インタプリタかなくぎ流

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逝きし世の面影

長い間、読み通せないでいた本でした。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』です。私はこの本が最初に出た1998年の葦書房版を買って持っていたのですが、何度読もうとしても第一章から先に進むことができず、ついには古本屋さんに売ってしまっていました。今回、平凡社ライブラリー版を書店で偶然見かけて再度購入したところ、今度はなぜかするすると読み進めることができ、無事に読了しました。


逝きし世の面影

たぶん初版を買ったときの自分の年齢では、その内容を理解するのは難しかったのだろうと思います。それにこの本の記述は、基本的に幕末から明治初期に日本を訪れた西洋人の記録をもとに、それらをテーマ別に分け、次から次へと紹介するという形式を取っています。著者である渡辺京二氏の分析や評価ももちろん盛り込まれているのですが、それが若い頃の自分には読み取りにくかったのかな、だから結果的に退屈な印象につながって読み通せなかったのかな、といまにして思います。

渡辺氏は西洋人の残した記録を通して、かつてこの国にいまではほとんど想像することもできないようなある種の文明があったこと、そしてほとんど絶滅してしまったといっていいその文明の実相を明らかにしようとします。たしかにここには現代に生きる日本の私たちが失ってきたものが暮らしや社会の様々な切り口から描かれており、それらを読むたびに私たち読者は驚きと、ある種の喪失感と、そして憧憬をも感じることになります。

それは考えても詮無いことではあるのですが(なにせその「文明」と現代の我々とは、かくも遠く隔たってしまっているのですから)、もし自分がその時代に生きていたら、たぶん一生の時間はかなり短くはなっただろうけれども、いまよりも幸せだったかもしれないな……などとこの本を読んでいる間じゅう妄想を膨らませていました。だから読み終わって巻末に付された「平凡社ライブラリー版 あとがき」に渡辺氏がこう書かれているのを見つけて、嬉しくなりました。

少年の頃、私は江戸時代に生まれなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生まれて長唄の師匠の二階に転がり込んだり、あるいは村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過ごした方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。

渡辺京二氏のご本はあれこれと読んできましたが、ただ唯一読み通せていなかったこの本を読了できて、やっと宿題を提出したような、なんだかとてもホッとした気持ちになっています。