インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ベテラン勢がなかなかやめない理由

アンダース・エリクソン氏とロバート・プール氏の共著『超一流になるのは才能か努力か?』という本を読みました。留学生の通訳クラスで行っている「講演通訳」の授業で、学生のひとりがおすすめしてくれた一冊です。いかにも自己啓発本といったタイトルで、ふだんならたぶんあまり手に取らない種類の本ではあるものの、おすすめされて興味を持ったのです。はたして、読んで正解でした。とても興味深い気づきがたくさん詰まっていました。


超一流になるのは才能か努力か?

いろいろあった気づきのうちで、まず最初に付箋を貼ったのは、「運転歴二〇年のドライバーは、運転歴五年のドライバーより技術が劣っている」という、一見挑発的な小見出しから始まるパートです。

しかし、ここで一つ、覚えておいてほしい重要な点がある。ひとたびそこそこのスキルレベルに達し、運転でもテニスでもパイを焼くのでも特に意識せずにできるようになってしまうと、そこで上達は止まるのだ。これは誤解されがちな点で、(中略)継続すればペースは穏やかかもしれないが能力は向上しつづけると思っている人が多い。(中略)二〇年教壇に立っている教師は五年しか教えていない教師より上である、と思い込むのだ。(41ページ)

なるほど、確かに私たちの「常識」的な認識では、長年現場で経験を積んできたベテランの方が、新人や若手よりも優れた能力を発揮しているものと考えます。誰もがそれは当たり前なのではないかと思うところを、筆者は「それは誤りだ」と断じるのです。

一般的に、何かが「許容できる」パフォーマンスレベルに達し、自然にできるようになってしまうと、そこからさらに何年「練習」を続けても向上につながらないことが研究によって示されている。むしろ二〇年の経験がある医者、教師、あるいはドライバーは、五年しか経験がない人よりやや技能が劣っている可能性が高い。というのも、自然にできるようになってしまった能力は、改善に向けた意識的な努力をしないと徐々に劣化していくためだ。(42ページ)

なるほど、これ、個人的には「経験値」のようなものと注意深く切り分ける必要があるとは思いますが、純粋に何かのスキルの巧拙に着目した場合、確かにそうかもしれません。「改善に向けた意識的な努力をしないと」という部分は特に。私など中国語というスキルをその生業としているわけですが、これまでに何度もその「劣化」を感じたことがあり、そのたびに焦りまくってきたことを思い出しました。

ことに教える立場になってからは、教室や学校も通うこともしなくなりますし、昔のように検定試験を頻繁に受けるようなこともしなくなりがちです。要するに、同業他社の「荒らし」みたいになりはしないかとか、検定に落ちたら教師として恥ずかしいとか、そんなみみっちいことを考えるようになるんですね。

でも、そんなことは気にせずに、不断にブラッシュアップを心掛けるべきなのです。さいわい私の場合は、趣味と実益(教材づくり)を兼ねて中国語の読解や聴解やディクテーションを続けられていますし、職場で中国語母語話者と会話する機会にも恵まれています。でもそれらもかなり「ぬるま湯」の環境なのかもしれません。

この本では、そうしたぬるま湯的「そこそこ」のレベルでよしとする、居心地のよい領域(コンフォートゾーン)を抜け出して、それより少し大きな負荷をともなった領域へと追い立てるような「限界的練習」こそがスキルの劣化を食い止め、上達につながるポイントだと述べられています。私も十数年このスキルで食べてきて、かなりそのコンフォートゾーンに片足を突っ込んでいるような気がしてきました。

いろいろと差し障りがあるので具体的には書けませんけど、かつては目の覚めるような成果を示しておられたものの、その後どんどん評判が落ちているのにもかかわらず、なかなか辞めない・辞めさせられないベテラン勢の存在はあちこちの業界で漏れ伝わってきます。ひょっとすると、本当はコンフォートゾーンにどっぷりひたっている自分の劣化をうすうす分かっているのだけれども、必要とされなくなるのが怖くてなかなか辞められないのかもしれません。かつてそれほどの成果すら上げてこなかった自分ならなおさらのこと……ああ怖い。

「限界的練習」とその成果については、もうひとつ、これまでの自分の認識を疑わざるをえない気づきがあったのですが、それはまたいずれ稿を改めて書こうと思っています。