インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

親称と敬称、あるいは「彼」と「彼女」

滝浦真人氏の『日本語は親しさを伝えられるか』という本を読んでいて、ヨーロッパの言語によく見られる、二人称単数代名詞の親称と敬称について書かれた一節に興味をひかれました。


日本語は親しさを伝えられるか

二人称単数代名詞というのはつまり「あなた」とか「君」とか「あんた」とか「お前」といった言葉のことで、親称とは家族や友人など親しい間柄で使われるもの、敬称とは目上の人や見知らぬ人、よその人(外国人など)に対して使われるものです。

例えばフランス語には“tu(親称)”と“vous(敬称)”がありますし、ドイツ語には“du(親称)”と“Sie*1(敬称)”があります。しかもフランス語の“vous”は二人称複数形からの転用で、ドイツ語の“Sie”は三人称形からの転用なんだそうです。

そうした転用の動機づけは、一人の相手を一人でないかのように呼ぶことで、あるいは、二人称の相手をそこにいない三人称の人物であるかのように呼ぶことで、指示の強さを和らげるという対人配慮(ポライトネス)的なものである。(74ページ)

なるほど〜。いずれも「敬いたい一人の相手」をピンポイントで呼ばないことで尊敬を表すということですか。そういえばフィンランド語にも“sinä(親称)”と“Te(敬称)”があって、これはフランス語と同じように二人称複数形からの転用であり、かつドイツ語と同じように、文中でもつねに大文字で書かれます。

ただ、フィンランド語の先生によれば、この二人称単数の“Te”はもちろん使われないことはないけれど、かなりフォーマルというか、かしこまった感じになるのだそうです。加えてフィンランド語は動詞だけで人称や単複を含んだ表現ができるので、人称代名詞自体が省略されることも多いです。

人称代名詞といえば、フィンランド語には「彼」と「彼女」の区別がなく、いずれも“hän”です。中国語も、漢字は“他/她”と違えているものの、発音は同じ”tā”ですし、英語の「それ(it)」にあたる“它”も同じ発音です。もっとも、漢字をこう書き分けるようになったのは比較的最近(20世紀初頭)のことだったようですが。

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さらに、フィンランド語の授業で見ている映画などからわかるのは、フィンランド語のくだけた会話の口語では、“hän”が「それ」にあたる“se”を使っちゃうことが多いみたいです。つまり彼女も彼も動物もモノもみんな“se”で済んでしまうと。

なぜフィンランド語にそういう現象が起こっているのか。もともと被支配の歴史が長くて階級社会ではなかったからとか、もっともらしい理由は考えつきますが、実際のところはどうなんでしょう。たぶんそういう研究もされているんじゃないかと思います。もっとフィンランド語が読めるようになったら、探してみたいと思います。

ちなみにスウェーデン語には、“hon(彼女)”と“han(彼)”という代名詞があるそうですが、近年ここに性別を問わず使える“hen”が加わり、しかもけっこう普及しているのだそうです。

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英語でも多様なジェンダーに配慮して“he”や“she”ではなく“they”を使おうとする動きがあるという話を聞いたことがあります。アメリカ人の同僚によると、地域にもよるけれど、けっこう普通に使われるようになっているとのことでした。

さまざまな言語におけるこうした言葉の背景や変遷を見ていると、人間の捉え方、社会のありようは実に多様なんだなと改めて思います。ジェンダーや家族のあり方などについて頑迷な考え方を手放さない政治家のみなさんも、外語を学んでみることで少しはこの世界を違った視点、違った切り口で捉えることができるようになるかもしれません。

*1:二人称単数の場合はつねに大文字。