インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

正座について

先日、政府が児童福祉法児童虐待防止法などの改正案を閣議決定し、その中で「親による子どもへの体罰禁止」が明記されたというニュースに接しました。今国会で成立を目指し、来年四月からの施行を目指しているそうですが、ネットでは賛否が分かれたとのこと。BLOGOSに、かんたんな「まとめ」が載っていました。

blogos.com

この「親の体罰禁止」、実は国より先に東京都で条例が成立しそうな情勢で、今月末の都議会本会議で可決成立すれば、四月(来年じゃなくて今年の)から施行されるんだそうです。

www.tokyo-np.co.jp

条例案では体罰の具体例は示されておらず、罰則もないものの、保護者に対し「しつけの際に子どもに肉体的、精神的な苦痛を与える行為を禁止」するとのこと。一方で国は今後、法律で禁じる「体罰」の範囲について指針で定めるようで、その際には教員による児童や生徒への体罰を禁止した学校教育法に基づいて、文部科学省から既に出されている「通知」が参考にされるよし。そこでは殴る・蹴るといったあからさまな暴力のほか、「長時間正座させる」など肉体的な苦痛を与えるものを体罰と定義しているのだそうです。

「通知」はこちら。下の方にある別紙「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例」の中に具体例が列記されています。
体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知):文部科学省

この具体例の中で「正座」については「宿題を忘れた児童に対して、教室の後方で正座で授業を受けるよう言い、児童が苦痛を訴えたが、そのままの姿勢を保持させた」と例が挙げられています。うん、確かにこれはひどいと思います。でも、政府が目指している法律の改正案では教育現場のみならず、親による子どもへの体罰、つまり家庭での教育・しつけについても何らかの対策が(罰則も含めて)取られるんですよね。

家庭での虐待事件がたびたび明るみに出る昨今、こうした施策は当然だと思いますが、私はこのニュースに接して、能楽師の皆さんは(というか伝統芸能全般だと思いますが)どう思われるかしら、と想像してしまいました。だって、お能の稽古は、特に謡の稽古は基本ずっと正座しっぱなしですから。『ドグラ・マグラ』などで有名な作家・夢野久作氏は幼少時代に能楽喜多流の稽古を受けていて、その体験が『梅津只圓翁伝』に記されています(青空文庫で読めます。ちなみにこの評伝はホントに名文)。ここに描かれている稽古風景など、現代の感覚からすれば体罰にかなり近いと見なされてしまうのではないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_930.html

かくいう私も、お稽古の時はかなり正座がきついです。板の間に座布団もなしで長時間座るので(時に緋毛氈が敷かれることもありますが)、十分間ほども座っているとかなり足がしびれ、痛くなってきます。お師匠は私たち素人にはお優しいので「休んでいる間足をくずしていいですよ」と言ってくださいますが、プロの能楽師はそうもいかないでしょう。特に能の本番で地謡をつとめるときなど、最低でも一時間、あるいはそれ以上の長い時間正座していなければならないのです。

私は一度だけ能の本番(といっても素人の発表会ですが)で地謡をつとめたことがあります。都合一時間十五分くらい正座で通しましたが、謡を全部覚えるのもさることながら、最後に舞台から捌ける際に立ち上がれるかどうかが一番の心配でした。この点はプロの能楽師も同じだそうで、稽古の際に正座に関してのいろいろなコツというか「裏技」のようなものを教えていただきました。

まず、正座した足の親指を重ねるようにして座ります。そして、地謡には何度か扇を置いて手を袴の中にしまい「待機」の姿勢を取る時間帯があるのですが、その扇を置くときや、また歌い始める前に取るとき、その前屈みの姿勢を利用して重ねた足を入れ替えるなどしてしびれた足の血行を取り戻すのです。重ねて上になった足先を下になっている足首の先に出すようにしてぶらぶらとさせ、血行を取り戻すという「技」もあるそうです。あるいは足がしびれたら、しびれるまましびれ切らせちゃって、最後に片膝をついて立ち上がる際、にぐーっと伸ばして「えいやっ」で立ち上がる……という一種の「賭け」に出る方もいらっしゃるとか。

う〜ん、能楽師も人間ですもの、皆さんそれぞれに苦労されているのですね。たまーに若い能楽師さんなんかで、舞台から捌ける際に足がしびれて上手く歩けなくなっちゃってる方がいますが、あれはそうした「裏技」がまだこなれていないということなんでしょうか。「親による子どもへの体罰禁止」というニュースに接して、幼少の頃からお稽古に励むのが通常の能楽師のお子さんに、板の間の舞台で長時間正座をさせるのも体罰だと言われてしまったらどうするかな……などと考えてしまいました。

ちなみに中国語圏の方って正座が苦手という方が多いような気がします(あくまで私個人の経験)。まあ中国語圏に限らないかもしれませんが、普段の生活で正座することが少ないので慣れていないというのもさることながら、膝をついて座る、跪く(ひざまづく)というの(中国語は “跪下” )は、相手に対して絶対的に服従する、許しを請う……というニュアンスが濃いので、肉体的にだけではなく精神的にもイヤみたいなんですね。もちろん日本の文化に接するときにはみなさん面白がってやりますけど、あれもあくまで「非日常」を楽しんでいる範囲だからなんだろうな……と思っています。

Twitterというジャンクフードへの依存

以前に比べて利用頻度はかなり減りましたが、まだまだSNS依存から抜けきれていないなと思います。新しいものはあれこれ試してみたくなるたちなので、一時期はSNSの各種サービスにアカウントを作りまくっていましたが、現在はほとんどを整理してFacebookPinterestTwitterだけ。そのうちFacebookPinterestは既にほぼ使わなくなり、ひと月に数回見る程度です。あとはFacebookメッセンジャーをたまに使うくらい。

ただ、Twitterだけはついつい見てしまいます。このブログの記事を転載していることもあって、時々意見をくださる方がいるのと、ニュース類の情報がどこのサイトよりも速くて多岐にわたっている(取捨選択の幅がある・同時に玉石混淆でもある)のが魅力だからです。それでも依存しすぎだと思ってあまりツイートはしなくなりました。だというのに、気がついたらスマホTwitterを見ているのです。やはり依存しています。スマホからTwitterのアプリを削除しちゃうべきですね(いま削除しました)。

先日「note」で松井博氏が「SNSは人間関係のジャンクフードです」という記事(有料です)を寄稿されていました。その記事ではSNSを「そこにあればついつい食べてしまうのがジャンクフード」で「なんとなく口寂しい感じを満たしてくれる」と評されていて、ああ確かにSNSは、そしてTwitterはそういう存在だよなあと深く頷きました。

note.mu

有料記事なのでネタバレは控えたいと思いますが、松井氏が書かれていた、SNSよりもリアルな人間関係をきちんと構築していくべき、特に中高年の私のような男性は……という指摘は痛いところを突かれたと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_6799.html

私にはリアルな人間関係、それも時々会って話をするような友人と呼べるような存在は……う〜ん、ほとんどありません。職場にも、趣味の場にも、ジムなどにも親しい人はいますが、それは同僚であったり先生であったりして、友人とはまたちょっと違います。時々自宅に招く友人も、よく考えたら細君のお友達ばかり。「私独自のつながり」で友人と呼べるような人は、うん、ひとりもいません。わはは、これはちょっとすごい。

生来の人見知りで、人付き合いが苦手で、旅行でも何でも一人で行くのが好きな性格ではあるのです。だから友人なんて特にいなくてもいいやと思ってこれまで生きてきたのです。ところが、数年前にお義父さんと同居した際、地域社会で、歳を取って(特に仕事をリタイアしてからのち)極端に社会性に欠けた存在になってしまうお年寄りをいろいろと見てきてしまったので、これは未来の自分の姿かもしれない……とちょっと危機感を覚えました。

それでこれまでにも「SUSONO」みたいなコミュニティにも参加したり、セミナーや勉強会などに顔を出したりしてきたのですが、正直に申し上げてどれもしっくりきませんでした。いえ、そうしたコミュニティに問題があるわけではないのです。あくまでも参加する私の側の問題で。やっぱり私、生身の人間のつきあいはしんどいし、向いてないわ〜と、そのたびにつくづく思うのです。

……と、ここにきてはたと気づきました。だからTwitterに依存するんですね。

Twitterは即応性が強くて、バーチャルではあるけれども生身の人間のつきあいに近いものをもたらしてくれる働きがあります。実際には面と向かっていないんだけれども、ツイート自体は人間が書いているわけで、そこには生身の人間の温もりがある。人見知りだけど、少しは人と繋がっていたいという身勝手な欲望をかなえてくれるツールがTwitterなのかと。この依存から抜け出すのは、そう簡単ではないかもしれません。

「少しくらい……」という身勝手な行動への誘惑

ケイクス(cakes)で現在連載中の、エスムラルダ・田亀源五郎・溝口彰子の三氏による鼎談『表現とセクシュアリティーズ』を興味深く読んでいます。

cakes.mu

この連載は毎回興味深い話題が多いのですが、先回、ゲイ・エロティック・アーティストの田亀源五郎氏がおっしゃっていた、作家を守ることと海賊版との関係についてのこのくだりが印象に残りました。

この前アメリカで「クィア・コミック・カンファレンス」というのがあって出席してきたんですが、やっぱりそこでもネット上での海賊スキャンの話になって、もちろん、作家を支えることが重要、という話が出たのは同じなんですが、とあるパネラーがこんなふうにも明言していたんです。「あなたが違法サイトで見ることによって、広告料金が発生し、それが北朝鮮やロシアに流れています。だからあなたは間接的にテロリストを支援していることになるんですよ」。すごく印象深かったです。

なるほど。北朝鮮やロシアを「=テロリスト」とくくっちゃうのはさすがに雑駁だとしても、違法サイトの広告料金が闇に流れて反社会的な勢力の資金源に……というのはあり得る話だと思います。気になってこの件をあれこれ検索していたら、おそらく上述した田亀氏の発言の元になっていると思われるツイートと、そのリンク先にこういう記事を見つけました。一年半ほど前の記事ですが、確かに「違法サイト→闇の資金源」という流れはありそうです。

news.denfaminicogamer.jp

正直に告白しますと、かくいう私もそういう違法サイト(いわゆるリーチサイト)を利用していた頃がありました。そういうサイトを利用したことがある方はおわかりだと思いますが、やたらに広告が多く、また間違ったリンクに誘導してポップアップ広告を見せるトラップのようなものが数多く仕掛けられています。私はあれ、アフェリエイト目的なのかなと思っていたのですが、そうして荒稼ぎされたお金がどこに流れているかと考えると、かなり怪しいものがあると思います(まあサイトの存在自体が充分に怪しいんですけど)。

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https://www.irasutoya.com/2018/04/blog-post_933.html

もっとも私はあるときから、そういうサイトを利用するのはやはりよくないと考えて(当たり前ですけど)利用するのをやめました。ブラウザなどの履歴がGoogleなどの大企業に筒抜けで、これも回り回って信用履歴に影響してくると考えたのももちろんですが、それ以前にやはり「お天道様が見ている」という後ろめたさに抗いきれなかったからでもあります。いやはや、こんな歳になってもこの体たらくは恥ずかしい限りですけど、「自分ひとりが、少しくらいいいじゃない」という身勝手な行動への誘惑は、いくつになっても忍び寄ってくるものです。ま、他の方はどうだか分かりませんが、私みたいな未熟者はそうなんです。

先日読んだ佐々木閑氏の『ネットカルマ』にも、こんなことが書かれていました。

現実社会ならば「不正」「悪事」として非難される行為であっても、ネット世界に入り込んだとたん、日常の倫理観はネットの利便性にとってかわられ、「便利な機能をできるだけ効率的に利用すること」が善であり、「それを十分に利用せず、損をすること」が悪であるという、別の思考に切り替わってしまうのです。

う〜ん、これはまさしく「カルマ(仏教でいうところの「業」)」ですね。ネットにはこうした「倫理観を希薄化させるシステム」が組み込まれているという佐々木氏の指摘は傾聴に値すると思います。そして現実社会とネット空間は、それらがいずれも社会である以上立ち居振る舞いの行動規範は同じであるべきなのに、なぜかネットではつい易きに流れてしまう……田亀氏の発言から、そんなことを改めて思ったのでした。

医療通訳の現場で見落とされているもの

昨日Twitterのタイムラインで読んだこちらの記事。外国人観光客や在留外国人の増加に伴って、医療現場でもきちんとしたコミュニケーションを確保する必要が生まれているという話題です。

style.nikkei.com

スイスの作家マックス・フリッシュ氏が語ったとされる「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」という言葉があります(参照:Wikipedia)。外国人は単にカネのやりとりだけが発生する存在ではなくて、人間である以上さまざまなケアが必要な存在です。医療現場でのこうした動きも当然といえば当然すぎるほどで、むしろ後手に回りすぎてしまったという印象ですが、記事を読んで強く感じたのは通訳者への真っ当な報酬が真剣に検討されていない点です。ここにも「話せれば訳せる」という誤解が影を落としているのではないかと。この誤解をどうやって解きほぐしていくかも大きな課題ではないでしょうか。

まずは言葉の問題

かつて、医療現場での通訳業務を何度か承ったことがあります。そのときはエージェント経由できちんとした報酬を頂きましたが、いろいろな点で「これは容易ではない……」と感じました。まずは言葉の問題。医療に関する通訳ですから、通常以上に誤訳や、誤訳とは言えなくても曖昧な表現などに十分な注意が必要だと思います。ことは健康や生命に関わる問題ですから。

例えば日本語で「心臓(しんぞう)」と「腎臓(じんぞう)」はたった一文字、清音か濁音かの違いだけですよね。中国語でも“心臟(xīnzàng/シンザン)”と“腎臟(shènzàng/シェンザン)”でとても似ています。医師の説明を訳し間違えたら……と思うと、ちょっと身がすくむ思いがしませんか。もちろんこれは極端な例で、実際には心臓や腎臓を単語そのままの形で呼ぶとは限らず、さらに診察や治療の際には資料やカルテや写真などがあり、その前後の流れや脈絡もありますから、そんな単純な取り違えはまず起こらないはずなのですが、それでも普段以上に気を遣う通訳業務であることは間違いありません。

ところが、そんな大切なコミュニケーションの仲立ちなのに、現状では「地域のボランティアや病院内で語学に堪能な職員がすることが多」い(上掲記事)という現状。はっきり申し上げて、これはボランティアや職員の「余技」で、ましてや無償奉仕で賄えるような仕事ではありません。しかも実際にやってみると分かるのですが、医療用語は多岐にわたり、辞書に載っている「正式」な名称や言い回しのほかにさまざまな現場での特殊な言い方があり、外語(私の場合は中国語)の語彙にも地域差や個人差がかなりあり、広範で膨大な専門知識が必要です。この点でも「話せれば訳せる」程度で対応できるものではありません。

さらに受け入れ側の問題

言葉以外に、受け入れ側である病院の環境整備の点でも課題は多いと思いました。私が通訳業務を行ったうちの一つは、胃カメラで検診を行う際に患者の希望で部分麻酔を施したのですが、朦朧とした状態にある患者(それも外国人)にどのように伝えるのか、緊急時にどう対応するのか、病院側にも全くノウハウが蓄積されていないように感じました。またX線MRIなど特殊な装置の中にいて、通訳者が患者のそばに付き添えず、別室からマイクなどを使って通訳するような状態になることもあるのですが、これも意外に難しいと思いました。とにかく通常の通訳業務とはかなり違うシチュエーションが次から次に現れるのです。

もうひとつ、お医者さんが通訳を介したやり取りに全く慣れていないと感じたこともありました。基本的にその場で逐次通訳形式で伝達するのですが、逐次通訳特有の「ある程度話したら通訳を待つ」とか「会話は通訳ではなくあくまでもクライアント(この場合は患者)とのやりとりである」といった、基本的な知識・リテラシーが共有されていない方の場合はもう大変です。まるで私自身が患者であるかのように淀みなくどんどん話していって通訳をさせてくれなかったり、お医者さん自身の話し方がとても曖昧だったり(医師ですからロジカルに話すと思われるでしょうけど、そうでない方もままいらっしゃいます)、正確な通訳のために何度も確認していると「キレ気味」になったり……。

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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_5.html

私が担当した医療通訳の現場は数えるほどしかありませんから、これをもって一般化することはできませんし、また現在では大きく改善が進んでいるかもしれません。それでも、医療通訳の現場では、ひとり通訳者の知識や技術向上もさることながら、医療関係者の、通訳業務や多言語コミュニケーション、異文化への理解などもとても大切だと感じました。これもまた、つねづね申し上げている「言語リテラシー」の涵養が急務ということになるでしょうか。

相応の報酬が必要

上掲の記事によれば、通訳学校などでの専門教育のほか、電話などを介した通訳サービスも広がりつつあるようです。ただ、ずっと以前に私がツイートしたように、「医療通訳 ボランティア」でネットを検索してみると、まだまだ報酬面から質の向上を確保しようとする動きは鈍いような印象を受けます。

繰り返しになりますが、医療通訳は(いえ、どんな通訳業務も基本的には)ボランティアで、ましてや無償で行われるようなたぐいの業務ではありません。そこには高度な専門知識と技術が必要で、それ相応の報酬が用意されてしかるべきものです。ちなみに私はそうした医療関係の専門知識はそこまで持ち合わせていないので、数年前に承ったのを最後に医療通訳は担当していません。とてもじゃないけど「ほいほい」と引き受けられるようなものではないと悟ったからです。

ハロー・ワールド

藤井太洋氏の『ハロー・ワールド』を読みました。ネット、ドローン、暗号通貨、自動運転車、スマホ用アプリにTwitter……今からほんのごくわずか先の世界が舞台の近々未来短編小説集です。いやもう、このギーク感と疾走感満載で、なおかつ最先端のネット技術(とりわけプログラミング)に関する知識がふんだんに詰め込まれたひとつながりの物語群、それこそ息つく暇もないくらいの勢いで一気に読み終えてしまいました。

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ハロー・ワールド

どこまでがリアルで、どこからが架空の世界なのか、専門知識の全くない私には判別がつきませんが、膨大な技術的知識をベースに書かれたとおぼしき細かい描写のほとんどすべては、すでに現実のものとなって動き出しているもの、あるいはほんのすぐ先に動き出すであろうものと思えるリアリティを帯びています。

帯の惹句に「革命小説」とある通り、かなり不安定で一歩先が見えない不穏な雰囲気が漂う物語世界なのですが、不思議に楽観的な気分になれるのは、物語群を貫く主人公である文椎泰洋(ふづいやすひろ)のキャラクターによるところが大きいのでしょう。この人物はウェブエンジニアとして確かな腕を持ちながらどこか抜けたような一面があり、高校生のような正義感も持ち合わせていて、超人や天才や変人などでは全然ないのです。一見技術オタクっぽい「ギーク」のようでいて、全く違う世界に棲息しているような雰囲気を持っているというか……。

彼は緊急時には、スマホiPhoneひとつでプログラミングを行い、アプリやソフトを改変し、遠く離れた海外の状況にコミットします。それも時に駅のホームや電車の中から。動いている電車の中からAmazonで商品を「ポチッ」と注文できるだけですごいなあと感動している私などとは桁違いの世界。それでもこれからはそれが普通の光景になっていくのかしら……というリアリティがありました。うちの学校の留学生諸君も、スマホ一つで課題をこなし、パワポ資料までスマホで作って提出してくるのです。もう同時代の風景なんですね。

インドネシアシンガポール、タイ、そして何より中国が物語の舞台として大きく絡んでいるのも魅力的でした。筆者はそう呼ばれることに違和感を持たれるでしょうけど、私にとってこれは「近々未来中華系SF」。中国語があちこちに登場して、臨場感を高めてくれるのも心地よかったし、特に最近興味のあるキャッシュレス社会や暗号通貨について、その向かう先に現れてくるかもしれない社会の様相が示唆されているのにも、ちょっと興奮を覚えました。

この本を読む前に浜矩子氏の『「通貨」の正体』を読んだのですが、その中で語られている氏の持論(らしい)「ユーロ終焉の可能性」や、かつてケインズが提唱した国際通貨「バンコール」の復活? などというお話と相まって、様々な未来の可能性について頭の中がかき回されているような感覚になっちゃっているところです。

静寂とは

アーリング・カッゲ氏の『静寂とは』を読みました。社会に、とりわけネット繋がった社会の隅々に様々な情報があふれ、「常にノイズにさらされ、ストレスを抱える(帯の惹句より)」今にあって、静寂、静けさとは何かを思索した本です。

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静寂とは

カッゲ氏は世界で初めて三極点(南極点・北極点・エベレスト山頂)のすべてに到達したノルウェーの冒険家だそうです。そうした冒険での、普段の日常とは隔絶した極限状況での体験から、静寂というものが人間にとってどんな意味を持つのかを考えた本。さまざまな気づきに満ちていますが、私は特に「静けさは何かを捨てて手に入れる贅沢」であり「静けさにも社会的格差」があるとした一節が心に残りました。

中学生の頃、筒井康隆氏のショートショートが好きで、今でも印象深く覚えているのは『にぎやかな未来』という作品です。手元に本がないのでストーリーはうろ覚えですが、社会のありとあらゆるところに広告が出され、音声でも絶えずコマーシャルが流れている騒々しい未来社会のお話。市販のレコード(当時はまだLPレコードで音楽を聴く時代だったのです)にも数分に一度コマーシャルが入るほどの広告社会を描かれています(このあたり、現在の動画サイトなどを予見していますよね)。

そんな社会でもっとも贅沢な高級品は、とあるレコード。そのレコードにはどんな曲が入っているのかと問う客に、店の主人はこう答えます。「何も入っていません。現代でもっとも高価なものは静寂です」。もちろんよく考えれば、無音のレコードをかけたって周囲の音が消えるわけではないのですが、それくらいなにかが破綻した騒々しい未来を戯画的に描き出していて、とても興奮したことを覚えています。

翻って現在。私は(歳を取ったせいなのかもしれませんが)最近とみに静けさを欲していることに気づきました。静けさとは単に音の多寡だけではなく、心身に働きかけてくる様々なノイズやストレスの少なさによってももたらされるものだという実感がどんどん強くなってくるのです。都会で多くの人が集まっている場所や満員の通勤電車では、以前なら全く感じなかったような種類の息苦しさを感じますし、テレビの音声がうるさくてスイッチを消すことも多くなりました。

旅行に行っても、都市の雑踏が以前ほど楽しめなくなり、より人のいないところ、静かなところばかり探して行くようになりました。あんなに「ごった煮」的な賑わいが魅力の台湾だって、最近は離島のそのまた離島まで行って、周囲ぐるりと人影がなく、ただ風や波の音がしているだけ……といった場所が一番楽しいと思えるようになったのです(そう留学生諸君に言ったら、珍しい動物を見るような目をされました)。

カッゲ氏がおっしゃるように、現代は裕福であればこそ静寂・静けさがより多く手に入れられるという一面が確かに存在します。あの『にぎやかな未来』で描かれていたように。でも静けさを追い求めることは他の贅沢とは違って、常に貪欲に手に入れ続けなければならないというものではない。つまりは他の贅沢のように「束の間の悦びしか与えてくれない」ものではありません。それは手に入れようと思えばいつでもそこにある、と。

とはいえ、カッゲ氏の娘さんはかつてこうおっしゃったそうです。「静けさっていうのは、次から次へと贅沢を追い求めている人には、決して手に入れられない唯一のものじゃないかしら」。なるほど、あれもしなきゃ、これもしなきゃとなにかに追い立てられているうちは、静けさを手に入れることは難しいと。う〜ん、私などスマホやパソコンを片時も離さず、仕事も本業に副業に、趣味もあれこれ……と忙しくしていますが、これは確かに静けさとは縁遠いです。

都会の人混みで、以前は感じなかった種類の息苦しさを感じるようになったというのは、身体が静けさを欲しているのかもしれません。この本の解説で、曹洞宗の僧侶・藤田一照氏は文章をこう結ばれています。「静けさはもはや『贅沢品』ではなく、人間が正気であるための『必需品』になっているのかもしれない」と。少なくとも私にとってはそうだ、と深く頷きました。

追記

この本の装丁はとてもシンプルで、霧の中を思わせるような半透明の紙が使われるなど「静けさ」をビジュアル化したような面白い作りになっています。ただ惜しむらくは本文の紙が分厚くてかたく、それが並装本として綴じられているので「のど(本を綴じている側)」がとても開きにくい。これは読んでいてかなりストレスがかかり、「静寂」をテーマにした本としてはかなり「ノイジー」な読書感になってしまいます。ちょっともったいないなと思います。

語学が楽器演奏や筋トレに似ている件について

集英社の季刊誌『kotoba』、現在発売中の春号は特集が「日本人と英語」で、合計百数十ページにわたって多彩な論者が登場し、とても考えさせられる内容です。その中で、マーク・ピーターセン氏とピーター・バラカン氏の「日本語と英語のはざまを考える」と題された対談の、語学を音楽に例えた部分が面白いと思いました。

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kotoba(コトバ) 2019年 春号 [雑誌]

英語に関して、日本で昔から繰り返し(性懲りもなく、と言うべきでしょうか)提起される疑問の一つ「中学から何年もやってきたのに、なぜ、英語がうまくならないんでしょうか?」についてピーターセン氏は「理由は簡単で、単に勉強時間が足りないだけです。一週間に四、五時間の英語の授業で、使える英語が身につくわけがありません」とミもフタもない、でも至極もっともな指摘をし、その上でこんな対話が続きます。

ピーターセン 「なぜ日本人は英語ができないのか」ということをよく日本人は議論するんですけど、そういうことを言うなら、例えば「なぜ日本人は楽器ができないのか」という疑問も考えるべきでしょう。音楽も英語と同じように何年も学校の授業があります。それでも楽器が一つもできない人はざらにいます。
(中略)
バラカン そうそう。語学と音楽は、そういう意味ですごくよく似ていると思う。ギターを上手くなろうと思ったら、とにかく手の筋肉を慣らす必要があるから。それも毎日毎日、数時間やらなければいけない。外国語は自分の母国語とは口の周りの違う筋肉を使うから、上手に話すためには、その筋肉を慣らさなきゃいけない。

この部分、語学にある程度取り組んだことのある方なら、おおむね同意してくださるのではないでしょうか。私は「語学は筋トレ」と思っているんですけど、確かに語学が上達するための営みには、楽器を演奏できるようになるための努力と似たようなところがあります。語学も音楽(楽器の演奏)も、そして筋トレも、煎じ詰めればそれまでの身体の使い方とは違う、あらたな身体能力を身につけていく——唇や舌や声帯や手足やらを動かす筋肉の動きを調整し、脳内のシナプスをつなぎ替えたり増やしたりする——プロセスに他ならないからです。

地道で大量のトレーニングを長期にわたって続けなければ、ギターやピアノは弾けるようにならないし、大胸筋が倍増したりお腹がへこんだりしません。「一週間であなたもマッチョに!」などと謳うジムがあれば、誰だって眉唾だと思うでしょう(「結果にコミット」の某ジムだって、そんな無茶なことは言いません)。なのにこと語学となると、すぐにペラペラになれるとか、小学校低学年から週に数時間でも長い時間をかければ自然に覚えられるはず……などと無邪気に思い込んでいる方が多いのです。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

もうひとつ、この雑誌には斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談も載っているのですが、その中で鳥飼氏はこうおっしゃっています。

母語の獲得」と「外国語習得」の違いを全く理解していない人が多い。しかも「日常会話能力」と「学習言語能力」は違う。学習言語能力はいくら母語であっても勉強しないとできません。母語である限り、日常会話能力は誰であっても自然と身につく。その違いを文部科学省でも理解していない人がいるんです。「アメリカに行けば赤ん坊でもしゃべれる」んだから、と。

現在の日本は、外語教育、とりわけ英語を幼少時から習得させようと躍起になっていますが、本来なら個々の語学習得以前に、あるいは語学の習得と同時並行で、こうした基本的な知識を学んでいくべきなんですよね。昨日のエントリでも書きましたが、そもそも母語とは何か、母語と外語の違いとは、二つ以上の言語を往還することとは、通訳や翻訳はどういう営みなのか……などなど、いわば「言語リテラシー」あるいは「異文化・異言語リテラシー」とでもいうべきものを涵養していく必要があるのではないでしょうか。

それは個々人が語学を学ぶ際の取り組み方にも大きくプラスとなるでしょうし、多様な文化や価値観に対するフラットで寛容な接し方の基礎にもなるでしょうし、将来仕事をする際にだって、自分が語学を使う場合はもちろん、通訳者や翻訳者を雇用する場合や外国人と協同する場合などにも大いに力を発揮するのではないかと思います。

上記の斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談の最後は、こう締めくくられています。

鳥飼 親が「自分の子どもには英語で苦労させたくない」とよく言うけど、外国語を習得しようというときに、何も努力しないで習得できると考える親御さんはまともに取り組んでいないということですよ。まともに英語を勉強した人は、それがどれだけ大変かわかっています。ただし、努力すれば少しずつ進むということも分かっているんです。
(中略)
斎藤 世の親御さんに言いたいのは「うろたえるな」ということですね。

筋トレも楽器の演奏も、そして語学も「努力すれば少しずつ進む」。逆に言えば、少しずつ、努力しながら進むしかないものです。私たちは「うろたえる」ことなく語学を冷静に捉え、本当にそれが人生の中で何を差し置いても取り組むべき課題なのかをそれぞれが見極めるべきだと思います。

その上でなおも取り組むと決めるのであれば「中学から何年もやってきたのに、なぜ、英語がうまくならないんでしょうか?」とか「アメリカに行けば赤ん坊でもしゃべれる」などというある意味語学を「舐めた態度」はきっぱりと捨てるのです。もっとも私は、語学は必要になった人が必要になった時から(ただしそうなったら、それこそ寝食を忘れて)でじゅうぶんで、それより先に上記のような基本的なリテラシーを育むべきではないかと思っているのですが。

付記

この雑誌には翻訳者の金原瑞人氏も寄稿されていて、AIによる通訳・翻訳マシンが「スマホくらい日常的に使われるようにな」った近未来を想像しています。

(そうなれば)道具としての英語の運用能力なんて、釜でご飯を炊く腕前程度のものになってしまうかもしれない。そんな時代になると、英語はふたたび選択科目に格下げになり、必修でなくてもいいよという扱いになるのだろう。教員としては、それはそれでのんびりと、教えたいことを教えられてうれしいような気がする。

一見、翻訳者が——AIによって仕事が奪われてしまうかもしれない翻訳者が——そんな呑気なことを……という感想を持つかもしれませんが、もちろん金原氏の視線はそんなところには注がれていません。

外国語を学ぶ目的は、母語以外の言語を知ることによって、母語そのものを知る、母語についての理解を深める、また、異文化への興味を広げることにあるのだ、という時代を懐かしんでいるうちに、ふたたびそういう時代に戻ってしまうのもそう遠い未来の話ではないような気がする。

ここには語学(外語を学ぶこと)の本質が語られていると思います。しかもこれは、何だか明るくて心安まる素敵な近未来ではありませんか。誰もが語学に(殊に英語に)狂奔しなくていい未来。仮にそうなれば、私などのような者も食えなくなってしまうかもしれませんが、それでも今よりはずっと健康的な教育環境になるんじゃないかと思うのです。

「サカイマッスル」をめぐる騒動を眺めながら

数日来「サカイマッスル」の話題でTwitterが盛り上がっていました。大阪メトロ(旧大阪市営地下鉄)の公式サイトにある外語ページが、「堺筋」を “Sakai muscle” とするなど自動翻訳ソフトによる珍妙な訳語をそのまま使っていたことから、指摘を受けて閉鎖になったというニュースです。

mainichi.jp

大通りを「筋(すじ)」と呼ぶ大阪独特の呼称が “muscle(筋肉)” と訳されてしまったというこの椿事、そのお笑いネタみたいな顛末からTwitterではなかば「大喜利状態」で盛り上がっていたわけですが、私はこの外語に対する「無邪気さ」というか「ナイーブさ」こそ、ほぼモノリンガル国家である日本ならではだなあ……と思って、深いため息をついてしまいました。

このブログでも書いたことがありますが、同種の椿事はこれだけではありません。例えば、浅草や上野公園など多くの外国人観光客を迎える東京都台東区の公式サイトも、機械的なネット翻訳のまま各言語版が公開されています。こちらは「マッスル」のような「ツカミ要素」がないからか、改善もされず、もちろん閉鎖にもならず、現在も閲覧が可能です。

www.city.taito.lg.jp

この台東区の「多言語翻訳サイト」、私は中国語だけしか見ていませんが、もはやお茶を飲みながら閲覧すると危険なレベルです。特に語感を柔らかくしようと「ひらがな」を使っている部分は、機械翻訳さんがうまく対応できないようで、「したまち演劇祭」が “做的城市演劇節(した・する→做、まち→城市)”、「江戸流しびな」にいたっては “江戸放流bi的” とかなり際どいレベル(わざわざ“bi”にするのは中国語でも最強クラスに下品な言葉である「アレ」くらい。詳しい方にそっと聞いてね)です。お雛様が泣きますよ。

またこれもかつてご紹介しましたが、元SMAPの三氏が作るユニット「新しい地図」の公式サイトも、各言語版はGoogle機械翻訳で中国語などあちこち奇っ怪なことになっちゃってます。これを見た中国語圏のファンがどれだけ幻滅するか、どうして想像力が働かないのか、これもまた本当に不思議です*1

atarashiichizu.com

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_444.html

でも私は、大阪メトロや台東区の公式サイト担当者さん、あるいは元SMAPのお三方が、外国人観光客や外国のファンを軽視しているわけじゃないんだろうと思うのです。ネット翻訳のままでよしと考え、そこに問題がある可能性にすら気づかなかった。日本語を単純に機械翻訳にかけたらそういう問題が起きるかもしれないという想像すら働かなかったのだと思います。

普段あれほどクレーム事前回避のためにたくさんのインフォメーションを出し続けている公共交通機関地方自治体が、こと外語対応に限っては予算をつけずチェックもせず「外国人観光客なんて眼中にない」という姿勢がダダ漏れになってしまう。あるいは国際的に活躍しているアイドルなのに、ファンのみなさんの言語を軽んじて「外国人ファンなんて眼中にない」と受け取られる可能性があることに想像が及ばない。

ことほどさように私たちには「言語リテラシー」的なものが欠けているのですね。言語は単なるツールとうそぶき、言語間を行き来する際の怖さや難しさ、あるいは逆に面白さや奥深さといったダイナミズムを肌身で分からないというのは、高等教育まで母語で行うことができるという世界でも数少ない幸福な国に暮らす日本人の宿痾なのかもしれません。

でも考えてみれば、私たちにだって翻訳や通訳によって外来文化を受け入れてきた長い長い歴史がありますよね。ほぼモノリンガルであるがゆえに、外の文化を貪欲に吸収しようとした結果、優れた翻訳者や通訳者もたくさん排出してきた。だからこそ高等教育まで母語である日本語で行えるようになったのです。なのにどうして2019年の現在、言語を扱う仕事に対する無理解がここまでひどいのか合点が行きません。その一方で英語にはあんなに恋い焦がれ、グローバル化だ、国際化だ、幼少時から英語教育だと官民挙げて狂奔しているというのに。

言語とは人格の一つを形成するものです。だからこそ人様の言語も軽んじたり舐めてかかったりしてはいけない。機械翻訳で事足れりとし、チェックもしないってのは相当に失礼なんです。私たちには、そも言語とは何か、多言語社会とはどういうものなのか、言語の壁を乗り越えるとはどういうことか、通訳や翻訳といった仕事はどういう営みなのか……といった「言語リテラシー教育」とでもいうべきものが必要ですよね。こちらの方が早期英語教育よりもさらに大切です。そしてそれは後に英語など外語を学ぶ際にも大きな手助けになってくれることでしょう。

*1:ただこれ、Twitterのタイムラインで拝見した意見の一つによれば「機械翻訳でも私たちの言語で発信してくれたことに感謝感激する」のがファン心理なんだそうです。そして熱心な心あるファンが手弁当でより正確な訳に直して発信し直すんだとか。優しい(?)ですねー。

暗号通貨 vs. 国家

坂井豊貴氏の『暗号通貨 vs. 国家』を読みました。ビットコインに代表される暗号通貨(仮想通貨)の仕組み、特にその始まりから今日までの経緯と、ブロックチェーンの原理を分かりやすく解説した本です。とてもエキサイティングな内容なのですが、暗号通貨の仕組みそのものもさることながら、その仕組みから国家や社会のあり方、個々人の仕事の仕方などに光を当てて思考を促してくれる、その部分がよりエキサイティングだと思いました。

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暗号通貨VS.国家 ビットコインは終わらない (SB新書)

例えば中国などで劇的に進みつつあるといわれる「キャッシュレス社会」への移行。現金とは比較にならないほどの利便さをもたらす変化で、私なども「とっととキャッシュレスにしてほしい」と願っているひとりなのですが、筆者はその利便性ははたして「自由と天秤にかけるような価値があるのだろうか」と問いかけます。つまり、お金の使用状況がすべてサービス提供業者に、さらには国家に流れて把握されることは究極の管理社会の到来ではないかと。

「国家が決済サービスと結びつくと、気にくわない者をお金の利用から締め出せてしまう」。中国では実際にそんな社会が現実のものになりつつあります。私は現在、自分の家計収支を「見える化」するために有料の家計簿アプリを使ってすべての収支を集約しているのですが、確かにこれは便利な一方で、もしこれが外部に漏れたら(とくに国にわたったら)プライバシーはないも同然だなと思います。そして筆者によれば「民間企業は、ときに国家よりも制御しにくい。いかに『社会的責任』が叫ばれようとも民間企業は、国家ほど説明責任を負うわけではないからだ」というのです(ぜんぜん説明責任を負おうとしないどこかの国家もありますが)。

暗号通貨は、単なるキャッシュレス化の一つの流れなどではなく、そうした国家や企業に財産やプライバシーを預けまいとする「抵抗運動」なのだと筆者は説明し、ブロックチェーンの解説に入っていきます。このあたり、とても説得力があって一気に読み進めました。このブロックチェーンの説明もなかなか面白いのですが、暗号通貨といえばすぐ投機や金儲けの技術に話がシフトする……ということはなくて(筆者ご自身は投機を否定していませんが)、社会科学的なスタンスからの解説を貫いているところも類書との違いだと思います。

その特徴が最もよく現れているのは最終章で、「電子化はそう進んでいない」「会社は無くならない」「正社員は減っていない」などのキーワードとともに、ネットにあふれる俗論をただしています。特に私は「社畜にならず、やりたいことをやろう」的な安易な誘いに乗ってフリーランスという働き方を選ぶことの是非について、しみじみ自分の過去を反芻しながら読みました。

またコンピュータの普及によって仕事が「ハイスキル」と「ロースキル」に分極化しているという指摘にも大きく頷きました。確かに通訳翻訳業界や語学業界もわずかなハイエンドと「食えない」レベルのローエンドに分極化(二極化)して行きつつあるように思えますし、それは語学を身につけて社会に出て行こうとしている学生さんと日々接している私の、いま最も考えなければならない課題だと思うからです。

漢字の成り立ち

中学生のころ、「レタリング」に惹かれていました。パソコンとプリンタで扱えるフォントが普及した今となってはそのあまりの変化の大きさに呆然としてしまうくらいなのですが、かつて文字を一つ一つ手作業で描き出すという職業があったのです。私はその職業に憧れて、定規とロットリング(これも懐かしい)と烏口(からすぐち:これをご存じの方はいるかしら)を買い込み、文字を書くことにハマっていました。特に明朝体の漢字の、あの特徴的な三角形の鱗や、細長いイチジクのような点の造形に。

後年、中国語を学び始めてから、漢字の魅力に再びハマりました。日本の漢字とは異なる「簡体字」の、ちょっと人を不安にさせる造形。日本人である私にとってあれらの漢字は「何かが欠けている感」が何とも言えない浮遊感をもたらすのです。また漢字が生まれた原初の時代の、呪術性を色濃く残しているような「繁體字(正體字)」の「ただならなさ」。私が一番好きなのは「亂」ですが、この字を見つめているだけで、ただならない秩序の紊乱を感じます。日本の漢字や簡体字「乱」ではこの雰囲気が出ませんよね。

そうした「漢字の呪術性」というイメージの背景にあったのはたぶん、ずっと以前に読んだ白川静氏の一連の著作だったと思います。その氏が亡くなって十年あまり、偶然手にした落合淳思氏の『漢字の成り立ち』は、様々な思い込みを一掃、あるいは整理し、新たな知見を教わるとてもエキサイティングな読書体験をもたらしてくれました。文字好き、漢字好きにとっては、願ってもない一冊。四年も前に刊行されていたのに、いまごろ手に取った自らの不明を恥じています。

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漢字の成り立ち: 『説文解字』から最先端の研究まで (筑摩選書)

この本を読み始めてまず驚くのは、漢字の成り立ち(字源)を研究する「字源研究」が、日本では直近の三十年ほど途絶えていたというお話。また中国でも文化大革命期はもちろん、その後の時代においても漢字の原初の形を今に伝える甲骨文や金文の科学的な研究はあまり進んでこなかったというのです。

中国の、現代史を背景にした状況はさておき、日本でそれだけのブランクがあったというのはある意味興味深いです。著者もおっしゃるように、字源研究には戦後幾人かの大家がおり、そうした研究者が権威化したことで「彼らの学説に反駁しにくい状態になった」というのは、いかにも忖度とヒエラルキーが幅を利かせる日本的でさもありなんという感じがします。

この本ではそうした「大家」である加藤常賢氏・藤堂明保氏・白川静氏の学説について、多くの紙面を割いて批判が展開されています。でもそれは新しく明らかにされた研究成果から、誤りは誤りとして指摘するというスタンスであり「かつての研究を完全に否定することが目的ではない」。そう述べる著者は、古い研究に誤りが多いことは当然であり、「どのような分野の学術であっても、過去の研究を検証し、誤りを正さなければならない」としています。

三十年にわたる研究のブランクを埋めようとする意欲に心打たれますが、逆に学術界にあっては当たり前すぎるほど当たり前のこうした姿勢が、かくも長きにわたって放置されてきたという部分に、門外漢としてはちょっとした驚きを感じます。白川静氏の学説に対しても「分かりやすい=学術的に正しい」ではないとする著者は、その白川静氏が長く教鞭を執った大学のご出身です。こういうのは下種の勘繰りなんでしょうけど、けっこう勇気が要ったのではないかと拝察いたします。

それはさておき、本書でたっぷりと紹介される古代の漢字、とくに線で様々な事象を表そうとした甲骨文字や金文は不思議な魅力に満ちています。私はつねづね、甲骨文字や金文は、事物、特に人間を極限まで細長い形で表現したジャコメッティの彫刻に似ているなあと思っていました。中国語で犬を数える数量詞は“条(tiáo)”で、これは他にも紐や川や蛇など細長い物を数える時に使われるんですけど、私は初めてこれを教わったときにジャコメッティの犬の彫刻を連想しました。

www.guggenheim.org

おっと閑話休題。線で表したのはそれが一番効率的だったからでしょうけど(最初は尖ったもので獣骨や金属に文字を彫りつけただろうから)、三次元の事物や抽象的な事柄までも平面に線で表すという発想は何かこう、人間が森羅万象を切り取ろうとするときのある種素直な理路を体現しているような気がします。この本でも古代の文字の解釈について、先達の牽強付会な説を廃しつつよりシンプルな解に迫ろうとしている箇所がいくつもありますが、私の持っているような俗耳に入りやすい=分かりやすい呪術的な解釈よりも、より説得力のある(そして最新の研究からも裏付けられている)論が紹介されています。

他にも、字源研究のなかではその役割は限定的だとされる字音からの分析(字の形は今に残されているけど、音は残っていないですもんね)などでも、上古音や中古音と現代中国語の違いも面白いし、なにより読んでいてさらに自分の中にある中国語の漢字音と日本語の漢字音が交錯して非常におもしろかったです。これは中国語を学んだ余録だと思います。

巻末には用語解説が索引付きでついており、字源研究のための資料や参考文献についても懇切丁寧に紹介されています。これからこの分野の研究をしてみようと考える若い方々にとっても、とても参考になるのではないでしょうか。あああ、私だって若い頃に読んでおきたかった。

ところで私が買ったこの本の帯には「その漢和辞典、まちがってますよ!」との惹句があって、たぶん編集者さんがつけたんでしょうけど、これは少々いただけません。確かに新しい研究成果を踏まえて、既存の漢和辞典には多くの修訂が必要になるだろうと筆者も述べているのですが、上述したような筆者の学術に対する姿勢と、「まちがってますよ!」的センセーショナルな惹句(ま、惹句とはそういうもんですが)には大いに径庭あり、と思うからです。

ようやく音楽になってきた

「やりたいことは老後に時間ができてから」などと言って、いざ老後になったら心も身体もすでに新しいことをやる元気が失われているのではないか……ということで「やりたいことは今すぐこの場で待ったなしで」の精神でピアノの練習を始めて三ヶ月ほど。

qianchong.hatenablog.com

暮らしや仕事のサイクルになかなか合わず、ピアノの先生にはいまだにご縁がないのですが、毎日少しずつ自分で練習しています。もうほんと、時間がないときは数分程度ですけど。でも毎日数分でも指を動かしていると、あるとき「ふっ」と、それまでできなかった運指ができるようになる瞬間が訪れるんですね。当たり前すぎるほど当たり前なんですが、この感覚が非常に面白いです。

ピアノの運指はかなり合理的にできていて、初級段階の教則本には右手・左手とも「12345」の数字で「どの指で弾くか」が指示されています。それに従って練習していくのですが、なかなかその通りに指が動いてくれません。しかも右手に集中していると左手が全然動かなかったり、その逆もあったり。よく認知症予防のための運動で、手を左右非対称の動きにするものがありますよね。「グーパー体操」みたいな。

この「グーパー体操」的な動きも、最初はなかなか上手にできないのですが、ピアノの運指もまさにそういう感じです。理屈上はとてもシンプルで簡単な動きのはずなのに、左右一緒に行うとまるで指に「枷(かせ)」がはめられているかのようにうまく動かない。ほとほとイヤになって、つい放棄したくなっちゃいます。

しかし、どんな習い事でも同じですが、こういう時はタスクを軽くし、練習の範囲をごくごく小さく分割するのが吉です。そこで、まずは1小節だけきちんと動かせるように何度も練習し、それができたら2小節、3小節……という感じで徐々に範囲を広げていくことにしました。まさに亀のような歩み(というか亀の方がまだ速そう)ですし、この段階はなんだかぜんぜん音楽じゃありません。

しかしこうやっていると、あるとき「ふっ」と枷が外れる感覚が訪れるんですね。そういうときはもう運指の番号も「次はどこを押さえるんだっけ」という意識も消えています。まあ何というか、運指が意識に上らず肉体化されたとでもいいますか。そしてそのときは左右の運指がまるで一つの統一された動きに感じられるのです。さっきまでは右手に収集していると左手が疎かになっていたのに。

これは私だけの感覚だと思いますが、右手と左手の間に何か立体的な構造が組み上がるような感覚が生まれる。この構造が組み上がると、何度でも流れるように弾くことができます。この「枷が外れて立体が組み上がる」瞬間が心地よいです。

……などと非常に非常に緩慢な進み方なので、三ヶ月もやってまだ二曲くらいしか弾けません。バッハの「G線上のアリア」とショパンの「ノクターン第2番」ですが、それも初心者用にごく簡単な運指にアレンジされた、見開き2ページ完結バージョンです。こういう楽譜集がたくさん出版されているんですね。いくつかの音を同時に弾く和音も装飾音もほとんど入っていませんし、ペダルも使いません。それでも通して弾いてみると、けっこう「おおお!」という感動があります。

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ピアノ・ソロ 大人のための かんたん! すぐ弾ける! クラシック名曲100選 作曲家:ア行-タ行

こうやって弾いているものが音楽になってくると、文字通り楽しいです。でもずっとデジタルピアノのヘッドホンをつけて練習していて、まだ細君には一度も聴いてもらっていません。誰かに聴かせることができるレベルじゃないし、それが目的でもないし、また細君もクラシック音楽にはそんなに興味のない人なので聴きたいとも思ってないでしょうしね。

バターコーヒー

以前とある講座に参加した際、講師の先生が数年前にヒットした一冊の本を紹介されていました。


シリコンバレー式 自分を変える最強の食事

140キロ近い肥満状態から一念発起して食生活を根本から見直し、自らの身体を実験台にして様々な食材や食事を試した結果行き着いた「最強」の食事法を紹介したものです。それで私も読んでみたのですが、正直に申し上げてあまりにも細かく厳密で、なおかつお金もかかりすぎる「セレブの健康法」じゃないかなと思いました。当節流行のやや意地悪な言い方をすれば、ちょっと「意識高すぎ」じゃないかと。

ただ、この本がきっかけでその後ブームになった「バターコーヒー」が面白いと思いました。紹介していた講師の先生は朝食にこのコーヒーを採り入れて、確かな効果を実感されたよし。バターコーヒーについてはネットで検索すれば大量の情報が得られますが、これだけでお昼まで空腹感を感じないとか、集中力が上がって仕事に集中できるとか、ダイエットできるなどの効果があるんだそうです。

ただ、このコーヒーを作るには、コーヒー豆を厳選するところから始まって、バターは牧草だけを食べて育った牛のミルクだけを使った「グラスフェット・バター」、さらに最高品質のココナッツオイルかMCT(中鎖脂肪酸)オイルを用いなければならない……とこれまた「意識高い系」で、こないだちょいと「成城石井」をのぞいてみましたら、グラスフェット・バターが一個3000円近くしていてカルピスバターのほぼ倍! ……やはりこれは、ちょっとついていくのが難しそうです。

というわけでこの本は同僚に差し上げちゃいましたが、バターコーヒー自体は一度飲んでみたいなと思って、ネットで検索してみると、職場の近くに専門店があるのを発見しました。バターコーヒーだけでお店ができちゃうくらい、ただいま絶賛流行中なんですね。それで出勤前にわざわざ行ってきました。朝食代わりにする人が多いので、早朝からお店を開けているそうです。

テイクアウトだけのお店で、バターコーヒーは一杯702円(税込み)! お味はクリームを入れたコーヒーとほぼ変わらず、とてもおいしかったですけど、毎日この額をコーヒーに払うのはちょっと……だったらお高めのバターを買って自作した方がよさそうです。

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バターコーヒーを飲んで何となく「意識高い系」になったので、この日のお昼はその勢いでこれも「意識高い系」ハンバーガー屋さんのSHAKE SHACKで食べました。……週末は粗食に戻します。

わが仏尊し

草柳大蔵氏の『ひとは生きてきたようにしか死なない』を読みました。20年ほど前に出版された単行本が新書化されたものです。ネット書店でこの本を見つけたとき、そのタイトルに惹かれました。以前、「人は、それまで生きてきたように死んでいくもの」という医師の言葉を紹介した記事を読んで、ブログに文章を書いたことがあったからです。

qianchong.hatenablog.com

一読、草柳大蔵氏の教養や語彙の豊富さ・深さに圧倒されつつも「これはちょっと自分の好みではないな」と思いました。一見いかにもお年寄り(それも大企業の重鎮あたり)が若輩者に対して講釈をたれるような雰囲気が漂っているのです。なのに、次々に披露されるご自身のエピソードや、ご自身が接してこられた人物、文学、詩歌などに対する論考などを読んでいくうち、気がついたら付箋でいっぱいになっていました。

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ひとは生きてきたようにしか死なない (祥伝社新書)

いろいろと身にしむお話があったのですが、例えば「健康法」について、他人に「身体にいいことをやっていますか」的なお節介をしないこと、と書かれている部分は、本当にそうだなあと感じ入りました。

むかしから「わが仏、尊し」という警句があって、自分の信じている宗教、趣味、師表、料理、健康法などを、この世で一番と主張し、他人にもすすめ、批判されると、いよいよいきり立つ人がいる。

いやいや、これは私など日々やっちゃってます。いきり立つことまではさすがにないですけど、ついお勧めしてしまう。このブログの記事からしてそうじゃないですか。でも結局、人にはそれぞれの「生きよう」があって、それを他人に強要することはできないし、まただからこそ人は自分の「生きよう」を自分で引き受けていかなければならないんですね。それが「ひとは生きてきたようにしか死なない」ということなんでしょう。

「わが仏尊し(吾が仏尊し)」というのは「自分の信じるものだけが何がなんでも尊いとする、他を顧みない偏狭な心(デジタル大辞泉)」のことです。まあ誰しも自分の「生きよう」があるから当然と言えば当然なんですけど、考えてみれば昨今の差別や不寛容やヘイトや「日本スゴい」などなどもこういうところに根があるんだよなと改めて感じました。

とはいえ、この本には、いまの私にはまだ「すっ」と入ってこない箇所もたくさんありました。こちらの読みが草柳大蔵氏の達した境地に追いついていないんでしょうね。また何年か何十年かして読めば、そのときにじわっ……としみてくるものがあるのかもしれません。

ペダンチックな私

先日YouTubeでいくつかの「TEDトーク」を視聴しているうちに、ウィル・スティーブン氏の「TEDxで賢そうにプレゼンする秘訣」という動画に偶然行き着きました。

youtu.be

スタンダップコメディみたいな一種のお笑いパフォーマンスですけど、いかにもTEDふうのプレゼンテーションをしながら、そのプレゼンテーションそのものがはらむ危険性を鋭く風刺しているように思えます。それは例えば「それっぽいパワポ資料を作り込むことで何かすごいことを考えたつもりになってしまう」講演者自身の危険でもありますし、また「述べられていることを自分なりに批判・検証せず、何かすごいことを聞くことができたと高揚感に浸ってしまう」聴衆の危険でもあるような気がします。

私はこの動画を見て笑いながらも、自分が人前で話しているときも似たようなことをしているのではないか……と冷や汗が流れるのを感じました。例えばこんな場面(日本語のスクリプトこちらからダウンロードさせてもらうことができます)。

……知的な話し方をし、ここでこの人の写真を持ち出します。何か重要な事をした人でしょう、きっと。でも、私はこれが誰だかさっぱりです。ただ「科学者」とググって見つけただけですから。これでまるで私が主張を重ねて理論展開をしているかのように、そして皆さんに人生を変えたいという感じにさせます。


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わははは、私もこういうふうに「重要なことをした人」の写真をスライドに持ち出して話しています。もちろん適当に「ググって」来たわけではなく、話の流れとして必要だから入れているんですけど、「主張を重ねて理論展開しているかのように」とか「皆さんに(の)人生を変えたいという感じに」というの、冷静に自分を振り返ってみると「イタい」なあと。

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円グラフや棒グラフなどをつかって、いかにもエビデンスがありますよ的なスライドも紹介されていました。

次にグラフを見て行きましょう。この円グラフを見ると分かるのは、多数派は少数派を大きく超えている事です。皆さん分かりますか? おもしろいですね。この棒グラフを見てみましょう。同じ様に無関係なデータが出てます。こうして準備周到っていうような感じにしていきます。


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ぐぬぬぬ、私もグラフを使っています。これは通訳業界では「英日」と「中日」で「ネイティブ(母語話者)」の割合がずいぶん違うので、日本語母語話者の中国語通訳者のアドバンテージは何より日本語への訳出ですよ、だから中国語がまだまだ力不足だからと「日→中方向」ばかり頑張るのではなく、母語のブラッシュアップも必要ですよ……てなことを説明する際のスライドです。

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もちろんこれは完全にデタラメというわけではないけれど、なにかの統計を正確に反映したものではなく個人の主観に過ぎないこと(この点は話す際に断りを入れています)をグラフの力でより「知的」に見せようとしている……というきらいはあるかもしれません。

さらに「賢そうなプレゼン」に登場しがちなビジュアル(写真)についてのくだりも爆笑してしまいました。

私の後ろを見てください。単語とともに 何か意味ありげな写真が映されています。それを指差して私達が有効に時間を使っている風に見せます。


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うおおお、私も同じような写真(イラスト)を使っています。特にこういう、脳科学系の知見を利用してますよ的なエクスキューズを入れつつ、自分の話を「盛る」というか信憑性を増すように手を入れているわけですね。ビジュアルの力を借りて。

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学生時代、先生や友人から「理屈っぽい」とか「衒学的(ペダンチック)」などと言われていたのを思い出しました。自分自身は「頭でっかち」だと思っていたんですけど、頭でっかちは「知識や理論が先走って行動が伴わないこと」ですから少なくとも知識や理論は頭に入っているわけですよね。もし私が、入っていないのにペダントリーに振る舞っちゃってるんだとしたらもっと危ないな……と、この動画を見て思ったのでした。

そういやこのブログ文章も、「エビデンス」だの「アドバンテージ」だの「ブラッシュアップ」だの「エクスキューズ」だの……けっこう衒学的な感じがしますねえ。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

“便宜”を貪る人たち

Twitterで武田砂鉄氏がこんなツイートをされていました。

このお気持ち、すごーくよく分かります。私も先日確定申告を済ませ、クレジットカードで少なくない税額を振り込んできたんですけど、正直「あんなに公文書や統計の改竄が行われているってのに私ったら……」という気持ちがこみ上げてきました(まあ、あれはあれ、これはこれ、なんですが)。

でも人に「バカ正直」と言われても、結局は「天網恢恢疎にして漏らさず」的な意味で、嘘をつくのが気持ち悪いので「ちゃんとやってしまう」んですよね。”中国語には“貪便宜(tān piányi)”という言葉があって(“天網恢恢疏而不漏”だってもともと中国語ですけど)、「目先の利益をむさぼる」とか「甘い汁を吸う」といった意味なんですが、そういうのがイヤなのです。

“貪便宜”というのは、何というのかな、とっても「セコい・小ずるい」感じのする言葉です。そんなところで安易に得しようとするなんて情けないじゃないか、お天道様に顔向けができないんじゃないかという感じ(あくまで私的な語感です)。これはもう一種の信仰みたいなものだと思うんですけど、武田砂鉄氏おっしゃるところの国民に嘘つきまくっている人たちって、そういう信仰がないのかな、天に恥じるということがないのかな……と思います。

かなり昔のことですが、中国の友人に「中国は上がしっかりしていて下がいいかげんだけど、日本は下がしっかりしていて上がいいかげん」と言われ、う〜ん、そうかなあ、とにわかには頷けませんでした。そんな十把一絡げに言われてもね。でも昨今の状態は……中国はずいぶん変わったような気がするけど、日本では確かにそうかもしれないですね。

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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_51.html

先日、共同通信世論調査結果が発表されていました。沖縄県の、普天間基地辺野古移設をめぐって七割以上が反対した県民投票後初の結果ですが、安倍内閣の支持率は43.3%とほぼ横ばい。直前に景気動向指数が後退局面に入ったのではないかと、各種の統計疑惑に続いてまたまた怪しい材料が飛び出した直後の調査でもこの数字です。

「いいかげんな上」にまだこれだけの支持が集まっているのも不思議ですけど、でもお仕事で企業経営者などの本音を側聞したり(守秘義務があるので詳しくは書けませんが)、金融の学校に通ったりして感じる空気から思うのは、なんだかんだ言って富裕層やそこにつながる層の少なからぬ人々が、安倍内閣と日銀の経済政策を歓迎していることです。アメリカのトランプ大統領だって、あれだけ「倫理面、知性面などから不適格(ペロシ下院議長)」などと言われながら、インフラ投資や減税などの財政政策は株価を押し上げる方向に力が働いていますよね。

要するに、リベラル層が俎上に載せている各種の論点など、お金儲けの前にはかすんでしまうんですかね。本来なら国家の政策も投資も長期的な視点や大局観が必要なはずですが、いまの政財界、特に日本には、そんな「大人(たいじん)」は少ないように感じます。すでに国家としては横ばいないし衰退期に入って余裕がなくなり始めているとも言えそうですけど。

それにしても、武田氏おっしゃるところの「国民に嘘つきまくっている人たち」には、そんなこと続けているとろくな死に方をしませんよ、と呪詛の一つもつぶやきたくなりますね。