お能の稽古はここのところずっと『邯鄲』の舞囃子を続けています。もう一年近く続けていますが、どこまで行っても次々に課題が見つかって「仕上がる」ということがありません。平行して『邯鄲』の謡も稽古していますが、昨日はシテ(主人公)の盧生(ろせい)が「邯鄲の枕」に臥した直後の部分を教わりました。
この盧生という人物は「若すぎず、年寄りすぎず、人生経験半ばくらいの人物と思われ(the能.com)」、それまでただボーッと生きてきた自分を反省して、楚の「やうひさん(羊飛山)」にいるという高僧に自分はどう生きるべきかを尋ねてみようと旅に出ます。その途中、邯鄲(現在の中国河南省邯鄲市)に投宿して、宿の主人から勧められた「来し方行く末を悟ることができる」という不思議な「邯鄲の枕」で粟のご飯が炊けるまでの間ひと眠りします。
その眠りについたとたん、それまで比較的沈鬱でゆっくりだった謡が一変します。ワキが演じる皇帝の勅使が盧生に呼びかけるのです。
ワキ(勅使):いかに盧生に申すべき事の候
シテ(盧生):そも如何なる者ぞ
ワキ:楚国の帝の御位を盧生に譲り申さんとの勅使にこれまで参りたり
シテ:思い寄らずや王位とはそも何故にそなはるべき
ワキ:是非をばいかで量るべき御身代を持ち給ふべき其の瑞相こそましますらめ時刻移りて叶まじはや御輿に召さるべし
シテ:こはそも何と夕露の光輝く玉の輿乗りも習はぬ身の行くへ
ワキ:かかるべしとは思はずして
シテ:天にも上る
シテ・ワキ:心ちして
「楚の国の帝位を譲ります。あなたはそれだけの瑞相をお持ちですから」という、そんなうまい話がどこにあるんだと盧生は疑い、戸惑いながらも、結局は慣れない輿に乗せられて「オレが皇帝? えへへ、そう?」と舞い上がってしまう。600年以上前に書かれたお話ながら、現代の私たちにもそのまま通じる教訓を含んでいますよね。
この「邯鄲の枕」はその人の「来し方行く末」についての悟りをその人に合わせて見せてくれる不思議な枕です。つまり「突然帝位を譲られる」という、いわば年末ジャンボ宝くじの一等前後賞つきにあなたが当選しました的な夢を呼び込むのは、ほかならぬ盧生自身の在り方によるわけです。
その後盧生は皇帝として50年間の栄耀栄華を極めたのち一気に夢から覚めるのですが、そのカタルシスについて能楽喜多流の謡本にある「曲趣」という解説にはこうあります。
最後に急転直下、田舎の宿に眠覚めて、貧しき我身を省みる時、茲(ここ)に人生夢の如きを歓ぜざるを得ず。極度の転落は始めて真の安心を齎(もたら)す。暗黒の心境より夢裡の逸楽に耽り、然る後真の光明に到達す。
人生に迷い、本当の自分を探して高僧に教えを請おうとした盧生は、自身の在り方が反映された夢によって自分の人生に納得することができたわけです。なんとも考えさせられる話ですし、600年以上前の人々も同じようにわが人生に迷い、自分なりの答えを見出そうと煩悶していたのだなと思うと、胸が熱くなるではありませんか。