インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

弓と禅

T.H.カーハート氏の『パリ左岸のピアノ工房』で、「わたし」がピアノの先生であるアンナから一冊の本をもらう場面があります。

 ある日、ベヒシュタインの譜面台にひろげた楽譜を集めていると、アンナがわたしにちょっとした贈り物があると言った。音楽に対する私の姿勢を見ていて、役に立つにちがいないと思った。そう言って、彼女が取り出したのは小さなペーパーバック版の『弓と禅』だった。それをわたしにくれて、「あなたにもわかってきているように、大切なのは姿勢なんです」と彼女は言った。
 その夜、わたしは興奮しながらその本を読み、間接的なかたちでそこにアンナの教えのいくつかを認めた。その基本的な考え方は、一見純粋に肉体的なものに思えるむずかしい技術——この場合は弓道だが——をマスターするための鍵は瞑想にあるというものだった。重要なのは集中力であり、学んでいく過程にこそ価値があるという。たとえどんなにささやかなものでも、新しい技術にはそれに固有の発見があり、満足がある。精神的な鍛錬は自分が企てたことのもたらす感覚的な喜びと同じくらい大切である。
(中略)
自分の技術を表現するためには、隙のない超脱というべきものが必要である。「リラックスしようと考えるのはやめなさい」と師は弟子を一喝する。「緊張するのは何ものにもとらわれない状態になっていないからにすぎない。しかし、すべてはきわめて単純なのだ!」

「技術をマスターする鍵が瞑想にある」と言われてしまうと、正直私などは煙に巻かれたような気分になってしまうのですが、とにもかくにもパリの物語にいきなり日本の弓道に関する本が登場したことに驚き(しかも、以前に読んだときは気にもとめなかったのです)、さっそく購入して読んでみました。オイゲン・ヘリゲル氏の『弓と禅』です。


新訳『弓と禅』 (角川ソフィア文庫)

この本は、ドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲル氏が日本滞在中の六年間にわたる(実際にはもう少し短かったようですが)弓道の稽古について後年まとめたものです。弓道の師の教えは「正しい呼吸ができれば弓を射るのが日に日に楽になる」「何をしなければならないかと考えてはいけない」「矢を射るものは私ではなく『それ』である」「的に当てようとしてはならない」「矢を射る瞬間が降りてくるまで待たなければならない」といったような、まるで禅問答にも似たものばかりです。

いや、まさしくこの本では、日本のあらゆる武道や技芸、つまり「道」に通底するものは禅の思想、さらには仏教の精神であるという点が貫かれています。私は日本の様々な「〜道」と禅、あるいは仏教とのつながりについてはこれまで漠然と「まあ茶道も華道も関係が深いよね。というか日本の文化そのものが仏教と深い関わりがあるのだから当然だよね」くらいに考えていたのですが、この本を読むと、当然どころか仏教に関する深い思弁と洞察を経なければ「道」は「道」たりえないことが繰り返し説かれています。

そして「道」には私がいま趣味でお稽古している能楽も含まれているのでした。確かに謡曲には仏教の影響が色濃く認められます(お経そのものもよく登場します)が、私はこれまで仏教が能楽に及ぼす影響についてそこまで重大なものとしては捉えていませんでした。これもまた「日本文化なんだから当然でしょ」くらいの認識で。

ところがどうやらそんなに浅く表面的なものではないらしい。むしろ仏教や禅を深く理解しなければ、能楽の奥義も感得できないらしいのです。これは困りました。私は別に能楽の奥義を悟って名手になろうなどとは思いませんし願ってもなれないでしょうけど、向き合っているものの大きさと深さに少々たじろいでしまったというのが正直なところです。これはとんでもないものに手を出してしまったのではないかと。

そういえば、お能のお師匠さんが毎度のお稽古でおっしゃることのひとつひとつが、この本に出てくる弓道の師範・阿波研造氏の言っていることと非常によく似ています。中島敦の『名人伝』に「不射の射」という言葉がありますが、そこまで究極の禅問答ではなくても、二律背反・アンビバレントに聞こえるような指摘がとにかく多いのです。

前のめりになっていると後ろに意識を残すようアドバイスされ、力を入れていると抜くように言われ、緊張が解こうとした瞬間に引き締めるよう注意されます。しかもこうしたアンビバレントなありようは、例えば発表会(温習会)の時などにとりわけ張り切って「上手くやってやろう」と考えたときに限って必ず最悪のパフォーマンスになって現れるなど、自分で何度もその“滋味(中国語に言う、何とも名状しがたい気分)”を体験済み。お稽古とは、この二律背反の両極端を振れる振り子の糸をどこで切って落とすか常に見極めようとしている、でもどこで切っても「ハズレ」……そんなもののような気がするのです。

この本を読んでも、人生に確たる指針や答えは出ませんが、少なくとも確たる指針や答えを求める時点で何かがおかしいと、頭ではなく何か別のところで納得できるような感覚だけは残ります。阿波研三師は「考えるのをやめなさい」、つまり「無心」を説いたそうですが、頭で合理的に、理詰めで押していっても埒があかないときにこうした本からなにがしかの叡智を浴びようと試みるのもよいかもしれません。

あすはちょうど能楽堂で温習会があって、私は仕舞「岩船」を舞うんですけど、ひとつ「上手くやってやろう」と思わないことを肝に銘じて切り戸口をくぐろうと思います。……って、肝に銘じようとしている時点で「アウト」かもしれませんけど。