インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

おいしいプロテインをさがして

ジムに通い出してから、筋トレのあとにプロテインを飲むようになりました。ジムで100円出すと、トレーナーさんがシェーカーで作ってくれるのです。

ずいぶん昔にもジムに通っていた頃があって、その頃にもプロテインを飲んでいたのですが、当時はプロテインって「まずいな~」という印象でした。なんかこう、ホエイっていうんですかね、乳清の匂いが先に立つ感じで飲みにくかったことを覚えています。

そこへ行くと最近のプロテインはとても飲みやすくなりました。ただ、ジムでは「チョコレート・バナナ・メープル・ストロベリー・抹茶」の五種類から選べるんですけど、えー、正直申し上げて、どれもほとんど同じような味に感じます……。ストロベリー味と言われても、「まあ、そう言われればそうかな」という感じで。

ところが、先日とあるドラッグストアで偶然見つけたこちらの「リッチショコラ味」は、かなりおいしいです。


ザバス ホエイプロテイン100 リッチショコラ味

これは、まんま「ミロ」ですね。ミロって最近はあまり見かけませんけど、ネスレが出している麦芽飲料です。もう販売していないのかなと思ってネットで検索してみたら、ありました。

shop.nestle.jp

ミロは牛乳で溶いていましたが、プロテインの「リッチショコラ味」は水で溶いてもまんまミロです。そして最近、プロテインを「セレブ御用達」っぽいアーモンドミルクで溶くともっとおいしいという情報をトレーナーさんからいただきました。試してみたら、か・な・り、おいしいです。ミロを完全に超えました。超えたからどうだってハナシではありますが。

一方で、id:memento2001さんに教えていただいたAsahiのプロテインバーもおいしいです。現在ほとんどお昼ご飯を食べないのですが、ちょっと空腹感が増したときに重宝します。商品名の「一本満足」はダテではありませんね。


1本満足バープロテインチョコ

1本満足バープロテインヨーグルト

以前からグラノラバーみたいなのはよく食べていたんですが、森永のプロテインバー(グラノラ)は食感がなんとなく「もきゅもきゅ」する(トレーナーさんの形容)んですね。そこへ行くとAsahiのは、まんまチョコバーでかなり満足感があります。

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ウイダーinバー プロテイン グラノーラ

プロテインって、なんだかマッチョなお兄さんが飲んだり食べたりしているイメージで、以前の私は敬遠していたんですけど、高蛋白低脂肪ですから私のような中高年にも向いているかもしれません。で、どうせ摂取するならおいしいものがいいなと思った次第。熱心に商品開発してらっしゃる各社の努力、すばらしいと思います。。

語学は素直がいちばん

語学関係の講師をするいっぽうで、みずからも語学の学習者として教室に通っていると、ほんとうに様々なタイプの生徒さんがいるなあと思います。言語の学び方は人それぞれですから一概には言えないのですが、長い間観察してきたなかで「これでは上達しないのではないかなあ」と思えるいくつかのパターンがあるように感じます。

「出羽守」さん

その言語が実際に話されている地域や人々を引き合いに出して「○○では」を語るのがお好きです。「教科書ではこんな風に書いてあるけど、実際に現地の人たちはこんな風に言わないよ」などと言って、とにかく「ネイティブっぽく」ペラペラと話せることを目指していらっしゃる。標準的でフォーマルな言葉遣いに一種の反感を持っていて、文法を軽視しがちなのが特徴です。

「引っ込み思案」さん

とにかく授業で当てられたり発言を求められたりすることを極端に嫌がります。例えば会話練習で「何人家族ですか?」と聞くと「独身ですから」とか「プライバシーに関することはちょっと……」と会話が続かなかったり、ロールプレイをしてもすごく居心地が悪そうで、語学にある程度必要だと思われる「芝居っ気」がありません。

そこまで極端ではなくても、「理解できましたか?」「分からないところはありませんか?」と語りかけても無言という方はかなり多いですね。これは日本人だけでなく最近の華人学生にも多いです。教科書や、スクリーンを立てた電子辞書の後ろに隠れるようにして座っている方も散見されます。まあこれらは別に教師を無視しているわけではなく単に「恥ずかしがり屋」さんなだけなんだと思いますけど。

「すぐに諦めちゃう」さん

上と似ていますけど、ちょっと発音でつまづくと、あるいは文法が込み入ってくると、「やっぱり私はこの言語に向いてない」とすぐに諦めちゃう方です。最初から完璧にできるなら語学教室に通う必要はないんですけど、できない自分が許せないんですね。「まだまだ基礎がしっかりしていないから」と上のクラスに上がらず、いつまでも入門や基礎レベルのクラスを繰り返す方もいらっしゃいます。これは……

「理詰めで考え過ぎちゃう」さん

……とも言えるかもしれません。でも語学の上達というのは、絵に描いたように一直線で分かりやすいものではないです。あれこれ穴や抜けている点がありながらも「清濁併せ呑む」感じで前に進んでいくのがたぶん正解で、すべてをクリアにして完璧にこなさなければ前に進めないとなったら、たぶんいつまで経っても習得はおぼつかないでしょう*1

穴があっても、不完全でも一生懸命先に進む。進んでいくと、あとから「ああ、あれはこういうことだったのか」とじわっと染みるように、あるいはパズルの欠けているピースが埋まるように分かってくることも多いのです。入門時に、ご自分のお名前の漢字を中国語読みされちゃうのが納得いかないとおっしゃる方も時々いらっしゃいますが、「う~ん、そこからですか?」と、こちらはもう天を仰ぐしかありません。

qianchong.hatenablog.com

思うに、完璧でないと許せないタイプの方は、一見謙虚なようでいて、その実とても頑固で見栄っ張りなのかもしれません。だって完璧でない自分を許せず、そういう無様な自分をさらけ出すのがいやなのですから。語学はある意味、トライアンドエラーを繰り返して心折れることの連続なので、そういう方が語学に取り組むのはつらいんじゃないでしょうか。これは先日書いた「メンヘラさん」と同じかもしれないですね。

qianchong.hatenablog.com

「最小限のリソースで最大限のリターンを」さん

ちゃちゃっと手っ取り早く語学をマスターしたいという方です。とにかく自分の持ち出しは最小限にしたいいっぽうで、最短距離で目標を達成したい。通訳学校で無料公開講座を開くと、Q&Aの時間に「ここに通ったら何ヶ月で通訳者になれますか?」といった質問をされる方がよくいらっしゃいます。また音読や発声練習・発音練習でも口元のマスクを外さず(お風邪を召しているならともかく)声を出さない、あるいは蚊の鳴くような声しか出さない方もいらっしゃいます。もうね、大きな声を出したら負け、みたいな。

あと、宿題を出すと「ええ~っ」、テストをすると言うと「ええ~っ」という感じで、なるべく面倒なことはしたくないという方も多いですね。そこは逆に燃えていただかなくては。単語を覚えてくださいねと言われても覚えてこないとか、音読してきてくださいねと言っても音読してこないとか、一日五分でもシャドーイングしてみましょうと言っても五秒すらやらないとか、とにかく全然努力をされないのです。その言語を習得したいと思っているにも関わらず(いや、本当に習得したいと思ってはいないのかな)。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_524.html

素直であれ、愚直であれ。

世上よく歳を取ると語学を習得しにくいなどと言われますが、私に言わせれば年齢はあまり関係ないと思います。

語学習得の秘訣のひとつは「素直であること」です。先生に「大きな声で」と言われたら大きな声で発音する。単語を覚えてきてと言われたらその単語を覚えてくる。ロールプレイをしてみましょうとなったら、その役になりきってみる。スティーブ・ジョブズ氏の“Stay hungry, stay foolish.”にも通じるかもしれませんが、そういう素直さ、愚直なまでの素直さがあるかどうかが鍵だと思います。まあこれは語学に限らずどんな技術も同じかもしれません。

私はどちらかというと頑固な性格なんですが、こと語学に関してはとにかく「素直であれ」を肝に銘じてきました。いや、肝に銘じるというほど自分に強いたことはないかな。嬉々として先生方の言うことに従ってきたという感じです。そういう意味では、歳を取って「頑固になったじーさんばーさん」には語学は向かないかもしれないですね。

中国語の発音練習で四声の「mā má mǎ mà」をやるときなんかも、みなさん元気のない声でやっている中、ひとりだけ声を張り上げていて、「はい、みんなもっと声を大きく~!」と注意する先生から「あ、あなたはもう少し小さくていいから、そのぶん丁寧にね」と言われたことを覚えています。

通訳案内士試験の対策講座に通っていて、講師の先生が分厚い単語集を示して「これからこの本の単語すべてを覚えてもらいます」と宣言されたときも、周囲の「ええ~っ」という声の中で私はひそかに興奮していました。こんなに膨大な単語を覚えるなんてスゴいではないか、さすがプロの通訳者は違う、私もぜひそうなりたいと身震いしていたのです。

いささか自慢めいてきましたからこの辺りにしておきますが、とにかく語学は筋トレのようなもので、筋肉をつけるには近道もショートカットも裏口もないのです。ただ素直に愚直にウェイトを上げ続けるだけ。ただし、もちろんその際には、トレーナー=講師の教学方法・メソッドが信頼に足るものであるという前提が絶対に必要ですが。

ですからちょっと矛盾するようですが、講師に誠意がないと感じたら、失礼だとか申し訳ないだとか思わずにさっさとクラスや学校を変えた方がいいと思います。例えば始業時間に遅れてくるとか、声が小さいとか、名前をいつまでも覚えないとか、思いつきで喋っているように感じるとか、ですね。

そして誠意があって信頼できると感じた講師に巡りあったら、素直に愚直に「言われたとおりにする」のです。注意深く聞いていると、講師は必ず「アレをしてください、コレをしてください」といろいろな指示を出しています。それを聞き逃さないことが大切です。その意味でも、語学講師の責任は重大ですよね。

*1:余談ですが、フィンランド語の文法にはなかなか奥深いところがあって、「私はフィンランド語を話します」は“(Minä) puhun suomea.”となって、“suomiフィンランド語)”という単語を「分格」の“suomea”に格変化させるんですね。分格というのは、言ってみれば物事を「分ける」、つまりある物事の一部であることを表す格で、これはつまり「フィンランド語を話す」とは言っても、その言語まるごと全部完璧に話す人間などいるわけがないという世界観に基づいているのだと思われます。なんとも示唆に富む考え方ではありませんか。

チョップドサラダ

先日の夜八時半頃、トレーニングの帰りに何やら怪しげなお店の前を通りかかりました。

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https://www.crisp.co.jp/

飲食店みたいですけど、かなり無機質な空間。表にあった小さな立て看板によると、サラダのみを作って販売しているお店のようです。うちでは私が炊事担当なんですが、その日は遅くなるので夕飯は「自力更生」でと細君に言ってあったので、ここで自分の晩ご飯を買って帰ろうと思い、入ってみました。店構えからしてちょっと勇気が要ります。

ここは「チョップドサラダ」の専門店なのでした。チョップドサラダというのは、数年前から流行している(らしい)サラダの一形態みたいですね。いまさらかよとツッコミが入るかもしれませんが。三年くらい前の記事がこちらにありました。

news.cookpad.com

要するに好きな食材を選んで、それを細かく刻んでもらって、ご飯やパスタのようにスプーンやフォークで食べるサラダと。しかも主食もおかずも全部これひとつにまとめちゃうという感じですね。食材を一からすべて選ぶこともできるようですが、最初なので定番の組み合わせになっているらしい「SIGNATURE SALADS」の中から「THE HIPSTER」というのを選んでみました。持ち帰りなのでドレッシングは別容器です。

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ロメインレタス、グリルドチキン、フェタチーズ、セロリ、アップル、レーズン、ウォルナッツ、にバジルオニオンドレッシング。このサラダひとつで1330円もするので、ちょっとお高いな~と思ったのですが、帰宅して食べ始めて印象が変わりました。いやこれ、けっこうボリュームがあります。しかも全体が渾然一体となって、普通のサラダとはかなり違う感覚です。

全体をよく混ぜ合わせてしまうので、単一の味わいが続いて飽きるんじゃないかと思うも、かなり複雑な味が交錯して最後まで全然飽きませんでした。これはあれですね、きれいに盛り付けたどんぶりを食べる前にしっかり混ぜてしまうビビンパとか、骨付き鶏もも肉の骨を手で取り去ると有無を言わさず全体を混ぜられちゃう「ナイルレストラン」の定番メニュー、ムルギーランチと同じですね。

私はもともと全部を一緒くたに混ぜちゃう料理ってあまり好きじゃなかったんですけど、ビビンパなどしっかり混ぜれば混ぜるほど明らかにおいしい。このチョップドサラダも同じような気がします。あまりにおいしかったので、次の日に自分でまねして作ってみました。といっても適当なサラダ食材を全部包丁で細かく刻んで、適当なドレッシングを作って和えただけです。

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以前からよく「コブサラダ」は作っていましたが、このチョップドサラダはもっと細かく刻むのがおいしさのコツみたい。その分あまり長持ちしそうにないので、お弁当などには向かないような気がしますが、これはしばらくヘビロテしそうです。

この国で働きたいと思ってくださる方々のために

つとめている専門学校では、早くも来年度4月入学生の入学試験が始まっておりまして、私も面接担当などで時々受験生のみなさんとお目にかかることになります。

受験されるのは日本語能力検定試験でいえば二級レベル前後のみなさん。日本語での意思疎通は基本的にあまり不自由しないレベルですが、そこはそれ、入試の面接なので、中にはかなり緊張してらっしゃる方もいます。自己紹介や志望理由の説明など「定番」の部分では明らかに暗記してきたような文章を話される方もいて、こちらもなんとなく緊張するというか、身構えてしまいます。

あまり詳しくは書けないのですが、うちの学校は生徒さんの日本語習熟度にあまり差がありすぎると教学に影響するので「全入」方針は採っておらず、一定レベル以下の方は残念ながら落としてしまう(まあ当然といえば当然なんですけど)ので、受験生の留学生はもちろん、私たちも真剣に面接試験に臨んでいます。

ところで、数十年前ならいざ知らず、現在でも入試面接では「日本は様々な面で先進国で……」といった常套句を話される留学生が多くて、そのたびに私はやはり大きな違和感を覚えてしまいます。日本はここ二十年ほどで、ほんとうに活力の失われつつある国になってしまいましたから。それでも私はまだこの国に希望を持っていますし、そんな日本が好きで、卒業後はぜひ日本で働きたいと希望される若い方々もまだ一定数いるのが救いです。

先日の日曜日にTBSの『サンデーモーニング』を見ていたら、評論家の荻上チキ氏が、現在国会で審議が行われている入管法改正案(今日にも衆議院では採決が行われると報道されていますが)について、結局は「現代の奴隷制度」との悪名高い技能実習生制度の追認と拡充にしかなっていないといった主旨の解説をされていて、なるほどと思いました。

本来であれば、外国人労働者の大半を「技能実習生か留学生でまかなう」というこれまでの「側面から受け入れる(サイドドア)」やり方をあらため、きちんと法整備などをして「正面玄関から迎え入れる」制度設計をするべきなのに、現在の国会審議はそういった課題のほとんどを積み残したまま拙速に話を進めていると。

それで以前読んだ『シノドス』のこちらの記事も再読しました。

synodos.jp

これは様々なテーマを含んだ記事で読み応えがありますが、特に外国人労働者の受け入れに限ってピックアップすると……

おそらく日本が移民政策を進めたら、多くの人たちが東アジアからやってくるとでも思っているのだろう。しかし、東アジア地域は途上国(タイ、ベトナム等)も含め、あと数年のうちに「少子化」のモードに入る。日本人が考えている以上に日本の経済は弱体化していて、賃金の上でもけっして優越的な位置にはない。頭を下げても来てくれない、その可能性を考えたことはあるだろうか。

(中略)

労働力の確保はもはや手遅れ気味ではあるが――現状、米仏独と異なり、日本に来る金銭的・社会的メリットがもはやなさすぎるので、そこのあたりのちゃんとした待遇・権利保障・教育システム、多様な職種・生き方が併存可能な形を整え――移民や外国人労働者三顧の礼できていただくしかない。勘違いしてもらって困るのは、移民受け入れ策に切り替えても、日本が外国人労働者/あるいは移民になる意志のあるひとにとって、もはや魅力がさほどないぐらいに「堕ちた社会」になっているということだ。「アジアのひとたちのあこがれの地」などと夢想するのは不遜なうぬぼれというものである。

この辺りの現状認識は、特に同感です。今こそやるべきは実質奴隷労働に等しい技能実習生制度の拡充ではなく、真っ当な移民政策の策定ですよね。

この記事で北田氏がおっしゃっている「治安云々を言うのであれば、貧困や経済的な困窮と犯罪との関連のほうがよっぽど深刻に懸念されるべきだ」という点、そして外国人労働者が「安心して生きていける環境・法整備を『最低限度先進国として当然のレベル』にまで持っていく」べきだという点が今の議論に最も欠けていると思います。

ところが周囲とこの問題を話していても、外国人労働者=安い賃金・日本人がやりたがらない業種・治安の悪化といった切り口でしか話が深まらず、そもそも現在の日本がどういう立ち位置の国になっているのか、他の国の人々からどう見られているのかについて、まるでこの数十年間時が止まっていたのかと思えるくらい現状認識が的外れのような気がするのです。

とはいえ、かくいう私も、今まで在日外国人や留学生と日常的に接する環境に長くいながら、外国人労働者の受け入れや移民の問題についてはそこまで深く、というか自分の今とこれからの問題としてきちんと向き合っていなかったと思い、自らを恥じています。いま慌てて過去に読んだ記事や本を再読し、新たな資料も探しているところです。

追記

……と思っていたら、昨日の東京新聞朝刊一面は法廷通訳者に関する話題でした。外国人労働者を巡る環境の変化を踏まえて「待遇の改善や研修の充実が必要だ」と。その通りだと思います。一面の他に、特報面でも見開き紙面で詳細に現状をレポートしています。ご興味のある方はぜひご一読いただきたいと思います。

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とはいえ、この話題で大切な視点は「外国人労働者が増えれば犯罪も増える」ではなく、不公正や人権侵害を放置したまま増やせば低所得や劣悪な環境から犯罪も増える可能性がある(そしてそれは日本人外国人を問わず同じである)という点です。「法廷通訳者増が急務→だって外国人労働者は犯罪を犯しがちで危険だから」という短絡に走らぬよう冷静にことを見据える必要があると思います。

さらに追記

今朝の東京新聞朝刊特報面では、外国人労働者の受け入れに関連してさらに日本語学校の現状についても記事が組まれていました。そこでも大きな問題の一つとして挙げられているのは、日本語教育に携わる方々の待遇の悪さです。通訳者・翻訳者といい、語学教師といい、善意にばかり頼ってきちんとした報酬が確保されていない現状。

でもこれはひとり語学業界だけでなく、医療や介護などの現場でも繰り返し指摘されてきていることですし、ほかの業界でも同じような状況はきっとあるでしょうね。となれば抜本的な改善策の一つは経済を活性化していくことになるんでしょうけど、この辺りはどうにも不案内でこれも恥ずかしいのでもっと勉強しなければならないですね。よくリベラルや左派は「経済音痴」だと揶揄されますが、確かにそうなのかも(私も含めて)しれません。

フィンランド語 31 …第三不定詞

教科書は新しい章に入って「第三不定詞」というのを学びました。これが使えるようになると、例えば「どこどこで、なになにしている」とか「なになにするために、どこどこへ行く」とか、これまで以上に詳細で深いことが言えるようになるとのことです。

基本的には動詞の変化なのですが、ここでは以下の五つの語尾を学びました。

mAssA …… 第三不定詞の内格
mAstA …… 出格
mAAn …… 入格
mAllA …… 接格
mAttA …… 欠格
※例によって、大文字の「A」は単語によって「a」にも「ä」にもなり得ることを示します。

作り方は比較的簡単で、動詞の活用のうち三人称複数、つまり「〜vAt」の形にした後、その「vAt」を上記の五つの語尾に変えるだけです。例えば「syödä(食べる)」なら、まず三人称複数形は「syövät」。その「vät」のかわりにそれぞれの語尾をつけて……

syömässä
syömästä
syömään
syömällä
syömättä

……となるわけですね。それぞれを実際の文章に当てはめてみますが、格変化によってはいくつかの意味に分かれるようです。

mAssA

1) Minä olen ravintolassa syömässä.
 私はレストランで食事しています。

英語の be動詞にあたる「olen」が「(レストランに)いる」を表し、第三不定詞の内格が補足説明を行っています。これは進行形とも言えますね。

2) Minä käyn ravintolassa syömässä.
 私は食事をしにレストランを訪れます。

この場合は「〜mAssA しに〜する」という意味になり、例文では動詞が「käydä(訪れる)」なので「食事しに訪れる」と。

なるほど、今までより詳しいことが言えるようになりそうです。例えば……

Minä olen ravintolassa syömässä voileipää.
私はレストランでサンドイッチを食べています。

最後に来る目的語は「分格」を取ります。

mAstA

1) Minä tulen ravintolasta syömästä.
 私はレストランで食べてから来ます。

「〜してから〜する」と言えるわけです。

2) Minä lakkaan ravintolasta syömästä.
 私はレストランで食事するのをやめます。

この場合は「〜mAstA するのを〜する」で、例文では動詞が「lakata(やめる)」なので「食事するのをやめる」と。

mAAn

1) Minä menen ravintolaan syömään.
 私は食事をするためにレストランへ行きます。

2) Minä opin puhumaan suomea.
 私はフィンランド語を話すことを習得します(フィンランド語会話を学びます)。

3) Minä olen laiska kirjoittamaan.
 私は書くことに対して怠け者です(筆無精です)。

最後の例文は「A olla B + mAAn」で「A は mAAn することに対して B だ」という意味になり、なかなか深いことが言えるようになりました。ちなみに「laiska(怠け者の)」のかわりに「ahkera(勤勉な)」を使えば「筆まめだ」という意味になるそうです。ほかにも「arvata(推測する)」を使って……

Minä olen hyvä arvaamaan.
私は推測することが上手です(勘がいいです)。

……みたいなことが言えると。

mAllA

Minä opin suomea opiskelemalla ahkerasti.
私は真面目に勉強することでフィンランド語を学びます。

「〜することで」という「道具・手段」を表します。

mAttA

Minä olen kotona opiskelematta mitään.
私は何も勉強せずに家にいます。

「〜することなしに」という「欠いた状態」を表します。

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Minä olen ravintolassa syömässä lihapullia.

ピアノを買う

先日、調べもので厚生労働省が発表している「簡易生命表」を読む機会がありました。簡易生命表というのは現時点での状況が今後変化しないと仮定した上で「各年齢の者が1年以内に死亡する確率や平均してあと何年生きられるかという期待値などを死亡率や平均余命などの指標によって表したもの」だそうです。

www.mhlw.go.jp

ふだんの暮らしの中でも、誰しも折に触れて「あと何年生きられるか」というのを漠然とは考えると思うんですけど、こうして具体的な数字で示されると、そしてその意味をよくよく考えてみると、なかなかインパクトがあります。例えば今の私の年齢からすれば、うまく行ってもあと四半世紀ほどしか生きられません。もちろんそれより伸びることもあるだろうけれど、それより短くなることも大いにあり得るのです。

四半世紀と言えば……25年。私が中国語を学び始めたのがだいたいそれくらい前ですけど、えええ、けっこう最近じゃないかという気がします。ということは自分が死ぬのもそう遠くはない未来であるわけで。なんだか当たり前すぎるほど当たり前ですが、あらためて「死ぬ前にやりたいことを、いますぐここで、待ったなしでやるべき」だと思いました。

もちろん様々な条件や、あとお金の問題も現実にはあるので、やりたいことが何でもできるわけではないですが、少なくとも「お金を貯めてから」とか「老後になって時間ができてから」などと考えちゃいけないなと思ったのです。だいたい老後になってから悠々自適に海外旅行でもなんてかなり危うい。海外旅行を存分に楽しめる体力が残っていない可能性だってあるのですから。

というわけで、子供の頃に弾いていたピアノをもう一度習おうと思って「へそくり」でピアノを買いました。家は狭いし大きな音も出せないので、ヘッドホンで聴けるデジタルピアノです。最近はこんな家具みたいなシンプルなピアノがあるんですね。

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https://www.roland.com/jp/products/kiyola_kf-10/

さっき運送屋さんが運び込んでくださったピアノで、それこそ半世紀くらい前に習った「五月に」という簡単な練習曲を弾いてみました。こちらのYouTube映像で男の子が弾いてらっしゃるこの曲です。

youtu.be

驚いたことに、ちゃんと覚えていて弾けました。こういうのって、車の運転と同じでけっこういつまでも身体に残っているものなのでしょうか。

「にわかファン」になってお仕事へ

昨日は某台湾アイドルさんたちのファンミーティングで通訳のお仕事をしてきました。

以前台湾エンタメの字幕翻訳をしていた関係で、時々「ファンミ」の通訳を仰せつかるのですが、なんというのかいつも「私みたいなオジさんが出ていっていいのかしら」的違和感……じゃないな、一種の場違い感を払拭することができません。

だってアイドルさんたちはとってもキラキラと輝いていて、ファンの方々も憧れの人を直接目にするということでこれまた目をキラキラさせてらして、とっても華やかな雰囲気なのです。しかもファンの方々は私の百倍、いや千倍はそのアイドルのことをよく御存知なのです。そんな中、スポットライトのあたる舞台でアイドルさんたちのそばについて当意即妙な「互動(司会者や観客とのやりとり)」を通訳するというこの「アウェー感」といったら。

でもまあこれはいつも申し上げている「常にその現場で一番の門外漢でありながら、その門外漢が一番前に出て二つの言語で専門的な内容を話す無理筋」という通訳者の宿命ですかね。

haken.issjp.com

今回のファンミは現在日本でも放映中のドラマのプロモーションも兼ねていたので、仕事の前にドラマ全話を毎日少しずつ、合計数十時間かけて視聴しました。「あのシーンのあの演技が……」などという話になった場合に(というか、ファンミではそういう話題がほとんど)ついて行けない可能性があるからです。

またご本人のお名前と愛称の中国語と日本語での読み方(日本語は基本その漢字の音読みですが、イングリッシュネームなどで呼ぶことも多い)、ドラマでの役名(日本のマンガが原作だったりするとけっこうややこしい)と人物関係、そのほかにプロフィールやドラマなどの出演歴(特にドラマの題名は原題と邦題がかけ離れていることが多いのでこれも鬼門)、ディスコグラフィー、さらには InstagramFacebookなどに投稿されている近況もチェックします。

また過去のインタビュー記事や動画などを可能な限り渉猟して(同じようなことを話される可能性が高いから)、「にわかファン」になって本番に臨みます。それでも抜け落ちている情報はあって、当日パートナーさんに教えていただいて初めて知った情報もありました。

その一方で予習が功を奏した部分もあって、例えばファンミに先立つ雑誌の取材で「好きな韓国ドラマの俳優さんは?」という質問が出たのですが、「宋慧喬(Sòng Huìqiáo)さん」という中国語の音からすぐに「ソン・ヘギョさん」を引き出すことができてなんとか事なきを得ました。とあるインタビューで、そのアイドルさんが同じ質問をされていたのをたまたま読んでいたからです。こういうのはいつも冷や汗をかきます。ファンの方なら自明のことでも、我々門外漢には一撃必殺な言葉なのです。

ただ、こう言っては語弊があるかもしれませんが、本当のファンではないからこそ、冷静に通訳ができるということもあるかもしれません。もし本当のファンだったら、憧れの人を目の前にして、訳すどころじゃなくなってしまうでしょうから。「ファンミのお仕事なら、サインもらえたり、一緒に写真をとってもらえたりしていいですね」と言われることがあるのですが、わはは、お仕事なのでそんなことはあり得ません。華やかなステージの裏ではそれぞれのスタッフが黙々とお仕事をこなしているだけです。

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https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_8837.html

自分で動かないと変わらない

私はいまだに毎朝「紙の新聞」を読んでいるんですけど、大手全国紙に載る広告はどこも高齢者向けのものが多いですね。日経だけはさすがに企業のイメージ広告やビジネスマンが興味ありそうな服や靴、不動産なんかの広告、あとこの時期だとお歳暮関係なども載っていますが、ほかの各紙は健康食品とかサプリメントとか「あったか下着」とか「終の棲家」関係とか、あと墓地や霊園とか……あたりまえとはいえ、如実に読者層を反映しています。

このないだは東京新聞の朝刊にこんな惹句の全面広告が載っていて、思わず笑いました。「肩・腰・膝・首まで不調を感じていませんか?」……はいはい、感じてます! まだ「50代の時とは違う疲れを感じる60代、70代」ではないですけど、それ、まんま私のこと! いや、企業のマーケティング力、おそるべし。

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これはそういう「加齢に伴う肩・腰・膝などの不調」を訴える方向けに栄養補給ドリンクを宣伝する広告なんですが、ただ、そういうドリンクを飲んでも不調の根本的な解決にはあまりならないんですよね。ドリンクや薬を飲む、湿布やテープを貼る、指圧やマッサージを受ける……、つまり受動的な対処だけでは不調はなかなか立ち去ってはくれないのです。やっぱりここは能動的に動かなければ。つまり自分で身体を動かすことで不調を解消していくのです。

私は「天命を知る」歳をこえたあたりからの「不定愁訴」に耐えかねてパーソナルトレーニングのジムに通い始め、体幹レーニングや筋トレに加え、節酒や節食を行って一年あまりが過ぎました。一時期「降圧剤服用寸前」まで上がっていた血圧も正常値の範囲近くまで下がり、夜中に痛みで目が覚めてしまうほどの肩凝りもなくなり、何もかも投げ出したくなるほどの疲労や不快感はかなり軽快し、腰痛もあまり起きなくなりました。

ジムでトレーナーさんに一対一で指導してもらいながらいつも感じているのは、「自分で動かないと変わらない」ということです。そしてまた、身体の使い方やメンテナンスって、とてもデリケートで繊細な感覚と思考、さらにはイメージ力が必要だということです。薬やサプリを飲んで安心したり、自分の身体を専門家に預けて「ああ、気持ちいい」となるのも、もちろんしないよりはした方がいいんでしょうけど、それらは畢竟、自分で意識して、考えてはいない。

それがトレーナーさんに指導されている時は、しょっちゅう細かい指摘や指導が入りますし、トレーナーさんが実際に身体のあちこちに触れたり、支えたり押したり引いたりされるので、その度に自分で自分の身体を調整することになります。そういう能動的な身体の使い方が蓄積されて初めて身体の不調も解消されていくのではないか。

足腰が弱っても、身体の状態に合わせて、座ったままで、あるいは寝ていてもできることはいろいろある。そして能動的に身体を使えるうちにそれを習慣化しておいた方がいい——これが不調の解消を目指して一年間試してきた上でのささやかな結論です。

メンヘラさんに贈る言葉

現在つとめている専門学校では、年に数回「通訳実習」という授業がありまして、東京都内のあちこち(観光名所や官公庁、美術館や博物館など)に行って実際に逐次通訳をしたり、同時通訳ブースのついた国際会議室でセミナーや講演会などの同時通訳をしたりしています。

逐次通訳や同時通訳といっても、まだまだごく初歩のレベル。それでも、実習の数週間前から通訳の基礎訓練や関連資料の予習、グロッサリー(単語集)づくりなどを行って、「もし将来、自分が本当にこのような仕事を担当することになったら、どうするか」を留学生のみなさんに考えてもらう……というようなことを教学の狙いに据えています。

まあ実際には「実習」であって、報酬の発生する「業務」ではないので、現場で間違えちゃったり、通訳が止まってしまったりしても「取って食われる」わけじゃない、クレームが来るわけじゃないんですけど、留学生の中にはこの実習に対してとても神経が高ぶってしまう方が時々いらっしゃいます。いまふうな言葉でいえば「メンがヘラっちゃう」ということですかね。

いや、お気持ちはよくわかります。それはもう痛いほどに。私だって、通訳の仕事を承けた時には、この歳になってもそんな気持ちになる時間帯がありますから。

「現場で失敗したらどうしよう」
「一言も訳せなかったらどうしよう」
「パートナーの先輩に迷惑をかけたらどうしよう」
「現場に中国語の分かる方がいて誤訳を指摘されたらどうしよう」

しょーもない不安が次々に生まれてくる……これはもう無限ループです。心配の種はつきないもので、相手の中国語が聴き取れなかったらとか、口がこわばって(私は顔面麻痺の後遺症が若干あるので)上手く話せなかったらとか、資料が大幅に差し替えられていたら(これは実際のところよくあります)とか、不安になり始めたらキリがありません。

あまつさえ、「自分の実力以上の仕事を承けてしまったのでは」という疑念が頭をもたげ、今からでもお客様に謝って仕事をキャンセルさせてもらおうかとか、誰かほかの先輩に代役を頼めないかしらとか、はては天変地異が起こって仕事自体がなくなってしまえばいいのにとか……やれやれ、これじゃ運動会やマラソン大会の前日に悶々としていた小中学生の頃からひとつも成長していません。

まあ実際にはキャンセルもせず、天変地異も起こらず、なんだかんだ言いながら予習を積み重ねて本番に臨み、業務自体は滞りなく終わり、心配していたような事態に立ち至ったことは一度もありません(小さな失敗は無数にありますけど……お客様、ごめんなさい)。今日は反省材料がたくさんあったなと思う業務も多いですが、逆に今日はなんだか上手にできたとか、お客様に望外のお褒めをいただいたといった業務もあるのです。

それをもう何年も続けてきているのですから、いいかげん仕事の前に、悶々と悩む時間帯に襲われるような自分からは卒業したいところなんですけど、これが本当に情けないことに、そういう瞬間は必ず訪れるんですねえ。もっとも、以前に比べれば多少は心臓に毛が生えてきたのか、そういう「訪れ」はかなり少なくはなりましたけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_91.html

……でも。

結局は、そういった「悶々と思い悩む→蛮勇をふるって一歩前に出る→ささやかな成功体験を得る」というプロセスを繰り返していくことでしか、人は成長していけないのかもしれません。通訳学校の生徒さんにも「私はまだまだそんな実力はないから」と仕事のオファーに尻込みしたり、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)に参加をためらったり、学期末の実習を欠席したりする方がいますけど、それではたぶん永遠に一歩を踏み出せないのではないでしょうか。

失敗するのが怖くて尻込みする人は、一見自分の実力を冷静に見定めている謙虚な人のように見えますけど、実は逆で、人一倍自尊心が強くてメンツを大事にしている人なのかもしれないと思います。とにかく傷ついちゃう自分を絶対に見たくないわけですから。

でも、一歩を踏み出さないと分からないことはたくさんあります。一歩の違いで見える景色が大きく違うこともあります。それは自分で一歩踏み出してみないと体得できない境地です。「私はまだまだ」などと言い続けていたら「もう『まだまだ』じゃない自分」になる前に人生が終わっちゃうんじゃないかと。

通訳実習を前にしたメンヘラ留学生のみなさんには、「まあ最悪絶句しても死ぬこたぁないんだから」と申し上げています。もっともそういう軽口が耳に入らないくらい心身がこわばっているのがメンヘラさんの特徴でもあるんですけど……。ううむ、どうしたものでしょうか。

個人的な経験則で申し上げれば、こんな時にいちばん「効く」のは、とにかく予習を進めることです。通訳業務は予習が欠かせず(というか予習が八割、九割)、どれだけ予習ができたかに本番の出来映えが左右されます。予習量が本番でのリスニングを、ノートテイキングを後押しし、訳出を助けてくれるのです。

だから予習すればするほど不安が引いていく。これ、本当に潮が引くように不安が引いていき、そのかわりに「何とかなる」「何とかしてやる」「怖がることはない」と思えるようになるのです。「メンがヘラったら予習」。この言葉を留学生のみなさんに贈りましょう。

フィンランド語 30 …フィンランドのポップソング

Spotifyのプレイリストに「The Sound of Finnish Pop」というのを見つけました。フィンランドのポップソングですね。

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フィンランド語は語順で話す言語ではなく、そのぶん単語の格変化が激しいので、とにもかくにも語彙が身体に入っていないと変化のさせようもないのでお手上げ……というわけで、初学者のみなさんはとにかく語彙量を増やす努力をしてくださいね、という先生の指導に従って、今は通勤途中にQuizletでせっせと単語を覚えています。

で、気晴らしにこのプレイリストに入っている曲を聴いていたら、おお、ところどころ馴染みのある単語が出てきます。これはうれしい、というか楽しいです。そして偶然聴いた Reino Nordin という方のこの曲、サビの部分が曲名にもなっているのですが、初めて「文章単位」で聴き取れました。これもうれしい。

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「Kuinka Paljon Voi Rakastaa?」、つまり直訳すれば「どれだけ多く愛することができるだろうか?」ということですね。「Kuinka paljon」はこれまでにもたくさん学んできた「How many」や「How much」に当たる言い方。「voi」は「バター」……じゃなくて動詞「voida(できる)」の三人称単数。一般的・普遍的な叙述の場合には三人称単数が使われるからですね。

「voida + 別の動詞の原形(不定詞。ここでは rakastaa = 愛する)」は「不定詞することができる」という熟語なので、「愛することができる」になると。おお、授業で習ったとおりに文章が構成されています。

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語彙が増えてくると、読み取れるものが増えてくるのも楽しいです。先回フィンランドを旅行した際に写真を撮ったこのショーケースも、当時は全く読めませんでしたが、今ではいくつか分かるものがあります。「kinkku(ハム)」「yuusto(チーズ)」「tomaatti(トマト)」「leipä(パン)」「suklaa(チョコレート)」「omena(リンゴ)」……。こんな感じでぼちぼち学んでいこうと思います。

フィンランド語 29 …数字の格変化(出格と入格)

時間の言い方は以前に学んだのですが、今度は「〜時から〜時まで」という時間の言い方を学びました。ここのところ「どこどこから」とか「どこどこへ」という場所を表す格を学んでいましたが、時間も「〜から」は出格、「〜まで」は入格を使うんですね。しかも数字の格変化は不規則なので覚えなければならないとのこと。ただし1から10まで覚えてしまえば後はそれほど複雑ではないそうです。

まずは数詞の変化形。

数字 語幹 出格 入格
1 yksi yhte yhdestä(1時から) yhteen(1時まで)
2 kaksi kahte kahdestä(2時から) kahteen(2時まで)
3 kolme kolme kolmesta(3時から) kolmeen(3時まで)
4 neljä neljä neljästä(4時から) neljään(4時まで)
5 viisi viite viidestä(5時から) viiteen(5時まで)
6 kuusi kuute kuudesta(6時から) kuuteen(6時まで)
7 seitsemän seitsemä seitsemästä(7時から) seitsemään(7時まで)
8 kahdeksan kahdeksa kahdeksasta(8時から) kahdeksaan(8時まで)
9 yhdeksän yhdeksä yhdeksästä(9時から) yhdeksään(9時まで)
10 kymmenen kymmene kymmenestä(10時から) kymmeneen(10時まで)

これらを使って、例えばデパートの開店時間を言ったりできます。

Kuinka kauan tämä tavaratalo on tänään auki ?
このデパートは今日、どのくらい(何時から何時まで)開いていますか?
Se on auki kymmenestä kahteenkymmeneenyhteen.
それは10時から21時まで開いています。

「kymmenen(10)」の出格が「kymmenestä(10時から)」というのは上の表の通りですが、「kaksikymmentäyksi(21)」の入格は「に・じゅう・いち」のそれぞれが入格に格変化しています。これはたいへん。

また11から19までの数字は「ーtoista」がつくのですが、これらが出格や入格になるときは、「ーtoista」はそのままにしておいて格変化するそうです。つまり、こういうことですか。

数字 出格 入格
11 yksitoista yhdestätoista(11時から) yhteentoista(11時まで)
12 kaksitoista kahdestätoista(12時から) kahteentoista(12時まで)
13 kolmetoista kolmestatoista(13時から) kolmeentoista(13時まで)
14 neljätoista neljästätoista(14時から) neljääntoista(14時まで)
15 viisitoista viidestätoista(15時から) viiteentoista(15時まで)
16 kuusitoista kuudestatoista(16時から) kuuteentoista(16時まで)
17 seitsemäntoista seitsemästätoista(17時から) seitsemääntoista(17時まで)
18 kahdeksantoista kahdeksastatoista(18時から) kahdeksaantoista(18時まで)
19 yhdeksäntoista yhdeksästätoista(19時から) yhdeksääntoista(19時まで)

大変です。ちなみに「8時半から」とか「8時半まで」などという場合には「8時半」が「puoli yhdeksan」なので……

puoli yhdeksästä(8時半から) puoli yhdeksään(8時半まで)

……となるそうです。いずれにしても1から10までの不規則な格変化さえしっかり覚えてしまえばそれほど怖くない、ということですかね。

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Tämä on Kiasma, siis on Helsingin keskustassa sijaitseva nykytaiteen museo. Se on auki kymmenestä puoli kahteenkymmeneenyhteen.

星条旗迎風飄揚

先日、通訳訓練のクラスで使った教材に、数字の単位である“萬億”が出てきました。「億が一万個」ということですから「兆(ちょう)」ですね。こうした単位は訳しまちがえると「致命的」なので特に注意が必要なのですが、中国出身の方々はすんなり訳せた一方で、台湾出身の方々は「?」という表情でした。台湾では一般的に、日本と同じように「兆」を使うからでしょう。

ただ、私のような中国語非母語話者が申し上げるのも大変口幅ったいのですが、“萬億”が初耳だってのがバレちゃうのは、一般の方々ならいざ知らず、通訳訓練を行うレベルに達した方々としては少々不覚を取ったと言えるかもしれません。仕事の現場で通訳を担当する際に、その華人がどの地方や地域の出身であるかは分からないわけですから。プロを目指しているわけですし、可能な限りさまざまな表現になじんでおきたいところです。

中国語は使われている地域が広いので、表現のバリエーションもそれはそれは裾野が広い言語です。でも母語話者である当の華人ご自身が、その「広範さ」をあまり自覚していらっしゃらないようにお見受けすることが往々にしてあるんですよね。自分の知らない中国語の表現に遭遇した際に、大胆にも「そんな中国語はない」と言い切っちゃう方がけっこういるのですが、もう少し言語というものに対して謙虚になりたいものです。いやこれは自戒も込めて。在日華人のみなさんも、せっかく中国からも台湾からも距離を置いた「第三国」としての日本にいるのですから、ぜひより広範囲に語彙収集の投網を広げてほしいと思います。

また別の日には、通訳訓練に使った教材で面白い表現に出会いました。スマホの“得到”アプリで聞ける羅振宇氏の『羅輯思維』という番組のひとつで“為什麼沒人在登月(なぜ人類は再び月に行けていないのか)”という興味深いテーマなのですが、その中に、かつてアメリカが月面着陸を果たしたアポロ計画に対して「アレは陰謀だった」という声があることを紹介するくだりがあって、こんなことを言っています。

這也就難怪在美國有人搞那種陰謀論,說美國政府說當年登月,那完全是一場騙局,你看發佈的那些照片都是假的,視頻也是偽造的。比如你看,月球上沒有空氣、沒有風,為什麼登陸月球的星條旗會“迎風飄揚”呢?

(人類はもう40年以上月に行けていないので)アメリカで「陰謀論」が渦巻くのも無理からぬところがあります。つまり、アメリカ政府が当時月面着陸を果たしたというのは、すべて捏造だというわけです。発表された写真はすべて嘘で、映像も偽造されたものだと。例えば、月面には大気がなく、従って風もないのに、なぜ月面に立てられた星条旗が風にはためいているのかと。

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Nasa Moon Photos — LBC9 News

この最後の「星条旗が“迎風飄揚”(風を受けてはためいている)」という表現、中国出身の方ならすぐに分かるはず(最近のお若い方はどうだかわかりませんけど)。中国ではとてもよく知られた『歌唱祖國』という曲の歌い出しに“♪五星紅旗迎風飄揚……”とある、その歌詞の引用だからです。まあ羅振宇氏は一種の諧謔でこの「五星紅旗(中国の国旗)」を星条旗にかえてしゃべっているわけですが、こういう諧謔のニュアンスはちょっと訳しにくいですよね。文化背景が違うわけですから。

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まあそれはさておき、この部分も中国出身の方々が「ぷっ」と吹き出す一方で、台湾出身の方々は「?」という表情でした。そりゃまあそうです。文化背景というより、これはもう政治的な背景で、これまで接することがなかった類いの歌でしょうから。もっとも、ほかのクラスではこの歌を「中国の国歌です」とおっしゃった中国出身の方がいましたから、どっちもどっちという気もしますが(生徒さんの名誉のために付記すると、こうした背景をよく知っている方ももちろんいます)。

ただ……これもまた通訳訓練を行うレベルに達した方々としては、訳出に活かせるかどうかは別として、一般常識として知っていると「かっこいい」んじゃないかと思うんです。ふだん、いわゆるひとつの「メンツ」にあれだけこだわる人たちなのに、こういうときは「知らない」の一言で済ませちゃって、けろっとしているのがちょっと不思議です。これはまあ“職業精神(プロ意識)”の多寡という問題ですかね。

追記

『歌唱祖國』といえば、中国に留学していた頃の生活を思い出します。当時は毎朝六時になると、校内のいたる所にあるスピーカーからラジオ放送の「今日は19××年、×月×日、×曜日」という声に続いてこの曲が流れていました。冒頭のファンファーレを聞くと、早朝の雰囲気を思い出します。ラジオ放送を聞きながら大学図書館脇の林まで走って行って、中国人学生と一緒に太極拳を学んでいました。

youtu.be

留学生のみなさんに聞いてみたら、現在の大学ではもうラジオ放送を大音量で流していないみたいです。まあそうですよね、朝っぱらからあの勇ましい音楽がかかるのは、ほとんど“擾民(近所迷惑)”でしょうから。

天野健太郎さんのこと

先日、翻訳家・天野健太郎氏の訃報に接しました。訃報はいつも突然のことですから今回も驚きましたが、今回の驚きはいつも以上でした。それは天野氏がまだ47歳という若さだったこと、そして直接お目にかかったことはないけれど、亡くなる直前まで精力的に翻訳書を出版され、様々なイベントにも登場されていたことをネットなどで知っており、そのご活躍をいつもまぶしい思いで仰ぎ見ていたからです。

はじめて天野氏の翻訳書に接したのは、龍應台氏の『台湾海峡一九四九』でした。


台湾海峡一九四九

私は原著の『大江大海一九四九』を持っているのですが、その日本語版である天野氏の翻訳は冒頭からとても印象的でした。例えば、こんな描写です。

她才二十四歲,燙著短短的、時髦俏皮的鬈髮,穿著好走路的平底鞋,一個肉肉的嬰兒抱在臂彎裡


彼女は二十四歳。パーマをかけた短い髪はとてもファッショナブルだった。歩きやすいぺたんこの靴を履いて、腕には丸々と太った赤ん坊を抱いていた。

「歩きやすいぺたんこの靴」! 私はこの訳文になにかこう、それまでの中国語翻訳の世界にはなかったどこか新しいものを感じました。とはいえ、その感覚をはっきりと自覚したのはずいぶん後からで、当時は「ずいぶん自由闊達な訳だなあ」くらいにしか感じていなかったのかもしれません。それよりもまず、それまで全くお名前を知らなかった中国語の翻訳者が登場したことそのものがとても新鮮で。

その後は、私自身が失業したり家族の病気や不幸があったりしてあまり文芸作品を、とりわけ中国語のそれや翻訳作品を読む余裕がなく、天野氏がその後も次々に世に紹介した作品のほとんどを私は読んでいません。ですが、たまたま台湾の書店で目についた帯に惹かれて吳明益氏の短編小説集『天橋上的魔術師』を買い、その帯に惹句とともに載せられていた天野氏の翻訳書『歩道橋の魔術師』にも触れました。

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歩道橋の魔術師

この翻訳も自由闊達です。例えば、冒頭のこんな描写。

我家開的是鞋店,只是一個小毛頭對客人說:「你穿這雙鞋好看」、「這是真皮的」、「算你便宜一點」、「哎呀已經是最低價了啦」怎麼樣都不太真實,太沒有說服力了。


うちは靴屋だった。ただ、小うるさいガキがお客さんに向かって、「お似合いですよ」とか、「お安くしますよ」とか、「それじゃあ、うち儲けが出ないんで」とか言ったところで、どうにも遊んでるみたいで説得力に欠ける。

“已經是最低價了啦”を「それじゃあ、うち儲けが出ないんで」と訳すのは、意訳と言ってしまえばそれまでなのですが、ある種、天野氏一流のユーモアというか、やや無頼派的というか、大胆不敵というか、それでいて繊細というか、どうにもうまく言えないのですが氏の独特のスタンスが表れているような気がします。そうしたスタンスは例えば“這是真皮的”という営業トークのひとつをすっぱり切り落としている部分にも見て取ることができます。

このような天野氏の“風格(スタイル)”は、後に公開されたふるまいよしこ氏によるこのインタビューで詳しくその背景と理由を知ることができます。有料記事なので引用はさし控えたいと思いますが、とにかく「もんのすごく」面白いインタビューです。翻訳や語学に興味がある方に、このたった数百円の出費を惜しむ手はありません。

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ここには天野氏の翻訳に対するスタンスだけではなく、日本における中国語文学の受容のされ方、あるいはもっと広く大きく台湾や中国の文化そのものの受容のされ方に対する、新たな世代の登場を見て取ることができます。

私は天野氏よりも若干歳が上ですが、ほぼ同じ世代というか年齢層に属します。このインタビューで天野氏がおっしゃっていることは、私が中国語を学んだり教えたり、あるいは仕事として使ってきたりする中で折に触れて感じてきたことをかなり大胆な形で言語化されているように思えて、一気に引き込まれ、読んでいてとても興奮しました。

例えば、最近は若干状況が変わってきたと思いますが、日本における中国語学習の、そのあまりにも強い「北京一辺倒」ぶりや、観光地や文化発信地としての台湾の人気の一方であまりにも多くの方が一般常識としてさえ馴染んでいない台湾の近現代史など……。『歩道橋の魔術師』にしても、そうした台湾へ視点がより豊かに育まれていれば、より味わい深く読めること請け合いだと思います。

まさに天野氏はそうした私たち日本人の台湾に対する視点をもっと豊かにするために(ご本人はきっと「そんなたいそうなことじゃねえ」とおっしゃるでしょうけど)訳業に邁進されていたと思います。なのに、折しも『自転車泥棒』などまた新たな訳業が世に送り出されたそのタイミングで突然の他界。聞くところによると発見のむずかしい膵臓のガンだったそうですが、ご本人はさぞ無念だったと思います。

ロシア語の米原万里氏、英語の山岡洋一氏など、敬愛し私淑していた通訳者や翻訳者が急逝されたときにも少なからぬ衝撃を受けましたが、そこにまたもうお一人が加わってしまいました。とても残念です。その山岡洋一氏はその著書『翻訳とは何か』でこう書かれています。

翻訳学校に通っても、一流の翻訳家に学べる確率はそう高くはない。ところが、書店に行けば、一流の翻訳家がみな、訳書という形で翻訳のノウハウを示してくれている。自分がほんとうに尊敬できる翻訳家を選んで訳書と原著を手に入れ、訳書を見ないで原著を翻訳していき、訳書との違いをひとつずつ確認していけばいい。この方法なら、翻訳学校で教えていない翻訳家からも、亡くなっていて学べる機会がないはずの翻訳家からも学べる。無料で添削を受けられる。一流の翻訳を真似ることができる。
山岡洋一翻訳とは何か 職業としての翻訳』p.158

私たちはこれからも、天野健太郎氏の訳業に学ぶことができる。それだけは救いだと思います。

「きちんと椅子を戻さない問題」をめぐって

うちの学校に「CALL(コール)教室」というのがあります。LL教室としての機能のほか、生徒ひとりひとりの机にパソコンが備えてあって、主に通訳訓練に使う教室なんですが、この教室で行う授業の最後に、いつも留学生のみなさんに言っていることがあります。

退席するときに、椅子は机の下にきちんと戻してください。

まあこれ、次にこの教室を使う先生から「あのクラスの留学生はマナーがなっとらん! 椅子を使い終わったら、机の下にきちんと戻すのが日本人の……」といったようなお叱りをいただくので、よろしく指導されたし、との「お達し」が学校側から出ていてですね、それで私も毎度留学生のみなさんに申し上げているわけです。

ところが、毎回申し上げていても、毎回こんな感じです。

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う~ん、私はまあこれでもいいんじゃないかと思いますけど、これだと厳しい先生方からは「なっとらん」と言われちゃいます。というわけで、生徒がほかの教室へ移動して行ったあと、私がひとりで何十脚もの椅子を一つ一つ「きちんと」机の下に戻したりしています。

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「椅子を戻してと言って、留学生のみなさんも『はーい、分かりました』と答えるんだけど、結局戻さずに帰っちゃうんですよね」との嘆き節は他の先生方からも聞かれます。……が、私はこれ、留学生のみなさんはこれでも「きちんと戻している」つもりなんだと思うんですよね。

だって、一番上の写真だって、曲がりなりにも机の下に椅子が入っているじゃないですか。背もたれの方向は多少「あっちゃこっちゃ」していますけど、通路にまではみ出して人の通行が妨げられるというほどのものでもない。次に使う人が著しく不便を被るということもなさそう。だったら、これでいいじゃん、ということではないのかと。

とはいえ……

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さすがにここまではみ出していたら、留学生のみなさんだって「なっとらん」と思うでしょう。

これ、先日ご紹介した田中信彦氏の近著『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』で説かれているお話と同根のような気がします。日本人は椅子の背もたれが一直線に並ぶ程度まで「きちんと」戻すのが「スジ」だと思うけれど、留学生は「量」として全体に悪影響を与えない程度であれば、一番上の写真でもじゅうぶん「椅子を戻した」ということになるのではないかと。


スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

ただうちの学校について言えば、日本人的な基準に照らせば「きちんとしてない」椅子の戻し方をするのは、なにも華人留学生だけじゃないんですよね。洋の東西を問わずどの国の留学生もほとんど同じです。

以前何度か通訳を担当したことがある企業の外国人新人職員研修でも、指導教官さんはかなり厳しくこの「椅子を机の下にきちんと戻す作法」を指導していました。私もまあ日本人の端くれなので、退勤時に背もたれをきちんと戻すの推奨派ではありますし、「服の乱れは心の乱れ」「部屋の乱れは心の乱れ」的な価値観を信奉するものでもあります。「仕事ができる人は、きちんと椅子を戻す」といったようなフレーズも、私たち日本人には「ぐっとくる」方が多いんじゃないでしょうか。

news.yahoo.co.jp

私もこうしたものいいには「ぐっとくる」ところが多分にあるんですけど、ひょっとするとそれはちと過剰なのかもしれない、そういうところにこだわりすぎることが私たちの不幸の一部なのかもしれない、と思いました。

異文化や異民族に対するリテラシー

政府が前のめりになっている外国人労働者受け入れの拡大政策について、作家の室井佑月氏が『週刊朝日』に寄稿されています。

dot.asahi.com

差別がいかに恥ずかしいかという教育がなされないまま外国人労働者を呼んでしまうことは、この国の逆広報にならないか。

う~ん、確かに。現状でさえ「現代の奴隷制度」として批判されている外国人技能実習生制度の実態把握や改善もなされないまま、拙速に外国人労働者の受け入れを拡大すれば、新たな、そしてより規模の大きい差別や格差を生み出すことになるのではないでしょうか。

昨日、『クローズアップ現代+』の「どう乗り切る?英会話時代」という、英会話学習熱の高まりを取材した番組について書きました。私の念頭にあったのは、英語を話せるようになってグローバルな世界に飛び込みたいと熱に浮かされるかのように狂奔している一方で、その根底にあるべき異文化や異民族への理解、そうした理解を支えるリテラシー教育に目が向けられていないのではないかという疑問でした。

室井佑月氏の懸念は、そのまたさらに根底にあるべき、差別がいかに恥ずかしいか、違いや多様性を認めるとはどういうことか、言語も風習も習慣も違う「隣人」とどうつきあっていくのか……についての教育が手薄なのではないかという指摘です。教育を受けている子供たちのみならず、すでに教育を受ける段階を終えたにもかかわらず現代の世界と向き合うにふさわしい教養を備えていない人間が多すぎるのではないか、まずはそこをただすべきではないかと。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_666.html

先日はこんな記事にも接しました。

toyokeizai.net

日本に住む多くの外国人は、電車やバスに乗るとき、あるいは、カフェや公共の場にいるあいだ、多くの日本人が自分のそばに座らないという空席問題をある程度経験しているだろう。

異文化や異民族に対するリテラシーが、私たちの中にいかに涵養されていないかを如実に物語る指摘ですが、この記事に寄せられたコメント欄を見るとさらに心が重くなります。多くの方がこの記事に対して否定的なコメントを寄せ、なおかつその理由も「外人は臭い、身体が大きくて窮屈、声が大きすぎる」などの、なんというか素朴で、ナイーブで、プリミティブ過ぎるものが目立つのです。

qianchong.hatenablog.com

日常的に外国人と接する環境にこの四半世紀ほど身を置いてきた私も、正直に申し上げて、時に街で見かける外国人の「自分の肌感覚とは相容れないふるまい」に心ざわめくことはあります。というか、異文化や異民族と接するということは、大なり小なりの「そうしたこと」の連続だといってもいいと思います。

でも私は「そうしたこと」に遭遇する中で、そしてまた外語を学んで母語と往還する中で、自分のものの見方考え方が変わってきましたし、自分の奥深くに執拗に居残っていた根拠の薄い差別意識や非寛容さなどが解きほぐされてきたという実感もまたあります。

少子高齢化と急激な人口減少が併走していく日本社会の今後のあり方は、好むと好まざるとにに関わらず外国人との共生に向かって進んでいくでしょう。そんな状況を目の前にして、もっと根本的な、しかも今とこれからの時代に即した「異文化リテラシー」をはぐくむ教育を長いスパンで考えるような政策が必要だと思います。

「夫婦は仲良くしようね、周りのみんなとも仲良くしようね」という趣旨があるから「教育勅語」の復活だ、みたいな超弩級にプリミティブな政策なんかではなくてですね。