インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

メンヘラさんに贈る言葉

現在つとめている専門学校では、年に数回「通訳実習」という授業がありまして、東京都内のあちこち(観光名所や官公庁、美術館や博物館など)に行って実際に逐次通訳をしたり、同時通訳ブースのついた国際会議室でセミナーや講演会などの同時通訳をしたりしています。

逐次通訳や同時通訳といっても、まだまだごく初歩のレベル。それでも、実習の数週間前から通訳の基礎訓練や関連資料の予習、グロッサリー(単語集)づくりなどを行って、「もし将来、自分が本当にこのような仕事を担当することになったら、どうするか」を留学生のみなさんに考えてもらう……というようなことを教学の狙いに据えています。

まあ実際には「実習」であって、報酬の発生する「業務」ではないので、現場で間違えちゃったり、通訳が止まってしまったりしても「取って食われる」わけじゃない、クレームが来るわけじゃないんですけど、留学生の中にはこの実習に対してとても神経が高ぶってしまう方が時々いらっしゃいます。いまふうな言葉でいえば「メンがヘラっちゃう」ということですかね。

いや、お気持ちはよくわかります。それはもう痛いほどに。私だって、通訳の仕事を承けた時には、この歳になってもそんな気持ちになる時間帯がありますから。

「現場で失敗したらどうしよう」
「一言も訳せなかったらどうしよう」
「パートナーの先輩に迷惑をかけたらどうしよう」
「現場に中国語の分かる方がいて誤訳を指摘されたらどうしよう」

しょーもない不安が次々に生まれてくる……これはもう無限ループです。心配の種はつきないもので、相手の中国語が聴き取れなかったらとか、口がこわばって(私は顔面麻痺の後遺症が若干あるので)上手く話せなかったらとか、資料が大幅に差し替えられていたら(これは実際のところよくあります)とか、不安になり始めたらキリがありません。

あまつさえ、「自分の実力以上の仕事を承けてしまったのでは」という疑念が頭をもたげ、今からでもお客様に謝って仕事をキャンセルさせてもらおうかとか、誰かほかの先輩に代役を頼めないかしらとか、はては天変地異が起こって仕事自体がなくなってしまえばいいのにとか……やれやれ、これじゃ運動会やマラソン大会の前日に悶々としていた小中学生の頃からひとつも成長していません。

まあ実際にはキャンセルもせず、天変地異も起こらず、なんだかんだ言いながら予習を積み重ねて本番に臨み、業務自体は滞りなく終わり、心配していたような事態に立ち至ったことは一度もありません(小さな失敗は無数にありますけど……お客様、ごめんなさい)。今日は反省材料がたくさんあったなと思う業務も多いですが、逆に今日はなんだか上手にできたとか、お客様に望外のお褒めをいただいたといった業務もあるのです。

それをもう何年も続けてきているのですから、いいかげん仕事の前に、悶々と悩む時間帯に襲われるような自分からは卒業したいところなんですけど、これが本当に情けないことに、そういう瞬間は必ず訪れるんですねえ。もっとも、以前に比べれば多少は心臓に毛が生えてきたのか、そういう「訪れ」はかなり少なくはなりましたけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_91.html

……でも。

結局は、そういった「悶々と思い悩む→蛮勇をふるって一歩前に出る→ささやかな成功体験を得る」というプロセスを繰り返していくことでしか、人は成長していけないのかもしれません。通訳学校の生徒さんにも「私はまだまだそんな実力はないから」と仕事のオファーに尻込みしたり、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)に参加をためらったり、学期末の実習を欠席したりする方がいますけど、それではたぶん永遠に一歩を踏み出せないのではないでしょうか。

失敗するのが怖くて尻込みする人は、一見自分の実力を冷静に見定めている謙虚な人のように見えますけど、実は逆で、人一倍自尊心が強くてメンツを大事にしている人なのかもしれないと思います。とにかく傷ついちゃう自分を絶対に見たくないわけですから。

でも、一歩を踏み出さないと分からないことはたくさんあります。一歩の違いで見える景色が大きく違うこともあります。それは自分で一歩踏み出してみないと体得できない境地です。「私はまだまだ」などと言い続けていたら「もう『まだまだ』じゃない自分」になる前に人生が終わっちゃうんじゃないかと。

通訳実習を前にしたメンヘラ留学生のみなさんには、「まあ最悪絶句しても死ぬこたぁないんだから」と申し上げています。もっともそういう軽口が耳に入らないくらい心身がこわばっているのがメンヘラさんの特徴でもあるんですけど……。ううむ、どうしたものでしょうか。

個人的な経験則で申し上げれば、こんな時にいちばん「効く」のは、とにかく予習を進めることです。通訳業務は予習が欠かせず(というか予習が八割、九割)、どれだけ予習ができたかに本番の出来映えが左右されます。予習量が本番でのリスニングを、ノートテイキングを後押しし、訳出を助けてくれるのです。

だから予習すればするほど不安が引いていく。これ、本当に潮が引くように不安が引いていき、そのかわりに「何とかなる」「何とかしてやる」「怖がることはない」と思えるようになるのです。「メンがヘラったら予習」。この言葉を留学生のみなさんに贈りましょう。