからこそ他の野党や、また与党の心ある人たちとも協同してこの動きを真面目に見据えることが大切ですし、「小異を捨てて大同につく」を実践して今の政治状況を変えていってほしいと思います。

特集の最後で小倉智昭氏は「こういう時間をなんでいま、選挙の前に持てないんだろうね。テレビの番組ってのはこういうことを積極的に選挙前に取り上げていかなきゃいけないと思うんですが」とおっしゃっていました。本当にそうです。でも遅きに失したとはいえ、こういう報道ができる・できたというのは、最近まれに見る壮挙じゃないかと思いました。

私は、選挙こそ棄権したことはないものの、支持政党などはなく、その都度候補者の主張を比較して、時には積極的に、時には「鼻をつまんで」投票をしてきました。れいわ新選組についてもその主張に全面的に賛成ではありませんし、今後の活動をより注視したいと思いますが、今回の参院選とその後の展開には拍手を送りたいと思います。私は、自分の記憶にあるかぎり初めて政党や政治団体に対する「献金」をしました。

紙幣の「1」をめぐって

いつも「巡回」して読んでいるブログの一つに『JUSTFONT BLOG』というのがあります。台湾の「就是字(Just Font)」というフォントベンダー企業が運営しているブログで、中国語の漢字のみならず、日本語の漢字も含めたフォントのあれこれが記事になっていて、毎回楽しんで読んでいます。

blog.justfont.com

先週は、五年後に予定されている日本銀行券(紙幣)のデザイン一新について特集されていました。特に漢数字やアラビア数字の字体について細かい分析が行われていて、なかなか興味深かったです。

blog.justfont.com

中でも面白いと思ったのが、新紙幣の表面に対処されることになったアラビア数字の字体についてです。一万円札は「10000」の「1」が上に斜めの線がついた字体であるのに対し、千円札は「1」がただの棒になっていて、これはなぜか? という「謎解き」をしているのです。わはは、よくそんな細かいところに気がつきますね。さすがフォントベンダーさんです。

有人說:「因為日文的一千元就是念『千円』哇!一不會出現。」也有人說:「為了盲人辨識。」還有人看了日本媒體的資訊,說:「為了方便辨識,看 1 的不同,比數 0 的數量快!」

なるほど、日本語では中国語と違って“1000 yen”のことを単に「千円」とだけ言い、中国語の“一千元”のように「一」がつかないからじゃないか、とか、視覚障害者が触って違いが分かるようにじゃないか、とか、「10000」と「1000」は単に「0」の数が違うだけで識別しにくいから、「1」の字体を変えたんじゃないか、とか……。どれもあんまり真面目な謎解きじゃない感じはしますが、本当のところはどうなんでしょうね。

さらにこの記事では、新紙幣のみならず、現行紙幣だって「1」の字体は違っているぞとして、一万円札の「1」は棒の下がスカートのように広がった字体であるのに対して、千円札の「1」はそれがなくストンと落ちた棒状になっていると指摘しています。これまたさらに細かいところによく気がつきますね。それがなぜかの謎解きはなされていないのですが、う〜ん、これはどうしてなんでしょう?

そう思いながら自宅にある一万円札と千円札をしげしげと眺めていたら、もう一つ新しい発見をしてしまいました。それは、現行の一万円札と千円札のどちらも、裏側(福沢諭吉野口英世の肖像がない方)の「1」は下がスカートのように広がった字体なのです。つまり表の「1」は違っているのに、裏の「1」は同じような字体なんですね。

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……しかし、新紙幣の発行は五年後だそうですが、その頃にはキャッシュレスが浸透して紙幣の刷新もあまり意味なくなるんじゃないかな。いや、世界一現金が大好きな日本人のことですから、そんな心配は無用かな。私自身はキャッシュレス化絶賛実行中なので、新紙幣にはほとんど興味がないんですが。

素朴な水墨画にあこがれて

日本橋三井記念美術館で開催されている「日本の素朴絵 ーゆるい、かわいい、たのしい美術ー」という展覧会を見てきました。その名の通り、精緻さやリアリズムとは一線(どころか二線も三線も)を画した、柔らかで大らかなタッチの絵巻・絵本・掛軸・屏風・仏画、さらには仏像などの立体作品まで、「ヘタウマ」とも「ナイーブ」とも「プリミティブ」とも違うまさに「素朴」としか言いようのない作品を集めた展覧会です。

www.mitsui-museum.jp

私は最近とんと美術鑑賞から遠ざかっていたのであまり知らなかったのですが、こうした「素朴」系の日本美術はちょっとしたブームになっているようで、展覧会を見終わったあとのミュージアムショップには「素朴絵」の関連書籍や「素朴絵」を特集した雑誌などがたくさん並べられていました。現代の、地方自治体などで取り組みがさかんな「ゆるキャラ」や、ぐでたまたれぱんだリラックマなどの癒やし系キャラクター商品にも通じるような作品群には確かにほっこりさせられます。

どんな作品が並んでいるかは、ここで図版をコピーするわけにもいかないので、ぜひGoogleで「素朴絵」を画像検索してみてください。こういう墨一色の水墨画は、山水にしろ花鳥風月にしろちょっと高尚すぎて現代人の感覚からは遠いところにありそうなイメージですが、同じ水墨画でも「素朴絵」となるとかなり親しみを感じることができます。なかには「ほとんどマンガの筆致じゃないの?」と思えるような作品もあって、楽しみました。

私も以前はこうした水墨画の世界に憧れて、自分でいろいろと描いていた頃がありました。ただ描くだけでは飽き足らなくて、自分の勤めている職場の広告に使ったりもしました(広報担当だったのです。公私混同ですね)が、結局才能の乏しさゆえにそれっきりで、今では筆を持つこともありません。当時描いた絵が少し残っているのでさっきファイルから引っ張り出してみたんですけど、う〜ん、これは素朴絵ではなく、何だか小賢しいイラストふうですね。

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筆の使い方も自己流で、水墨画の伝統に全然則ってない感じがします(黒い墨の線は「ぺんてる」の筆ペンで描いたんでした。薄墨は不祝儀用の筆ペンです)。やはり優れた芸術というのは、伝統をしっかり学んだ上に、なにがしかの才能が乗っかって新しい境地をひらくものなんですね。

「分」を弁えて苦手な人からはすぐ逃げる

仕事をしているといろいろな方に出会います。人柄もそれぞれ、性格もそれぞれ、本当に人は千差万別なんだなあと思いますが、幸い私は人のご縁に恵まれているというか、現在間近で一緒に仕事をしている方々はみなさん「付かず離れず」、つまり仕事以外のプライベートにはほとんど絡んでこないけれども、かといって単に仕事上だけの事務的なつきあいでもない、そして物の見方考え方が比較的近くて「みなまで言わずとも了解できる」ようなある種成熟した大人の考え方を持っている方がほとんどです。

私自身はとてもじゃないけど「大人」として成熟しているとは言えませんが、それでも若い頃と比べると多少は落ち着いたのか、それとも少しは角が取れたのか、人間関係で悩むことは少なくなりました。というか、自分とは合わないなと思う人がいたら即逃げる、不義理を働くことを恐れないってのをポリシーにして、ずいぶん楽になったという感じです。

これって「言うは易く行うは難し」なのですが、そういうことができるようになったというのもある意味年の功なのかもしれません。若いときは自分も世界も無限の可能性というか方向性に満ちているけど、ある程度歳を取ってくるとそういう無謀な期待を自分にも世界にも抱かなくなるんですね。

とはいえ決して人生を諦めたわけではありません。これは言語化するのがなかなか難しいのですが、以前よりもよりハッキリと自分の「分(ぶ)」や「分際」というものに実感を持てるようになったのです。言葉を変えれば、いつ死んでもそれほど(まったくとは言えないところが中途半端ですけど)悔いはないという気持ちになりつつあるのかもしれません。分を弁えれば、そもそも実現不可能な欲望もーー組織の中の誰とも仲良く前向きな関係でいたいとか、自分も傷つきたくなければ他人も傷つけたくないとかーー抱かなくなると。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_80.html

それでも生きていれば、時にどうしても相性の悪い人に出くわすことはあります。そして最近、立て続けに「かなり苦手なタイプ」の方と行き会いました。それは「徹底的に人の話を聞かないタイプ」の方です。といっても、主張が強いとか傲慢とか人のことを見下していて無視するとかではなく、むしろそういう感じは外見からは少しも漂ってきません。一見人当たりがよさそうで、むしろ気弱そうでもあり、こちらが思わず相談に乗ってあげたくなるようなタイプですらあるのに、話をしてみると「徹底的に人の話を聞かない」という面白い(?)タイプの方です。

例えばお悩みを相談されて、私が「じゃあ、こういうふうに考えたらどうだろう」とか「こういうやり方もあるんじゃない?」と返すとしますね。だけどこのタイプの方はそれにはほとんど反応せず、ひたすら「でも……」と言って自分の主張や思いばかり延べ続けるのです。こちらは「誤解されたかな?」と思って、言葉を変えてアドバイスをするのですが、それにも「でも……」で返し、結局自分の思いばかり述べる。

最初はそういうタイプであることが分かりません。なにせ、人当たりがよさそうな外見なのですから。それでもずっと話し続けていると、なんともいわく言いがたい隔靴掻痒感に襲われます。それはこちらが発した言葉に、その人がまったく対応していないことが分かってくるからです。まるで深い沼に小石を投げ続けているような気持ちになるのです。あるいは暗い洞窟の闇に自分の声が吸い込まれていくような。これは体験してみると分かるけれど、とても疲れます。

このタイプの人に最近立て続けにお目にかかったので、かなり疲れました。そのうち二人は華人で、主に中国語でお話ししたのでなおさら(私の中国語が拙かったので話が噛み合わなかったという可能性は残りますけどね)。でも、私の人生はもう残り少ないので、そういう面倒な(そう、正直に申し上げて面倒です)方に時間を費やしている余裕はないのです。冷たいようだけど、そういう方からはすぐに逃げるのが吉だと思います。どんな人とも折り合いをつけてやっていくなんてそもそも不可能なんですから。

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https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_677.html

語学の「通学」に向かない方もいる?

留学生の通訳クラスでは、カリキュラムに演劇を取り入れています。これは日本語を「肉体化」してより活き活きと話せるようにするため、また人前で誰かに成り代わって話すという通訳者のお仕事の特性に鑑みて取り入れているものです。ネット上にある寸劇やコントなどの台本をベースにしながら、作者の方々の了解を得た上で換骨奪胎し、留学生のキャラクターなども考えた上で大幅に改変して台本に仕立てています。今年も「通訳機械」や「AI」をテーマにした台本を私が書きました。

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うちの学校ではこの演劇訓練に限らず、ほかにも大勢の聴衆を前にしたプレゼンテーションやグループワーク、ディベートみたいなものを数多くカリキュラムに取り入れており、入学案内書や入学説明会でもそれらを紹介しています。なおかつ入試の面接でも改めて「これこれこういう授業がありますけど、大丈夫ですか?」とたずねて、心の準備をしてもらうようにしています。

それでも、毎年数名の留学生から「人前で演技するなんて恥ずかしいです」とか「グループワークや他の人との共同作業が苦手なんです」というお悩みが寄せられます。でも、なにせ専門課程(卒業すると短大と同じ「専門士」の称号が与えられます)のカリキュラムとして組まれている語学訓練、通訳訓練、それにビジネスの現場で使えるようなプレゼンやグループワークやディベートですから、それらに参加しないとほとんど単位が取れないことになっちゃいます。

それでこちらもいろいろと励ましながら、少しでも共同作業に参加できるよう他の留学生の協力を仰いだり、演劇訓練だったら音響や照明などのスタッフに回ってもらったり……と配慮をするのですが、やはりどうしてもこうした活動と肌が合わないという方はいるんですよね。入学前から説明していて本人も了解しているというのが前提ですし、そもそも語学の訓練(特に聴いたり話したりという部分)にはロールプレイなど演劇的な要素がつきものなのでこちらも困っちゃうんですけど、だからといってもちろん「アンタは語学や通訳者に向いてません」と切り捨てちゃうわけにもいきません。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/kj.html

う〜ん、まあ私もどちらかというと人見知りをする方なので、その気持ちは分からなくもありません。今通っているフィンランド語のクラスでも、先生は生徒を二人ひと組にしてロールプレイや、教科書のテキストの読解、単語のクイックレスポンス、さらには一方の生徒がもう一方の生徒に文法の説明をする……といったアクティブな活動をたくさん盛り込まれます。要するにずっと「講義」を聞いてばかりの座学にはしないぞ、という先生のスタンスで、私はとてもいいなと思っているのですが、こういうアクティブな活動は人見知りの人間にとってはけっこう疲れるんですよね。「よいしょっ!」「やるぞっ!」というような自分への叱咤がないとなかなか取り組めないんです。

まあ私は、語学は人前で恥をかいてナンボじゃないかと思っていますし、人見知りを克服したいという気持ちもあってわざわざ語学教室に通うわけです。それに、聴いたり話したりという部分の語学は、やはり演劇的な、お芝居的な要素がある程度必要だとも思います。だから、ロールプレイのお相手が極端に「芝居っ気」のない方だったりすると、こっちも何だか気恥ずかしくてやりにくい。

中国語の講師をしていたときも、例えば「お互いに自己紹介してみましょう」とか「家族のことを話してみましょう」などというタスクを課すと時々「プライベートに関わることはちょっと……」とか「ひとり暮らしなので何も話すことがありません」という方がいて、困ってしまったことがありました。「中国語では、みなさんのお名前の漢字が中国語読みされます」と紹介して「自分の名前を言ってみましょう」となった際、「私はTanaka(田中)であってTiánzhōng(ティエンジョン:田中の中国語読み)じゃない。英語だって Mr. Tanakaと言うじゃないか」みたいにおっしゃる方がいて閉口したこともあります。

まあ、世の中いろいろな方がいますね。でも、いろいろな人がいるってことは、向き不向きもあるってことだと思います。これを言っちゃ語学教師失格かもしれませんけど、少なくとも学校に通う形での語学には向かない方もいるんだよな……ってのがホンネなんです。

機嫌のよい風の上に

先日ネットで検索中、こんな記事に出会いました。

careersupli.jp

サイト自体は転職サービスとのタイアップ企画みたいな作りですが、筆者のおっしゃることにはとても共感できます。いわく「不機嫌は未来を壊す」と。確かにいつも不機嫌な顔をしている人とはあまりお近づきになりたくないですし、仕事の協同もうまくいかないでしょう。私自身、笑顔を作るのがとても苦手な人間ですが、それだけに自然な笑顔にあこがれますし、いつも笑顔で機嫌よくしている・できる人には敬意を覚えます。

フィンランド語では「機嫌がいい」ことを“hyvällä tuulella(よい風の上に)”といいます。“Hän on aina hyvällä tuulella.(彼はいつも機嫌がいい)”。日本語でも「風に乗る」とか「風を捕まえる」などと言いますけど、何だかとても爽やかで前向きで、いい表現ですよね。いつも不機嫌でいると、よい風も吹いてこないような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_899.html

上掲の記事では「通わなければならない建物の近くに引っ越しして、鼻歌を歌いながら歩いていけるようにする」という筆者のポリシーが紹介されていて、確かにあの満員電車での通勤がなければかなり機嫌良く過ごせるだろうなと思います。私は毎日東京の新宿まで通っているのですが、朝のラッシュ時はどの路線も殺人的な混雑ぶりです。ただでさえ人の圧力が苦手な私は不機嫌になることがわかりきっているので、いつも早朝に新宿まで出てきて、ジムで「朝活」をしてから出勤しています。

いっそのこと職場近くに引っ越したらどんなに楽かなと思うのですが、新宿駅周辺は逆に住む場所としてはあまり心豊かになるような場所ではないですよね(住んでいる方、ごめんなさい)。というわけでこの記事の筆者がおっしゃることを全部実行するのも無理があるのですが、少なくとも徹底して自らを不機嫌から遠ざけるその姿勢は見習いたいなと思ったのでした。

「ジョンソン」と「トランプ」の中国語表記をめぐって

イギリスでは保守党の党首選が行われ、当選した元外相のボリス・ジョンソン氏が首相に就任しました。海外の政治家など著名人の去就があった際、そのお名前を中国語でどう言うのかしら……というのが気になって、私はすぐに調べるのですが、ジョンソン氏は“約翰遜”もしくは“強生”と表記されているようです。前者は主に中国のメディアで、後者は主に台湾のメディアでです。

こうやって中台のメディアで表記が分かれるというのはよくあって、例えば米大統領ドナルド・トランプ氏も中国では“特朗普”、台湾では“川普”とされるのが普通です。中国での“約翰遜”や“特朗普”は、カタカナで無理矢理記せば「ユェハンシィン」とか「ターランプ」などとなって、英語の原音とはかなり違った感じがします。もちろん日本語の「ジョンソン」や「トランプ」みたいな母音をベタベタに押した音だって原音からかなり隔たっていますけど。

そこへ行くと台湾などで使われている“強生”や“川普”は、これも無理矢理記せば「チァンション」「チュァンプ」という感じで、カタカナだと五十歩百歩な感じがしますが、“Johnー”の部分を“強”、“Trumー”の部分を“川”の発音で充てるのは、英語の原音にわりあい近いんじゃないかと個人的には思います。ただ中国側のメディアが物量的に多いのと、いつも申し上げているように歴史的な経緯から(?)北京一辺倒が強い日本の中国語業界の特徴とで、日本の中国語業界ではどちらかというと“約翰遜”や“特朗普”のほうが知られているようです。

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https://www.afpbb.com/articles/-/3236652

“約翰遜”の“約翰”はほかにも「ジョン」とか「ヨハン」とか「ヨハネ(キリストの十二使徒の)」といった名前にも使われ、いわば定番のパターンです。じゃあ中国では“約翰”一辺倒かというとそうでもないようで、例えば医療・衛生用品などで有名な「ジョンソン&ジョンソン」という会社がありますけど、あれは確か中国でも“強生”で、逆に台湾では“嬌生”だったように思います。あと「ジョンソン」だと“詹森”という表記もありますね。ケネディ大統領の暗殺後にジョンソン副大統領が後を継ぎましたけど、あの方は“詹森”(台湾での表記。中国は“約翰遜”)。

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トランプ氏を“特朗普”と表記することについては、中国語母語話者の中でも議論があるようで、ざっと検索しただけでも多くのページが見つかりました。こちらの方は、自分が最初に“川普”を使ったのだとし、“特朗普”は発音的にもどーなの? と噛みついていますけど、「もっと前からあったよ」的なコメントもついていてよく分かりません。

一方、台湾の「聯合影音網」やアメリカの華人系メディア「大紀元」などでは、中華人民共和国では外国人名の表記に統一性を持たせるため、1950年代に新華社を中心として訳語の一覧を作り、それに従って使用しているという背景を紹介しています。この人名辞典は私も見たことがありますし、今でも中国メディアの人名表記は新華社が決定しているという話も聞いたことがあります。時の国務院総理・周恩来氏の肝入りで作られた「規範」であるだけに、その縛りからは逃れるのは難しいということなんでしょうか。

video.udn.com
www.epochtimes.com

ところで、広東語版ウィキペディアによると、広東語ではドナルド・トランプを“當勞侵”と表記するそうで、ミドルネームの「ジョン(Donald John Trump)」は“莊”としているよし。へええ。私は広東語の発音が分からないのでなんとも言えませんが、ネットであれこれ検索してみると「かなり英語の発音に近い」のだそうです。それにしても「侵略」の「侵」ってのはなかなかインパクトがありますね。広東語では他にも“杜林普”という表記や、“侵侵”というネット用語的な表記もありました。

“侵侵”ってのには何か特別な含意があるのかなと思って(例えば広東語の発音だと滑稽に聞こえるとか)香港の留学生に聞いてみたんですけど、単にカワイイ語感になるだけ(華人は子供の頃の名前:幼名によくこうした繰り返し系を使いますね)だと言っていました。ちなみにこの香港の留学生は“當勞侵”なんて知らないと言っていました。う〜ん、何だかよく分かりません。広東語にお詳しい方、ぜひご教示ください。

「ドナルド」の“當勞”は、例えばマクドナルド(McDonald)が“麥當勞”なので、なるほど「ドナルド=當勞」かと思いますけど、一方でドナルドダックは“唐老鴨”と「ドナルド=唐」だし、台湾でドナルド・トランプは一般に“唐納川普”で「ドナルド=唐納」だし、中国では“唐納德特朗普”で「ドナルド=唐納德」だし……結局何だかぐちゃぐちゃなのでした。外国人の私たちとしては、まあ、ひとつひとつ覚えていくしかないですね。

「です・ます」と「だ・である」の使い分け

華人留学生の通訳クラスを担当していると、いろいろと面白いことに気づきます。私たちの学校の留学生はおおむね日本語学校で一年〜二年程度学んで入学してきた方々なので、正直に申し上げて日本語はまだまだ発展途上。というわけで、通訳の訓練というよりは、通訳の訓練を利用して日本語力のさらなる向上を図っているところ、という感じです。

みなさんが日本語のアウトプット、とりわけ通訳訓練のような口頭でのアウトプットの場合にいちばん苦労されているのが、日本語の助詞の使い方、つまり正しく「てにをは」を使い分けることです。中国語はいわゆる「孤立語」であるためか、中国語母語話者でかなり日本語が上手な方でも助詞の使い方には苦労されているよう。ましてや発展途上の留学生のみなさんならなおさらです。

もうひとつ、意外にみなさんが苦労されているのは、「です・ます」(敬体)と「だ・である」(常体)の使い分けです。通訳の訳出は基本的に話し言葉なので、原則として一人称かつ敬体で行われるのですが、なかなか「です・ます」で発言を終わらせることができず、まるで翻訳文を読み上げているかのように「だ・である」で終わってしまう方が結構多いのです。

でも面白いのは、ふだんおしゃべりしているときは普通に話し言葉で話しているんです。「だ・である」で話す人はいません。なのに通訳訓練となると緊張しているのか、翻訳や中文日訳の延長線上で考えてしまうのか、「だ・である」になっちゃう。もちろん、華人留学生は人数も多いために授業以外ではいきおい中国語でしゃべり倒していて、日本語の口頭表現の訓練がそもそも全然足りていないという要因もあるのかもしれません。この点は欧米など非漢字圏の留学生との際だった違いです(中国語圏に留学している日本人留学生にも同様の傾向があると聞いたことがあります)。

というわけで、授業ではしつこく「です・ます」で訳してくださいと何度も何度も指摘するのですが、なかなか改善していかない方が、それも結構な割合でいます。こっちも内心ではつい「キレそうに」なるのですが、そこはそれ、辛抱強くいろいろな言い換え例も提示しながら注意を促しています。

しかしこれも、こうした明確な文体の違いが存在しない中国語が母語の方々にとっては仕方がないかなとも思います。中国語にも文語・口語の違いや、堅い言い方から砕けた言い方まで様々なバリエーションがありますが、文末の、ほんの少しの変化だけで敬体と常体が変わってしまう日本語に対応するのは、なかなか難しいことなのだろうと想像します。ほんの一文字、二文字程度で、文体が大きく変わっちゃうんですもんね。

東京スカイツリーは外国人にも人気の観光スポットです。2012年5月22日に開業しました。(敬体)
東京スカイツリーは外国人にも人気の観光スポットだ。2012年5月22日に開業した。(常体)

考えてみれば自分も、フィンランド語における現在形や過去形、あるいは細かい格変化やkptの変化(子音階程交替)など、しょっちゅう間違っています。ネイティブにはなんの造作もないことでも、非ネイティブにはとことん難しいんですよね。

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https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_88.html

留学生のみなさんは、秋の文化祭に向けて「日本語劇」の練習にも入ったのですが、こういうお芝居や、あるいはドラマなどの字幕翻訳で使われる「役割語」的な男言葉・女言葉についても、結構苦労しています。これも中国語には、ハッキリとした区別がないからですね。「役割語」については、聞いたり読んだりして理解するのはかなりできるようで、試しにいろいろと出題してみると「中年の女性!」とか「お年寄りの男性!」などと答えてくれます。でも自分から表現する場合にはかなり心許ない。

外語を自由に使いこなすというのは、本当にたゆまぬ努力が必要なんですね。私も「キレそうに」なることなく、辛抱強くつきあって行きたいと思います。留学生の通訳訓練も、自分の語学訓練も。

芸術を志す若い方々とタバコの親和性

昨年「健康増進法」の一部が改正されたことにより、多数の人々が利用する学校施設でも受動喫煙防止のための措置を講じることが義務づけられました。原則としては「敷地(キャンパス)内禁煙」なのですが、屋外で、受動喫煙を防止するための対策が取られている場合に限って喫煙所を設置できるとされています。

「学校における受動喫煙対策について」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/04/16/1414429_1.pdf

私が奉職している学校でも、これに従って7月からキャンパス内にあったいくつかの喫煙所が一つに統合され、生徒はもちろん教職員にも周知徹底が行われました。この措置について、一部の学校ではキャンパス内を全面禁煙にしたことでかえって学校周辺での野放図な喫煙が増えたというケースもあるらしく、そのマイナス面も指摘されていますが、私はこれまで職場でたびたび受動喫煙に悩まされてきましたから、この方針は基本的に歓迎したいと思っています。

同時に、喫煙者には「自己責任」などと冷たいことを言わず、できるだけタバコから遠ざかることができるよう医療面・心理面などからの応援やケアも必要だと思います(タバコは一種の依存症で、自力で抜け出すのにはかなりの困難が伴います)。タバコの害がここまでハッキリとしてきた現代においては、社会全体で脱タバコを支援していくべきですよね。というわけで私は、そのための医療補助やインフラ整備、教育や事業転換のための補助など様々な施策に税金を投入するの、賛成です。各種選挙でも政党や候補者の政策で注視するポイントのひとつはそこです。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_14.html

ところで先日、学校の会議で、この七月からの措置に伴う他の学校の現状や取り組みなどを聞く機会がありました。学校によっては喫煙者が非常に少なくスムーズに対応できたところもあれば、上述のように周辺環境がかえって悪化したというところもあるようです。そこで驚いたのは、何とウチの学校の生徒、特に男子生徒の喫煙率は約五割もあって、これは大学生全体の平均を大幅に上回っているという報告です。その理由としては、ウチの学校は芸術系の学部や学科が多く、それが背景にあるのではないかとのことでした。

そう、芸術やアートと喫煙はなぜか親和性があるんですね。私がかつて学んだのも芸術系の大学でしたが、当時は約三十人ほどいた同じ学科のクラスメートのうち、たぶん七割から八割くらいはタバコを吸っていたと記憶しています。今よりももっとタバコに対する意識が低い時代だったということもあるでしょう。私はタバコを吸っていませんでしたが、今から思えばかなりの受動喫煙に遭っていたと思いますけど、私自身の意識も低くてそれをあまり問題視していませんでした。

しかし、よく考えてみれば芸術とタバコの親和性なんて何の根拠もない妄想ですよね。画家とタバコ、小説家とタバコ、俳優とタバコ……なるほど、何十年も前だったら絵になったかもしれませんが、2019年の現在では逆に陳腐な発想です。それでも多くの芸術やアートを学ぶ学生の多くがそういう古いステロタイプで陳腐な型に嵌まっている、嵌まらされている。

いまだタバコから脱し切れていない先輩方が多いこともその理由の一つに挙げられるかもしれません。ウチの学校の卒業生には有名なファッションデザイナーである山本耀司氏がいるのですが、この方は「若者の喫煙に関して物申したい」として「近年若年層の喫煙率が低下していることを受け、愛煙家の山本が喫煙具の販売に思い至った」と雑誌の記事で取り上げられるほどの方です。

qianchong.hatenablog.com
www.fashion-press.net

芸術というものは、鋭く繊細な感性で最先端の現在と未来を切り取り表現するものだと思います。だから人一倍、世界の新しい動向に敏感でなきゃいけない。その芸術に携わろうという人間が、旧態依然としたステロタイプなスタイルに染まっていてどーするんですかと私は思います。タバコの害についてさらなる啓蒙が必要ですけど、タバコ中毒から脱しきれないがゆえに後進を惑わせるこうした「悪い大人」のみなさんも、もっと勉強していただきたいですね。

時代の最先端を切り開く芸術家の方々と、その芸術家を志す若い方々には、ぜひ時代の最先端の教養を身につけていただきたいと思います。もとより優れた芸術は、豊かで幅広く、深い教養を育むことなしには生まれないものなんですから。

なぜ投票に行かないのか・行くのか

昨日は参院選が行われましたが、総務省の発表によると投票率は48.8%で史上二番目の低水準だったそうです。半分以上の有権者が投票に行かないという現実にどう向き合えばいいのか、そして特に若年層の投票率が際立って低いことについて、新聞やネットでは様々な議論が行われています。

教育の問題、マスメディアの問題、格差や貧困の末に政治に絶望しているから、いやなんだかんだ言って日本はまだまだ豊かでゆとりがあるから……。さらにはオーストラリアのように義務投票制にして投票に行かなければ罰金を科すべき、いやシンガポールのように投票に行かなければ選挙人名簿から抹消すべき……。どれも一理あるんですけど、なにかこう腑に落ちません。

なぜ投票に行かないのか

今朝は通勤電車で、このようなツイートに接しました。

このツイートに続くスレッドをすべて読んでみると実に興味深いです。投票の意義を教えられていない、という点ではまさしく教育の問題なのですが、それよりもっと根本的なところで、個々人の投票という小さな行動が国の政治という大きな動向と繋がっている、リンクしているという実感、あるいは信憑が持てないのかもしれない、と思いました。

これに先立つ昨日は、コピーライターの(という肩書きはもう古いですか)糸井重里氏のこんなツイートにも接しました。

このツイートには膨大な数のリプライがついていて、そのほとんどは糸井氏の姿勢を批判するもののようでした。中には糸井氏が投票に行かないという宣言をしていると思った方もいるようですが、そうじゃないですよね。投票には行くんだけれども、やはりその行動が何かの大きな動きに繋がっているという実感が持てない、だからせめてその気持ちも届けたい(でもできない)という気持ちを吐露されたのでしょう。

作家の村上春樹氏は、かつて「僕は生まれてこのかた選挙の投票というものを一度もしたことがない」と公言されていて、これもTwitterなどでは繰り返し批判されています。手元にある『村上朝日堂の逆襲』に収められた「政治の季節」という文章には、こんな記述があります。

どうして選挙の投票をしないのかという彼ら(僕をふくめて)の理由はだいたい同じである。まず第一に選択肢の質があまりにも不毛なこと、第二に現在おこなわれている選挙の内容そのものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。
(中略)
もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点があって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主義の衰退だと言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケースを提供することができなかった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみに責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。

この文章はもう三十年以上も前に書かれたものですから、村上氏が今でも同じお考えなのかどうかは分かりません。特に今回の選挙のように、改憲勢力憲法改正の発議に必要な3分の2の議席数を参院で確保できるかどうかという状況で「戦略的投票」が呼びかけられたような状況では「マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶ」のも意味のあることでしょう。当時とは時代がまるで違っているのです。

それでも、村上氏のこの文章からも、やはり自分の小さな行動が政治の大きな動きに繋がっているとはとても思えない、だから無力感を覚える(不毛だ)……という気持ちが伝わってきます。「あなたの一票が、世の中を変える」と言われたってそれを信じることができない、そのあまりにも巨大な隔靴掻痒感(?)が投票なんてしても無駄だ、不毛だという考えにつながっていくんですね。

むしろ若い方々にとっては、SNSなどで「バズる」ことのほうがよほど「自分の行動」と「世の中が変わる・動く」ことの直接的なリンクを体感できると思います。Twitterで何千何万というリツイートがつくとか、Instagramの膨大な「いいね」に自分がインフルエンサーになったかような高揚感や全能感を味わうとか、人気のユーチューバーになって実際にお金が儲かるとか……。それに比べて選挙の投票は、まるで大海に小石を一つ投げ込むようなもので、何の反応も手応えもないし、高揚感も全能感もまったくもたらさない。だから「行かないよ、そんなの」と。

かくいう私自身も、こうした隔靴掻痒感や不毛感・徒労感は常に覚えているので、その気持ちは分かるような気がします。それでも私はこれまで覚えている限り(あと、海外の辺鄙な場所に転居していてどうしてもできなかった数回を除いて)投票を棄権したことはありません。若い頃に一度、何を考えたか「白紙投票」をした覚えはありますが。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_88.html

なぜ投票に行くのか

私だって若い頃があって、きょうびの選挙に行かない若い方々や『村上朝日堂の逆襲』を書かれた頃の村上春樹氏のように不毛感にとらわれたこともあったと思います。なぜそれでも棄権しないで来たのかなと改めて考えてみたのですが、どうもうまくその理由が説明できません。大学の時に受講した「一般教養科目」のおかげだとも思えるので、結局は教養・リベラルアーツの大切さってことになるのかもしれません。でも何だかもっと漠然とした、ある意味信仰に近いものなんじゃないかなとも思います。

世の中は自分ひとりでは回っていかない、世界は自分が考えているよりもはるかに巨大で複雑なものだ、誰も見ていなくてもお天道様は見ている、民主主義は人間が仮構したものだけれどその中に住んでいる以上はその仮構されたものにつきあうべきだ……それこそ村上氏から「うさん臭い」と言われそうですけど、そういうものを信じているから投票という行動に繋がるんだと思うんですね。

これって信仰と言うよりもっと卑近な「皮膚感覚」に近いものかもしれません。私は全体としては世界はよりよい方向に進んでいる、進んでいくと楽観していますし、それを積み重ねてきた先人に敬意を表しますし、その先人の努力を無駄にするような行動は何だか「気持ち悪い」んです。投票に行かないのは気持ち悪い。祟るような気がすると言ってもいいかもしれない。

なんだか締まらない結論になりました。あ、もちろん、日本ほどに豊かで恵まれていて曲がりなりにも民主的な選挙が行われている国とはまったく異なる国の友人がいて、その人たちの存在に教わることが多いというのも理由のひとつだと思いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_586.html