インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

試験をなくしてみた

4月から新しい年度の学期が始まりました。私は今年度から、自分が担当している通訳のクラスに限って、期末試験を行わないことにしました。とはいえ卒業時に「専門士」資格が付与される学校なので、評価をして成績をつける必要はあります。そこで通常の授業での取り組みや成果などを踏まえたうえで学期中に何度か面談も行い、学期末に評価表を渡すことにしました。あなたはこの学期中にここまで学びを積み重ねることができましたよ、というのが読み取れるような。

正直、学期末に試験をやって、それだけで評価するほうが仕事としてはラクかもしれません。でも期末試験だけで評価すると、学生さんたちはいきおい期末試験「だけ」にフォーカスして学ぶようになる。とにかく試験さえ突破できればいい、試験さえいい成績が残せればいいと考えて、日々の学習や訓練がおそろかになる(もちろん日々精進していなければ、試験の結果にもそれが現れるとは思いますが)のです。

じゃあってんで、期末試験だけでなく学期途中に小テストを何度か組み込んでみたこともあるのですが、学生はこれまた小テストにばかりフォーカスして学ぶようになっちゃう。語学の喜びは人と優劣を競うことにはなく、ただただ昨日までの自分と比べてどれだけ成長できたかを実感することにある……私はそう信じているのですが、試験があることで学生さんたちは日々の自分の成長よりも試験をクリアすることのみに集中してしまう。これでは本末転倒だと考えました。

つまり語学の授業を、自分が日々成長していることを実感できる、そういう自発的な学びを促すような方向に持っていきたいのです。多分に理想主義的ではありますが、“得過且過(その場しのぎ)”な学び方を助長するような「試験→評価」という枠組みは、結局のところ学生のためにならないと判断して、同僚とも相談の上、こういう取り組みを試してみることにしたというわけです。


https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_605.html

これはまた私たち教師の幸せ、というか仕事のやりがいにもつながると思っています。別に学生を差し置いて教師だけが充実感を味わいたいわけではありませんが、試験があると、教師は往々にして学生を学びに向かわせるツールとして試験を使うようになるような気がしています。「ここは試験に出るよ(だから学べ)」、「試験をパスしないと進級あるいは卒業できないよ(だから学べ)」と。私にはこれが不毛に思えるのです。

私が担当しているのは義務教育段階ではなく、学生はひとりの大人として語学なり、通訳翻訳のスキルなりを学んでいます。大人なんだから、自分の成長は自分で管理すればいい。そして学生は、そして教師も、試験をパスする(させる)ことばかりにフォーカスすることから解放されて、本来の学びを恢復すべき……そんなことを考えて、試験をなくすことにしたのです。

もちろん試験をなくしたぶん、日々のカリキュラムの組み立てにはより注意と工夫が必要になります。その努力は惜しまないつもりですが……はたして今学期の終わりに、どんな成果が現れているでしょうか、それともやはり無謀だったと反省することになるでしょうか。