インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「向き不向きがある」の危うさについて

先日読んだアンダース・エリクソン氏とロバート・プール氏の共著『超一流になるのは才能か努力か?』で、もうひとつ考えさせられたのは、「生まれながらの天才」はいるのかという問題です。

人間の資質に関する議論のなかでも、生まれつきの才能が能力を決定するうえで大きな役割を果たすという考え方は根強い。一部の人は生まれつき才能に恵まれており、他の人よりも楽に傑出したスポーツ選手や音楽家、チェスプレーヤー、物書き、数学者などになれる。もちろん能力を伸ばすためにある程度の練習は必要だが、それほど才能に恵まれていない人と比べれば練習量ははるかに少なくて済む一方、最終的に到達できるレベルははるかに高い、という見方だ。(274ページ)

天才とまでは言わなくても、人は誰しも「持って生まれた才能」というものがある。あるいは何ごとかに対して「向き不向き」というものがある。だからどんな技術やスキルにせよ、たやすく習得してしまえる人がいる一方で、いつまでたっても上達がおぼつかない人がいる。ーーそうした考え方に、私も漠然と同意してきました。自分がこれまで学ぼうとして挫折してきたあれこれや、教える立場になってから見てきた学生さんたちを念頭に置くなどしてのうえで、です。

たとえば私は、これまでにこのブログで「向き不向き」の存在を強調した文章を何度も書いてきています。さきほどこのキーワードで検索をかけてみたら、なんと26本も記事がありました。

向き不向き の検索結果 - インタプリタかなくぎ流

とくにスポーツと語学の共通点について書いた文章が多いです。その主旨はようするに、それらがいずれも身体の様々な器官を動員して行う一種の身体能力であるとすれば、「誰もがプロのアスリートになれない」というのはたいがいの方が同意するのに、いっぽうで「誰もがプロの語学(なかんずく英語)遣い手になるべき」というのはおかしいではないか……というものでした。語学にだってスポーツ同様に向き不向きはあるのだからと。これは主に、幼少時から英語教育に狂奔する日本の現状に疑問を呈したものでした。

しかし上掲の本によれば、スポーツにせよ語学にせよ、生まれ持った才能という意味での「向き不向き」の存在を裏づける証拠は一つもないとのこと。それでも結果的にある分野で、他の人びとよりも優れた能力を発揮する人が出てくる理由は、ひとえに膨大な量の練習、それも常に自分の能力よりもちょっと上のスキル習得を自分に課し続ける「限界的練習」によるものだと説明されています。

なるほど、つまり、もし何かのスキルに「向き不向き」があるとすれば、それはそうした練習(しかもこの本でも認めているように、それはかなりの部分まで楽しくないものです)を自らに課し続けることができるかどうか、そういう部分についての「向き不向き」ということになるのでしょう。辛抱強い性格であるとか、スキルの向上を信じる前向きでポジティブなタイプであるとか……。

ともあれ「向き不向き」という言葉を不用意に使えば、それは「持って生まれた才能」を必要以上に絶対視してしまうという意味で危険かもしれないと思いました。もっとも、辛抱強いとかポジティブであるという資質そのものが「持って生まれたもの」なんじゃないの、と考えてしまうと堂々巡りに陥りそうです。

たぶんそこは親御さんの育て方や、教わるとき(特に入門時)の先生の指導方法などが大きく影響してくるのでしょう。その意味でも、教える立場の端くれである私が、軽々に「向き不向きがある」と言ってしまってはいけないなと反省した次第です。


https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_667.html