インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しまじまの旅 たびたびの旅 59 ……海水の温泉と「鮪推し」

台湾に限らず、離島へ行ったら必ず灯台を探します。かつて遠洋航路の船乗りか灯台守になるのが夢だったからです。灯台の周辺はたいがい立入禁止になっていることが多いのですが、遠くから眺めているだけでもその佇まいに何かこう、胸が高鳴るのを感じます。

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こちらは綠島唯一の灯台、その名も「綠島灯台」。こういうところで灯台守をしたい……けれども、聞いた話によると現代の灯台はほとんどが自動制御になっていて、灯台守という職業そのものがなくなりつつあるそうです。

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綠島は海産物、とりわけ鮪(マグロ)が有名だそうで、街中の食堂やレストランでは「鮪推し」のメニューを数多く見かけました。こちらは朝ごはんのお店で食べた「鮪魚蛋餅(左)」と「綠島魚粽(右)」。どちらも肉のかわりに鮪を使っています。粽(ちまき)に入っている鮪はところどころ脂身もあったりして、豚バラの角煮にそっくりです。でも魚なので味はあっさり目。民宿のおやじさんのおすすめ通り、これは大当たりでした。

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夕飯では刺身も頼んでみました。一人だと分量が多すぎるかなと恐れていたんですが、以外に少なかった……。でもとても新鮮でした。ほかにも定番の「鹽水蝦」と「海草煎蛋」も。この煎蛋は「菜脯蛋」に似ていますが、菜脯のかわりに海草(生海苔みたいなの)が入っていて、これも美味しかったです。いずれも塩分控えめ。やっぱり台湾料理はどれもあっさり味でいいですね。

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日差しが弱くなる夕方まで待ってから、温泉に出かけました。綠島には世界でも珍しい海水が自然に温泉として湧いている場所があるのです。

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露天の温水プールと同じような感じで、水着と水泳帽着用です。このプールはかなりぬるくて物足りない感じでしたが、浜辺に降りた先に源泉があります。眺めていると、底からあぶくが立ち上っています。こちらはまさに温泉と呼ぶにふさわしい温度。すぐそばで波の音が響く素晴らしい環境でした。

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海水の温泉ですが、お湯から上がったあとも不思議にベタベタせず、海水浴とは全く違う感覚です。近くには90度ほどのお湯が湧き出ている場所もあり、みなさん卵や海老やトウモロコシなどを持参して茹でていました。

この温泉の名前は「朝日温泉」。もしやと思って調べてみたら、案の定日本統治時代に「旭温泉」と名づけられ、ここから日の出を眺めつつ温泉に入るのが人気だったよし。かつて、こんなところまで出張って来ていたのね、日本人。

そういえば、島を一周する道の途中にこんな記念碑がありました。

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たまたま見つけたんですけど、そばの説明文には「一九九三年二月二十八日永興旅客機事故による遭難者記念碑」とあります。台湾文化部の職員と日本の旅行会社の社員が観光資源開発のために蘭嶼へ向かう途中遭難した、と。

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綠島や、おとなりの蘭嶼は、日本人にとってはかなりマイナーな場所ですが、それでもいろいろと関わりがあるのだなと思いました。

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夕方に行った朝日温泉では日没は見られなかったのですが、民宿への帰路に素晴らしい夕焼けが待っていました。あまり人のいないこうした道を電動スクーターでかっ飛ばすのは爽快です。

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これはおまけ。民宿のかわいい送迎用ワゴンです。助手席側の窓が開かない、かなりオンボロな改造車。台湾の海辺の民宿や食堂って、こういうキュートでポップなテイストの所が多いです。というか海辺のサマーリゾートはどこもこうかな。何というか、島全体、街全体がこぞって「チープな海の家」状態なんです。気取ってなくて私は好きですが。

しまじまの旅 たびたびの旅 58 ……綠島の若者文化と監獄文化

綠島は、観光用の島内一周バスを除くと、バスやタクシーの類が一切ないので、バイク(スクーター)が必須です。私も電動スクーターを借りました。電動は馬祖でも乗ったことがありますが、電池の交換が頻繁で不便なので普通のガソリンで動くバイクを借りたかったんですけど、外国人は電動のみという暗黙のルールがあるようでした。

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というわけで、綠島唯一の繁華街、南寮のメインストリートはバイクで溢れかえっています。しかも圧倒的に若い方が多い。お店もどちらかというと若者向けのテイストで、例えて言えば原宿の竹下通りや台北の西門町的なポップで雑然とした雰囲気(の超ローカル版?)が感じられます。

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それから、バイクに乗っている時にヘルメットをかぶらない人の率がけっこう高いです。写真ではけっこうかぶっているように見えますけど、島内を一周してみて、だいたい六割くらいの人がかぶっていないようにお見受けしました。あと、上半身裸(+タトゥー)の若い兄ちゃん率もかなり高い。暑いですし、マリンスポーツが盛んな場所ですからね。

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そう、ここ綠島は端的に言って、若い方や家族連れがシュノーケリングやダイビングや釣りなどのマリンスポーツを手軽に、そして比較的安価に楽しめる場所という位置づけのようです。朝の時間など、お揃いの救命胴衣をつけた大勢の観光客が大挙してスクーターで移動していたりして、ちょっと壮観です。

その意味では静かにゆっくりとリゾート気分を味わう南の島という雰囲気はほとんどなくて、そのぶん「田舎」の雰囲気満載。澎湖よりも馬祖よりも、さらに台湾の田舎の街らしい雑多な感じにあふれています。

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かつて「監獄島」とも称された綠島には、いまも一部の刑務所施設が現役で稼働しています。民宿のおやじさんによると、こちらの刑務所には「重犯」の受刑者が収容されているとのこと。すぐそばにあるポップな繁華街とのコントラストがすごいですね。

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入口前まで行ってみると、観光客が記念写真を撮っていました。何というか、この壁の絵もそうですけど、刑務所というものに対する感覚がちょっと興味深いです。いや、日本の刑務所だって壁に絵が描かれているところはありますけど。

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入口前の日陰にいた「アンタ、何しにきたの」という顔の猫さん。

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この刑務所からほど近いところに「綠島人権文化園区」があります。かつて政治犯や思想犯を収監、あるいは教化するために使われていた「綠洲山莊」と、犠牲になった人たちを記念する公園からなっています。しかし監獄の名前が「山荘」ってのもすごいですね。

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逆光で見えにくいですが、奥の大きな崖に「滅共復國(共産党を滅ぼして国を取り戻そう)」と書かれています。

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分厚い鉄の扉。

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接見用のブースもありました。

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もともと憲兵などの宿舎だった建物で、白色テロの犠牲になった医療関係者に関する特別展が開催されていました。

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綠洲山莊のお向かいにある人権記念公園。暑いのでほとんど人がいません。

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自身も政治犯として収容されていたことがある作家・柏楊氏の碑文がありました。「在那個時代,有多少母親,為她們被囚禁在這個島上的孩子,長夜哭泣」。あの時代、どれだけの母親が(彼女たちのために)この島に囚われた子供を思って長い夜を泣き明かしただろうか。

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この碑文にある「為她們」にぐっときました。直訳すれば「彼女(母親)たちのために」ですけれど、この「她們」にはもっと広くて深い意味が込められていると思います。いわば、自由を求める全ての人々のために、この国の未来のためにというニュアンスを感じるのです。

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地下に掘り下げられたスペースには、かつてここに収容された人たちを始め、政治犯や思想犯として迫害や弾圧を受けた人々の名前が刻まれています。ものすごい数です。

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獄死した人、銃殺刑に処された人……。

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綠洲山莊に収容されていた人々の名前の中に、施明徳氏の名前もありました。やはり李昂氏の小説「鴛鴦春膳」の牛肉麺のくだりに出てくる描写は、ここでのことだったんですね。

あまりに暑いので探しませんでしたが、2000年に陳水扁氏と組んで副総統に当選した呂秀蓮氏や、高雄市長だった陳菊氏の名前もあるそうです。いずれも民進党の重鎮級政治家。現在台湾の与党は民進党ですが、この政権が生まれるまでに、また台湾がアジアで他に先駆けて民主的な政策を進めつつあるという今の状況に到るまでに、費やされた犠牲の多さに粛然とした気持ちになります。

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最後の、一番新しい年代のところに「前田光枝」という名前を見つけました。日本人ですよね。調べてみたらこの方、台湾独立運動などに関わり一時は日本に亡命していたこともある史明氏と、台湾共産党史などの研究で知られる盧修一氏との連絡役(何でもお茶の葉を入れる缶に史明氏からの「指令」を潜ませて盧修一氏に渡したとか)として摘発され、国外追放となったそうです。

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緑島がこうした歴史的背景を持っているということで、「竹下通り」的なメインストリートには監獄を模したようなお店がいくつかありました。民宿のおやじさんは「監獄文化」と呼んでいました。ちゃっかり観光資源にしちゃってます。

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こちらは「冰獄」という名前のかき氷屋さん。牢屋に入ってかき氷を食べるというコンセプト(?)。ちょっと不謹慎な気もしますけど、こういう悪趣味テイストのノリって台湾には好きな方も多いですよね。あの「KUSO」的な悪ノリ文化というか。

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こちらのお店をはじめ、緑島のかき氷は海草(岩海苔みたいなの)が入っているのが特徴だそうです。「監獄冰」の「ALL(全部乗せ)」を頼んでみました。大と小がありますが、「小」でもこのボリュームなので、二人でシェアした方がよいかもしれません。

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しまじまの旅 たびたびの旅 57 ……富岡漁港の魚市場と緑島フェリー

台東の沖にある綠島に渡るため、フェリーが発着する富岡漁港にやってきました。

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切符売り場は綠島や蘭嶼で休日を過ごす人たちでごった返していますが、民宿経由でフェリーのチケットを予約しておいたのですぐに発券してもらうことができました。

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乗船口に向かう途中、こんな看板が。“白色恐怖”は「白色テロ(反政府勢力に対する政治的弾圧)」のこと。そう、綠島はかつて政治犯を収容する監獄が置かれていた場所で、別名「監獄島」とも呼ばれていたのでした。今も一部の施設は刑務所として運営されています。

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確か「美麗島事件」に連座した施明徳氏らもかつてこの綠島監獄に収容されていたはず。李昂氏の小説『鴛鴦春膳』に収められた短編「牛肉麺」で出てくる施明徳氏のエピソード*1もここの監獄での出来事だったのかな。

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フェリーの出発時間まで余裕があったので、チケット売り場の隣にある魚市場に行ってみました。

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仕切られた台の上に、次々に水揚げされた魚が並べられていきます。その場で値段交渉をして買って行くみたい。巨大な魚から雑魚まで、そして熱帯特有のカラフルなものまで、色々な魚が並んでいます。

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なぜか太刀魚だけは別枠のコーナーが設けられていました。新鮮でお刺身にしたら美味しそう(熊本に住んでいたときはよく生の太刀魚を食べていました)。手前の太刀魚の巨大なこと!

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今回乗ったフェリーは「天王星」号です。

ところで、以前綠島に行ったことがあるという台湾の留学生から「センセ、あのフェリー、波が高いときは気をつけた方がいいですよ」と言われていました。

「どうして?」

「船酔いするんです。周りの乗客も船酔いして、吐く人が続出して。その光景と音と匂いでこちらも気持ち悪くなっちゃうんです」

「えええ……」

「だから綠島についたら、みんな『帰りは絶対飛行機に乗る!』って言うんですけど、小さな飛行機が一日に数便しか飛んでないから、チケットなんて取れないんです。で、帰りも同じ地獄を味わうという……」

「ほええ……」

予約した民宿の老闆からもラインのメッセージで注意事項が届き……

①船に乗る一時間前に酔い止めの薬をのむこと(できれば口服液がよい)。
②マスク、イヤホン(音楽を聞く)、サングラス、帽子はできるだけ身につけること。
③乗船したらなるべく後ろ寄りの真ん中に席を取り(一番揺れない場所)、できれば寝ること。
④船に乗って写真撮影のためデッキに出るなどせず、非常に酔いやすいのでスマホの画面も極力見ないこと。
⑤身体を横に向けると酔いにくいらしいが、それでも酔ってしまったらとにかく耐えること。

……と事細かなアドバイスが入っていました。

だもんで、戦々恐々の私はこれらを忠実に履行して、こんないでたちに。酔い止めは「トリブラ」の口服液を日本から持っていきました。

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しかし、この日は波も非常に穏やかで、ほとんど揺れず、周りで吐いている人は一人もいませんでした。私一人、かなり浮いた格好でまんじりともせず船の客席で過ごす形に。なんだか、かなりマヌケです。

*1:監獄に収容されている政治犯は、お金があれば牛肉麺を注文することもできた。施明徳氏の向かいに収容されていた囚人はお金がなく、いつも羨ましそうな目でこちらを見ていた。そんな彼を見かねてある日、牛肉麺をご馳走してあげようと注文を取りに来る看守に言おうと思っていたが、たまたまその日は用を足している最中で注文できなかった。明日また注文すればいいさと思っていたら、あくる日の早朝、くだんの囚人は銃殺刑に処されてしまった……というお話。

しまじまの旅 たびたびの旅 56 ……台東の米苔目と炸雞

国内線の小さなプロペラ機で台東にやってきました。

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台東は過去に何度か“走馬看花”的に通り過ぎたことがあるだけで、ほとんど何も知りません。タクシーの運転手さんに「台東のB級グルメで『まずは食べとけ』ってのは何ですか」と聞いたら、「そうね、米苔目かな」というので、ホテル近くにあったこちらに行ってみました。人気のお店で、長蛇の列&満席のお客さん。

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並びながらチェックする紙には日本語も書かれていました。米苔目は「ライスヌードル」となってますね。そう、柔らかいうどんのような麺です。“內用,小湯加個滷蛋和魚丸(スープライスヌードルの並に味つけ卵とフィッシュボール、店内で)”で支払いをして、番号が書かれた紙をもらうも、全然席が空いていません。

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うろうろしていたら、お店のご主人と思しきおじさんが親切に店の奥の奥まで連れて行ってくれて「ここに座って。あんた香港人?」。台湾では、黙っていると日本人、少しでも中国語を話すとたいがい香港人だと認識されるみたいです。

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で、運ばれてきたのがこれ。ライスヌードルにモヤシとニラ、それにそぼろのような肉。さらに上に鰹節がたっぷり。見た目よりかなりあっさりしていて、これは美味しいです。地元の方も観光客もこぞって並ぶのが分かるような気がします。

さらにもう一軒、タクシーの運転手さんがやたら勧めていたのがこちらの“炸雞(フライドチキン)”。上記の米苔目屋さんからほど近い場所です。運転手さんは「とにかく“雞塊”がおすすめだから」と言っていました。こちらも並んでます。当然のように年齢層は若め、チキンバーガーのセットなんかもあって、地元密着型のファストフードですね。

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おすすめの“雞塊”と“雞腿”をひとつずつ、それに冷たい紅茶を注文しました。

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“雞塊”というのは大きな塊を想像していたんですが、骨付きのままぶつ切りにした鶏肉を揚げたものでした。それが5〜6個ほどで1セット。“雞腿”はその名の通り、いわゆる「ドラム」の部位ですね。どちらもスパイシーですが、そんなにもたれない感じ。とても柔らかい。

う〜ん、こちらも人気店にふさわしく、大手チェーンのフライドチキンよりよりずっと美味しいです。そして“米苔目”もそうでしたが、それほど塩が強くありません。やはり東京の味つけはかなりしょっぱいというか、濃いと思います。

帰り際にコンビニで台灣啤酒の夏季限定バージョン「哈密瓜(ハミウリ)味のビール」を買いました。台東は冷房の効いた場所から外に出ると一瞬眼鏡が曇るくらい湿度が高いですが、緑が多いせいか、東京よりも暑くないと感じました。

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しまじまの旅 たびたびの旅 55 ……門司港レトロよりレトロ

かつて交通の要衝として、また石炭など物資の積み出し港として栄えた門司港。現在も残る古い建築群を中心に整備が行われ「門司港レトロ」として観光スポットになっています。

門司港レトロについて/門司港レトロインフォメーション

門司港と言えば最近の流行は「焼きカレー」ですかね。私はまだ食べたことがないんですけど。観光地としての門司港界隈は、当然のことながらいささか「観光地観光地している」ので私はあまり好みではありません。というわけで、門司港からほど近い栄町銀天街にやってきました。

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う〜ん、私の実家がある小倉の魚町銀天街もそうですけど、かつての賑わいはちょっと、いや、かなり影を潜めた「シャッター商店街」になりつつありますね。でも、旅行者の勝手なノスタルジーではありますが、こちらのほうがよほど「レトロ」で味わい深いです。

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この食堂、営業されている時に入ってみたかった……。

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路地の奥にも雰囲気のある喫茶店がありましたが、今日のお目当てはここ「梅月」です。

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店内の雰囲気も懐かしい、懐かしすぎます。戦後すぐに創業して、もう70年になる老舗だそうです。

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メニューがこちら。安いですねえ。

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焼そばや焼きうどん類もか・な・り魅力的ですが、今日はかき氷を注文しました。

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宇治金時クリームです。表からは見えませんが、中にソフトクリームが入っています。甘さ控えめの小豆(これがかなりふっくらで美味)も器の下にたっぷり。しかもこの「宇治」がもう……素晴らしい香りと苦み。注文のたびに抹茶を溶いて宇治シロップを作るそうです。ちなみにこのお店では「クリーム」がソフトクリーム、「ミルク」が練乳ですと店員さんが親切に説明してくださいました。

門司港レトロよりも数倍レトロな雰囲気を堪能しました。次はぜったいにオム焼そばを食べます。いや、暑い盛りに鍋焼きうどんも捨てがたいですねえ。

言語リテラシー教育(のようなもの)の必要性について

先日Twitterのタイムラインで拝見した、とらねこ285氏(@toraneko285)のツイート。

通訳という「作業」を利用するのは、ある言語で話した自分の言葉を違う言語で聞き手に届けてもらうためです。ちょっと考えれば、違う言語の方の耳に最終的に届く言葉は通訳者さんが話している言葉なので、その通訳者さんに最大のサポートをしてこそ自分の言いたいこともより伝わる……はずなのにそう考えない方が多いのは本当に謎です。

具体的には、話す際に使用する資料やパワーポイントなどのスライド、発表原稿や出席者の名簿、さらにはその発言が行われる背景についての知識など(交渉などの場合にはどんな戦略や隠れた意図があるのかなどまで)、とにかく最大限通訳者に伝えてこそ発言者である自らの利に適うことになります。

もちろんその辺の事情をよく御存知で、通訳者に対して最大限「まえびろ」で資料などを提供し、必要に応じてブリーフィングやレクチャーを行ってくださるクライアントもいる……んですけど、実際には私が以前ツイートしたような状況が、通訳者のみなさんから「あるある!」と言われてしまうような状況が多いのです。

こうなるともう、わざと相手に伝えないようにしているんじゃないか、通訳者に何か恨みでもあるんじゃないか、などと思ってしまいますが、もちろんそうではありません。端的に言って、通訳という「作業」についての正確な認識がないために、通訳者に情報を提供しないことがどういう結果をもたらすかについて想像が働かないのです。

しかし通訳とはもともと多少の「無理筋」を内包した営みです。業界の専門家ばかりが集まる会議で、専門家同士でさえまだ共通の知見が得られていない事柄について話す(だからわざわざ国際会議をやるのです)場面で、通訳者だけがひとり門外漢であるにもかかわらず、その門外漢が一番前に出て二つの言葉で瞬時に専門的な内容をやりとりする……という、この「無理筋感」をご想像いただけるでしょうか。

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qianchong.hatenablog.com

巧婦難為無米炊──ひとりだけ門外漢の苦衷
https://haken.issjp.com/articles/careers/ke_tokuhisa_09

わたしは上で「ちょっと考えれば(分かるじゃん)」と書きましたが、いや、そうではない。分からないのですね。そも言語とは何か、母語や外語とは何か、言語が異なる人々との交流すなわち「異文化(異言語)コミュニケーション」とは何か、という包括的なリテラシー教育の必要を感じます。

昨今は「グローバル化」のバスに乗り遅れるなとばかり、朝野をあげて小学校から英語教育だとの声喧しいです。それぞれの言語の学習もけっこうですが、その前に、あるいはそれと平行して、「言語リテラシー」のような一般教養を発達段階に応じて身につけていくプログラムが必要ではないでしょうか。

それは言語の習得のみにとどまらず、多様性を認識し、認め合い、寛容と相互理解の精神を養うことなどにもつながると思います。

しまじまの旅 たびたびの旅 54 ……瓦そばと角島大橋

北九州市の実家に帰省した機会を利用して、山口県の下関から角島あたりをドライブしました。角島大橋の周辺は、沖縄や台湾の離島を彷彿とさせる風景。

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お昼ご飯は、このあたりの名物だという「瓦そば」を食べました。熱した瓦の上に茶そばと錦糸卵と牛肉の炒めたのと海苔、それにネギと紅葉おろしとレモンが載っているという、ちょっとすごいビジュアルです。これらをめんつゆにつけつつ食べます。食べているうちに、瓦に接している茶そばが焼けてパリパリの食感になっていきます。なかなか美味しかったです。

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http://www.kawarasoba.jp/

聞くところによると、このあたりの方々は、家庭でもホットプレートを使ってよくこの「瓦そば」を作るんだそうです。スーパーでは「瓦そばセット」も売られているよし。材料はカンタンに揃えられますし、今度うちでもやってみようと思います。

帰路、「特牛」と書いて「こっとい」と読む面白い地名の小さな港町を経由して、北九州市の小倉まで戻り、古民家を改造したカフェに入りました。

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https://localplace.jp/t100355487/

人圧とダッシュおじさんについて

これはたぶん年齢のせいだと思うんですけど、ここ数年、人の多い場所に行くだけで気分が悪くなるようになりました。何というか、人の圧力みたいなものを感じるようになったのです。とりあえず「人圧」とでも呼んでおくことにします。

まず通勤時の満員電車。まあアレが快適な方など一人もいないと思いますが、物理的に押されている身体だけでなく、精神的にも耐えられません。かくいう私自身もその「満員」を構成している一人なんですから、何と傲慢な感覚かと思いますが……。いわゆる「パニック障害」のごくごく初期の症状なのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_18.html

あまりに息苦しいので、仕事場に行くときは出勤時間の一時間半から、時に二時間も前に行くようになりました。早く職場に行って、始業までの時間は自分の勉強などに使うのです。これでずいぶん「人圧」は感じなくて済むようになりましたが、驚くのは首都東京の方々の勤勉さ。早朝六時台であっても、都心に向かう電車はすでにかなりの混雑ぶりです。

最近、駅の構内や電車内で「つい、カッとなった。人生、ガラッと変わった。」という暴力行為防止ポスターをよく見かけます。

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https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/07/page_12646.html

こうしたポスターで啓発に力を入れなければならないほど暴力行為が頻発しているディストピア東京ですが、みなさん私と同じように内心はイライラされているんでしょうね。正直、私にもときどき「カッとなりそう」な瞬間があります。故・忌野清志郎氏が歌った “Born under a bad sign” のカバー曲に出てくる「♪ いつかきっとあんたも犯罪を犯すだろう」というフレーズが頭をよぎります。危ない危ない。

東京都心の朝は、満員電車は言うに及ばず、電車を降りたあとのホームにも人がごった返しています。

特に電車のドアが開く瞬間がちょっと怖い。我先にとエスカレーターや階段へダッシュするおじさんたち、同じホームの反対側に入ってくる「当駅始発」の電車に席を確保すべく、これまたダッシュをかますおじさんたち。そうした「えべっさん西宮神社で一番福を狙って開門を待ってる状態」のおじさんたちに巻きこまれたら怪我をしそうなので、私はなるべく柱の陰に隠れて人の波が途切れるのを待つようにしています。

都心のターミナル駅、それも朝のラッシュ時であっても、よく観察すると人の波が途切れる瞬間があります。エスカレーターや階段に人が殺到して長い列ができているような状態でも、ほんの数十秒、長くても一分程度で人の波が途切れるのです。私はいくつかの駅で実際にストップウォッチで測ったので間違いありません。

それ以上長くなると次の電車がホームに入ってくるので、その人の波が途切れたタイミングで動く。こうすれば「人圧」を感じなくて済みます。そう、どんなに人でごった返しているホームであっても、人の波が引き、階段を悠々と上れるようになるまで、ほんの数十秒しかかからないのです。ちょっとスマホTwitterでも眺めていれば過ぎてしまうほどの短い時間です。

スーパーなどでも、少しでも早く自分の番が回ってきそうなレジの列を狙って右往左往しているおじさんや、フォーク並びにも関わらず少しでも早く前に進みたくてうずうずしているおじさん、あまつさえ「何をぐずぐずしているんだ! 早くしろよ!」と怒鳴っちゃってるおじさんを見かけることがありますが(みんなおじさんですね)、みなさん、もう少しゆっくり人生を歩みましょうよ。

というか、こんなことを縷々ブログに綴っている私も、そうとうメンタル的に参っているおじさんです。ちょっと南の島にでも命の洗濯をしに行ってきたいと思います。

「正しければ伝わる」わけではないです

先日の東京新聞朝刊特報欄に「世代を超えた社会運動は可能か?」という、とても考えさせられる記事が載っていました。

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立命館大准教授の富永京子氏が若者への取材を通じて指摘する、大人(あるいは年長世代)と若者の政治や社会問題に対するスタンスの違い。私は若者ではないけれど、確かに年長世代の「常識」に違和感を覚えることがままあります。

先日某駅前を通りかかったら、大音量で演説をしている一団がおり、思わず耳を塞ぎました。お揃いのゼッケンに幟(のぼり)、配られるビラ……はっきりと確かめず足早に過ぎ去ったのですが、どうやら政権批判をする日本共産党の方々だった模様。私は同党の主張に共感する点もあるけれど、正直「アレ」では多くの人に届かないと思いました。

「保育園落ちた日本死ね」などのように、SNSでの拡散が現実を変えることも多い現在、「路上での活動に過度にこだわる態度が、すでに年長者的なのではないか」という富永氏の分析は鋭いと思います。私自身、昔はデモにも集会にも参加しましたが、当時の私でさえ、殺気立った雰囲気で敵を糾弾する年長世代の手法や言葉遣いにはかなりの違和感を覚えていました。それが悪辣な相手に対する正当なカウンターパンチなのだと説明されても。

「取材場所にスターバックスを選ぶと『グローバル企業を支持するのか』と問うような年長世代にへきえき」というのも、本当に同感です。私もとある運動のニュースレターに、デザインとしてほんの少しの英文を配しただけで「アメリカ帝国主義の手先」などと苦情が来た(それも複数)ことがあって、その運動自体にかなり「ドン引き」しちゃったことがありましたもの。

もちろん社会運動が扱う問題は、等身大の分かりやすいものだけではありません。また時には強烈な言葉と手法が事態を動かすことだってあるでしょう。けれど、少なくとも年長世代がこれまで培って来た立場と考え方を頑として変えず、「上から目線」であるいは指弾しあるいは嘆息しても、人は、特に若い人は動かないのではないか……この記事を読んで改めて感じました。

かつてレイアウトの仕事をしていた頃、個人ユニオンを作って会社と交渉をしていたご縁で某労働組合のポスターやチラシに意見を求められたことがありました。ただ、そのあまりに生硬な文章と情報過多に「もう少しシンプルな方が主張が伝わるのでは」と申し上げたところ、「でざいなーさんの意見も分かるけどさ、こっちは正しいことを言ってるんだからいいんだ」と言下に否定されました。

どんなに素晴らしい考え方であっても、伝わらなければ意味がありません。そして「何を」伝えるのかも大切ですが「どう」伝えるかも大切。問答無用で彼我を固定せず、「正しければ伝わる」という信憑を捨て*1、ひょっとしたら自分の考えが古い、あるいは変質してしまっているのかもしれないと常に検証する態度が必要だと思いました。そして、そのための訓練の場所としてTwitterのようなSNSは有効なのではないかとも思いました。

*1:これ、異文化コミュニケーションの現場で日本人が寄りかかる「誠意があれば伝わる」にどこか似ています。

ネット動画に見る通訳者のイメージ

先日Twitterで「 #一般人の方が時々誤解しておられること*1」というハッシュタグを見かけ、私もこんなツイートをしました。

「話せれば訳せる」は通訳者に対する誤解の最たるものだと思いますが、他にも一般の方の通訳者に対する誤解、あるいは通訳者に対して抱いているイメージにはどこか共通しているものがあるように思います。

クールでローテンションな通訳者

そうした共通のイメージ、言い換えればステロタイプな通訳者像は、ネット動画からもうかがい知ることができます。以下は私が通訳学校の授業で「反面教師」として紹介しているものです。

LIXIL ユニバーサル社会インタビュー直訳篇
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どうでしょう。通訳者はクールで冷静、かつ“低調(ローテンション)”で、どこか抑揚をおさえた一本調子で話し、冗談などあまり通じそうにない……というイメージが垣間見えませんか? タイトルからして「直訳篇」ですしね。そんなことない?

ライオン トップ NANOX 犬語を通訳篇
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「犬語通訳」という実際にはあり得ない設定ですが、ベッキー氏の造形はビジネススーツに身を包み、大きな黒眼鏡をかけ、とてもクールなイメージです。話し方もやはり抑揚や感情を抑えた感じですね。

タウンワーク 通訳編
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この松本人志氏の「通訳者」はちょっとギャグが入っていて上記二本とは雰囲気は違いますが、やはり最初は抑揚のない、どこか不機嫌にさえ見えるような佇まいです。話者の後ろでぼそぼそ喋る通訳者、というステロタイプなイメージとでもいいましょうか。

フロントラインプラス 猫翻訳家篇
youtu.be
フロントラインプラス 犬翻訳家篇
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この二本も、ベッキー氏と同じような造形がなされています。うーん、これが一般に流布されている通訳者のイメージなんですね。あとこの通訳者さんは「〇〇だそうです」と三人称で訳されていますが、原則的にはこういう訳し方はせず、原発言者(ここでは猫さんと犬さんですが)に成り代わって一人称で訳します。まあ「ノミ・マダニ対策はフロントラインプラスだニャ」みたいな感じでしょうか。

友近「同時通訳」


お笑い芸人の友近氏が演じる同時通訳者です。実際にはこんなふうにスタンドマイクの前に立って手ぶらで同時通訳をすることはまずありえないんですけど、まあそれはコントということで。

これもどこか上掲の動画に通じるものがありますね。通訳者は「ちょっと「エラそー」……というのも、そのひとつ。また「素」の時は活き活き話しているのに、同時通訳に入ると途端にクールでローテンションになっちゃうというのも典型的です。

こうしたカリカチュアが多数登場するということは、やはり一般の方が接する少なからぬ通訳者がこういうパフォーマンスをしているということの反映なのでしょう。でもこれは通訳学校で恩師が強調されていたことでもあるのですが、通訳者のパフォーマンスがこういうものだと思われたくないですし、そこに甘んじてはいけないと思います。

私自身としては、時と場合にもよりますけど、もう少し「血の通った」というか、活き活きと、そして普通に聞きやすい訳出を心がけたい——「反面教師」とするゆえんです。

通訳者に対する不満

さらに興味深いのは、通訳者に対するある種の疑念なり不満なりクレームなりが笑いに転化されている動画です。

LIXIL ユニバーサル社会インタビューアドリブ篇
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こちらは「通訳が勝手に訳しちゃう&そこ訳さなくていい」問題。ちょこっと喋っただけなのに、通訳者がいやに長く訳す……「何か余計なことをつけ加えてんじゃないの?」という疑念ですね。

三井住友海上 大統領になる濱田岳
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「それだけ?」……これは逆に「勝手に端折ってるんじゃないの&きちんと訳してくれない」問題。いや、笑ってばかりもいられません。

ラニーノーズ「通訳」
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「直訳が過ぎる」問題です。これもまあお笑いのネタですからいいんですけど、それでも先ほどのリクシルの動画で出てきた「そこ訳さなくていい」と通底する問題が見て取れます。通訳者は基本的に聞こえてきた全てを訳すというのも意外に一般の方に理解されておらず、「まあ適当にまとめて訳してよ」とか「簡潔に訳して」と言われて困ることがたまにあるんですね。でも私たちに取捨選択の権利はないのです。

ゆりやんレトリィバァ「通訳士・吉原モカインタビュー」
youtu.be
これは……まあ笑って楽しみましょう。「通訳士」という呼称がちょいとひっかかりますけど。

最牛的日语翻译
youtu.be
最後は「おまけ」で、中国の「抗日ドラマ」ふうコントに登場する通訳者(すでに通訳者ですらありませんが)です。こういうカリカチュアが存在するということは、彼の地でも、通訳者に対するステロタイプなイメージが一定程度存在するということでしょうかね。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_403.html

*1:尊敬語ならば「誤解していらっしゃる」の方が自然だと思いますが、ネットで調べてみると、どちらも大丈夫なよう。参考:「おる」「おられる」「いらっしゃる」正しい使い方と違い | マナラボ

戦略的皿洗いのすすめ

先日京王線の電車に乗っていて、こんなのを見つけました。食器用洗剤「Magica(マジカ)」の車内広告です。

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magica.lion.co.jp
動画もアップされていましたよ。

youtu.be

夫、史上初のセリフ「おっ、オレお皿洗おうか?」
妻、3年ぶりのセリフ「あ、ありがとう…」
夫「意外とカンタン♪」
妻「いい仕事してる♪」

私は最初、この動画を見て爆笑してしまったんですけど、そのあとすぐに「こうしたアプローチの広告がいまだに奏功する日本って……」などと色々な疑問が沸いてきちゃいました。

夫が家事を手伝うというのは、まあ旧態依然たる男女の役割固定から比べれば幾分かは進歩しているのかもしれませんが、今のこの時代に夫が結婚して三年間も皿洗いをやったことがなかったのかとか、家事を手伝った夫に妻が感謝の言葉を口にしたのが初めてだったのかとか、色々ツッコミどころ満載です。

というか、例えば家電のCMで三菱電機Panasonicなどが一定程度家事に参加する夫を演出して、少しでも古い価値観から脱皮しようというスタンスを見せているのとはかなり対照的だなと思いました。

アイロンかけてます。
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「おしゃれ」に炊事や洗濯やってます。
youtu.be

いえ、別に夫でも妻でも、そのご家庭の事情に応じてできる人ができる家事をやればいいんですけど、この「Magica」のCMはそういう議論を飛び越えて、というより激しく逆戻しにして、そもここまで家事に無頓着な夫、あるいは男性ってどうよ、という鋭い問題提起をかましているのかという深読みさえ惹起しそうな勢いです。

しかし、世の中には絶望的なまでに家事をしない(あるいはできない)夫というのはいるものらしく、妻が風邪を引いて伏せっているときでさえ「ねえ、晩ご飯まだ?」とか、病院に行ってくると告げたら「じゃあオレのご飯はどうするんだ?」などと聞いてきたという、ちょっと信じられないような話を細君から聞かされました。細君の友人の話だそうです。

ちなみにうちは買い出しや炊事全般が私、掃除と洗濯が細君という分担なんですけど、後片付けは時にしんどいこともあるけど「戦略的」にやるとけっこう面白いです。料理を作っているそばから、使ったものを洗って拭いて片付け、ゴミなども処理して行き、こまめに水まわりを拭くのです。こうすると食事後に洗い物がどっさりでうんざり……という状況を極力回避することができます。

あと流水の下に食器を重ねて、水流で汚れや洗剤をある程度落としておくとスピーディとか、食器の数をできるだけ減らしてシンプルにして、取り出したり収納したりするときに余計な手間をかけないようにするとか。まあどなたもやってるでしょうから「戦略的」とまで言えないかもしれませんが。食洗機? うちのキッチンは小さすぎて、置けるスペースがありません。

私はキッチン台に何も載っていないのが好きなので、毎日毎食必ず全てのモノを片付けて「引っ越してきたときと同じ状態」にします。何もない状態から炊事が始まり、何もない状態で終わるので、これを「ひとりキッチン能舞台」と名づけて悦に入っています。

語学の「財産使い果たし系」について

こんなことを言っちゃうと身も蓋もないのですが、ここ十年ほど在日華人華人留学生と一緒に通訳訓練や日本語学習を行ってきて感じるのは、やはり語学の習得には「向き不向き」があるのだな、ということです。

学校教育では、語学の科目、例えば「英語」が「数学」や「国語」や「社会」などと並んでいるために見逃しがちですが、語学は他の教科とは少々異なる性質を持っていると思います。それは語学が一種の「身体能力」だからです。その意味では、語学はむしろ「体育」や「音楽」に近いのではないでしょうか。

体育や音楽だったら「向き不向き」があるというのは割合多くの人に同意してもらえそうですが、語学についてはなかなかそうはいきません。それはたぶん「母語は誰もが話せるじゃないか」という素朴な信憑によるのでしょう。

でも、家族環境や地域社会や国家などのあり方自体がマルチリンガルであるという場合はさておき、日本のようにほぼ単一言語で社会が営まれている場合、母語の習得過程と外語(あるいは第二言語)の習得過程は大きく異なります。ヴィゴツキーが「子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる」と指摘する通りです。

qianchong.hatenablog.com

語学は、特に「身体一つで音声を聞き、音声を発する」という部分の語学(学習者の多くがここに憧れて語学を始めます)については、それが母語とは異なる思考方法と、唇や舌や喉や呼吸などの使い方を駆使して行われる以上、まんま「身体能力」なのです。

ですから語学の達人になるというのは、アスリートやミュージシャンとしてそれなりの達成を示すことに近いです。でも、誰もがプロのアスリートやミュージシャンになれるわけではないのと同様、誰もが語学のプロになれるわけではありません。

もちろん、向き不向きがあっても、語学を学ぶこと自体は全くの自由です。当たり前ですけど、向いていなくたって学んでもいい。スポーツや音楽だって向いていなくても楽しむことはできるし、全員がプロになるわけでもありませんし。私だって後から考えれば全く向いていなかった美術を大学で学んで、それは全くモノにはならなかったけれども、後の人生でなにがしかの糧になっています。

ただ、語学はスポーツや音楽と同じように「向き不向きがある」というある意味冷酷な事実は、もう少し知られてもいいのではないでしょうか。そうなれば全国民が幼少時からかなりの時間を英語に割くなどという、ちょっと言葉は悪いですが「非効率な倒錯」から抜け出すことができるのではないかと思うからです。

“語言天才”の留学生

ところで、在日華人華人留学生と一緒に学ぶなかで時々、「この人は語学にとことん向いていたんだなあ」と思えるような方がいます。中国語にいう“語言天才”、つまり「語学の天才」とでも呼ぶべき方々で、そういった方は日本語の習得が他の方々と比べて際立って早く、音感が優れていて、語学にある程度不可欠な「芝居っ気」を兼ね備えており、失敗を恐れずリトライを続ける気概と勇気を持っています。

こういう方はとても日本語が流暢で、聞き手にストレスを与えないため、時にご本人の実力以上に好評価を得ることがあります。上述したように日本はほぼ単一言語で運営できてしまっている社会であるため、日本の人々の、外国人が操る日本語に対する要求が異様なほど高いことがその背景にあります。

留学生からよく「日本で一番心折れること」としてこんな体験談を聞きます。


というわけで、逆に聞き手にストレスを与えない喋り方ができてしまうと、日本社会ではそれだけで相手にどこか親しみやすく聡明な印象を与えることができます。まあ、当然と言えば当然なんですけど。

入社試験の面接などでも、仕事のスキルの優劣よりも日本語の流暢さで合否が決まってしまう(特に外語が話せない重役との面接で)というのは、私自身も何度か目の当たりにしてきました。

ただし、こうした“語言天才”の方々は、その先が二つのパターンに分かれていきます。

一つは元々「向いていた」語学のスキルを、それに甘んじることなくさらにブラッシュアップし続け、実力をどんどん上げ続けて真の「バイリンガル」に近づいていく方です。

そしてもう一つは周りから褒めそやされる日本語の流暢さに「甘んじて」それ以上の努力を怠り、気がつけば周囲の「そこまでは語学に向いていなかったけれども、ひたむきな努力を重ねた人たち」に抜かれてしまっていた……という「兎と亀」のウサギのような方です。

大変失礼ながら、私はそういう方をひそかに「財産使い果たし系」と呼んでいます。せっかく生まれ持った語学の才能があり、それを活かしていち早く語学の財産を築き上げたのに、その後かりそめの裕福さに慢心して財産が目減りをし続け、成長が頭打ちになってしまうのです。よしながふみ氏の『フラワー・オブ・ライフ』に出てくる真島海くんのように。

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「財産使い果たし系」の方は、表面的にはとても流暢で、その日本語を聞いていてもストレスがなさそうですが、少々込み入った内容の通訳や翻訳の訓練をしてみると、財産を使い果たしてしまった(あるいは使い果たしつつある)ことが露呈します。自分のことを自分の興味の赴くままにしゃべることはたやすくても、他人の発言を自分なりに咀嚼して代弁する通訳や翻訳の段階になると、普段の流暢さがどこかに吹き飛んでしまうのです。

私はそういう生徒に出会うと、老婆心ながらなるべくプライドを傷つけないよう気を使いつつ「このままではいけないよ」と伝えるのですが、なかなか分かってもらえません。中野好夫氏がいみじくも指摘したように「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい」ですね。

かくいう私自身の「語学の財産」ですが、正直に言って残高は常に少なめだと思います。日々せっせと貯蓄なり運用なりをせねばと自らを戒めているところです。

よしながふみ氏の秀逸な作話術と杉田水脈氏の幼稚な妄言について

前巻の発売から約十ヶ月ほど、よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』の最新第14巻を読みました。


きのう何食べた?(14)

このマンガの秀逸なところを挙げれば切りがないのですが、そのひとつは筧史朗(弁護士)と矢吹賢二(美容師)というゲイのカップルを中心にした物語でありながら、そこから連想されるセクシャルな要素がほとんど出てこないということです。

世の中にはゲイ・レズビアン文学や映画祭、LGBTを取り上げたドラマや舞台作品などがあり、ひとつのカテゴリーを成していて、このマンガもその流れの中に位置するものではあります。それらはもちろん世にその存在を知らしめ、時にまっとうな権利を求め、あるいは理不尽な差別に立ち向かうという側面があり、それぞれの存在意義を持っています。

その中にあってこのマンガが際立って特徴的なのは、言ってみれば「LGBTをテーマにしてすらいない」という点。つまり、ごくごく当たり前の、普通の、ことさら区別して特筆する必要すらない人間のありかたとして、このカテゴリーを扱っているのです。言い換えれば、ゲイ=セクシャルという連想が立ち上がること自体がもうすでに陳腐、カテゴライズすら陳腐なんですね。

主人公の筧史朗は職場の同僚に「カミングアウト」をしていないゲイとして設定されており、ときに世の中の無理解や不寛容などに対する葛藤も描かれてはいるのですが、おそらくそこに作者であるよしながふみ氏の主眼は置かれていません。

しかも筧史朗自身が歳を取り、人間的にもより成熟するに従って、気持ちの上でも行動の上でも自分自身を受容し、ゲイという「マイノリティ」である自分と世の中の「マジョリティ」との齟齬にこだわらなくなりつつある。こうして、ゲイにまつわる課題を、世の中への働きかけではなく自らの内側の成熟として表出させているところに、よしながふみ氏の周到なストーリーテリングを感じるのです。

もうひとつ、自分もまた筧史朗とほとんど同じ年齢であり、仕事をしつつ家庭では炊事や買い出しなどの家事を担当しているので、このマンガにはとても共感するところが多いのです。年老いた両親との関係や、己の身体状況の変化、忙しい毎日にあっても自分なりの「小確幸」を大切する生き方……以前にも書きましたが、自分の暮らしと重ね合わせるように読めるマンガが同時代に、現在進行形であるというのは、ほんとうに僥倖だと思っています。

ところで、書店でこの本と一緒にもうひとつ買った本があります。『新潮45』という雑誌の8月号です。


新潮45 2018年08月号

この雑誌をわざわざ買ったのは、自民党杉田水脈衆院議員が寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」という文章の全文を読んでみようと思ったからです。すでにその内容はここ数日ネット上でも様々な方面から紹介され、批判されているので何をか言わんやですが、全文を読まないことには事の当否を判断できないですから。

mainichi.jp

読んでみて始めてわかりましたが、これは同雑誌の「日本を不幸にする『朝日新聞』」という特集の一部なんですね。他の論者の文章にもいろいろと思うところはありましたが、とりあえず杉田氏の文章にしぼると、LGBT、さらにはQ、Xと杉田氏なりに勉強された跡は見え、こうした性的マイノリティの存在を「キモい」などの一言で済ます思考停止よりは幾分マシかと思いました。

が、結局は……

(自身が通った)女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。

とか……

(性の多様性を認める報道が)普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

などと異性愛だけが「普通」で「正常」という考え方に収斂します。あまりにも幼稚で杜撰な論旨に、当然予想されたことではあるんですけど、雑誌代900円を支払ったことを後悔しました。杉田氏のこの妄言は、せっかく学んだ知識が血肉化されない典型例だと思います。

また「生産性」の部分については、既にネットをはじめとするメディア上でも数多の批判が出ているようにまんま優生思想で、現代の人権に関する議論からは激しく周回遅れです。というか、「普通の結婚」に拘泥している時点で既に学習能力の欠如をうかがわせます。何を読み、誰に話を聞き、その上で何を考えて来たのか。人は誰しも無知のそしりを免れ得ませんが、いくつになっても学ぶ習慣だけは残しとかなきゃいけません。

ところで、いま思い出しても憤懣やる方ないのが、以前お仕事でご一緒したことのある某弁護士さんのこと。この弁護士さんは、とある打ち合わせの合間の雑談で、ご自分が「通常」で「普通」と考える異性愛以外を「キモい」の一言で切って捨てたのです。筧史朗と同じ弁護士でありながら(まあ、筧史朗はマンガの中の人物ですが)、この人権意識の欠如はどうでしょう。そして私は私で、なぜあの時きちんと反論しなかったのか……今でも痛恨の極みです。

よしながふみ氏の決して声高に語ることがないけれども深い洞察と人間観を感じさせる作話術、それに対して勇ましく大手メディアを一刀両断にする千言万語を費やしながらも幼稚さと知性の不全しか感じない衆院議員の寄稿。同時に買ったこの二冊の径庭とコントラストに眩暈を覚えるほどです。

義父と暮らせば:番外篇——家を処分する

昨年亡くなったお義父さんが晩年一人で住んでいた家。細君が幼い頃にお義父さんが購入したそうです。でも千葉県は柏市のかなり不便な場所にあり、私たち夫婦にとっては利用する術もなく、かといってそのまま放置しておくわけにもいきません。そこで不動産鑑定士さんにお願いして土地と建物の評価をしてもらい、合わせて売りに出したところ、ようやく買い手が見つかりました。

売れたといっても、文字通り「二束三文」です。細君が不動産の名義変更をした際に、司法書士さんから路線価などを元にした標準的な評価額を教えてもらいましたが、もとより古い家ですし、当然評価額よりずっとずっとずっと低い価格。とはいえ、私たちとしては家の中の膨大なモノの処理や、老朽化した家屋の取り壊し、その後の土地の整備などで「持ち出し」がなかっただけでも本当に幸いでした。買い手の方と、そうした費用も「込み込み」という条件の上、「二束三文」の価格で折り合ったのです。

だいたい、この土地と家はもともと私たちのものではありませんし。無から有を生じるほど、それが金銭にからむことであるほど、人の心は乱れるし厄介を呼び込む。だから遺産だの相続だのということに対しては一片の欲も持つまい——それが私たちの基本スタンスです。ですから元よりこの土地と家を資産だなどとは考えませんでしたし、こうやって「とんとん」で持ち出しがなかっただけでも「御の字」でした。

ただまあ、細君にとっては幼い頃から過ごしてきた思い出のある実家です。それなりに感傷もあるかと思っていましたが、何度か通って必要なものを引き取り、ゴミを処分し、ご近所さんにも私を伴って挨拶など済ませ、清々とした表情で無人の家屋に「長い間お世話になりました」と告げて帰ってきました。素晴らしい。お義父さんにとっては、マイホームをそんなに未練もなくあっさり処理されちゃって、ちょっと不服かもしれないですけどね。ごめんね。

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……しかし、ご近所にご挨拶に行ったときにしみじみ感じましたが、周囲のどのお宅も、お義父さんとほとんど同じ状況なんですね。つまり、高度経済成長期に、言葉は悪いけれど不動産屋さんに「だまくらかされて*1」マイホームを構え、その後子供たちは都心への通勤に不便なその家には住んでくれず、高齢化して伴侶に先立たれ、結果、無駄に広くなってしまった家に一人で暮らしている……というパターンが多いのです。

細君は、ご近所のお年寄りたちに「ねえ、いくらで売れたの?」と何度も聞かれたそうです。ご自分の土地や家が将来どれくらいの価格になるのか、その「先例」を知りたかったのでしょうけど、言葉を濁すしかなかったそう。それくらい文字通り清々しいほどの「二束三文」だったのですから。

先日読んだ『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』という本にも、全く同じような例が挙げられ、なおかつそれが将来のリスクになると記されていました。千葉県のこの小都市だけではありません。私が今住んでいる東京都の23区内だって、周囲にはお年寄りだけの世帯、あるいは空き家と思しき住宅が散見されます。

qianchong.hatenablog.com

もちろん、それぞれの家族にそれぞれの家族に合った生き方・暮らし方がありますし、どう「住まう」のかはそれぞれの自由です。それでも、公共交通機関で、駅で、テレビや新聞、雑誌などで、またうちにも頻繁にポスティングされるチラシなどで、いまも何十年前と変わらず、そう、お義父さんがマイホームを買った頃と変わらぬトーンで業者が「マイホーム」への夢を煽り立てているのを見るにつけ、もうそんな時代ではないんじゃないかな、と思うのです。

追記

そんなことを考えていたら、先日、こんな記事に接しました。

bunshun.jp

私はその記事を紹介されていたTwitterのツイートに、こうリツイートしました。

かつて職場の命令でしぶしぶ受験して資格を取った「簿記」ですが、こういう時はとても役立ちます。かつての職場に感謝です。

*1:敢えてこう言っちゃいます。都心からゆうに一時間以上はかかり、なおかつどの最寄り駅からもバスで20〜30分もかかるようなこの場所に土地と家を買っちゃったんだもの。当時はもうすぐこのあたりに地下鉄が通るなどといった類のセールストークもあったそうです。結局何十年経ってもそれは実現しませんでした。

フィンランド語 20 …「話す」をめぐって

「puhua(話す)」という動詞を学びました。まず人称による変化を確認しておきます。

● puhua(話す)
①最後の a を取って語幹は puhu 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」 がないのでそのまま変化。つまり……

puhun puhumme
puhut puhutte
puhuu puhuvat

Puhutko sinä suomea ?
あなたはフィンランド語を話しますか?
Puhun, mutta vähän.
話します。でも少しです。

suomiフィンランド語)」が分格の「suomea」になっています。先生によると「全て」と言えない目的語は分格をとるそうです。つまり「フィンランド語を話す」といっても、フィンランド語全てを話すわけではなく、ごく一部のある話題を話すからということかな?

日本語にはない概念の分格ですが、それでも同じ人間の思考である以上、全く理解できないということはないはず。分格は「分ける格」というその名の通り、目的語が一部分であることを表すんでしょうね。

話しますかと問われて、「Puhun」と答えています。人称代名詞の「Minä」が省略されていますが、「Puhun」自体が一人称単数の形なので、言わずもがななんですね。同時に「話す」という肯定の答えにもなっているわけで、要するにこれは「はい」にあたります。先生が「フィンランド語には Yes や No にあたる言葉がない」と言っていたのはこのことですね。

ちなみに「はい」の場合はそれぞれの人称によって変化した形が、「いいえ」の場合は否定辞のあとに動詞の語幹、つまりこの場合は「puhu」がつきます。したがって……

はい いいえ
(minä) puhun (ninä) en puhu
(sinä) puhut (sinä) et puhu
(hän) puhuu (hän) ei puhu
(me) puhumme (me) emme puhu
(te, Te) puhutte (te, Te) ette puhu
(he) puhuvat (he) eivät puhu

……ということですね。

Mitä kieltä sinä puhut ?
何の言語をあなたは話しますか?
Minä puhun japania ja englantia sekä vähän suomea.
私は日本語と英語、それから少しフィンランド語を話します。

「kieltä」は「kieli(言語)」の分格です。i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「kiele」になりますが、これは「pieni(小さな)」と同じで「le、ne、re、se、te(レネレセテタイプ、と先生は言っていました)」ですね。

●「kieli(言語)」を分格にしてみる。
i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「kiele」。最後が le、ne、re、se、te で終わるので、語尾は tA(単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä ) になり、さらに e が消えます。つまり、kiele + tä = kieletä ですが、e が消えて kieltä となるわけです。

「sekä」は事物を列挙するとき、最後につける「それに」にあたる言葉。英語でも「〜, 〜, 〜 and 〜」、中国語でも「〜, 〜, 〜 和 〜」といいますが、同じですね。

しかも、ほんの少ししか話せなくても、フィンランド語では「少ししか話せない」と否定的に言うことはまずないそうです。肯定で「少し話せる」と言う。これ、留学生などに接していると、英語や中国語が母語の生徒さんたちもみんな同じですね。ほとんど挨拶程度しか話せなくても「少し話せる」と言う。この点、日本人はかなり話せても謙遜して「少ししか話せない」と言います。興味深い差異です。

あ、ちなみに「kiina(中国語)」の分格は、これはもう外来語ですから単に「a」をつけて「kiinaa」ですね。

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Me puhumme kiinaa.

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He puhuvat suomea.