インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「朝三暮四」の猿は自分だった

私は先月末に新型コロナのワクチン四回目を接種したのですが、それから一週間も経たないうちに感染して陽性となってしまいました。まだ抗体がしっかりとできていなかったのかもしれません。とはいえ、さいわい微熱と咳が少し出る程度の軽症で済みましたから、多少はワクチン接種の効果もあったのかもしれないなと思っています。

ちまたでは、また感染者数が増加に転じて「第八波」の到来がささやかれています。私個人としては、もうここまできたら流行性感冒と同じような扱いで共存していくしかないのではないか、過度に感染を恐れてほとんどの人が四六時中どこでもマスクを着用しているという異様な状況からは脱却すべきではないか、と感じています。

ただ新型コロナは依然ごく少数ながら重症化に至る方もいますし、長く続く後遺症に悩む方もいるので、みんなそんなにスッパリと割り切って考えることはできないんでしょうね。それは私も理解できます。理解できないのは、そうであるにも関わらず、ワクチンを接種する方が少ないという点です。

「デジタル庁」のウェブサイトによると、現時点で四回目のワクチンを接種した方は全人口の35.56%にとどまっているそうです。一時期のように接種したくともできない状況ではないのに、この数字。そういえば私が四回目を接種したときも、接種会場は接種する人よりも会場のスタッフの方がはるかに多い状態で、以前とはまったく違ってガラガラの状態でした。

新型コロナワクチンの接種状況 | デジタル庁

ワクチンに関しては人それぞれに考え方があると思います。ですからもちろん打つ・打たないは個人の自由ですし、さまざまな身体的・心情的理由で接種を見合わせている方もいると思います。もとより「ワクチンを打つのは自分のためのみならず、みんなのためだ」などのセリフでワクチン警察よろしく他人に迫るなど厳に慎むべきだと考えています。

ただこの数年間、ワクチンをめぐる(自分をも含めた)人々の反応なり騒ぎ方なりに接して漠然と感じているのは、事ここに至っても私たちはこの感染症に対していまだに右往左往していて、未来に向けての展望、あるいは希望の光のようなものを抱けていないという点です。主語が大きいことを承知で申せば、なぜ日本の私たちは2020年の春頃から始まったこの息苦しい社会を総括し、次のステージに向けて気持ちを切り替えることがいまだできていないのでしょうか。

その責任を、たとえば政治家や官僚、あるいは保健当局の担当者に向ける人もいます。SNSなどをちょっと覗けば、そういう言説、というか罵詈雑言のたぐいは溢れかえっています。でも私は、それよりも何よりも、私たちひとりひとりがこの感染症に対してほとんど主体的に考えることがなく、ただ世間の空気のなすがままに漂わされているような、そんな感覚が蔓延しているように感じられるーーその点にとてつもない「気持ち悪さ」を感じるのです。

この気持ち悪さはおそらく、いまだにこの感染症の全貌がつかめないことに対するいらだちのようなものなのでしょう。ここ数日それを悶々としながら考えつつ、仕事で使う教材作成を兼ねて趣味のディクテーション(書き取り)をしていたら、台湾の作家で詩人・画家でもある蔣勳氏が、莊子の齊物論に出てくる有名な「朝三暮四」を巡ってこんなことをおっしゃっていました。そのとき自分が考えていたこととのあまりのシンクロニシティに、ちょっと驚きました。以下、その部分の要約です。

私はコロナ禍で、自分こそがあの「朝三暮四」の猿であったと気づきました。最初のころ私は、アストロゼネカ製のワクチンで人が亡くなったと聞き、絶対にアストロゼネカは打つものか、モデルナじゃなきゃいやだと思いました。でも実のところ、私は両者の違いをきちんと知っていたわけではありません。よくわかっていないのに、そんな判断をしていたのです。その時に莊子のすごさがわかりました。彼はこのお話で人間に対する憐れみを説いているのです。それは、人の知には限りがあるという一種の悲哀です。「ポスト・トゥルース*1」の時代と言われます。インターネットが発達し、情報がこれほど大量にあふれる時代であるのに、私たちはほんの少しの情報を頼りに判断を下してしまう。それは「朝三暮四」の猿と同じです。このお話は、私たちにとても大きな警告を発しています。


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この講演では「朝三暮四」以外にも、合わせて十二の故事を引きながら、とても興味深い話をされています。中国語がお分かりになる方は、ぜひご覧いただきたいと思います。


https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_3557.html

*1:世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。(コトバンク