昨日の東京新聞朝刊に、宮子あずさ氏のコラム「差別への抑制を取り戻そう」が載っていました。権力者の心性が人の心の闇を引き出すという指摘は本当にその通りで、第二次安倍政権が私たちの間にもたらした大きな負の遺産の一つがこの「人々の分断を深め、差別への箍を緩めた」ことにあるのは疑いのないところだと思います。
ですがもう一つ、このコラムで考えさせられたのは、強度の脳萎縮がありながらヘイト発言だけは易々とものしてしまうこの高齢男性のありようでした。数年前、私の妻がクモ膜下出血で三ヶ月ほど入院していた際に、妻や周囲の脳疾患関係の患者さんたちを見ていてしみじみ感じたのが、ちょっと語弊のある言い方かもしれませんが「人はそれまで生きてきたように病む」ということだったからです。
そしてまた、それより遡ること数年前、認知症の傾向が見られた義父と同居を始め、亡くなるまでにあれこれの情報を集めながらしみじみと感じていたのも、「人はそれまで生きてきたように老い、死んでいく」ということでした。
「生老病死(しょうろうびょうし)」という仏教の言葉があって、普通これは「生まれること・老いること・病気をすること・死ぬこと」という人間の一生を表すとされていますが、私には「生→老病死」というベクトルを持った言葉に思えます。人間の、主に晩年に起こる「老病死」はそれまでの人生と不連続な突発的状況なのではなく(もちろん突発的な、望まぬ死というものもありますが)、その人の生き方の延長線上に必然的に立ち現れてくる状況なのだと思うのです。つまり「生生生生生生……→老病死」というイメージ。
不摂生が生活習慣病を誘発する、というようなことが言いたいのではありません。ただ、老病死のありよう、特に心のありようは、それまでの人生の心のありようと密接につながっているということ。まあ、こう書いてしまうとごく当たり前のことのようにも思えますが。
クモ膜下出血の後遺症で水頭症に陥った妻は、一時期認知症と同様の症状を呈していました。そのときの妻は、時に子供じみた要求を繰り返したり(やたら甘い食べ物や飲み物を欲する)、時間や空間の概念が混濁したりしていましたが、基本的にとてもおとなしく、まるで年老いた猫が日がな縁側で居眠りをしているような状態でした。でも周囲の患者さんの中には、絶えず家族の名前を叫び続けていたり、寂しさを訴え続けていたりする方がいました。そして上掲のコラムのように、暴言や攻撃性の箍が緩んでしまう方もいるのです。
高次脳機能障害の夫との日々を綴った柴本礼氏の『日々コウジ中』に「よく言われることだがこの障害はそれまでの夫婦・家族のあり方が試される」という一文がありました。まさにその通りで、人はこうして「老病死」のプロセスを歩むときにこそ、それまで自分の理性なりプライドなりで糊塗してきた本性、言い換えればその人のこれまでの生き方、そして周囲の人々との関係性が現れてくるものなのかもしれません。
私など、そう考えるとちょっと怖くなります。私はどちらかというととても短気で「イラチ」な性格で、もし私自身が「老病死」のプロセスで自分の外側に塗り固めているものが剥がれ落ちて、本性やそれまでの生き方が露わになったなら……。今からではもう遅きに失したかもしれないけれど、「老病死」に向かう「生→」のベクトルを少しでもフラットで公正で温かみと喜びに満ちたものにしておかなければと思いました。