インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「英会話時代」という狂奔を前にして

見逃していた『クローズアップ現代+』の「どう乗り切る?英会話時代」を、NHKオンデマンドで見ました。

www.nhk-ondemand.jp

外国人観光客や労働者の急増を見据えて、社会の各層で英会話熱が盛んになっているという話題。メイドカフェ外食チェーン、観光タクシー業での英会話研修をはじめとして、マンツーマン特訓やフィリピン留学、オンライン学習による個人の英会話学習、さらには小学校低学年から大学入試までにおよぶ英語教育改革など多岐にわたる現状が紹介されていました。

30分という短い時間、それもテレビ番組ということで、全体としては情報量はそれほど多くなかったのですが、それでもロバート・キャンベル氏が英語教育格差の問題やスピーキングだけを切り出すような大学入試改革に懸念を述べたり、鳥飼久美子氏がコミュニケーション重視の一方で文法軽視が進めば薄っぺらな英会話にしか帰着しない(英会話にすらならない)と警鐘を鳴らしたり、英会話熱の光と影をまんべんなく伝えてはいた、という印象でした。

ただ、あまりにも「まんべんなさすぎる」のと、NHKならではの問題提起のソフトさ(忖度?)とが相まって、そも我々がどうしてここまで英語学習、なかんずく英会話に「狂奔」しなければならないのか、する必要があるのかについてはほとんど斬り込まれておらず、最後は武田真一アナウンサーが「私も……(英会話学習を)やんなきゃいけないな、と思いました」という自分への叱咤(?)でうまいことまとめちゃって、どうにも隔靴掻痒感が否めませんでした。

とはいえ、その直前にロバート・キャンベル氏が、「国民等しく(英会話が)ペラペラになる必要はそもそもない」とおっしゃっていて、そこに救いを感じました。でもこれも、その深い意味が広範に届くことはなく、むしろ英語格差をなくすためにはこれまで以上に英語教育を、それも英会話を中心としたスピーキング・アウトプット重視の教育を全世代で……という声にかき消されてしまうのかもしれません。

そうした声はたとえばこの番組でも、吉田研作氏が述べられていた「英語を恥ずかしがらずに、上手い下手の問題じゃなくて、とにかく使ってコミュニケーションする。(中略)単にインプットしただけで終わっているんじゃなくて、そのインプットしたものを使うことによって検証しているわけですよね。検証することによって定着がはかれるんですよね」という素朴な外語観にも表れています。とにかく外語は「使ってナンボ」であり、コミュニケーションが至上だと。

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私も外語は「使ってナンボ」のもんだと思いますけど、だからといって外語を使ってのコミュニケーションだけが外語学習の最重要課題だとは思いません。外語を学ぶとは、外語と自らの母語との往還を通して母語を、ひいては母語で切り取っているこの世界すべて・森羅万象すべての見方や感じ方・考え方を豊かにし、深化させていくことです。

そして母語とは違う世界の切り取り方をする外語の世界観を知ることで、異文化とは・異民族とは何かを知ることです。それはその人の人生観や価値観、さらには過去の歴史に対する考え方や、未来の人類に対する展望などにも関わってくるはず。こちらのほうが、ひとりひとりの日本人にとって英会話が「ペラペラ」になることよりも千倍重要なことだと思います。しかもその際に学ぶ外語は英語でなくてもいい。いやむしろ英語だけであってはいけないと思います。

世界がグローバル化しつつあり、日本人が外国人と接触する機会も激増するとはいえ、数年のうちに日本がグローバルに溶け込む・溶け込めるわけではないのです。これからも長くこの国の多くの人々は日本語という母語で暮らしを成り立たせていかなければならず、グローバル化しつつあるからこそ逆に日本語という母語を使っていまここに生きている私たちは何者であるのかというその「よってたつところ」をひとりひとりが確かな形でその手につかまなければなりません。

その意味では外語学習の究極の目標は母語の深化でなければなりません。そういった、ひとりの人格を陶冶するための手段としてこそ外語学習は――特に小中学校におけるそれは――位置づけられるべきではないでしょうか。考えてみれば当たり前のような気もしますけど、なんだか現在の早期英語教育をめぐる騒動を眺めていると、どうもそういう視点がすっぽり抜け落ちているような気がします。

異文化とは何か、異民族とはどんな人々か、言葉の壁を越えるとはどういうことか、言葉の異なる人々とどうつきあい、どう共生していくのか……。そんな「異文化・異言語リテラシー」とでも呼ぶべきスキル、格差や非寛容やヘイトの暗雲が立ちこめつつある現代に生きる私たちに必須のスキルを身につけるための外語学習であってほしい。

そのうえで、学問や仕事のためにツールとしての外語が必要になった人は、それが必要になった段階から、じゅうぶんにコミュニケーションのツールたり得る外語を習得するべく寝食を忘れて・死にもの狂いで学ぶべきです。

ご自身も長い時間をかけて日本語を学んでこられたロバート・キャンベル氏の「国民等しくペラペラになる必要はない」という言葉は、このような脈絡でもって捉えるべき言葉だと私には感じられましたが、朝野をあげての英会話熱という「狂奔」の前でこんな七面倒くさいことを言っても、それこそ珍獣でも見るような目線で遇されちゃうでしょうね。

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名刺は単なるツール?

先日Twitterで見かけて、思わず笑ってしまったこちらのツイート。

笑ってしまったものの、私など若い頃にこうした「作法」を仕込まれたくちなので、今でもこれに近い形で名刺交換しています。そういえばほぼ無意識のうちに「頂戴いたします」なんてフレーズも口にしています。確かにこれは芸事の「型」に近いかもしれません。

とはいえ、茶道だってその他の芸事だって、そこで行われている「型」にはそれなりの歴史と意味があるような気もします。でもこの名刺交換に代表される日本企業ならではの「作法」は、まああまり意味ないものが多いかも知れないなと(海外で働いたり、異文化の人たちと一緒に働いたりしてきた)今では思います。

以前、いくつかの日本企業で新人研修の通訳をする機会がありました。中国や台湾などで採用した新入社員を日本の本社に呼び、一週間ほど泊まりがけでその企業の「作法」や仕事のやり方を覚えるという研修です。

そこでは名刺交換はもちろん、出社してから退勤するまでの様々な立ち居振る舞いについて日本式の「作法」が教授されていました。挨拶の仕方、お辞儀の仕方、電話の受け答え、メモの残し方、ファックス(!)の送受信などに始まり、席を立つときは椅子を机の下に入れるとか、作業中の書類を机の上に置きっぱなしにしないとか……そうした細々とした事柄が、しかしすべての具体的な「そうしなければならない理由付け」とともに指導されていたのです。

私は(もちろん通訳業務ですからできるだけ忠実に訳そうとしながらも)内心「こんなに事細かに『作法』を指導して、中国や台湾の意気盛んな若い人たちが幻滅しないかしら」とひやひやしていました。まあ、日本企業で働く以上は「郷に入っては郷に従え」で、日本式のやり方を知ることは無用なトラブルを呼ばないためにも大切だとは思うのですが、その生産性の低さがつとに指摘されている日本企業の側にも変えていくべき事柄はあるんじゃないかと。

少なくとも上掲のような名刺交換の「作法」は、特に相手を立てるために名刺入れを持った手を相手より下げるとか(お互いがやり合ってたら地面に付いちゃいそう)相手の名刺の文字が指で隠れないようにするなどを異文化の人たちにまで「指導」するのはもうやめればいいのになと思います。

最近、田中信彦氏の『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』という本を読んだのですが、この本にはこうした名刺交換に見られるような日本ならではの「作法」にも通底すると思われる、日本人と中国人のものの見方考え方の違いがとてもビビッドに描かれています。


スッキリ中国論 スジの日本、量の中国

名刺は、相手の名前や肩書きや連絡先などを知るためのツールであり、それ以上でも以下でもないと中国人なら考えるでしょうけど、日本人はたぶん名刺そのものに何か魂が宿っているような、であるからしてその交換にも一定の「作法」なり「儀礼」なりが必要だと――それが「スジ」だと――考えるのだろうなと思いました。

追記

名刺交換の「作法」なんてやめちゃえばいいのにと威勢のいいことを言っている私ですが、じゃあ自分の個人の名刺(勤め先やエージェントさんなどが用意してくれるものではなく、フリーランスとして仕事をするときの名刺)は情報を知るためだけのツールと割り切っているかというと……実はそうではないんですね、これが。

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こんな感じで、厚手の紙に活版印刷ふうの凹凸が出る印刷で作っています。これは東京都あきる野市活版印刷を手がけておられる「Bird Design Letterpress(バードデザインレタープレス)」さんにデザインと印刷をお願いしたものです。活版ならではの独特の雰囲気とシンプルなデザインが大好きで、引っ越しをするたびにこちらで新しく作っていただいています。

birddesignletterpress.com

日本人の仕事の仕方も刷新が必要だなどと息巻きつつ、こういうところに私もけっこう「スジ」を重んじる日本人的要素が残っているんだなと思います。

眠るのにも体力が要る

昨晩もトレーニングに行きましたら、ベンチプレスの休憩中、トレーナーさんにこんなことを言われました。

これだけハードにトレーニングをした日は、ぐっすり眠れるんじゃないですか?

はい、それはもうぐっすり……と申し上げたいところなんですけど、この歳になると、どんなに「ぐったり」と疲れていてもあまり「ぐっすり」と眠れません。世上よく聞く話ではありますが「眠るのにも体力が要る」のです。歳を取ると眠りが浅くなるとか早起きになるとかいいますが、あれは体力が衰えてくるからという側面もあるんですね。それを如実に感じるお年頃になってしまいました。

若い頃だったら、それはもうバリバリに眠ることができたのです。週末などお昼近くまで寝ているとか、何なら一日じゅう布団の中でまどろんでいるとか、よくやってました。今にして思えば、よくまああんなに寝られたものだと思います。若いトレーナーさんたちにそう話したら「そうそう、休みはお昼まで寝ています~!」と言っていました。

最近、自分が意識しているということもあるんでしょうが、「トレーニングと同じくらい睡眠も大切」とか「眠りの質を上げるには?」とか、そんなフレーズに接することが多くなりました。確かに、睡眠が足りないと身体が重くて仕方がありません。しかし私はいつも五時半には起きて早めに仕事場へ向かうので、仮に八時間の睡眠を確保しようとすると、夜の九時半には就寝しなければなりません。九時半? 小学生じゃないんだから。

しかし九時半に就寝したら、必ずといっていいほど夜半や明け方に何度か目が覚めます。加えて、歳を取ってトイレが近くなったので、やはり夜中に目を覚ますことがよくあります。そうやって夜中に何度も起きると、これがまた「ぐっすり」から遠ざかる原因に。こうしてどんどん「眠りの質」が下がり、眠りの質が下がると疲れが完全に取れず、昼間の暮らしや仕事に影響が……という悪循環に陥ってしまうのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_49.html

かくなるうえは、眠りの質を確保するためにも体力をつけなければいけません。体力をつけないと、QOL(Quality of Life)だけでなくQOS(Quality of Sleep)も下がってしまうわけですね。ここでなんとか踏みとどまっておかねば。というわけで、これまでにもましてきちんとジムに通おうと改めて心に誓った次第です。

ホントに家を買うつもり?

先日ネットで見つけた、こちらの記事。

toyokeizai.net

自動車や新築の家、結婚式、そして教育……これまで購入、あるいは出費して当然と多くの人が考えてきたこれらが、今とこれからも本当に必要なのか、と問う対談です。私は家は「賃貸派」で、結婚は二度しましたが式は挙げたことがなく、自動車も地方都市や田舎ならいざしらず東京に住むのなら不要と考えてきた人間なので、一読快哉を叫びました。

家は賃貸派といっても、経済的にとても買えなかった、買うことすら想像できなかったというのが正直なところです。ただ、いまこの歳になって、ローンなどの負債が全くない状態で暮らせていることをとてもありがたいと思うようになりました。

家を持つことに関してはみなさん一家言おありでしょうから私がいまさら贅言を費やすまでもないのですが、こんなに自然災害が多くて、働き方も世の中のあり方も流動的になりつつある日本というこの国で、若い頃から何十年もの負債を抱えてマイホームを持つ意味があるのかな、と思います。

私は二度結婚していますが、一度目は非常に若く貧しかったので、結婚式を挙げませんでした。実家に親戚だけが集まって会食をしただけです。近所の仕出し屋さんに頼んで、祝いのお膳を用意してもらいました(親がお金を出してくれました)。二度目は四十歳を過ぎてからだったので、細君も私も「いまさら……ねえ」という感じで、結局婚姻届をお役所に出しただけです。親戚を集めての会食はおろか、友人との食事会すらしませんでした(でもワインスクールのクラスメートがレストランで祝ってくれました)。

自動車は、これはもう東京の比較的都心近くに「職」と「住」がある方ならお分かりかと存じますが、要らないよねえ。公共交通機関で充分です。それにこの先カーシェアリングや自動運転の実現がそう遠くない未来に迫ってきた現在、個人で、それもローンを組んでまで車を持つ意義はどんどん薄れていくんじゃないかと思います。

それでも家を買わせようとする

先日、東京メトロ銀座線の外苑前駅で降りた際、ホームに不動産情報サイト「スーモ」の無料配布資料を置くラックがあるのを見つけました。ラックには「年収×家の価格」と対処された雑誌ふうの小冊子がぎっしり置かれていて、どうやら新築マンションを売り込むための宣伝媒体のようです。私はマイホームに全く興味がないので素通りしたのですが、数日経ってもう一度同じ場所を通りかかったときに少なからぬ衝撃を受けました。ラックの小冊子がほとんどなくなっていたからです。

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無料だからすぐになくなるのは当たり前かもしれませんが、この時代に新築マンションを購入しようと考える(それも若い世代の)方がそんなにいるのかしらと変な好奇心が起動して、私も残り少ない中から一冊頂戴してきました。それがこれです。

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冊子のほとんどは「マンションポエム」満載の不動産広告ですが、住宅ローンの組み方や物件の選び方、カスタマイズの仕方など若い方々に「夢のマイホーム」を買わせるための手練手管が……おっと、言葉が過ぎました。親身なアドバイスがぎっしりと盛り込まれています。

「今の家賃並みで無理なく買える?」「人生100年時代の住まい選び」「私だけの心地よい部屋をつくる」……こうしたフレーズは、「賃貸の家賃を払い続けても、自分には何も残らないんだよ? だったら、それと同じか少し多いくらいのお金をローンで払って、最終的に家を手に入れた方がいいじゃない」といった周囲の声(私も知人・友人に何度となく言われてきました)と相まって、マンション購入を考えている若い方々の背中を押すのですね。

これはまあその人の生き方や人生観の問題ですから「大きなお世話」なのですが、右肩上がりの経済成長が当たり前だった時代ははるか昔に過ぎ去り、賃金がどんどん上がっていくわけでもなく、大企業だって、あるいは銀行や証券会社といった誰もが憧れた業界だって先行きを見通せないこの時代。しかも人口の大減少を目前に控えて社会全体がこれまでのありようとは全く違う展開をしていくことがほとんど自明となってきたこの時代に、30年とか35年のローンを組んでもマンションを買いたい・買わせるってのは一体どういうことなんだろうと思ってしまうのです。

この記事では、新築の家や新車への「信仰」を斬ったあと、返す刀で教育業界にも斬り込みます。

けど「その産業自体どうなの?」と思うわけです。教育産業で言うなら、たとえば専門学校や通信の資格教育なんか、相当に悪質だと思いませんか? 資格を売りつける、教育を売りつける。夢と希望を見させて、でもそれがその後の所得につながらない。回収できないお金を投資させるワケです。

教育業界といってもいろいろあり、大学なども含めてちょっとひとしなみに語り過ぎだとは思うけれど、実は私も最近、いやここ数年同じような問題意識を抱えて悶々としています。この件については長くなりそうなので、また稿をあらためて考えてみたいと思います。

通翻訳者をないがしろにすると国益を損なう

これまでにも何度かブログでご紹介したことがありますが、逐次通訳(ちくじつうやく)を「遂次通訳(すいじつうやく?)」と書くエージェントさんからまた一斉メールでお仕事のオファーが来ました。

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このエージェントさん「X社」はすべての案件を最初から「確定案件」としてオファーを出すのが特徴です。現在ほとんどのエージェントさんが最初まず「仮案件」としてオファーを出し、クライアントが相見積もりを取ったり入札に書けたりして失注すると、その案件は「リリース」となって予定していたお仕事が消え、基本的には(よほど直近でもない限り)補償はありません。

ところがこの「X社」は最初からすべて確定案件。とはいえ、一斉メールでオファーを出しているわけですから、複数の通訳者が手をあげますよね。でもこの「X社」は採用した人以外には返事を出さないのです。つまり、採用されなければいつまでたっても、極端な話、お仕事の当日まで返事がないわけですから、こちらは仕事の予定が立ちません。「今回は残念ながらお仕事をお願いできません。今後のご活躍をお祈り申し上げます」的な「お祈りメール」すらくれないのです。

オファーメールの最後は、こう締めくくられています。

より多くの案件を皆様にご紹介するために、案件への適性上、お仕事をお願いする可能性の高い応募者の方にのみお返事を差し上げております。 全ての応募者の方にお返事を差し上げられない非礼をお詫びするとともに……(略)

まさに「非礼」だと思います。私はずいぶん前にこの「X社」から一度だけお仕事を頂いたことがありますが、その時は通常のオファーと同じような形式でしたし、担当者もとても常識的な方でした。ところがその後この「一斉メール」形式に変わってしまったのです。

これは推測ですが「X社」はクライアントへの営業スタイルを変えたのでしょう。つまりクライアントに対して「相見積もりにはせず、最初からうちに仕事をください。そのかわりレートは格安にいたします」といったような営業をかけているのではないかと。

この方式だと、クライアントは格安で発注でき、エージェントは確実に仕事が取れます。そのぶん、しわ寄せは通訳者に向かうというわけです。理想論かもしれないけれど、本来クライアントとエージェントと通翻訳者は対等であり「持ちつ持たれつ」であるべきだと思います。でも現状は、個々の通翻訳者だけにとても不公平な業界になりつつあります。

こんな「非礼」、いや「非道」は中国語通訳業界だけなのかしら、と思っていたら、Twitterで英語の通訳者さんからこのようなリプライをいただきました。

なんと、英語通訳業界まで。しかも一斉メールに加えて、案件が羅列されており、できる案件に手をあげろ……とは。こうしたやり方が通訳業界全般に広がっているということでしょうか。エージェントと通訳者の信頼関係はますます失われて行きそうです。そしてこうした「安かろう悪かろう」は回り回ってクライアントの不利益にも繫がる。

みんながアンハッピーになる道を突き進んでいるような気がしますが、「ほぼ単一言語国家」のゆえか、本邦では外語や異文化との往還に緊張感や危機感、また逆に豊かな可能性を見出していない方が——それも大企業や官公庁の方々でさえ——多いように感じます。端的に言って異文化や異言語の人たちとつきあう際の「脇が甘い」のです。

どの業界も経費削減の声かまびすしい昨今。懐具合の厳しい現状は理解できなくもありませんが、だからといって個々の通翻訳者をあまりないがしろにすると、それは回り回って国益を損なうんじゃないかとさえ思います(国益なんてナマな言葉はあまり使いたくはないですけど)。単純に「安かろう悪かろう」の通訳や翻訳で被る不利益の他に、現役の通翻訳者が業界を離れて行き(食えないから)、次の世代の通翻訳者も育たないという未来を招くからです。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_4.html
▲「いらすとや」さんって、本当に多種多様なイラストがありますね。

弓と禅

T.H.カーハート氏の『パリ左岸のピアノ工房』で、「わたし」がピアノの先生であるアンナから一冊の本をもらう場面があります。

 ある日、ベヒシュタインの譜面台にひろげた楽譜を集めていると、アンナがわたしにちょっとした贈り物があると言った。音楽に対する私の姿勢を見ていて、役に立つにちがいないと思った。そう言って、彼女が取り出したのは小さなペーパーバック版の『弓と禅』だった。それをわたしにくれて、「あなたにもわかってきているように、大切なのは姿勢なんです」と彼女は言った。
 その夜、わたしは興奮しながらその本を読み、間接的なかたちでそこにアンナの教えのいくつかを認めた。その基本的な考え方は、一見純粋に肉体的なものに思えるむずかしい技術——この場合は弓道だが——をマスターするための鍵は瞑想にあるというものだった。重要なのは集中力であり、学んでいく過程にこそ価値があるという。たとえどんなにささやかなものでも、新しい技術にはそれに固有の発見があり、満足がある。精神的な鍛錬は自分が企てたことのもたらす感覚的な喜びと同じくらい大切である。
(中略)
自分の技術を表現するためには、隙のない超脱というべきものが必要である。「リラックスしようと考えるのはやめなさい」と師は弟子を一喝する。「緊張するのは何ものにもとらわれない状態になっていないからにすぎない。しかし、すべてはきわめて単純なのだ!」

「技術をマスターする鍵が瞑想にある」と言われてしまうと、正直私などは煙に巻かれたような気分になってしまうのですが、とにもかくにもパリの物語にいきなり日本の弓道に関する本が登場したことに驚き(しかも、以前に読んだときは気にもとめなかったのです)、さっそく購入して読んでみました。オイゲン・ヘリゲル氏の『弓と禅』です。


新訳『弓と禅』 (角川ソフィア文庫)

この本は、ドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲル氏が日本滞在中の六年間にわたる(実際にはもう少し短かったようですが)弓道の稽古について後年まとめたものです。弓道の師の教えは「正しい呼吸ができれば弓を射るのが日に日に楽になる」「何をしなければならないかと考えてはいけない」「矢を射るものは私ではなく『それ』である」「的に当てようとしてはならない」「矢を射る瞬間が降りてくるまで待たなければならない」といったような、まるで禅問答にも似たものばかりです。

いや、まさしくこの本では、日本のあらゆる武道や技芸、つまり「道」に通底するものは禅の思想、さらには仏教の精神であるという点が貫かれています。私は日本の様々な「〜道」と禅、あるいは仏教とのつながりについてはこれまで漠然と「まあ茶道も華道も関係が深いよね。というか日本の文化そのものが仏教と深い関わりがあるのだから当然だよね」くらいに考えていたのですが、この本を読むと、当然どころか仏教に関する深い思弁と洞察を経なければ「道」は「道」たりえないことが繰り返し説かれています。

そして「道」には私がいま趣味でお稽古している能楽も含まれているのでした。確かに謡曲には仏教の影響が色濃く認められます(お経そのものもよく登場します)が、私はこれまで仏教が能楽に及ぼす影響についてそこまで重大なものとしては捉えていませんでした。これもまた「日本文化なんだから当然でしょ」くらいの認識で。

ところがどうやらそんなに浅く表面的なものではないらしい。むしろ仏教や禅を深く理解しなければ、能楽の奥義も感得できないらしいのです。これは困りました。私は別に能楽の奥義を悟って名手になろうなどとは思いませんし願ってもなれないでしょうけど、向き合っているものの大きさと深さに少々たじろいでしまったというのが正直なところです。これはとんでもないものに手を出してしまったのではないかと。

そういえば、お能のお師匠さんが毎度のお稽古でおっしゃることのひとつひとつが、この本に出てくる弓道の師範・阿波研造氏の言っていることと非常によく似ています。中島敦の『名人伝』に「不射の射」という言葉がありますが、そこまで究極の禅問答ではなくても、二律背反・アンビバレントに聞こえるような指摘がとにかく多いのです。

前のめりになっていると後ろに意識を残すようアドバイスされ、力を入れていると抜くように言われ、緊張が解こうとした瞬間に引き締めるよう注意されます。しかもこうしたアンビバレントなありようは、例えば発表会(温習会)の時などにとりわけ張り切って「上手くやってやろう」と考えたときに限って必ず最悪のパフォーマンスになって現れるなど、自分で何度もその“滋味(中国語に言う、何とも名状しがたい気分)”を体験済み。お稽古とは、この二律背反の両極端を振れる振り子の糸をどこで切って落とすか常に見極めようとしている、でもどこで切っても「ハズレ」……そんなもののような気がするのです。

この本を読んでも、人生に確たる指針や答えは出ませんが、少なくとも確たる指針や答えを求める時点で何かがおかしいと、頭ではなく何か別のところで納得できるような感覚だけは残ります。阿波研三師は「考えるのをやめなさい」、つまり「無心」を説いたそうですが、頭で合理的に、理詰めで押していっても埒があかないときにこうした本からなにがしかの叡智を浴びようと試みるのもよいかもしれません。

あすはちょうど能楽堂で温習会があって、私は仕舞「岩船」を舞うんですけど、ひとつ「上手くやってやろう」と思わないことを肝に銘じて切り戸口をくぐろうと思います。……って、肝に銘じようとしている時点で「アウト」かもしれませんけど。

パリ左岸のピアノ工房

小学生の頃、ピアノを習っていました。関西地方にかつてよく見られた棟割長屋のような「文化住宅」の一室が教室で、先生はその部屋でピアノだけでなくなぜか書道(毛筆と硬筆)も教えている、かなり年配のご婦人でした。

練習の順番を待つ部屋にはマンガ雑誌がたくさん置いてあって、私はそこで中沢啓治氏の『はだしのゲン』を初めて読みました。Wikipediaに載っている作品史を参照するに、おそらく当時『週刊少年ジャンプ』に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだろうと思います。

広島での被爆体験をテーマにしたその衝撃的な描写に、いつも他の生徒が弾くハノンの練習曲が交錯していました。そのおかげで、私はいまでもこの練習曲を聞くと『はだしのゲン』に出てくる悲惨なシーンの数々を連想してしまいます。

youtu.be

ピアノのお稽古は、親がせっかくアップライトピアノまで買ってくれたというのに、結局続きませんでした。私自身が飽きちゃったこともありますが、小学校の同級生から揶揄されたことも大きかったと思います。

当時、小学生の男の子はほとんど全員と言っていいほど野球帽をかぶり、「野球ができなきゃ男子じゃない」的な空気が支配していた「古き悪しき時代」でした。もう亡くなってしまった母方の叔母さんが「男の子がピアノを弾けるなんて素敵よ」と励ましてくれたこともあったのですが……もったいないことをしたものです。

それでも音楽はずっと大好きで、小学校五年生の時にはトランペットを買ってもらいました。質流れ品で、西ドイツの“Huttl(ヒュッテル)”というメーカーの楽器でした。運動会のファンファーレを吹いたり、父方の叔父さんの結婚式で「余興」としてワーグナーの結婚行進曲を吹いたりした記憶があります。中学校では吹奏楽部でユーフォニウムを吹いていましたが、その後はユーフォニウムもトランペットもやめてしまいました。

後年、大学生の時に有機農法の八百屋さんでアルバイトをしていたのですが、そこの女将さんが音楽大学出身でピアノ教室も兼業しており、そのご縁でほんの少しだけピアノを習ったことがあります。バッハの『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』あたりを何曲かやったような気がしますが、結局これも続きませんでした。

音楽にしろ、美術にしろ、好きではあったけれど、そこまでの熱意はなく、かつ向いていなかった——もっとありていに言えば「才能がなかった」んですね。ただ、うちの両親、特に父親がエラかったなと思うのは、自分は理系のエンジニアで音楽も美術もたしなまないけど、子供が芸術に興味を持つことを何も言わずに応援してくれた点です。なのに、全部途中で投げ出しちゃって、ちょっと申し訳なく思います。

圧倒的な魅力をたたえた物語

その後ずいぶん経って、書店で偶然見つけて読んだのが、新潮クレスト・ブックスの一冊として刊行されたばかりのこの本、T.E.カーハート氏の『パリ左岸のピアノ工房』でした。


パリ左岸のピアノ工房 (新潮クレスト・ブックス)

一読引き込まれ、大いに感動してもう一冊買い求め、八百屋さんでピアノの先生だった女将さんに郵便で送りつけたことを覚えています。自分で買ったほうはその後どこかへ行ってしまいましたが、なんだか懐かしくなって、Amazonマーケットプレイスでもう一度買い、読んでみました。

いや、何度読んでもこの物語、その圧倒的な魅力に引き込まれます。基本的には「パリのアメリカ人」であるカーハート氏が、パリ左岸のとある地区(カルチェ)で巡り会った、不思議なピアノ修理工房をめぐるノンフィクションなのですが、ピアノという楽器に関する歴史やその造り、社会や文化との関わりなどの知識や、様々な人々の人生模様までがふんだんに織り込まれ、汲めども尽きぬ味わいを持っています。

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https://www.the-saleroom.com/en-us/auction-catalogues/chilcotts-honiton/catalogue-id-srchil10030/lot-bad690c2-a1dd-40e6-9f0a-a7df00bb4b61

すてきなピアノ教師たち

特筆したいエピソードは多々ありますが、それはまあ実際にこの本を読んでいただくとして、カーハート氏が巡り会ったすてきなピアノの先生たちの記述には、今の音楽教育に、いやもっと広く教育全般にたりないものを示唆しているように読めて仕方ありません。まあこれは私が教育業界に片足を突っ込んでいるからでもあるのですが。

まずはカーハート氏が子供の頃、母親と一緒に学校へ姉を迎えに行った際に音楽室でふと弾いてみたグランドピアノと、その演奏をいつの間にか後ろで見ていたミス・キリアンのくだり。

 彼女は部屋を横切って近づいてくると、笑みを浮かべながら、ちょっとしゃがれた低い声でわたしを安心させようとした。「邪魔をしてしまってごめんなさい。とてもすてきだったわ。あなたはもう少しここにいるつもり?」
 分厚い眼鏡をかけた年配の女性だった。レンズがひどく分厚いせいで、その奥の目が歪んで見えた。彼女は楽譜を抱えていたが――そこで練習するつもりだったのだろうか?――ピアノの前に来ても、ずっと笑みを絶やさなかった。わたしは母と姉が先生と話をしているあいだ待っているのだと説明した。
「セーラからピアノを弾く弟さんがいるとは聞いていなかったわ。ところで、あなたも私と同じなら、演奏するときはひとりのほうがいいんでしょう? 邪魔が入らないように、ドアを両方とも閉めておきますからね」
 まるでわたしの心を読み取ったかのようだった。わたしの心の中をのぞいて、〈この少年が望んでいること〉という欄に記されている指示を読んだかのようだった。彼女は後ろを向いて出ていこうとしたが、途中で振り返って、「すばらしいピアノでしょう?」と言った。
「ええ、先生。すばらしいです」
 わたしは黙ってピアノの前に座った。見ず知らずの他人が自分の家族さえよくわかっていないことを即座に理解したのは驚きだった。

また、カーハート氏がパリ左岸のピアノ工房で、職人のリュックから“Stingl(シュティングル)”のピアノを購入した後、個人レッスンを受けたピアノ教師・アンナの演奏に対する考え方。

まずバルトークからはじめて、わたしたちはいっしょに一曲ずつさらっていった。なかにはがっかりするほど簡単な曲もあったが、アンナはもっと複雑な曲に進む前に、その和声構造をしっかり理解することを要求した。たとえ単純な作品でも、その和声構造を理解するというのはわたしにとってはまったく新しいことであり、なかなか理解できずに落胆していると、彼女はわたしのノートに「自分自身と忍耐強くつきあってやること!」と書いた。そうやって彼女は、曲の中で何が起こっているか理解せずに全部の音符が弾けるようになっても、それは空疎な演奏に過ぎないことをわたしに理解させたのである。テクニックそのものを自己目的化するのは彼女がもっとも嫌うことだった。

そして、アンナが冗談半分に「導師(グル)」と呼んで敬愛するロンドン在住の有名なピアノ教師、ペーター・フォイヒトヴァンガーによるワークショップでのレッスン。

 ペーターは思春期に独学の天才として見いだされ、その後現代最高のピアニスト――フィッシャー、ギーゼキングハスキル――に師事した。そして短期間コンサート・ピアニストとして華々しい活躍をしたが、やがてピアノ教育に専念するようになり、多くのコンサート・ピアニストを育てた独創的な教師として高く評価されている。「物事のやり方にはいろいろあるが、自然なやり方はひとつしかない」と彼は書いているが、それこそアンナがわたしに教えこもうとしていた考え方をみごとに要約した言葉だった。
(中略)
 ときには、拍子抜けするほど無邪気な質問もあったけれど、彼は生徒をばかにしたり、観客の受けをねらったりはしなかった。「どうすればそんな跳ねるようなタッチで弾けるようになるんですか?」と、ブラームスソナタを演奏した日本人ピアニストが訊いた。
「それはむずかしい質問だ。いいかね、レオナルド・ダ・ヴィンチは何年もかけて体のあらゆる部分のデッサン帳を作った。彼は耳を描き、肘を描き、手を描いた。体のすべての部分をできるかぎり多くの視点からデッサンした。それから、それをすっかり忘れて、目に見えたとおり描いたんだ。それと似たようなことをする必要があるということだろうね」

村松潔氏の翻訳が、これがまた本当にすばらしいんですよね……。この本を読むと、無性にまたピアノを習いたくなります。現在のバタバタした生活のどこにピアノレッスンの時間をねじ込めばいいのか見当もつきませんが、人生は一度きり。やりたいことをいますぐやるべきなのです。

死ぬまでにゴルトベルク変奏曲のアリアを弾けるようになったらいいな。どこかにミス・キリアンのような、アンナのような、ペーターのようなピアノの先生はいらっしゃらないかな。

キャッシュレス化をとっとと進めてほしい

一昨日の東京新聞朝刊、電子マネーで給与支払いができるようにする規制緩和は、外国人労働者の受け入れがその背景にあるのでは、という記事。なるほど。でも「給料日にお金をおろそうと銀行で行列せずに済」む以外に利点が思い付かないというのは、ん~、どうでしょう。

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いまどき給料日に銀行やATMに並んで現金を引き出すという方がそんなにたくさんいるのでしょうか。給料振込口座から各種支払い用口座に振り込むという方は多いでしょうけど、そんなに現金持ち歩かないでしょ……と思っていたら、周りから「いや、そんなことない。現金依存は、日本ではまだまだ強いよ」と言われました。「年金の支給日に、現金を下ろすために銀行に行くお年寄りも多いよ」「使いすぎを防ぐためにカードは持たず、使途別に現金を封筒に入れて管理するといった家計術も人気らしいよ」とも。

私自身はもうかなり前からネット銀行やネットバンキングしか使っておらず、銀行の窓口やATMに並ぶことはほとんどなくなりました。給料の振り込みも各種支払いも誰かへの振り込みもすべてパソコンやスマホで行っていますし、日々の買い物もほとんどすべてカードや電子マネーで、現金は持ち歩きません。特に小銭は全く持ち歩かなくなり、緊急避難的に必要なときに備えて一万円札を一枚か二枚、カード入れに忍ばせているだけです。

買い物も、現金しか使えないお店には行きません。カードが使えるけど一定金額以上じゃないとだめ(これはカード会社にもよるけど、ルール違反らしいですね)というお店にも行きません。スーパーではカード払い専用のレジに並びます(最近増えてきました)。そうやって徹底的にキャッシュレスな生活を目指しています。先般、北欧諸国を旅行して、多くの国がキャッシュレスを進めていて現金をほとんど使わず、それがとても便利だった(なにせ、海外旅行だというのに両替をしなくていいのですから)という経験にも刺激されて、ますますその傾向が強まりました。

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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_390.html

こう言うと、カードや電子マネーだけしか使えなくなれば手数料支払いが負担になる零細小売業者が取り残されるとか、お金のやりとりがすべてデータとして誰かの手に渡るからプライバシーが侵されるといった意見が出そうですが、中国をはじめとするキャッシュレス化やフィンテックの進んだ国々を見ていると、そうとも言えず、むしろデメリットよりはメリットの方が上回っていると思えるのですが……。

キャッシュレス化のメリットとデメリットに関しては、こちらのサイトが参考になりました。

no-genkin.com

先日も「Apple Pay」のマークが張られたお店でスマホ支払いをしようとしたら、店員さんが操作に慣れていないのか、結局使えませんでした。まだまだ発展途上なので色々不備はあるけれど、さっさとキャッシュレス化を進めてほしい。その意味で上記の記事も、隠された意図の発掘という点ではジャーナリズムを感じる一方で「給料日にお金をおろそうと銀行で行列せずに済」む以外に利点が思い付かないというのはやや無理があるのではないかと感じました。

追記

ここまで啖呵を切っておいて何ですが、私、お稽古事の月謝だけは現金でお渡ししています。しかも「ピン札(新札)」をお渡ししたいので、わざわざ古いお札を新札に両替してもらうためだけに銀行の窓口に並び、これもわざわざ鳩居堂みたいな和紙製品の専門店に行って熨斗袋を買い、それに入れて手渡し。なんたる旧態依然の行為でしょうか。

暮らし全般をキャッシュレス化に徹するなら「お月謝」も銀行振り込みにしてもらえばいいんです。だいたい私、お能のお師匠さんにメールで入門をお願いしたくらいの「不届き者」ですから。だけど、それはなんだか風情がないような、芸事が上達しないような気がするから自分でも激しく矛盾しているなと思います。

肩の力の抜けぐあい

長塚京三氏へのインタビュー記事、ほかにもいくつか心に残った部分があるので追記します。

www.chunichi.co.jp
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台本は、ぱらっと、大体前日にファクスでいただきます。それをそんなにあっためるということはなくてね。現場のスタジオにさらりと行って、ぼつぼつ始めましょうか、と。以心伝心のタイミングで始まります。皆さんの前で稽古もしない。大して打ち合わせがなくても、ライターさんが僕に感情移入して書いてくれてますから。映像は、くださいとお願いしていないので、スタジオ入りして初めて見ます。

この部分を読んで、玄人の能楽師さんたちと同じだなと思いました。

能楽の公演というものは、ほかの伝統芸能や演劇などと異なり、基本的に一度だけの上演で、同じ演目をマチネとソワレとか、何日も連続で興行とかいう形が取られません。しかも事前に一度だけ簡単な打ち合わせ的リハーサル(申し合わせ)を行うだけで、何度も通し稽古やゲネプロを行うということもないそう。さらには上演当日も柔軟体操とか発声練習みたいなことをほとんど行わないみたいなんですね。

これはもう、普段の稽古が積み重ねられていて、いつ何時であっても最高のパフォーマンスができ、ほかの演者と同期できるようにしてあるかということではないかと。私など、例えば中国語で話す仕事がある日は、仕事に向かう前に「暖機運転」的に中国語のシャドーイングなどをやらないと「朝イチ」でわーっと喋ることができません。同じ声を使う仕事でも、この違い。長塚京三氏や能楽師のみなさんのすごさが分かります。

僕は、芸に関しては「自分が気持ち良くなりすぎてはいけない」と思うんです。自分を戒める意味でね。程の良さというか、寸止めというかが、良いものをつくるには必要なんで。

これもよく分かるなあ。先日も書きましたけど、例えばうちの留学生が取り組んだお芝居にしても、だんだん完成に近づいてくると欲が出て「小手先のウケ狙い」に走りがちなんですよね。それはまさしく「自分が気持ちよくなりすぎる」だけで、観客は逆に白けたり引いたりしてしまう。そこをいかに抑えて、本来の「正攻法」に戻せるかが肝要で。

qianchong.hatenablog.com

(ナレーションを)録音して自分で聞き比べて確かめるということはしません。そうすると、また「よりお上手にやってみようか」と下心が出ちゃう。まあ、緊張感を持った上で、えいっ、と一瞬の勝負でやるということなんだな。

これも上記の内容と似ていますが、色気や欲が出るとかえってつまらなくなるということですかね。もちろん一瞬の勝負に「えいっ」と出てもそこそこのクオリティになるほど基礎がしっかりしていなければお話にならないでしょうけど。

人前で話をするとき(授業やらセミナーやら講演やら)に、あまり言いたいことばかり盛り込んで原稿や教案やプロットを作り込みすぎると、かえって聞き手にとどかないということがあります。もちろん「行き当たりばったり」ではかなりの確率で失敗しますが、自分の中だけで話の内容を比較検討して詰めるだけではなくて、当日の聞き手の反応に合わせて勝負する、聞き手とのインタラクションに身を委ねるみたいなところを残しておくことが意外に大切だったりするのです。

イラストの仕事をしていたときも同じようなことを感じました。「お上手に描こう」としてあれこれ盛り込む意識がはたらくと大抵つまらない絵になる一方で、何気なくえいっと描いたものが意外によかったりする。私はその差が激しくてプロになりきれませんでしたけど、本物のプロはその「えいっ」でも当たる頻度がとても高いのかな、と思います。

その道を究めた方だからこそできる、こうした「肩の力の抜けた」仕事の仕方。いつになったらそんな境地に至ることができるのかなと思うと同時に、いつになったらと待ち焦がれているうちは至らないのだろうなとも思いました。

引き際と語学講師の待遇について

先日の東京新聞朝刊に、俳優の長塚京三氏へのインタビュー記事が載っていました。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018110202000253.htmlwww.chunichi.co.jp

JR東海のCM「そうだ京都、行こう」のナレーションに25年でひと区切りをつけることについて、「惜しむ言葉をたくさんいただくうちが理想的な引き際」とおっしゃっていて、本当にその通りだなあと思いました。

youtu.be

引き際を逃してしまう方って、様々な業界にいらっしゃるじゃないですか。それはご本人の執着でもあるかもしれませんが、むしろ周りが「引かせない」ということもあります。その方が、その業界での大御所であったりした場合は特に。

学生時代に、故・永六輔氏の講演を聞いたことがあります。その中でとても印象深かったのが、文学座の看板俳優であった故・杉村春子氏の当たり役、『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ作)のブランチに関する意見です。永六輔氏いわく「いつまでも主役を張っていてはいけない」。当たり役だからといって、その人がいつまでもその役を手放さないでいたら、後進が育たない。それに高齢の大俳優になるほど、中年のブランチという人物の造形とはかけ離れていき、無理が生じるが、それを周りも指摘できないようになっていくと。

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http://www.bungakuza.com/about_us/michi/sugimura2.html

そして永六輔氏は、このようなことも言っていました。「杉村さんほどの実力ある大俳優が一歩引いて若手を引き立てる一方で、脇役やチョイ役で登場し、その短い登場時間の中でも『さすがは杉村春子』と大向こうをうならせるいぶし銀の演技を見せる方がよほどカッコいいではないか」。

「いつまでも主役を張ってるんじゃないよ」という、永六輔氏一流の、愛のある批判だと思いました。もっとも文学座には文学座で「後年高齢となった杉村自身を始め、文学座の多くの関係者が『ブランチ役を杉村から太地喜和子にバトンタッチしたい』と熱望していたというが、その矢先太地が事故死し、叶わぬ夢となった(Wikipedia)」という事情があったのだそうですが。

自分の引き際

こうした大俳優さんたちのエピソードを自らに引きつけて考えるのもおこがましいのですが、私も最近「引き際」ということをよく考えます。人生百年時代などと言われ始めている現代、まだまだ働いていかなきゃいけないし、だいたい今の自分の仕事だって全然究めていないんですけど、それでも徐々に引いて行きつつ若い方に仕事を渡していかなければと思うのです。

現在いくつかの学校で担当している通訳や翻訳の訓練だって、私は家族の事情もあってもう第一線で通訳や翻訳をバリバリやっていないし(いや、もともと第一線になどいたことないし)、そろそろ引き際だ、若い方に手渡していきたい……とここ数年ずっと思っているんですけど、若い世代で通訳や翻訳の講師をできる・やってくださる方がなかなかいないのです。

語学業界は「食えない」という印象(いや実態ですかね)からか、なんだか若い方が少ないような気がします。非常勤講師の報酬も語学系は安すぎますよね。私が以前非常勤で奉職していたいくつかの中国語学校では、講師の時給はどこも3000円程度でした。これ、知人や友人に言うと「時給3000円? 高給じゃないの!」と言われるのですが、いやいや、授業というのはその授業のコマだけで完結するものではなく、教材の作成や教案の準備など様々な作業時間が付帯するものですからね。

翻訳科目などでは、授業時間外に職場や自宅で大量に添削してもその分の時間は報酬が出ませんし、通訳科目だって「ありもの」の教材はそのまま使うには無理があるので結局オリジナルの教材を作ることになります。その教材作成は当然ながら時給が支払われている授業時間外で行うわけですが、教材作成費をくださる学校は少ないです*1

また授業自体も、音声や映像の機材などの準備があるので、きっちりそのコマの時間だけ行くというわけにはいかず、結局無償労働が発生してしまうんですよね。かといって常勤講師は常勤講師で、授業以外に生徒さんのケアや様々な事務作業に忙殺されています。例えばいま私が勤めている専門学校であれば、進路相談や留学生のアルバイトや生活上の相談、入管への報告のための出席管理などで常勤講師も「いっぱいいっぱい」の状態。常勤講師の中にも仕事を自宅へ持ち帰っている方がいます。

もちろんこれらの状況は、いま何かと巷間かまびすしい「生産性の向上」が求められる件ではあるかもしれません。とはいっても語学系のお仕事の、それも非常勤講師のこの待遇の悪さときたら。若い方が担ってくださらない・育たないのも宜なるかな、という感じがします。

この件に関してTwitterでつぶやいていたら、こんなリプライをいただきました。

これは驚きの給与水準です。比較するのも失礼かもしれませんが、これではコンビニやファストフードのアルバイトとほとんど同じではないですか。これはやはりこの国の、言語を扱う仕事に対する認識の浅さが背景にあると思います。何度も申し上げていることではありますが、その言語が話せれば教えられる、話せれば訳せる(口先でちょろちょろっと話すだけだから簡単でしょ)……という。

*1:現在奉職している都内の通訳訓練校では、先輩の通訳者さん数名と共同で「団交」を行い、教材作成費をいただけるようになっています。ありがたいことです。

ポリリズムと変拍子

ポリリズム」という曲をご存じでしょうか。

youtu.be

10年以上も前に発売された、Perfumeの代表作となっているこの曲。この「ポリリズム」が世に出る前の経緯をウィキペディアで読むと、少なからず驚きます。途中で出てくる複合拍子(ポリリズム:二つ以上の異なる拍子・リズムが同時に演奏されること)の循環(ポリループ)について、「レコード会社・所属事務所双方からの反対があった」というのです。

レコード会社である徳間ジャパンコミュニケーションズ側からは「音飛びと間違われ不良品扱いされる恐れがある」と難色を示されていた。(中略)また所属事務所であるアミューズ側は、テレビやラジオなどで披露できないことを理由としてポリループ部分の変更を決断した。
ポリリズム (Perfumeの曲) - Wikipedia

未知のもの、新しいものに対して、「前例がないから」とか「失敗したら誰が責任を取るのか」などの理由で頑なに拒絶反応を示す、まあ「抵抗勢力」とでも言うんですか、そういう人たちはどの業界にもいるものですが、芸術の最先端を切り開いていくべきレコード会社やプロダクションでさえも例外ではないんですね。

もっとも、純粋な芸術の追究ではなく利益が出るかどうかの「商売」をやってらっしゃる方々の理路からすれば当然の反応かもしれませんけど。でも、ポリリズム自体は特に未知でも新しくもなく、様々な民族音楽や古典から現代につながる音楽の中で繰り返し扱われてきた素材ですし、この曲が大成功したことを知っている現在から批判するのはずるいとは思いつつも、当時の「抵抗勢力」さんたちの反応(それも芸術やエンタテインメントを扱う業界の方々の)に、ちょっと驚きを禁じ得ません。

それにしても、そうした「抵抗勢力」さんたちに対して、くさらずに説明や説得を繰り返し、しぶとく対案も提示しながらこの曲を世に送り出した中田ヤスタカ氏(この曲の作詞作曲者です)の粘り腰には学ぶべきところがたくさんあると思います。私のようにとても短気で「イラチ」な人間は、特に。

このPerfumeポリリズム」に関しては、YouTubeにとても面白い動画があります。不思議な大阪弁を駆使するDr. Capital氏によるこの動画、とても分かりやすくポリリズムが解説されています。

www.youtube.com

ポリリズムを使った楽曲は、よほどリズム感に長けていないと演奏したり歌ったりすることはできないでしょうね。私はあまりリズム感が備わっていないせいか、逆に昔からこういうポリリズム変拍子に興味があって、好んで聴いてきました。

例えばスティーブ・ライヒ氏の「オクテット(八重奏)」という曲は、五拍子で書かれています。一小節に四分音符が四つだと4/4、つまり四拍子なのですが、この曲は5/4、つまり一小節に四分音符が五つ入り、それが繰り返されていくのです。


www.youtube.com

こうした楽曲は、四拍子や三拍子など身体になじんだリズムとは異なっているので、聴いているとなんだか身体が内側から揺さぶられるような感覚を覚えます。

スティーブ・ライヒといえば「フェイズ・シフティング」といって、最初はユニゾン(複数の音や声が同時に重なって行われる演奏)だった複数のメロディループが徐々にずれていくことで重層的な音を作り出していくという手法があり、こちらは聴いているとちょっと気持ち悪くなるような感覚がある(例えば「ピアノ・フェイズ」など)のですが、「オクテット」の五拍子はむしろ規則正しいかっちりとした構成で、なおかつ日常とは異なる新鮮な感覚を味わうことができます。

仕事で思わぬ「抵抗勢力」に出くわしたり、「わからずや」の上司に歯がみすることがあったりしたら、ポリリズム変拍子に身を委ねて中田ヤスタカ氏の「粘り腰」を思い出してみるのもいいかもしれません。人によってはかえって神経が参っちゃうかもしれませんけど。

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追記

上記のDr. Capital氏によるこの米津玄師「Lemon」の解説も、とても聴き応えがあります。

www.youtube.com

専門家によるこうした解説は本当にありがたいですね。井上ひさし氏の「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」を思い出しました。

微熱山丘のりんごケーキ

いつもトレーニングに通っているジムへ行く途中に、材木をまるでかぎ針編みのように組み合わせたような奇妙な外観の建物があります。外国から見えた建築ファンと思しき方々がよく写真を撮っているこの建物、台湾の“鳳梨酥(パイナップルケーキ)”で有名な「微熱山丘(Sunny Hills)」の東京店です。

www.sunnyhills.com.tw

先日の夕刻にここを通りかかったら、お店の前に大きなリンゴのオブジェが置かれていました。りんごケーキの販売が始まったというマークかしらと思ってお店に入ってみれば、案の定その通りでした。こちらのリンゴケーキはいつもネットショップや一部店舗での限定販売ばかりで手に入れにくいのですが、今なら楽に買うことができます。

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紅玉りんごを似たフィリングは甘さかなり控えめで、香料などのよけいな香りがせず、シンプルな味わいです。パイナップルケーキはÉchiréのバターを使っているそうですが、りんごケーキのほうはFléchardを使っているそう。材料にこだわりまくっているせいか、これがブランドの威力というべきか、パイナップルケーキ同様ひとつ300円というやや「強気」のお値段設定。でもとてもおいしいです。表面に薄く塗られたアイシングがまた魅力的ですね。

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微熱山丘って、そのシンプル志向や商品ラインナップの極端な絞り込み、そして高価格設定など、ブランド作りの一つの典型例ですよね。スコット・ギャロウェイ氏が『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』で「不合理だがセクシー」と評した、少し前までのAppleが目指していたものに似ているような気がします。

そういえばÉchiréも似ています。こないだ新宿伊勢丹の地下を通りかかったらÉchiréの焼き菓子を売るお店ができていて、そんなに並んでいなかったので買おうかなと思ったら、お向かいの階段の踊り場からさらに後ろまでずっと列ができていてあきらめました。私は洋服などのブランドにはあまり心ときめかないのですが、食べ物のブランドにはとことん弱くて、毎度おのれのスノッブさにあきれてしまいます。

www.kataoka.com

でも、ちょっと夜に飲みにでも出かければ、一皿800円とか1000円とかの料理をいくつも頼んで客単価としては数千円は簡単に支払っちゃいますよね。それに比べれば一個300円のりんごケーキも、一個500円もするÉchiréの小さなポーションも安……くはないけど、まあ支払えない額ではない。私は昔に比べて外食というものをほとんどしなくなりましたが、その理由の一つは同じ額を支払うならこういう「好きだけどちょっとお高い」ものを食べる方が外食よりもずっと楽しいと思うようになってきたからです。プロの料理はまた別の世界ではあるんですけど。

というわけで、今日はこれを作ります。牛すね肉を500グラムも買ったらたぶん3000円くらいはするでしょうけど、外食することを考えたら安いですよね。

cakes.mu

馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない

学校の文化祭で留学生が演じる日本語劇、昨日の初日はなんとか滞りなく上演できました。途中で一、二度台詞が飛んだ場面があって、舞台袖に「プロンプター」として陣取っていた私が失念した台詞を入れたのですが、あとから留学生に「センセ、余計に緊張するから台詞を入れないでください」と逆に「ダメだし」されちゃいました。わはは、ごめんなさい。舞台は役者のもの、今日はみなさんを信じてすべて任せます。

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ところで、曲がりなりにもこれだけの「達成感」をみんなで味わっていると、留学生の中には内心忸怩たる思いに駆られる人たちが何人か出てきます。それは授業にきちんと出席してこず、お芝居の練習もサボってばかりだったので、主任の先生が業を煮やして、ついにキャストやスタッフの役割を干されてしまった人たちです。

もともとこの文化祭の日本語劇は、通訳訓練の一環としての「日本語の音声訓練」の延長として位置づけており、春の開講時、いえ、入学前の面接時から「これこれこういう意味合いで、こういう取り組みをしますよ」と繰り返し説明してあります。何のためにこの訓練をするのかが明確でなければ積極性も生まれないし訓練の効果も望めないからですが、やはり何十人もいる留学生の中にはついつい自堕落に流れて真面目に取り組まない人が出てきてしまうんですね。まあ異国での慣れない生活に加えて、たくさんの宿題や課題、さらにはアルバイトなどで疲れて、つい易きに流れてしまうのは分からなくもありませんが。

ただ、私たちの課程は「義務教育」ではありません。もちろん学ぼうとする人に学びの機会を最大限与えたいという思いは強く持っているつもりですが、だからといって「運動会の徒競走でみんな手をつないでゴール」みたいな方針は採らないことにしています。留学生のみなさんの自主性は最大限尊重しつつも、ある程度の規律や統率、さらには指揮・命令を通じたある種の「圧力」も注意深く使います。また、一般のお客様にも見てもらう以上、ある程度のクオリティも追求します。

そういった状況の中で、結果的に「干されてしまった」人たちが今年も何人か出てしまいました。それでももちろん文化祭当日に学校へ来た場合にはその場でできる役割、例えばお客さんの呼び込みや誘導などを担当してもらいます。でも、真面目に訓練に参加してキャストやスタッフとして力を発揮し、外部のお客さんたちから拍手喝采やお褒めの言葉をいただいて、充実感や達成感に浸っている同級生たちを見ていると、ああ羨ましいな、自分も真面目にやっていればよかったな、と思うのでしょうか、「センセ、私も何かやりたいんですけど……」と申し出てきます。

そうした充実や達成をみたのは、きちんと訓練に参加してきた同級生たちの努力によるものです。ですから、普段はサボっておいて、他の人が努力して積み上げた達成にポンと乗っかっちゃうのは虫がよすぎるのですが、そこはそれ、私たちは別に意地悪をしたいわけではないので、生徒がそれなりの反省を示して「誠意」を見せれば、何かの役割を振ります*1。ほんとうはこういうアメとムチみたいなこと、やりたくないんですけどね。そういうのは家庭のしつけでやってほしいというのが正直なところ。

例えば、いつも朝遅刻して来たあげくに「干されてしまった」留学生には、「文化祭の時くらいきちんと定時に、いや、いつもより30分早く来てみませんか。私たちもそれより前に来て待ってますから」と告げます。今年の場合は、全員きちんと登校してきました。やればできるじゃないですか。やはり、自分の中から「これをやりたい!」という思いがわかなければ、いくらこちらが言っても行動にはつながらないということですね。「馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」という言葉を思い出しました。

*1:今年初めて発見したことなのですが、華人留学生の場合、中国語で「道理」を説くとかなり深く反省するみたいです。ふだん日本語で注意しているときは上の空で聞いている人でも、中国語で注意するとかなり表情が変わるんですよね。あるいはふだんあまり日本語がよく聞き取れていないのかもしれません。

大きな声が出せない?

通訳訓練や、通訳訓練の基礎となる日本語の音声訓練、さらには豊かな表現力を身につけるための演劇訓練。私は昔からこういう訓練、特に声を出す訓練に興味があって、いろいろな学校や教室やワークショップに参加してきました。それが今のお仕事に(ほんのわずかながらも)活きていると思うのですが、自分が教わってきたスキルを逆に教える立場になってみて、時折「私は大きな声が出せません」という方に出会うことがあります。

大きな声といっても実はその定義は曖昧で、単に「dB(デシベル)数」などで測れるものでもありません。もちろんそれなりの音量・声量は必要ですけど、大きな声というよりは「人に届く声」とでもいった方がよいかもしれません。物理的に考えれば、声量が大きければ、その空気の振動が人の鼓膜まで伝わって声が届きやすい……と考えるべきですが、「人に届く声」は、どうもそれだけではないようなのです。

人に届く声を出すためには、多少の練習や訓練が必要です。そのためにアナウンス学校や演劇のワークショップなどでは、よく声をボールに見立て、そのボールが相手の胸に「どしん」と届くイメージで発声練習をしたりします。どんなに声が大きくても、相手の胸元に声が「どしん」と届いていなければ「ああ、頭の上を声のボールが飛び越えていきましたね」とか「私の手前で落ちてコロコロ転がっていますね」などという形容で「ダメ出し」をされます。

一見非科学的にも聞こえるこれらの説明、実際に訓練に参加してみると実によく腑に落ちます。声は単なる空気の振動ではなく、なにか手に取ることができるくらいの量感を持った存在に感じられるのです。

で、「私は大きな声が出せません」さんですが、私はこれ、確かにそういう方もいるだろうなと思う反面、半ば嘘ではないかとも思っています。というのも、人間誰しも自分が危機的な状況に陥ったら大きな声を出すだろうからです。何か大変な状況が起こったとき、例えば自分の家が火事になったとか、往来で大好きな俳優さんと出くわしたとか、そんなときにも蚊の鳴くような声で「かじだ~」とか「あ、じょにー・でっぷだ」などという人がいるでしょうか。ま、驚きや恐怖や喜びのあまり声が出ないということはあるでしょうけど。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_31.html

たった二十年ほどですが、私が見てきたところでは、「大きな声が出せない」という方は実は頑固で強情で我の強い方が多いです。我の強い人ほど大きな声を出すんじゃないかって? いや、それがどうも逆のようなのです。

我の強い人は自分を変えることを頑なに拒みます。いっとき恥を捨てて、今の自分とは違う自分の状態にチャレンジしたり飛び込んでみたりすることができない。もしかしたら自分は大きな声が出せるかもしれない、ひとつやってみようと踏み出すことができないのです。これはもう、その人の生き方、あるいは器量の問題といってもいいかもしれません。

いえいえ、もちろん人間にとって大きな声だけが至上価値ではありませんから、我が強くて大きな声が出せなくても、それはそれで構わないのです。ただ、非常に申し上げにくいのですが、そういう方は声を届ける商売、例えば声優や教師やアナウンサーや通訳者などのお仕事にはあまり向いていないのではないかと思います。

何事にも向き不向きはありますから、これは仕方がないのですが、私たちの悩みは「どうしても大きな声が出せない。でも声を出す仕事に就きたい」という生徒さんにどう指導すればよいか……なのです。“江山易改禀性难移(山河や国家は容易に移り変わるが、人の性格はなかなか変わらない≒三つ子の魂百まで)”といいますからねえ。

小手先の技術に頼らない

学校の文化祭で披露する留学生の日本語劇、今週末の本番を前に、実際の舞台(といっても教室を利用した簡素なものですが)でゲネプロ(本番と同じように舞台で行う通し稽古)が始まりました。この期に及んでまだ台詞がうろ覚えという人もいますが、だんだん動きや感情も伴った演技ができるようになってきました。

ところで毎年、舞台の仕上げというこの段階になると気づくことがあります。それは留学生のみなさんが「小手先のウケ狙い」に走ろうとすることです。それまではなかなか恥を捨てきれず、人前で台詞を喋ったり、ましてや喜怒哀楽を身体全体で表現したりすることがなかなかできない、つまり「役に入りきれない」方が多いのですが、この段階になってだんだん吹っ切れてくると、今度は逆にウケを狙おうという欲が生まれてくるのです。

やる以上はウケたいという気持ちは十分に分かるのですが、それらの狙うウケは往々にして「内輪ウケ」であったり「独りよがり」であったりします。やっている本人たちは盛り上がっているのですが、見ている観客は逆にしらけてしまう。これが少々怖いところで。こんなとき、私たちはもう一度原点に戻るよう呼びかけます。

そもそもこの課題は「パブリックスピーキング(人前で説得力のある話し方)をする」あるいは「他人に聞きやすく分かりやすい声を届ける」ために、活き活きとした日本語の音声訓練をするというのが主軸です。留学生による文化祭の出し物だからと平易な日本語で「お遊戯」をするのではなく、逆に容赦のない本格的な大人の日本語で(そこには上品な言葉も、逆に下卑た言葉も、さらには流行語や方言なども含まれます)大量の台詞を正確に喋り倒す。堂々とした説得力のある日本語を駆使して観客を圧倒することで感動をもたらしたいのです。小手先のウケ狙いなどには走らず。

確かな基礎技術が培われないうちに、小手先の表面的な技術でウケを狙っても、受け手には薄っぺらい印象しか伝わらない――これはたぶんどんな分野にも通じる道理じゃないかと思います。例えがあまり適切じゃないかもしれないですけど、ほら、ときどき小手先のアイデアは満載で「凝り凝り」なんだけど、ちっともおいしくないラーメンってあるじゃないですか。あんな感じです。

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▲『ラーメン発見伝』第20巻より
https://www.amazon.co.jp/dp/4091814565/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_WCv2Bb11Y65Z8

というわけで、いよいよ今日は最終リハーサル。明日と明後日が本番です。留学生のみなさんが、小手先の技術に頼らない「ど真ん中・王道」の日本語で観客を圧倒して、なにがしかの達成を感じてもらえたらいいな。健闘を祈ります。

D館の「D38a」教室です。

  世界三大料理 ベタ禁止法
11月2日(金) 13:30/14:30 13:00/14:00
11月3日(土) 11:00/13:30/14:30 10:30/11:30/13:00/14:00

http://www.bunka.ac.jp/contents/2018bunkasai.pdf

qianchong.hatenablog.com