草柳大蔵氏の『ひとは生きてきたようにしか死なない』を読みました。20年ほど前に出版された単行本が新書化されたものです。ネット書店でこの本を見つけたとき、そのタイトルに惹かれました。以前、「人は、それまで生きてきたように死んでいくもの」という医師の言葉を紹介した記事を読んで、ブログに文章を書いたことがあったからです。
一読、草柳大蔵氏の教養や語彙の豊富さ・深さに圧倒されつつも「これはちょっと自分の好みではないな」と思いました。一見いかにもお年寄り(それも大企業の重鎮あたり)が若輩者に対して講釈をたれるような雰囲気が漂っているのです。なのに、次々に披露されるご自身のエピソードや、ご自身が接してこられた人物、文学、詩歌などに対する論考などを読んでいくうち、気がついたら付箋でいっぱいになっていました。
いろいろと身にしむお話があったのですが、例えば「健康法」について、他人に「身体にいいことをやっていますか」的なお節介をしないこと、と書かれている部分は、本当にそうだなあと感じ入りました。
むかしから「わが仏、尊し」という警句があって、自分の信じている宗教、趣味、師表、料理、健康法などを、この世で一番と主張し、他人にもすすめ、批判されると、いよいよいきり立つ人がいる。
いやいや、これは私など日々やっちゃってます。いきり立つことまではさすがにないですけど、ついお勧めしてしまう。このブログの記事からしてそうじゃないですか。でも結局、人にはそれぞれの「生きよう」があって、それを他人に強要することはできないし、まただからこそ人は自分の「生きよう」を自分で引き受けていかなければならないんですね。それが「ひとは生きてきたようにしか死なない」ということなんでしょう。
「わが仏尊し(吾が仏尊し)」というのは「自分の信じるものだけが何がなんでも尊いとする、他を顧みない偏狭な心(デジタル大辞泉)」のことです。まあ誰しも自分の「生きよう」があるから当然と言えば当然なんですけど、考えてみれば昨今の差別や不寛容やヘイトや「日本スゴい」などなどもこういうところに根があるんだよなと改めて感じました。
とはいえ、この本には、いまの私にはまだ「すっ」と入ってこない箇所もたくさんありました。こちらの読みが草柳大蔵氏の達した境地に追いついていないんでしょうね。また何年か何十年かして読めば、そのときにじわっ……としみてくるものがあるのかもしれません。