インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「どれだけ学べば稼げるか」をめぐって

年度替わりが近づくこの時期は、各種スクールで新学期の生徒募集が行われており、私も体験授業や学校説明会などに講師として参加することがあります。そういった場では最後に「Q&A」の時間が設けられているのですが、興味深いのは「このスクールにどれくらい通ったら通訳者になれますか」とか「どれくらい訓練すれば稼げるようになりますか」というご質問がよく寄せられることです。

一般的に通訳スクールでは、受講に際して「クラス分けテスト(プレースメントテスト)」が行われ、その結果によって入門や基礎レベルのクラスから、同時通訳などを訓練する一番上のレベルのクラスまでに分かれます。ですから、その方のこれまでの経験や、語学の習熟度や、受講後の取り組みなどで状況はそれぞれ違うので、一概に「これだけ通ったら稼げる」というお答えはできないんですね。

また通訳のお仕事といっても様々な現場の様々な形態があって、比較的タスクが軽いと言われるガイド通訳やアテンド通訳もあれば、公共機関や病院などでのコミュニティ通訳もありますし、企業などの社内通訳(インハウス)と呼ばれる形態もあれば、フリーランスで国際会議などの高度なスキルが要求される同時通訳をなさっている方々もいます。この点でも「どれくらい通ったら・訓練したら」というご質問にはお答えしにくいのです。

私自身は現在、本業副業合わせていろいろな仕事をしているので「通訳で稼いでいる」とはとても言えませんし、以前にしたって通訳「だけ」で稼いでいた時期はほとんどなかったのですが、自分がスクールに通っていた頃を思い出してみると「どれだけ通ったら稼げるようになるか」などと考えたことはありませんでした。というか、自分が通訳で稼げるようになるとはとても思えなかったんです。

う〜ん、かなり情けない態度ではありますが、なんとか仕事に結びつけたいと学びながらジタバタしているうちに、時に仕事になったりならなかったり、時に通訳(や翻訳)から離れたりまた近づいたりしつつ、いつの間にか稼げるようになっていた(時には稼げないようにもなる)という感じなのです。

もちろん、こんなことを「Q&A」の席で話してもたぶん納得していただけないと思います。ですから「一概には言えません」的にお茶を濁してばかりです。あるいは「実力本位の世界なので、とにかく上に行けば必ず道は開けます」的な当たり前すぎることを言うか……。高い授業料をいただこうとしておきながら申し訳ないのですが、ただ、何かを学ぶというのは「これだけ投資したら、これだけのリターンがある」というような損得勘定だけでは測れないものじゃないかな、とも思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_953.html

これは先日、能のお師匠から聞いたお話ですが、とあるプロの日本人舞踊家さんから「能の舞を教えて欲しい」と依頼されたことがあったそうです。海外のダンスカンパニーでの公演に参加する予定で、演出家から「日本の能の動きを取り入れた演技をしてほしい」と要請されたよし。

それ自体は素晴らしいことなんですが、この舞踊家さんは最初に「○○基金から援助される予算はこれだけなので、その予算の範囲内でお願いします」と依頼してきたそうです。最初から予算の上限を伝えて教えを請うというのは、正直というかビジネスライクでさっぱりしているんですけど……なんだか引っかかりませんか。

もちろん能の舞は一度や二度習ってできるものでもありませんし、この舞踊家さんだってそれは充分に承知されており、かといって本格的に弟子入りしよう(できる)と思っているわけでもなく、限られた時間と予算の範囲内で、自らの表現に結びつくほんの少しのエッセンスでもいいので能から学び取りたいと思っているだけです。それはよく分かります。

むしろ最初から「この予算内で」と明言するくらい潔いとも言えますが、よくよく考えるとお稽古の報酬は自腹を切っているわけではなく、どこかの基金からの拠出です。時間と予算に制限があるというのも、徹頭徹尾ビジネスの論理なんですね。やむにやまれず、心から学びたいと思っているわけではなく、あくまでも「投資とリターン」という理屈で動いている。そこに私は違和感を覚えるんです。

いえ、もちろん、自腹を切らなきゃ学びは深まらないとか、いつモノになるとも知れぬ技術を悠々自適で学べばいいと言っているわけでもありません。どうやったらその技術を習得できるか、計画と戦略を立てて効率よく学んでいくことも大切でしょうし、時間的にも金銭的にも最低限の持ち出しで最大限の効果を上げることができれば、それは世間的には賞賛に値することなのかもしれません。

でも私は、何かを学ぶことというのは、そんなに理屈尽くめだけで成り立っているわけではないんじゃないかと思うのです。仮にこの舞踊家さんに「○万円ぶんだけダンスを教えてください」って言ったらどう感じられるでしょうか。中国語に“越學越沒止境(学べば学ぶほどキリがない)”という言葉がありますが、学びって、「ここまで学んだらおしまい」ってのがないからこそ学びなんじゃないかと。

少なくとも、これから学ぼうとする人は、どれだけ学んだらマスターできますかとか稼げますかとか考えない方がいいんじゃないかと思うんです。学んでいる過程で稼げるレベルに達することは、あるいはあるかもしれないですけど。先日、学習を「すでにそれを学習し終えた=マスターした人から学ぶこと」だと考えた生徒さんの話を書きましたが、あれにも通じる話かもしれません。

qianchong.hatenablog.com