ブリュノ・パティノ氏の『スマホ・デトックスの時代』を読みました。副題に「『金魚』をすくうデジタル文明論」とあって、これは原題の『金魚文明ーーアテンション市場に関する小論』からつけられているようです。
ここでいう金魚とは金魚鉢の中にいる金魚のこと。金魚鉢というごくごく狭い空間に閉じ込められている金魚はしかし、その世界を牢獄のような狭い空間だとは認識していないのだといいます。それは金魚が継続して集中できる時間がわずか八秒未満だからなのだそう。「八秒後には別のことに関心を抱き、金魚の精神世界はリセットされる」と。
つまりこの本では、スマホ中毒に陥っている私たち人間をこの金魚になぞらえ、私たちは次々に関心を喚起されつついつまでもスマホの中の世界に浸りつづけ、それを極小空間だとも牢獄だともとらえられなくなっているのではないか……という警鐘を鳴らしているというわけです。
ここのところずっとSNSやアテンション・エコノミー(注意経済)からの脱却を考えていた私にとって、この指摘はとても頷けるものでした。特にここ一年ほどは、かなり意識的にSNSやスマートフォンの使い方を変えようと努力してきたこともあって、その意味ではかなり「デトックス」できてきたのではないかと思っています。
努力といっても、やったことといえばTwitterなどのSNSから「降りて」しまうことと、スマホやパソコンのプッシュ通知機能をできるだけ切るということくらい。それと、これは側面支援的な意味しかありませんが、お酒をやめてしまったことも私にとっては有益でした。
なにせ酔っ払ったあげくに低下してしまった認知機能といちばん親和力があるのはSNSやニュースアプリやテレビのバラエティ番組などの「こま切れ」で押し寄せる刺激ですから。まさに金魚よろしく、八秒も経てばすぐ他の刺激が入ってきて、みずから意識的に何かを考える必要はなく、楽ちんなのです。こうしたこま切れの刺激に慣れきってしまうと、ある程度継続的な集中が必要な読書など、できなくなってしまうと感じています。
先日も、休み時間になるとすぐスマホと首っ引きになってしまう学生さんのことを書きましたが、この本ではこうしたこま切れの刺激を制限ないしは遮断する必要についても提言が行われています。
今後、多くの場所で「ここはオフライン区域です。ご了承ください」という貼り紙が登場するに違いない。会食や面会の前にスマートフォンをオフにするのは、基本的な礼儀作法になる。結局のところ、スマートフォンの画面は持ち主だけの世界であり、周囲の人々には関係がない。
学校でのスマートフォンの使用制限は、現実味を帯びてきた。デジタル技術、プラットフォーム、つながる社会を生み出したスタンフォード大学は、授業中のスマートフォンだけでなくノートパソコンの使用も禁止する方向だという。(159ページ)
スマートフォンやSNSなどが登場してから十数年。もはやインフラと呼んでも差し支えないほど大規模に普及しているこれらの存在に対して、私たちはようやくその負の側面を洗い出し、前景化させ、具体的な対策を講じる段階に入りつつあるのだと思います。私たちはそろそろ私たち自身を救う方向に歩みださなければなりません。そう、蛇足ですけど上掲の本の副題にあった「金魚をすくう」は、最初私がとっさにイメージした縁日のアレ(掬う)ではなく「救う」なのでありました。