インタプリタかなくぎ流

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HHhH

2014年の本屋大賞翻訳小説部門で第1位となり、その後『ナチス第三の男』の邦題で映画化もされたローラン・ビネ氏(翻訳は高橋啓氏)の『HHhH プラハ、1942年』を遅ればせながら読みました。このところロシアとウクライナの戦争に関する書籍や双方の歴史に関する書籍を片っ端から読んでいて、その途中で偶然見つけた一冊でした。


HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

ドイツ語の“Himmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)”から頭文字だけ取った HHhH が原書のタイトルで、日本語版ではこれだけじゃ何のことかわからないだろうという配慮からか「プラハ、1942年」という副題がつけられています。その副題の通り、この作品はチェコナチス・ドイツによって保護領とされていた1942年に、亡命チェコスロバキア政府と英国(連合国)の差配でプラハに送り込まれたパラシュート部隊による、保護領総督(実際には副総督)ラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド作戦(類人猿作戦)」を題材にした小説です。

小説とはいっても、この作品は膨大な資料を元に作戦の背景から顛末までを詳細に記した歴史小説、あるいはルポルタージュのような側面を持っており、それでいて創作としての唯一無二の特徴を有しているのは、その構成にあります。あまり書くとネタバレになりそうなので詳細は控えますが、作家としてのローラン・ビネ氏が作品を生み出す際の思考や格闘を盛り込みつつ話が展開し、ときに過去と現在の時空までが混淆するという魔術的な側面も持っています。

正直に申し上げて、私はその容易ならざる話の展開もあって、途中で読むのを放棄しそうになったのですが、それでも諦めずに読み続け、最後のあの圧倒的な展開に打ちのめされつつ読了できて本当によかったです。こんな、ある意味不思議な読書体験は、そうそうできるものではありません。途中からGoogle Mapでプラハ中心部のストリートビューを参照しつつ読んだので、まるで自分がそこにいて事件の成り行きを目撃しているような気分も味わいました。いや、これは一度プラハを訪れてみなければ。


プラハのレススロヴァ通りにある、聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂。事件を記念する銘板が見えます(歩道に1942と書かれています)。

個人的には、作品の主軸になっているエンスラポイド作戦の他に、ハイドリヒが主導していた「ユダヤ人問題の最終解決」(つまりはホロコースト)についての記述、特にその一環で行われたウクライナキエフ(キーウ)郊外のバビ・ヤール渓谷における大量虐殺についての史実を知ることができたのが大きな収穫でした*1

今時のウクライナ戦争で主にロシア側が使う「ネオナチ」というタームに、私はこれまでなぜ現代に、そんなアナクロな比喩を使うのかしら的な薄くて浅い認識しか持っていませんでした。でも例えばこのバビ・ヤールひとつとっても、これがユダヤ人のみならず、ロシア人やウクライナ人にとっても消し難い負の記憶であることを知るにつけ、かつてのナチス・ドイツによる振る舞いと現代のロシア、あるいはウクライナを取り巻く環境は強く結びついているのだなと認識を新たにした次第です。

己の不明を恥じるしかありませんが、こうしたロシア・ウクライナ、そして東欧の近現代史に自分が疎いことをこの作品を通して改めて思い知らされました。そしてまた、ウクライナ戦争に対する日本国内のマスメディアの報道、あるいは日本政府の対応もまた、この地域の近現代史について非常に浅い認識しか持っていないのではないかーーそんな(不遜な)思いも改めて抱きました。

引き続き、ロシア、ウクライナ、東欧諸国に関する書籍(あと個人的には中国についても)を読んでいこうと思っています。

*1:昨年、このバビ・ヤールに関するドキュメンタリー映画東京で上映されていたとのこと。見逃しました……残念です。