インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

通訳者の仕事は時給換算できる?

とあるイベントでの通訳業務を仰せつかりまして、徐々に予習を始めていたのですが……。当日の午前中に急遽授業の予定が入ってしまい、代講もできない状況だったので、イベントを主催するクライアント(お客様)に集合時間を遅らせることができないかどうかと相談を持ちかけました。

このイベントは以前にも何度かお仕事をいただいており、夕方からの本番までに長い待機時間があるので、もともと午前11時集合のところを午後1時にしていただけないかと相談してみたわけです。本来ならこんなことをお願いするのは御法度で、最初にお声がけいただいたこのイベントの業務を優先すべきなのですが、今回はいろいろと手詰まりなので「ダメもと」でお願いしてみました。

幸いクライアントはとても理解があって、午後1時の集合でもオーケーとのお返事をいただいたのですが、その後担当者さんからこんなお申し越しが。「2時間短くなったぶん、通訳料金を少しお安くしてくれませんか?」

……う〜ん。

これは困りました。確かに、先にこちらからご無理を申し上げて拘束時間を短くしていただくわけですから、そのぶん報酬を削るというのは当然のように思えますよね。でもこれは承ることができないのです。

よくある誤解のひとつなのですが、通訳業務は単に当日の拘束時間内だけで行っているわけではありません。通訳には事前の予習が欠かせず、この予習時間の方がはるかに長くかかります。数時間のイベントのために、クライアントから提供していただいた資料を十数時間から数十時間をかけて読み込んだり視聴したりし(直前でできないことも多いけれど)、さらにインターネット等で背景知識を収集し、グロッサリー(用語集・単語帳)などを作って専門用語や業界用語やジャーゴン(仲間内にだけ通じる特殊な言い方)を覚えるなど、たくさんの作業が発生します。

通訳料金は、その時間外の労働や手数も含めての報酬なのです。ときどき「通訳者さんって楽でいいよね。口先で『ちょろちょろ』っと喋るだけで高い日当もらえるんだから」とおっしゃる方がいますが、その比較的高い日当が設定されているのは、予習などにかかる時間も勘案されているからと理解しています。「二つの言語が話せれば、その場ですぐに何でも訳せる」わけではないのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_89.html

私も通訳者のはしくれなので、残念ながらこの点だけはどうしても譲ることができませんでした。通訳は「現場で聞いて話す」だけの作業ではなく、単純に時給では測れないものであることをご理解頂きたかったのです。

とはいえ、今回はこちらからの勝手な事情でご相談したこともあり、当日の集合時間を遅らせて頂いた上にクライアントの意に沿わない報酬を出していただくのは心苦しくて、今回のオファーは辞退させていただくことにしました。

今回は自分でもちょっと身勝手な感じがしますが、でもこの点を譲って「通訳者の仕事も時給換算できる」という通念を強化するような行動だけはどうしても取れないと思いました。ここで譲ったら、回り回って他の通訳者さんにもご迷惑がかかってしまいます。

クライアントからは、通訳者の仕事を理解せず、ぶしつけなお願いをして申し訳ないとのお詫びの言葉をいただきました。それでも、今回のお仕事は結局ご破算ということになりました。これは想像ですけど、経費削減の声かまびすしい昨今、短くなったぶん通訳料金をまけてもらえと指示したのは担当者さんの上司だったんじゃないかな……まあ今回はご縁がありませんでした。仕方がないですね。

誰かの草履を綯っている

先日の東京新聞朝刊に、木ノ下歌舞伎主催の木ノ下裕一氏がコラムを寄せていました。毎回楽しみに読んでいるコラムですが、今回も落語に出てくるという「箱根山、駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」との言葉がいいなと思いました。社会はさまざまな人々の営みでまわっているというたとえだそうです。

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そう、私もできるだけ誰にも頼らず、自立して生きて行こうとはしていますけど、実際には自分もさまざまな人々の営みによって生かされているんですよね。

家に引きこもって、人や社会との交わりをできるだけ断とうとしている人だって(私も大学生の時に一時引きこもっていました。それで留年しました)、ライフラインが使えるのはどこかで誰かが働いて管理してくれているからですし、食べ物や飲み物だって完全に自給自足することは不可能です。村人とのつきあいを嫌って山の上に住んでいる「アルムおんじ」ことハイジのおじいさんだって、チーズやヤギなどの交易のために、定期的に村に降りて来ざるを得ないのです。

木ノ下氏がおっしゃるように「自分が見知らぬ誰かの草履を綯っているという誇り」があればこそ、毎日の労働にも耐えられるし、他人への寛容も生まれてくるのかもしれません。みんなお互い様ですし、持ちつ持たれつなんですから。

というわけで、今日ようやく確定申告を済ませ、私にとっては少なくない税額を納めてきました。いくつかある勤務先のうち「主たる給与」を得ている所で年末調整が行われ、どーんと諸々の税金がさっ引かれていますから、その他の「従たる給与」を得ている部分はすっぽかしちゃえ……などというよこしまな考えが浮かぶ(それも毎年)のですが、もちろん「従たる給与」が年20万円を超える場合は、確定申告をしなければなりません。

まあこうやってきちんと税金を納める(当然なんですけど)ことで、私も社会の一員として「誰かの草履を綯っている」ことを実感できるのですし、税金の使われ方についても意識を向けるようになるのですかね。

バビブベボナさん

異色のお菓子レシピ本です。著者である樋口正樹氏の愛猫で、フランス語の「ボナペティ(よい食欲を→召し上がれ)」から名づけられた「ボナさん」。そのお友達という設定で、「バビブベボ」から始まる名前のお菓子が次々に登場し、ボナさんと戯れ、その「交友関係」が綴られていきます。


バビブベボナさん おいしいお菓子のお友達

いわば、お菓子のレシピ本であると同時に、ボナさんの写真集でもあり、詩集のような趣きもあり、世界各国の素朴で珍しいお菓子の一覧にもなっているのです。しかもバビブベボの「バ行」つながりで、お菓子作りに欠かせない「ブレンダーさん」や「バターさん」まで登場するという遊び心。

グレーの毛並みにまん丸な顔。つぶらなオレンジ色の瞳がかわいいボナさんは、そうしたお菓子のお友達に興味津々のように見え、時に手まで出しているのですが、実は人間の食べるお菓子には全く興味がなく、いつもは「カリカリ」七割、「ウェット」三割のペットフードで暮らしているそう。

つまりこれは徹頭徹尾、著者氏の妄想全開で成り立っている本なのですね。ボナさんはその妄想につきあって、時にそれぞれのお菓子の雰囲気に合わせたコスプレまでして(させられて)写真に収まっています。かわいい。かわいすぎる。しかも出てくるお菓子がまたいちいちかわいい。

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特別な材料を極力使わず、簡単に作れるよう工夫されたレシピも秀逸で、休みの日につい作っちゃえるような手軽さも兼ね備えています。手に取ったときは一瞬「猫用おやつのレシピ集かしら」と思った、その誤解を招きそうなつくりもまた面白く、かわいい。こんな本が登場するくらい、やはり日本のレシピ本は楽しく奥が深いです。

「人となり」を知れば見方が変わるかもしれない

作家の林真理子氏が『週刊文春』で、最近ハワイでは中国人と中国語が「幅をきかせている」という書き出しのエッセイを寄せたことに対して、ネット上で「ヘイトスピーチではないか」批判されていました。すでにひと月以上前の話題ですが、今さらながら知った次第。気になったので図書館でバックナンバーを探し、全文読んでみました。エッセイの概略は、こちらの記事で紹介されています。

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「どうかずっと、この島が日本人のものでありますように」とか「まだハワイは、中国人の視界に入っていないとみえる」とか「ホノルルの高級ホテルやブランド店で、大きな声の中国語をやたら聞くようになった」などと、確かに不穏当な記述が満載のエッセイです。ただ、全体としてはこう言っては大変失礼ながら、スノッブかつ料簡の狭い考えが並べられているだけで、最大限好意的に解釈すれば、中国人云々のくだりも一種のジョークやカリカチュアとして読めないことはないかな、と思いました(私は笑えないですけど)。

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ハワイに限らず、日本各地も最近は外国人観光客、なかでも中国語を話す方々がすごく増えていますよね。私は普段東京の新宿や渋谷周辺を仕事で通ることが多いですが、「爆買い」が一段落してからも、いやひょっとしたらあの頃以上に、普通に中国語が周囲から聞こえてきて、それはもう日常の風景になっています。

中国語には「声調」というメロディや「有気音」という息のストレスを伴う音などがあって発音がダイナミックなことと、たぶんチャイニーズのみなさんの性格というか気風的なことも相まってか、たしかに声のボリュームは大きいかもしれません。もちろん声の小さなチャイニーズもいますし、また日本語母語話者にとっては聞き慣れない音だからよけいに気になるという側面もあるかもしれませんが。

かくいう私自身も、電車の中などで周囲もはばからず大声でおしゃべりに興じている中国語の人々に対して、“入鄉隨俗(郷に入っては郷に従え)”ですよ〜、と声をかけたくなることはあります。一度など、電車の中で子供の足の爪をパチパチ切っていて、その爪の切りかすを床にバラバラ〜っと撒いて降りていった一団にはキレそうになったこともあります。

それでも、だからといって、ハワイは日本人のものだ、中国人はできれば来ないでほしいという主張を臆面もなく雑誌のコラムに書いてしまう感性は、明らかに子供じみていると思います。公園の砂場で「ここはオレの縄張りだから誰も入るな」と言っているジャイアニズムみたいなものではないですか(でもきょうび、親御さんは子供を砂場で遊ばせたがらないらしいですね)。

先般、京都に行ったら、タクシーの運転手さんが「もう正直勘弁してほしいですわ」と言っていました。ここ数年外国人観光客がどっと押し寄せ、あれこれの摩擦に市民はみんな疲れ切っている……というようなお話でした。私は適当に相槌を打ちながら、少々暗い気持ちで聞いていたのですが、こういう「古き良き自分だけの○○」を求める気持ちは抑えきれないのかなと思いました。そして、それは詮ない望みですよとも。

望むと望まざるとに関わらず、世界はどんどん狭くなり変わっていくのです。そして個人の欲望は誰にも止められません。自分の行動を誰にも干渉されたくないのと同じように。そのように個々人が自分の「快」を追求していけば、どこかでぶつかることもあるし、どこかで譲歩なり辛抱なりをしなきゃならないこともある。自分もどこかに出かけていって、他人の「古き良き自分だけの○○」を毀損しているかもしれない。これは当たり前すぎるほど当たり前のことであって、分別ある大人はそれをわきまえ「お互い様」で生きていくのです。

林真理子氏のこの一文には、そういう大人の態度が決定的に欠けていると思いました。そういうのは内輪の飲み会か何かで「やらかす」べきであって、やはり週刊誌にエッセイとして堂々と寄稿するようなものではなかったかもしれませんね。

それに賑やかで大きな声の中国人観光客のふるまいだって、その人たちの「人となり」を知ればまた感覚が変わるかもしれませんよ。私は以前、東京メトロ銀座線の上野駅で、大声であれこれ話し合っている十数名ほどの中国人の一団に接したことがあります。困っているようだったので中国語で声をかけてみたら「秋葉原に行きたいけど乗り換え方がわからない」とのこと。大連から家族や親戚と連れだって観光に来られたのだそうです。

確かに、上野駅で銀座線から秋葉原に向かうとすれば、いったん改札を出て日比谷線に乗り換えなければなりません。みなさんの不安は、切符を自動改札に入れちゃったら、もう一度買い直さなきゃいけないのかという点でした。そこで私が駅員さんにたずね、買い直さなくても改札を通れる旨伝えました。

みなさんとても喜んで、口々に感謝の言葉を述べながら改札を通って行き、「今度大連に来ることがあったら、大歓迎するよ」と言う方まで。歓迎ったって連絡先も聞いてないし、これは社交辞令なのですが、こういうふうにめいっぱい感謝と親愛の情を表すのが中国人ふうなんですよね。そうやって「人となり」を知ってしまうと、賑やかな大声だってなんだか親しみを感じるようになるではありませんか。

就活しなきゃいけないの?

3月1日は就職活動の解禁日でしたね。うちの学校で学んでいる留学生も、卒業に際して就職先が見つかった人がいる一方で、まだ見つからず、「留学ビザ」を「特定活動ビザ」に切り替えて就活を続ける人もいます。こんなご時世でも日本で働きたいと思ってくださる留学生のみなさんに心からエールを送りたいですが、いわゆるリクルートスーツに身を包んであちこち飛び回る留学生を見ていて、日本はいつまで若い方々にこういうことをさせるんだろうなとも思います。

日本には日本なりの歴史や事情があって、就活がいまのような状況を呈しているのも故あることなんでしょうけど、リクルートスーツにはじまり、エントリーシート圧迫面接、お祈りメールなどに代表される、人間性を著しく消耗させるようなあり方はもうちょっと何とかならないのでしょうか。

そう思ってはいても、既に社会である程度の経験を積んで、仕事のポジションを得ている立場の私が「就活なんて蹴っ飛ばせ」的なことを吹き込むのも無責任に過ぎるかなと思って、結局は黒尽くめの背中を見送って「頑張って」としか言えません。内心非常に忸怩たるものを感じます。

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でも私、これは誇張でもなんでもなく本当の話なんですが、かつて大学生だった時に卒業後の仕事を考えたことがありませんでした。「就活」などという略語はまだなかった時代でしたが、学生は在学中から就職のために活動する――会社説明会に行ったり、先輩訪問したり――ものだ、という認識自体がなかったのです。何という世間知らずでしょうか(もはや「世間知らず」というカテゴリーにさえ入らない気もしますが)。

会社に就職するのはイヤだと思っていた、というのはあります。美術系の大学に通っていたので、将来は「アーティスト」になることを志していました。あまつさえ不遜にも「サラリーマンになってアートができるか」などと豪語して、うちの大学で履修可能な数少ない資格である「教職課程」や「学芸員課程」も取りませんでした。

私は美大の中でもでもとりわけ「食えない」純粋芸術(ファインアート)系の彫刻専攻だったので、大学の就職課もはなから我々は相手にしていないフシがありました。一度だけ、将来を不安視するクラスメートにつきあって就職課の窓口へ求人ファイルを見に行ったことがあるのですが、就職課の職員は背表紙に「彫刻科」と書かれた空っぽのファイルバインダーを私たちに示して「求人はありません」とのたまいました。これも誇張じゃなくて実話です。

そりゃまあそうですよね。毎日粘土で裸体を作ったり、でっかい木や石にノミを打ち下ろしたり、鉄板を溶接したりしているものの、それらの技術を職人として学んでいるわけでもない——つまり自己流で「つぶしが効かない」——若造を活かせる企業はそう多くはないでしょう(ただし、石彫や鋳造などのきちんとした技術を学外で積極的に学ぼうとしている学生はいたように思います)。

もちろん皆無とは言いません。たとえば「造形屋さん」と呼ばれる、イベントや展覧会などで使われる様々な造形物を作る、あるいは舞台で用いられる大道具などを作る会社などでは重宝されるかもしれません。実際、そういった企業に就職していく学生も、若干ながらいました。

あとは、きちんと教職課程を履修して、学校の美術教師になった人も。でもこれもごくごくわずかで、大半の学生はほかの道を模索せざるを得ません。まあこれは美術に限らず、アーティストを目指すすべての若い方々が通る道なんでしょうけど。私が在席していたクラスは30名ほどクラスメートがいたと思いますが、みなさんどんな就職をしていったんでしょう(現在ではほぼ全員と音信不通です)。

そんな中、就職活動を全くせず、かといって「アーティスト」としての才能もないことを悟らざるを得なくなっていた卒業時(留年したので「大学五年生」でした)の私は、当然のごとく路頭に迷いました。それで、当時興味を持っていた環境問題や原発や公害に対する社会運動つながりで、宮崎県の土呂久や熊本県水俣に行き、結局水俣で五年間過ごすことになりました。

その間、月収は十万円程度でしたけど、農業のまねごとをやったり、養鶏や、柑橘類の産直をやったり、水俣病患者運動のお手伝いをしたり、けっこう充実した生活を送っていました。両親は最初「何してんだ」と怒っていましたが、次第にあきらめたのか、遠くから見守ってくれるようになりました。でも結局そこにもいられなくなって東京に舞い戻り、何度か就職と転職と失職を繰り返し、留学したり帰国したり海外赴任したり帰国したりしながらいまに至ります。アルバイトも派遣もやりましたし、正社員にも都合五回なりました。

私が仕事をしてきたのはバブルの終焉から就職氷河期を経てまるまる「失われた20年」の時期に当たります。今とはまた違った状況の時代なので、冒頭でも書いたように不用意なアドバイスはしにくいんですけど、なにもみんなと横一線で、同じトラックの上を突進するだけが就活じゃないよとは言ってあげたいです。私などが言うより何十倍も説得力のあるサイトを見つけたので、ぜひ読んでみてください。とくに中川淳一郎氏へのインタビューには「ぐっ」ときました。

cybozushiki.cybozu.co.jp

最前列に座るのが好き

語学の講座やセミナーなどで講師を担当しているとよく分かるんですけど、最前列に座ってらっしゃる方ほど熱心で、飲み込みがはやく、こちらの印象にも残ります(ときに最前列で爆睡、という方もいますが)。逆に前方の真ん中だけ「ぽかっ」と空いていることもけっこうあって、そんなときは正直こちらもテンションが下がり、思うように話せなかったりします。

失礼ながら、後ろや隅に座っている方ほど「その他大勢」感が強くなるんですよね。見られたくない、話しかけられたくない、当てられたくない……というスタンスなのかなと思っちゃう。まあ実際には、単に恥ずかしいとか悪目立ちしたくないという日本人的“含蓄”(中国語で「控えめ」)の表れなんだろうなと思って、こっちから見ちゃうし、話しかけちゃうし、当てちゃうんですけど、やっぱ人間ですから、初手から敬遠してこられると、それだけこちらの心も冷めちゃうのです。

だから、自分が生徒になるときはなるべく前に座ろうと思っています。以前は後ろや、中ほどの壁寄りに座ることが多かったんですが、一番前に座ると授業の充実感が違うような気がするのです。単純に講師の声がよく聞こえ、板書の文字がよく見えるからかもしれません。最近は老眼もひどくなってきましたし。

特に、これは気のせいかもしれないんですけど、講師の先生がピンマイクなどを使って話されるようなタイプの講座など、スピーカーから出てくる声と同時に一番前で肉声も聞いているほうが、断然頭に入ってきやすいことに最近気づきました。なぜかは分かりません。距離の近さと相まって、直接話しかけられている感が強いからかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2014/08/blog-post_28.html

とはいえ、映画や演劇は最前列だと見にくいです。特に映画は、最前列だと何が何だか分からない。ところが、これも最近発見したんですけど、なぜか能楽だけは最前列が一番豊かな気分になれます。能楽堂にもよるでしょうけど、一番前は自分の目の高さが舞台面よりも下かほとんど同じくらいになります。ですから演者を見上げるような形になるのですが、これが臨場感が半端なくて素晴らしいの。

お囃子や地謡の音楽が、能楽堂の屋根に反射して降り注いでくるような感じがするのも心地よいです。舞台前方ど真ん中に作り物(舞台装置)が置かれることもあるので、そんなときはちょっと右側、ワキ柱近くに座るのも好きです。ここからだと揚げ幕まで相当なパースペクティブがつくので、そのダイナミックさも捨てがたいものがあります。ただ能楽堂の最前列チケットは、いつも真っ先に売り切れてしまうプラチナシートなのが玉に瑕。きっと同じように考えてらっしゃる方が多いからじゃないかと思っています。

教室でも劇場でも、後ろから全体を見渡せるのが一番お得で良いような気がするんですけど、実際にはそれだけ印象が薄まって散漫になるだけなのかもしれません。「舞台がよく見えるから最後列の真ん中がいいのよ」ってのは『ガラスの仮面』に登場する月影千草先生クラスの方が言うことで、私みたいな初学者は、まずは最前列がベストと心得ています。

「どれだけ学べば稼げるか」をめぐって

年度替わりが近づくこの時期は、各種スクールで新学期の生徒募集が行われており、私も体験授業や学校説明会などに講師として参加することがあります。そういった場では最後に「Q&A」の時間が設けられているのですが、興味深いのは「このスクールにどれくらい通ったら通訳者になれますか」とか「どれくらい訓練すれば稼げるようになりますか」というご質問がよく寄せられることです。

一般的に通訳スクールでは、受講に際して「クラス分けテスト(プレースメントテスト)」が行われ、その結果によって入門や基礎レベルのクラスから、同時通訳などを訓練する一番上のレベルのクラスまでに分かれます。ですから、その方のこれまでの経験や、語学の習熟度や、受講後の取り組みなどで状況はそれぞれ違うので、一概に「これだけ通ったら稼げる」というお答えはできないんですね。

また通訳のお仕事といっても様々な現場の様々な形態があって、比較的タスクが軽いと言われるガイド通訳やアテンド通訳もあれば、公共機関や病院などでのコミュニティ通訳もありますし、企業などの社内通訳(インハウス)と呼ばれる形態もあれば、フリーランスで国際会議などの高度なスキルが要求される同時通訳をなさっている方々もいます。この点でも「どれくらい通ったら・訓練したら」というご質問にはお答えしにくいのです。

私自身は現在、本業副業合わせていろいろな仕事をしているので「通訳で稼いでいる」とはとても言えませんし、以前にしたって通訳「だけ」で稼いでいた時期はほとんどなかったのですが、自分がスクールに通っていた頃を思い出してみると「どれだけ通ったら稼げるようになるか」などと考えたことはありませんでした。というか、自分が通訳で稼げるようになるとはとても思えなかったんです。

う〜ん、かなり情けない態度ではありますが、なんとか仕事に結びつけたいと学びながらジタバタしているうちに、時に仕事になったりならなかったり、時に通訳(や翻訳)から離れたりまた近づいたりしつつ、いつの間にか稼げるようになっていた(時には稼げないようにもなる)という感じなのです。

もちろん、こんなことを「Q&A」の席で話してもたぶん納得していただけないと思います。ですから「一概には言えません」的にお茶を濁してばかりです。あるいは「実力本位の世界なので、とにかく上に行けば必ず道は開けます」的な当たり前すぎることを言うか……。高い授業料をいただこうとしておきながら申し訳ないのですが、ただ、何かを学ぶというのは「これだけ投資したら、これだけのリターンがある」というような損得勘定だけでは測れないものじゃないかな、とも思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_953.html

これは先日、能のお師匠から聞いたお話ですが、とあるプロの日本人舞踊家さんから「能の舞を教えて欲しい」と依頼されたことがあったそうです。海外のダンスカンパニーでの公演に参加する予定で、演出家から「日本の能の動きを取り入れた演技をしてほしい」と要請されたよし。

それ自体は素晴らしいことなんですが、この舞踊家さんは最初に「○○基金から援助される予算はこれだけなので、その予算の範囲内でお願いします」と依頼してきたそうです。最初から予算の上限を伝えて教えを請うというのは、正直というかビジネスライクでさっぱりしているんですけど……なんだか引っかかりませんか。

もちろん能の舞は一度や二度習ってできるものでもありませんし、この舞踊家さんだってそれは充分に承知されており、かといって本格的に弟子入りしよう(できる)と思っているわけでもなく、限られた時間と予算の範囲内で、自らの表現に結びつくほんの少しのエッセンスでもいいので能から学び取りたいと思っているだけです。それはよく分かります。

むしろ最初から「この予算内で」と明言するくらい潔いとも言えますが、よくよく考えるとお稽古の報酬は自腹を切っているわけではなく、どこかの基金からの拠出です。時間と予算に制限があるというのも、徹頭徹尾ビジネスの論理なんですね。やむにやまれず、心から学びたいと思っているわけではなく、あくまでも「投資とリターン」という理屈で動いている。そこに私は違和感を覚えるんです。

いえ、もちろん、自腹を切らなきゃ学びは深まらないとか、いつモノになるとも知れぬ技術を悠々自適で学べばいいと言っているわけでもありません。どうやったらその技術を習得できるか、計画と戦略を立てて効率よく学んでいくことも大切でしょうし、時間的にも金銭的にも最低限の持ち出しで最大限の効果を上げることができれば、それは世間的には賞賛に値することなのかもしれません。

でも私は、何かを学ぶことというのは、そんなに理屈尽くめだけで成り立っているわけではないんじゃないかと思うのです。仮にこの舞踊家さんに「○万円ぶんだけダンスを教えてください」って言ったらどう感じられるでしょうか。中国語に“越學越沒止境(学べば学ぶほどキリがない)”という言葉がありますが、学びって、「ここまで学んだらおしまい」ってのがないからこそ学びなんじゃないかと。

少なくとも、これから学ぼうとする人は、どれだけ学んだらマスターできますかとか稼げますかとか考えない方がいいんじゃないかと思うんです。学んでいる過程で稼げるレベルに達することは、あるいはあるかもしれないですけど。先日、学習を「すでにそれを学習し終えた=マスターした人から学ぶこと」だと考えた生徒さんの話を書きましたが、あれにも通じる話かもしれません。

qianchong.hatenablog.com

学校は「遠きにありて思ふもの」

三月は学校の年度末。すべての授業が終了し期末試験の結果も出て、卒業式のシーズン到来です。というわけで先日、同僚の中国人講師に「生徒との別れが名残惜しくて……センセも?」と聞かれたんですが、私は答えに窮してしまいました。特に名残惜しいと感じないからなんです。冷たい? う〜ん、もちろん私は留学生のみなさんが大好きですけど、卒業していく人や卒業生にほとんど感情が動かないんですよね。

私としては、卒業に際して生徒から「お世話になりました」とか言ってもらわなくてまったく構わないので、そのぶん在学中に懸命に練習なり訓練なりをしてほしいんです。教師と生徒は、その在学中の関係だけが大事なんじゃないかと。だから試験が終わって、成績がついたら、もうそんなに感情が沸かない。あとはもう「健闘を祈る」ぐらいしか言えません。

学生にしたって、卒業したら学校での学びをベースに、社会でどんどん羽ばたいていけばいいし、母校への帰属意識なんて持たなくていいと思うんです。私にも恩師と呼べる方はたくさんいて、折に触れて感謝の念を持つけれど、だからって同窓会みたいな席には行きません。故郷ならぬ母校に「錦を飾る」ような成果は上げていませんし、もとより黒歴史満載の学生時代が眼前に甦るなんて心と身体に悪いですから。

だから、卒業アルバムのたぐいを懐かしく見返すこともありません(というか、全部捨ててしまって手元に残っていません)。今とこれからを頑張ることが恩師への恩返しだと思うし、いただいた学恩は、今度は私からもっと若い世代の方々へ送っていけばいいんじゃないか……そう思っています。

よく卒業式の送辞などで「卒業後も、時には『心のふるさと』である母校を訪ねて、元気な姿を見せて下さい」といったようなことを言いますよね。私も昔はそういう送辞に心震わせていた時期があったのですが、冷静になってみれば中国の古詩にも詠まれているように「去る者は日々に疎し」なんです。先生方だっていま担当している学生の指導で手一杯のはずだし、自分にしたって後ろを振り返っている暇はないはずです。

室生犀星の『抒情小曲集』に入っている、かの有名な詩句にはこうあります。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食《かたゐ》となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/001579/card53241.html)より

最初の二行だけが人口に膾炙していて、あたかも望郷の歌であるかのように捉えられていますが(以前は私もそう思っていました)、最後まで読んでみると、むしろ故郷への退路をきっぱりと絶って前を向く、その決然とした意思を示しているように私には感じられます。学生のみなさんも「心のふるさと」としての学校なんかさっさと巣立って「遠きにありて思ふもの」でいいんじゃないかと思うのです。

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室生犀星詩集 (岩波文庫)

言葉のヒゲを刈り込むには

「冗語(じょうご)」という言葉があります。発言する際に、おおむね無意識のうちに差し挟まれる、発言の内容とは関係のない言葉のことです。例えば、話し始めに入る「えー」とか「あのー」「そのー」「このー」といった間投詞、あるいは「〜でですね」とか「〜なんです、はい」「うん」などと話し終わりに頻繁に付け加えられる言葉など。中国語だと“這個”とか“那個”とか“然後呢”とか“完了之後呢”などが代表的なところでしょうか。

こうした冗語は「冗(よけいな、くだくだしい)」という字の通り、本来ならば必要のない無駄な言葉です。単なる話し方のクセになっていることが多いのですが、これがあまりに多いと聞き手にストレスを与えることになります。そこでアナウンスや朗読などの訓練を行う際には、「噛まないこと」とともに、こうした冗語を徹底的に排するよう指導されます。確かに、プロのアナウンサーの発言にはほとんど冗語が入っていないですよね。

アナウンサーだけではありません。各種の講座やセミナー、講演会などに参加してみると、講師の中にはこの冗語がほとんど、あるいは全く含まれていない方がいらっしゃいます。普段はあまり意識に上りませんが、気をつけて聞いてみるとこうした冗語が全く含まれていない話し手がいて驚きます。この冗語を全く差し挟まない話し方というのは、自分でやってみると(自分の発言を録音して聞いてみると)よくわかるのですが、か・な・り難しい。

私は趣味と実益を兼ねて中国語のディクテーション(聽寫:書き取り)を十数年ほど続けていますが、中国語の話者の中にもこの「冗語ゼロ」の方がよくいらっしゃいます。論旨明晰で淀みなく話しており、冗語が全くない。かといって、原稿を読み上げるような無味乾燥な話し方でもなく、一見フリーハンドで気持ちの赴くままに話しているように聞こえるのですが、書き起こしてみると冗語がほとんど含まれていないのです。どれだけ頭の回転が速いんだと舌を巻かざるを得ません。こういった話し方には心から憧れます。ことに、自分にとって母語ではない中国語でこんな風に話せたらどんなに素晴らしいだろうなと。

私も人前で話すことがよくあるので、こうした冗語を極力減らそうと努力しているのですが、いまのところ、どうしても入り込んでしまいます。どうやったら冗語を減らす、そして究極的にはなくすことができるのか(まあ冗語も一つの人間味ではあるんですけど)。とある発音・発声の講座に参加した際、プロのアナウンサーにうかがってみたことがあります。

あるアナウンサーは「冗語を発しそうになったら、言葉を飲み込むようにしています」とおっしゃっていました。畢竟、冗語は次の言葉が紡ぎ出されてくる間に無言の時間が生まれてしまうのを無意識に埋めようとする結果なのだと。だから「無言の時間が生まれるのを怖がらないことです。言葉が途切れると聴衆は『あれっ』という反応を返してきますが、それに負けず、焦らずに次の言葉を頭の中で選び、また丁寧に話し始めるとよいですよ」。う〜ん、これは何気ないようでいて、なかなか難しい技術です。

別のあるアナウンサーは「冗語が生まれるのは、自分の中で考えがまとまっていないからかもしれません」とおっしゃっていました。話しながらあれこれ考えているから、その考える過程が冗語となって表に現れてしまうのだと。ということはつまり、話をする前に自分の頭の中で充分に話のプロットが練られていなければならないということですね。これもまたそう簡単ではないタスクです。

最近、この冗語が「言葉のヒゲ」と形容されていることを知りました。なるほど、言い得て妙な面白い表現です。そして「言葉のヒゲ(ひげ・髭)」で検索してみると、実に多くの方がこの問題に気づき、その改善を模索していることが分かります。どなたにとってもこの「冗語——言葉のヒゲ」問題は克服すべき課題なのですね。

今日も今日とて、某学校で新学期の生徒募集のための公開講座を担当してきたのですが、やはり冗語を完全には押さえ込めませんでした。人前で話すことが日常になってもうずいぶん経つのに、まだこの体たらくです。さらに精進を重ねたいと思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/03/blog-post_62.html

『ナカイの窓』と同じ心性は自分にもあるかもしれない

コンビニで働く外国人労働者の日本語を揶揄したこちらの番組が、TwitterなどのSNS上で「大炎上」していました。詳しい経緯はこちらの記事で知ることができます。

wezz-y.com

私も以前Twitterで以下のようなツイートをしたことがあるのですが、こうした、ちょっとした日本語の不自然さをあげつらって嘲笑の対象にする、あるいは苛烈な要求をするというその「非寛容さ」はこの国に広く蔓延しているのかもしれないと思いました。そして、外国人労働者が増えつつある今とこれからは、こうした問題がさらに頻繁に繰り返されていくのかもしれないとも。

でも、日々外国人留学生と接している私たちのような立場の人間でも、これと同根の心性は宿っているかもしれない……とも思います。例えば留学生の課題や試験の答案を採点・添削している際に、同僚の教師が「大爆笑」している場面を日常的に目にするからです。

留学生の「カワイイ」日本語

私たちが接している留学生は、日本語の習熟レベルで言うと初級から中級程度に属します。これからさき日本での就職や進学、あるいは母国やその他の国で日本語と自分の母語(ないしは英語)を使って仕事をしたいと夢見ている人たちです。日本語はまだ「発展途上」ですので、よく書き間違いや言い間違い、それも日本語の母語話者であれば考えられない形での間違いをすることがあります。まあ当然ですよね。私たちだって外語を学んでいる過程では、そんな「とんちんかん」を一杯やらかしているはずです。

そうした間違いに対して、私たちは往々にして「ウケ」てしまい、爆笑してしまうんですね。いま個別具体的な例を思いつかないのでネットに流布している「ネタ」から引用すると、それは例えば「神のみぞ知る」を「紙のみそしる(味噌汁)」と書いちゃうような、あるいみ独創的な(?)間違いです。

誤解のないように急いで書き添えますが、こうした留学生の日本語の間違いについて、教師のほとんどは別に嘲笑や、ましてや差別的な意識で爆笑しているのではないと思います。むしろそういう間違いを「ほほえましい」ものと捉え、そういう間違いをする留学生を「カワイイ」と感じ、さらにはどんどん間違えて、それを指摘されて、日本語の力をさらに伸ばしていって欲しいと応援する気持ちを人一倍持ってはいるのです。

とはいえ、そうした間違いに爆笑してしまう心性と、今回のようなコンビニで働く外国人労働者の不自然な日本語をネタに盛り上がるバラエティ番組との距離は、果たしてどれくらいあるのだろうか……と考えると、意外に近いところにあるのかもしれないと、その「危うさ」に襟を正した次第です。大の大人をつかまえて「カワイイ」と感じる心性にも、冷静に検討を加える必要はあるかもしれません。

『説日語』をめぐって

私が中国に留学していた当時、日本人留学生を爆笑の渦に巻き込んでいた一冊の「日本語会話集」があります。『説日語』(中国語で「日本語を話そう」くらいの意味)というポケット版の会話集で、その誤植の多さゆえに日本語母語話者にとっては腹筋が崩壊するほどのインパクトを持った本でした。今でもネットで画像検索すると、多数ヒットします。

www.google.co.jp

正直、今読み返してもふつふつと笑いがこみ上げてくるのです。そして、その笑いは別に嘲笑でも、ましてや差別的な意識でもないはずですが、この『説日語』を編纂した著者氏にしてみれば、かなり屈辱的な笑いとして受け取られることでしょう(もう少し校正に力を入れて欲しいというツッコミの余地はあるにせよ)。この種の笑いは、日本語母語話者だからこそのもので、日本語を学んでいる立場の方からすれば「どこが面白いの?」とキョトンとしてしまう類いのものですよね。

こうした、キョトンとした表情の「非日本語母語話者」を向こうに置いて、その日本語の間違いを私たちが爆笑のネタとして楽しむ……という構図、ここには『ナカイの窓』にも『説日語』にも、そして私たちの職場における笑いにも通底している「危うさ」があるのではないか、と考えたわけです。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_781.html

言語リテラシー教育の必要

今回の件に関して、ネット上では「そもそも日本のコンビニで、母語ではない日本語を使って仕事をしていること自体すごいではないか」という擁護の意見が数多く見られたことは救いでした。私たち日本人(日本語母語話者)は、とかく二つ以上の言語を使って生活することそのものへの想像力が乏しすぎると思います。それは一面、単一の言語のみを使って高等教育まで賄える日本という幸せな国の宿命でもあります。

だからこそ、そも言語とは何か、二つ以上の言語を用いるとはどんな状態なのか、言語間を往還する翻訳や通訳とはどんな営みなのか、母語と外語の違いは、その壁を越えるための言語学習はいかにあるべきか……等々についての、いわば「言語リテラシー」とでもいうべき教育の必要性を、今回の件で改めて痛感したのでした。

qianchong.hatenablog.com

アウトプットとしての「過去形ノック」

先日、フィンランド語の授業で、複雑極まりない動詞の過去形を教わった際、先生が「過去形の作り方を一枚の紙にまとめてみるといいですよ」と言っていました。授業の最後に「さらっ」とおっしゃったのですが、こういう指示はとても大切です。

私見ですけど、こういう指示を聞き逃さず、素直にやってみるどうかが語学上達の鍵ではないかと思っています。私も語学の授業を担当していますが、授業の終盤に「じゃあ次回までに自宅でこんなことをやってみてください」と言おうとしても、みなさん帰り支度に余念がなくて指示なんか「聞いちゃいない」方が多いんですよね。

で、作りました。教わったことを極力簡潔に記すと、こんな感じになりますが……これでいいのかしら。

動詞の過去形

kpt の変化(子音交替)がある。
②目印は主に「i」だが、一部に「si」もある。
③三人称単数は語幹のまま。


■「si」がつく過去形の語幹
1.AtA、otA、utA タイプ …… 最後の「tA」を取って「si」。
2.tAA(子母母 tAA、ltAA、rtAA)タイプ …… 最後の「tAA」を取って「si」。
3.ntAA タイプ …… 「a + ntaa」の場合「i」、「それ以外 + ntAA」の場合「si」。
★例外「tuntea(知る)」は最後の「tea」を取って「si」。


■「i」がつく過去形の語幹
1.o、u、ö、y + i タイプ …… 変化なし。
2.e、ä、i + i タイプ ……「e、ä、i」が消える。
3.aa、uo、yö、yy、ie など二重母音 + i タイプ …… 前にある「a、u、y、i」などが消える。
4.oi、ui + i タイプ …… 後ろにある「i」が消える。(現在形=過去形)
5.a + i タイプ …… 三音節以上、または二音節で最初に出てくる母音が「o」か「u」の場合「a」が消える。それ以外の場合「ai」が「oi」になる。
★例外「käydä(訪れる)」は語幹が「kävi」に。

おお、こうやって自分でまとめてみると、そんなに複雑じゃないかも……と思えてくるから不思議です。

最近、樺沢紫苑氏の『アウトプット大全』という本を読んだのですが、この本によると多くの人は「インプット過剰/アウトプット不足」に陥っていて、アウトプットが少なすぎることが「勉強しているのに成長しない」原因だとのことです。理想的な割合は「インプット3割:アウトプット7割」で、むしろ出力に傾注すべきだと。これは語学にも当てはまりそう。


学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

というわけで、上記の紙をまとめた後にアウトプットとして「ノック」をしてみました。いつも授業で使っている動詞の一覧表があって、ここには約150個ほどの主要な動詞が並んでいるのですが、それを片っ端から過去形にしていくのです。野球の守備練習「ノック」で飛んできたボールを捕って塁手に送る処理を繰り返すのと同じような感じで。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_90.html

フィンランド語の場合、動詞が活用して基本的に「一人称単数」から「三人称複数」までの都合六つに変化します。大概の場合は語幹を正しく活用させることができれば、語尾は全く一緒。というわけで、次々に飛んでくる動詞の語幹を活用していく……というのを反故紙の裏にどんどん書いていきました。なんだかシューティングゲームみたいで楽しいです。

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ちゃんと活用できたかどうかの確認は、こちらのサイトで。上の検索欄に動詞を入れて、出てきたページの「Imperfekti」という部分が過去形です。

ja.bab.la

けっこう打ち損じて(間違って)いますが、それでも150本あまりもノックをやれば、活用の規則が身体に沁みてくる……ような気がします。

「いきなり!ステーキ」の独特な位置づけ

ニューヨークに進出した「いきなり!ステーキ」が苦戦というこちらの記事、とても興味深かったです。

finders.me

アメリカという国は多種多様な民族・宗教・文化の集まりですから、食文化も一様には語れないのでしょうけど、多くのアメリカ人にとって牛肉が特別な存在であるというその愛着ぶりが、この記事からリアルに伝わってきました。そして、個々人の懐具合や健康意識、さらには社会倫理的な観点からも、食のありように多様な選択肢が生まれているというのが特に「アメリカらしいなあ」と。

著者の渡辺由佳里氏によると、アメリカの外食産業には概略以下のようなレベル分けがあるのだそうです。

「ファストフード」……「はやい・やすい」のマクドナルドなど。
ファスト・カジュアルダイニング」……「はやい」いっぽうで、食材の質やメニューを向上させたもの。Shake Shack(シェイクシャック)など。
「ファスト・ファインダイニング」……「はやい」いっぽうで、高級レストランの味と雰囲気を提供するもの。
「ファインダイニング」……いわゆる高級店。

なるほど、こうやってレベル分けしてみると、「いきなり!ステーキ」がこの四つのどこにも属さない、言い換えればアメリカ人にとってはつかみ所のない存在で、だから「苦戦」しているのかなというのがよくわかります。

私もジムのトレーナーさんにおすすめされて、何度か「いきなり!ステーキ」に行ったんですけど(「肉マイレージカード」も持ってます)、繁盛している日本においても確かにお店の位置づけは独特だなあと思います。ファストフード的ではあるけど、肉をその場でカットして炭火焼きってスタイルは高級店っぽいし、でも頻繁に食べられるほどお安くはないし(ランチを除けば、なんだかんだいって3〜4000円くらいかかります)、味は正直……(以下略)。

日本ではその独特の位置づけがかえって新鮮でウケたのに、アメリカではそれが立ち位置の曖昧さとして受け止められてしまったと。海外での商売って難しいですね。しかも「健康×ソーシャルグッド」という、とくに健康意識や社会的公正さへの意識が高い人々の存在が大きなものになりつつあるという現状も「いきなり!ステーキ」にとっては逆風に働いてしまったという点、これも興味深いと思いました。

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ところで、「いきなり!ステーキ」はまだ中国語圏には進出していないみたいですけど、もしするなら「立ち食い」スタイルは採用しない方がいいと思います。焼き芋やハンバーガー程度ならまだしも、食器を使う食事を立ってするのは「どーしてもムリ!」という方がかなり多いですから。

私は「立ちそば」が大好きなんですけど、華人とあの素晴らしさを分かち合おうと思っても、みなさん大概「ちょっとムリ」とおっしゃいます。私はこの話題をいろいろな年代層の華人に振ってきましたが、来日して何年経っても一度も食べたことない方も多いです。食器を使う食事はどうしても座りたくなるDNA(?)なんですね。万やむを得ない場合はどうするのか……というと、これが「しゃがむ」んですね。

「蹲著(しゃがんで) 吃飯(ご飯を食べる)」で検索してみました。こんな感じです。

www.google.com

能「道成寺」と唐詩「楓橋夜泊」

私はいまのところ中国語業界の末端に連なっているので、初対面の方に「日本の伝統芸能である能楽(能と狂言)が好きです」と申し上げると、ときおり「へええ、中国の芸能じゃなくて? またどうして?」というような反応をいただくことがあります。先日も某所で聞かれました。

まあ本音のところでは、日常が中国語漬けだから趣味くらい中国を離れたい……くらいの理由なんですけど、それだけだと「なんだかプロ意識に欠ける」などと思われそうなので「いや、実は能楽って中国と大いに関係があってですね……」と言葉を継いでいます。いえ、これはあながち嘘ではなくて、本当に能楽は中国と、とりわけ中国の古典と深い関係があるのです。

能の「中国もの」

曲(演目)の題名だけ見ても「楊貴妃」や「項羽」をはじめ「邯鄲」、「天鼓」、「猩々」、「西王母」、「昭君」、「鍾馗」、「白楽天」、「皇帝」、「枕慈童(菊慈童)」などなど、中国の故事や人物が主題となっているものが能には数多くあります。さらに面白いのが、中国に材を採っていない全くの「純日本的」なお話の能なのに、詞章(台詞や歌詞)のなかに中国の古典が引用されていることが多いという点です。

例えば「紅葉狩」という能は、「平維茂(たいらのこれもち)が信濃国戸隠山を通りかかった際、美しい女性たちが催す酒宴に誘われるも、実はそれが鬼であったことが分かり、激しい戦いの末に打ち負かす」というお話(こうやって要約しちゃうと味わいもへったくれもありませんね)ですが、そのクライマックス、鬼が火を放って辺りが炎に包まれ盛大に煙が立ち上る……という場面で唐突に「咸陽宮(かんようきゅう)の煙の中に」と謡が入ります。

あの「咸陽宮」です。秦の都・咸陽にあった始皇帝の住む巨大な宮殿で、項羽が秦を滅ぼした際にかの阿房宮とともに焼き払ったとされる(その真偽も含め、諸説あるそうですが)建物。司馬遷の「史記」など多くの漢籍に登場するこのお話が日本にも伝わり、「三ヶ月間燃え続けた」と言われる咸陽宮のその燃えさかるさまから「咸陽宮の煙」という比喩が生まれたのでしょう。

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http://tech.ifeng.com/a/20170830/44670144_0.shtml

そして「咸陽宮の煙」と形容するだけで、当時の日本人(のごくごく一部でしょうけれど)は即座に「ああ、漢籍に出てくるあの……」とその壮大な煙の立ち上るさまを想像できたということですね。それだけ当時の日本人がかの国やかの国の古典をリスペクトしていたのでしょうし、漢籍をたしなんでいることがクールであり、ステイタスでもあったのだと想像します。

現代の私たちに共通する良い例を思いつきませんが、たとえば「ルビコン川を渡る」とか「賽は投げられた」という言葉は、ユリウス・カエサルジュリアス・シーザー)の故事から「もう後戻りはできないという重要な決断」の意味で使われますよね。そんな感じで、本来は縁もゆかりもない外国のお話を引用することで、より描写を印象的に、あるいは劇的にしているわけです。

まあ「源氏物語」や「平家物語」にだって中国の古典からの引用がたくさん盛り込まれていますから、当たり前といえば当たり前なんですけど。こうした例は枚挙にいとまがありませんが、華人(中国語圏の人々)に紹介して一番興味を持ってくださるのは、能「道成寺」に引用されているある唐詩漢詩)です。

一番有名な能に一番有名な漢詩

道成寺」は能の中でも特に重い扱いをされる大曲で、若手の能楽師はこの曲を披く(ひらく:初めて演じる)ことで一人前として認められるとされています。また舞台装置として巨大な鐘が登場し(能舞台の天井にある滑車は、この鐘をつるすためだけに設置されています)、鐘が落ちる瞬間に中へ飛び込むスペクタクルな「鐘入り」や、その後鐘の中で能楽師がひとりで装束を換えるという習い(どうやって換えるのかは「秘伝」なんだそうです)、さらには小鼓の音とかけ声だけで極めて緊張感のある静寂のなか舞われる「乱拍子」など、かなり特殊な演出が行われます。歌舞伎の「娘道成寺」や浄瑠璃の「道成寺」などはこの曲を元にしているそうです。

www.the-noh.com

そんな「道成寺」のまさにクライマックス、鐘入り直前のスピード感ある舞の部分で、とつぜん唐の詩人・張継(ちょうけい)の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」が引用されるのです。「楓橋夜泊」といえば華人なら小学校や中学校で必ず教わる、日本でいえば松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」レベルの「超」有名な詩です。私も中国語の学校で教わりましたし、いまでも暗誦できます。

月落烏啼霜滿天  月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火對愁眠  江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外の寒山
夜半鐘聲到客船  夜半の鐘声客船に到る

それほど華人にとってはポピュラーな唐詩を引用した詞章が、物語的には中国と何の関係もない「道成寺」の、それも一番のクライマックスで、地謡によって謡われています。こちらの動画、48分45秒あたりからをご覧ください。

youtu.be

月落ち鳥鳴いて/霜雪天に
満潮程無く/日高の寺の
江村の漁火/愁へに対して
人々眠れば/よき暇ぞと
……

もちろん唐詩と全く同じではありませんが、この部分は明らかに「楓橋夜泊」の引用ですよね。「寒山寺」が「日高の寺」になっていたり、「江楓漁火」が「江村の漁火」になっていたりと元の詩を換骨奪胎し、全体としては「楓橋夜泊」のひえびえとした詩境に仮借しながら、この一種壮絶な鐘入りのシーンを盛り上げています。

日本的な「受容」

しかも、この漢詩の最初にある「月落烏啼」の「烏(からす)」が、道成寺の謡では「鳥(とり)」になっているのも面白いと思います。たぶんこの部分の謡のリズムに合わなかったので変えたんでしょうね。能楽において、この部分は「大ノリ」と呼ばれる、母音の拍を一つ一つ押さえるような(という説明が適切かどうか分かりませんが)謡い方をするのですが……

一行目の「つーきーおーちー」のあとに「○」を入れたのは休符のつもりです。ここで短く「ん」と休符が入って、そのあと「とーりないてー」とたたみかけて八拍になっているのですが、ここが「からすないて」だとかっこよく八拍に収まらないんですね。だから「烏(からす)」を「鳥(とり)」にしちゃった。中国語の音的には全然違うので、ここを変えちゃうと唐詩では平仄が合わなくなると思うんですけど、日本語の謡では「横棒一本の違いだし、まあいいか」と。わははは、約650年前の日本人、大らかというか、いい加減というか。

世界でもまれな関係

華人なら誰でも知っている唐詩が、日本の能楽の、それも一推しの大曲「道成寺」のクライマックスに引用されている……そう知ると、今まで縁遠いものだと思っていた日本の古典芸能が一気に身近に感じられるようになる華人もいるようです。なんとも「胸アツ」ではありませんか。私も、つとに諳んじていた唐詩が「道成寺」で引用されていることを知ったときは、おおいに「胸アツ」でありました。

また、上述の「紅葉狩」でもご紹介したように、例えば司馬遷の「史記」のような2000年も前の中国の古典に出てくる話がさりげなく引用されているというのも、考えてみればすごいことです。以前に別の記事でも書きましたが、例えば「臥薪嘗胆」みたいな故事も「勾践」や「会稽山」や「呉王」などの言葉とともに、これまた純日本的なお話である「船弁慶」に引用されていたりします。

qianchong.hatenablog.com

中国語と日本語、言語が全く違うのに何千年前の古典を共有しており、その古典を引用したとたんに「ああ、その話ですね、知ってる知ってる!」と得心できる、あるいは盛り上がることができる。こんな二国間関係(という表現が適切かどうかはさておき)は世界でも極めて珍しいのではないでしょうか。

そして、中国語を学んでいる私たちはある意味、一般の方々よりも深く能楽の「胸アツ」なダイナミズムに触れることができるのです。中国語学習者のみなさんが能楽をご覧になり、謡曲をたしなんでみると「超」楽しいですよ! ぜひぜひ……と申し上げるゆえんです(ここに結論を持ってきたかったのです!)。

モバイルPASMOをはやく実現させてほしい

ちきりん氏のこのブログ記事、とても興味深く拝見しました。

chikirin.hatenablog.com

私は現金(特に小銭)を持ち歩くのがめんどうなので、ほとんどすべての支出をキャッシュレスにしているのですが、確かにSuica、それもスマホに組み込めるモバイルSuicaが最強で一番便利だと思います。できるだけ身軽でいたい、できれば財布やカード入れなどの小物を持ち歩きたくない(あるいはいちいち鞄などから取り出したくない)というのもキャッシュレス化を目指す動機の一つなので、クレジットカードも定期券も、その他諸々のカード類もすべてスマホに集約させたいのです。

スマホのアプリで使えるLINE PayもPayPayも使っているんですが、使ってみて分かったけど、やはりいちいちQRコードを表示させるのが思いのほか面倒でした。手間というほどのものでもないですが、スマホを起動して、ID認証して、アプリを起動して……しかも通信状態によっては表示が若干遅れます。これが意外に「もたもた」する感じ。その点モバイルSuicaだったら、スマホを取り出して「ピッ」でおしまいです。オートチャージにしておけば、さらにストレスフリー。

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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_390.html

でも、ちきりん氏もおっしゃるように、電子マネー各社はいま顧客を取り込もうとかなりの「大盤振る舞い」で攻勢をかけています。例えばLINE Payは現在ファミリーマートをはじめとするコンビニやドラッグストアなどで「残高20%還元」キャンペーンをやっています。還元高は5000円までという上限はありますが、25000円使えば5000円戻ってくるという計算。ただし、還元されるのはすぐではなく4月末頃で、要するにこれも顧客囲い込み作戦の一環なんですね。

ほかにもLINE Payは特定の商品が割引になるクーポンなどが頻繁に送られてきます。私は基本的にクーポンというのは「もともと欲しくも何ともなかった商品を無駄に買う気にさせるもの」だと思っているので使わないんですけど、クーポンが届くたびにLINEに着信のお知らせが入る……これがけっこううるさいです(通知を切ればいいんですけど)。

PayPayも顧客の囲い込みに力を入れていて、試しに10000円チャージしたらすぐに500円プレゼントされたんですけど、先日また1000円プレゼントされました。つまり何もしていないのに1500円もらってしまったのです。どれだけバラまいて顧客を囲い込もうとしてるんだ、という感じですよね。PayPayもポイントで残高還元をやっていて、でも付与されるのはずいぶん先……というのもLINE Payと同じです。

PayPayはLINE Payよりもサクッと起動できてサクッと支払いできる感じですが、身も蓋もないことを言っちゃうと、お店で支払いの際に「ペイペイで」って言うのがけっこう気恥ずかしいです。「ラインペイで」は特に恥ずかしくないんですけど。「ペイペイで」って言うのが恥ずかしいと感じるのは、中国語の“呸(https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%91%B8 … …)”を思い起こすからで私だけかなと思っていたら、ネットを検索してみるとけっこう色々な方が「恥ずかしい」とおっしゃっています。あと、支払った瞬間にスマホが「ペイペイ♡」って声を出すのも気恥ずかしい(Edyの「シャリ〜ン」みたいなものです)。ネーミングを間違っちゃったんじゃないかなあ……。

他にも私はApple Payを使っていますが、こちらは対応しているお店が少ない印象(あくまでも私の行動範囲で、の話ですが)。電子マネーはクレジットカードを取り出して暗証番号を入力したりサインしたり……よりはずいぶん簡便ですけど、やっぱり「取り出してピッ」でおしまいのモバイルSuica(+オートチャージ)が最強かなと思います。というわけで色々試してみたけど、やっぱり私はモバイルSuicaに集約させようと思います。

ただ、現在私は通勤でJRの路線を使わない場所に住んでいるので、実はモバイルSuicaを使えていません。スマホにカバーをつけて、そこにPASMO定期券を差し込んでいるという、非常にアナログな使い方をしています。しかも改札にタッチする際、スマホに入れているWalletのクレジットカードが反応してしまうので、電磁波干渉防止シートを挟んでいるという……(それでも時々反応する)。モバイルPASMOをはやく実現させてほしいです。

こちらの記事によれば、すでに商標登録は出願されているそうなので、早晩実現するんじゃないかと期待しています。

matsunosuke.jp

「公衆サウナの国」における相互信頼と自律にひかれる

こばやしあやな氏の『公衆サウナの国 フィンランド』を読みました。日本の銭湯文化とも通底するようなフィンランドのサウナ文化について、豊富な図版とともに紹介した楽しい一冊です。


公衆サウナの国フィンランド: 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス

この本は公衆サウナの研究をなさっている氏の修士論文がベースになっているとのことですが、堅苦しさや難解さとは無縁。フィンランドのサウナ文化のみならず、フィンランドの人々の人間観や人生観、社会観にまで視点を広げて、まるでサウナを楽しんだ後のように心地よい、かの国の「ありよう」、その理由が那辺にあるのかを解き明かしていきます。

家庭用プライベートサウナや共同住宅などでの共用サウナの普及などで、一時は風前の灯火となっていたフィンランドの公衆サウナ。ところがここ数年、空前のブームを迎えつつあるといわれるくらいに「V字復活」を遂げているそうです。この本には、そんな新しい場所「サードプレイス」として再び魅力を放ち始めた公衆サウナ、そこに関わる人々へのインタビューも多く収められています。

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それにしても、時に見知らぬ同士が、それも時には男女混浴で、さらに時には一糸まとわぬ姿でサウナに集うというフィンランドの人々が互いに示し合うその「信頼」と「自律」には、驚かされると同時に強くひかれるものを感じます。著者のこばやしあやな氏はこう述べています。

 確かにフィンランドでは、治安のよさや、社会保障制度の充実度などに依拠した国家に対する国民の安心感や満足度が、世界基準より高いのは事実です。けれどもちろん、フィンランドでも日々犯罪は起こっているし、テロの脅威だって常にあるし、ソーシャル・コミュニティの中で生きている限り、自分もどこかで痛手を負う可能性がゼロでないことを、国民は多かれ少なかれ自覚しています。
 にもかかわらず、フィンランド人たちが概ね、他者のことを信頼するリスクや恐怖よりも、メリットや利便性を自然と優先できるのどうしてなのか。あるいは、日本人はどうして、フィンランド人とは真逆の思考をつい先行させてしまうのか……。

筆者は「『赤の他人でさえ信頼し合う勇気』が生み出す豊かさの値打ち」という表現をなさっています。なるほど、その精神性が具体的な形ともなって現れたもののひとつが、かの国の公衆サウナであるわけですね。う〜ん、これはぜひもう一度かの国を訪れて、各地の公衆サウナの片隅に混ぜてもらいたいものです。語学の勉強と、あと貯金に勤しまねばなりますまい。

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