インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

SNSの時代も変質していくのかな

留学生の通訳クラスでは、休み時間になるとみなさん一斉にスマホを操作しています。ほぼ全員が画面に釘付けになっているので、またゲームでもやっているのかしらと思ったら「SNSを見ているんです」とのことでした。「書き込むことは少ないけれど、しょっちゅう読みに行っている」のだとか。

わかります。私もかつてはTwitterFacebookInstagramなどのSNSにハマっていて、それこそ暇さえあれば一日に何度も見に行っていましたから。さっき見に行ったばかりなんだから、それほどの違いはないはずなのに、やっぱり見に行ってしまう。いえ、違いはあるんですね。Twitterなどタイムラインやトレンドがどんどん更新されていきますし、たまさか自分が投稿したときには「いいね」がついているかもしれない、あるいはリツイートされているかもしれない……。

SNSの中毒性はまさにこの点にあります。ほんの少し時間がたっただけでも、そこにはなにか新しい情報が登場しているに違いないと思わせ、そう思ってしまったら居ても立っても居られなくなり、つい見に行ってしまう。見に行って、さっきと同じ状態だったとしても、残念に思う必要はありません。だってそこには他にもたくさんこちらのの注意を喚起してくれる情報が流れているのですから。結局そうやって「注意経済」に絡め取られて、一日のうちのかなりの時間をSNSに費やすようになるのです。

私はこうしたSNSの中毒から抜け出せるようになるまでにかなりの時間と努力を必要としました。私の場合は単に意志の力だけで抜け出すことができなかったので、それこそスマホやパソコンからアプリを削除することから始まって、最終的にはアカウントを削除するとこまで行って初めて「解毒」することができました。

毒が抜けたいまでは、どうしてあんなものに何時間も費やしていたのだろうと思えるくらいにはSNSを客観視できるようになりました。かつてはSNSを、自分が世界と接する界面(インターフェース)を極限にまで広げてくれる夢のようなツールだと認識していました。普段の暮らしの範囲だけではありえないほどの人との出会いやチャンスがそこにあるような気がして。でもいまでは自分の主体性をどこまでも奪っていく存在だと感じています。


https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

SNSのすべてを否定するものではありません。例えばTwitterにしてもこちらのブログで言及されていたようにSNSとしてではなくニュースアプリとして、「今何が起こっているのかを知るためのサービス」としての利用価値はまだあると思っています。東日本大震災のときにそれを感じましたし、現在でも例えば電車の遅延情報やネット上の事故などの情報ではTwitterの速さにまさるメディアはありません。

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留学生のみなさんは「書き込むことは少ないけれど、しょっちゅう読みに行っている」と言っていました。ということは、すでにもうSNSで自分から発信することには飽きてきているということなのかしら。だったら私とあまり変わりません。私は「しょっちゅう読みに行」くことさえやめてしまいましたけど、留学生のみなさんも早晩そうなっていくのかもしれないですね。

Facebookはすでに「おじさんやおばさんのメディア」認定されて久しいですし、Instagramも最近は「インスタ映え」という言葉さえやや古びてきているような気がします。Twitterイーロン・マスク氏による買収後はなにかとゴタゴタが続いているようですし、あれほどの熱狂を謳歌していたSNSも変質の時期を迎えているのかもしれません。5年後、10年後には「どうしてあんなものに」と多くの人が述懐するようになるでしょうか。