劇作家の永井愛氏に『ら抜きの殺意』という戯曲があります。これは「来れる(来られる)」「食べれる(食べられる)」のような「日本語の乱れ」を題材にした傑作喜劇です。こちらの記事で詳しく解説されています。
私自身は「ら抜き言葉」を使いませんし、他人が使うのを聞くと殺意とまではいかないまでも「イラッ」とするのが正直なところです。が、言語というものはどんどん変化していくものだから、いわゆる「正しい日本語」はこうあるべき! というこだわりは徒労に等しいかなとも思っています。
ほかにも「マジ」とか「ヤバい」とか「めっちゃ(めちゃめちゃ)」とか「全然おいしい」のような言い方にも心乱されるのですが、いちいち反応していたら身体に悪いので、最近はなるべくスルーするようにしています。とはいえ、留学生のみなさんがこれらを使った場合には、いちおう職務上(?)なるべく注意喚起だけはするようにしていますが。
なかなか直らない「語尾上げ」
「ら抜き言葉」よりむしろ深刻で、留学生のみならず、日本語の達人となった中国語母語話者や、現代の日本語母語話者にも広く蔓延しているなあと懸念し、時に殺意さえ覚える(冗談です)のは「語尾上げ」です。
「語尾上げ」というのはみなさまご案内の通り、日本語の発話途中や発話の最後で、意味的に不必要な強調が行われたり、上昇気味のイントネーションになったりすることです。こちらに、ボイストレーニングの先生が「語尾上げ」を解説してらっしゃる動画があります。
この動画にもあるように、特に「てにをは」などの助詞を無意識のうちに強く・上昇気味で話される方は、私の観察では老若男女を問わずけっこういます。「語尾上げ」はいったん気になり出すととことん耳障りなんですよね。会議などで通訳者が何時間もこの「語尾上げ」で訳出すると聞き手にはかなりのストレスがかかるため、通訳学校の授業でも、訳出時には「語尾上げ」をしないよう繰り返し指摘しています。でも、何度指摘してもなかなか直らないというのが特徴です。
どうして「語尾上げ」になってしまうのかについて、以前テレビ局でアナウンサーをしていらした方にうかがってみたことがあります。その方の見解は「ご自分の意見に自信がなかったり、話す内容を考えながら話したりしているときに、フレーズごとに自分で自分の発言を確認しながら話す結果、語尾上げになっているのかもしれませんね」とのことでした。なるほど。
「語尾上げ」でネットを検索してみると、「語尾上げ撲滅」を訴えている方もいらっしゃいます。ただ、こちらで問題視されているのは、いわゆる「半疑問」のようですが、これはこれでとっても気になる話し方ですよね。
日本語学校における「語尾上げ」
以前、都内のとある日本語学校にお邪魔した際、その学校の先生方(複数)がおしなべて「語尾上げ」だったので驚いたことがありました。その学校では、廊下まで漏れ伝わってきた授業中の先生の話し方も典型的な「語尾上げ」でした。「Aさんはぁ、日本語をぉ、上手にぃ、話します」という感じで。
日本語を学ぶ留学生にとって、習得が難しいものの一つに助詞があるそうで、その先生は助詞を間違えないように強調して例文を読まれていたのだと思います。ただ、日本語教師をしている知人によると、これはいわゆる「ティーチャートーク」、つまり初学者のために既習の語彙や語形や文法だけで話すある種不自然な話し方のカテゴリーに入り、自身が通っていた日本語教師養成課程では厳しく戒められていたとのことでした。
う~ん、これは悩ましい。くだんの日本語学校の先生方も、日々留学生に何とか正しい日本語を教えようと奮闘されているなかで、助詞を強調した話し方がだんだん身体に入ってきた結果、ついには授業以外で日本語を話す際にも「語尾上げ」がクセになってしまったのでしょうか。
そしてこれは単なる邪推ですが、長年日本語を学んできたのち、通訳学校で通訳訓練を受ける段階になった中国語母語話者にも「語尾上げ」の方が多いのは、もしかすると日本語学校で助詞の過度な強調をされる先生方の口調が無意識のうちに身体にしみこんでしまった結果なのかもしれません。