インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

星条旗迎風飄揚

先日、通訳訓練のクラスで使った教材に、数字の単位である“萬億”が出てきました。「億が一万個」ということですから「兆(ちょう)」ですね。こうした単位は訳しまちがえると「致命的」なので特に注意が必要なのですが、中国出身の方々はすんなり訳せた一方で、台湾出身の方々は「?」という表情でした。台湾では一般的に、日本と同じように「兆」を使うからでしょう。

ただ、私のような中国語非母語話者が申し上げるのも大変口幅ったいのですが、“萬億”が初耳だってのがバレちゃうのは、一般の方々ならいざ知らず、通訳訓練を行うレベルに達した方々としては少々不覚を取ったと言えるかもしれません。仕事の現場で通訳を担当する際に、その華人がどの地方や地域の出身であるかは分からないわけですから。プロを目指しているわけですし、可能な限りさまざまな表現になじんでおきたいところです。

中国語は使われている地域が広いので、表現のバリエーションもそれはそれは裾野が広い言語です。でも母語話者である当の華人ご自身が、その「広範さ」をあまり自覚していらっしゃらないようにお見受けすることが往々にしてあるんですよね。自分の知らない中国語の表現に遭遇した際に、大胆にも「そんな中国語はない」と言い切っちゃう方がけっこういるのですが、もう少し言語というものに対して謙虚になりたいものです。いやこれは自戒も込めて。在日華人のみなさんも、せっかく中国からも台湾からも距離を置いた「第三国」としての日本にいるのですから、ぜひより広範囲に語彙収集の投網を広げてほしいと思います。

また別の日には、通訳訓練に使った教材で面白い表現に出会いました。スマホの“得到”アプリで聞ける羅振宇氏の『羅輯思維』という番組のひとつで“為什麼沒人在登月(なぜ人類は再び月に行けていないのか)”という興味深いテーマなのですが、その中に、かつてアメリカが月面着陸を果たしたアポロ計画に対して「アレは陰謀だった」という声があることを紹介するくだりがあって、こんなことを言っています。

這也就難怪在美國有人搞那種陰謀論,說美國政府說當年登月,那完全是一場騙局,你看發佈的那些照片都是假的,視頻也是偽造的。比如你看,月球上沒有空氣、沒有風,為什麼登陸月球的星條旗會“迎風飄揚”呢?

(人類はもう40年以上月に行けていないので)アメリカで「陰謀論」が渦巻くのも無理からぬところがあります。つまり、アメリカ政府が当時月面着陸を果たしたというのは、すべて捏造だというわけです。発表された写真はすべて嘘で、映像も偽造されたものだと。例えば、月面には大気がなく、従って風もないのに、なぜ月面に立てられた星条旗が風にはためいているのかと。

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Nasa Moon Photos — LBC9 News

この最後の「星条旗が“迎風飄揚”(風を受けてはためいている)」という表現、中国出身の方ならすぐに分かるはず(最近のお若い方はどうだかわかりませんけど)。中国ではとてもよく知られた『歌唱祖國』という曲の歌い出しに“♪五星紅旗迎風飄揚……”とある、その歌詞の引用だからです。まあ羅振宇氏は一種の諧謔でこの「五星紅旗(中国の国旗)」を星条旗にかえてしゃべっているわけですが、こういう諧謔のニュアンスはちょっと訳しにくいですよね。文化背景が違うわけですから。

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まあそれはさておき、この部分も中国出身の方々が「ぷっ」と吹き出す一方で、台湾出身の方々は「?」という表情でした。そりゃまあそうです。文化背景というより、これはもう政治的な背景で、これまで接することがなかった類いの歌でしょうから。もっとも、ほかのクラスではこの歌を「中国の国歌です」とおっしゃった中国出身の方がいましたから、どっちもどっちという気もしますが(生徒さんの名誉のために付記すると、こうした背景をよく知っている方ももちろんいます)。

ただ……これもまた通訳訓練を行うレベルに達した方々としては、訳出に活かせるかどうかは別として、一般常識として知っていると「かっこいい」んじゃないかと思うんです。ふだん、いわゆるひとつの「メンツ」にあれだけこだわる人たちなのに、こういうときは「知らない」の一言で済ませちゃって、けろっとしているのがちょっと不思議です。これはまあ“職業精神(プロ意識)”の多寡という問題ですかね。

追記

『歌唱祖國』といえば、中国に留学していた頃の生活を思い出します。当時は毎朝六時になると、校内のいたる所にあるスピーカーからラジオ放送の「今日は19××年、×月×日、×曜日」という声に続いてこの曲が流れていました。冒頭のファンファーレを聞くと、早朝の雰囲気を思い出します。ラジオ放送を聞きながら大学図書館脇の林まで走って行って、中国人学生と一緒に太極拳を学んでいました。

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留学生のみなさんに聞いてみたら、現在の大学ではもうラジオ放送を大音量で流していないみたいです。まあそうですよね、朝っぱらからあの勇ましい音楽がかかるのは、ほとんど“擾民(近所迷惑)”でしょうから。