興味深いブログ記事を読みました。山下達郎氏を始めとするアーティストが、Spotifyなどの音楽ストリーミング配信サービスに楽曲を提供しない理由について、音楽業界の背景も含めて解説されている記事です。
この記事によれば、山下達郎氏はこうしたサービスを否定しているわけではないものの、ご自身の作品の提供については「恐らく死ぬまでやらない」と述べておられる由。ブログの記事を書かれた、むらたかもめ(id:houroukamome121)氏は、「自身の作品を雑に消費しない人に向けて届けようとしているし、雑に扱わない人と仕事をしたいと思っているのだろう」と山下達郎氏の気持ちを代弁されていますが、個人的には非常に納得感のある解説でした。
それは、私もかつてSpotifyやApple Musicといったサービスを利用したときに、まさに「音楽を雑に消費している」ことに大きな違和感を覚えて、解約した経緯があるからです。こうしたサービスでは、少しでも気に入らないと思った楽曲はどんどん聞き飛ばすことができます。それこそが魅力だという方もいるでしょうけど、私は音楽をそんなふうに楽しむことはできないと思ったのでした。
音楽の楽しみ方は人によってさまざまですから、自分の考えを押しつける気はありませんが、私にとってサブスクでいくらでも(個人が消費できる量からすればほとんど無限と言っていいほどに)音楽が聞けるということ自体、つまり、いま聞いている音楽の向こうにまだ無尽蔵のコンテンツがあるというその設定こそが、音楽に対してとても粗雑な態度を許してしまうような気がしたのです。
音楽を聞き飛ばすにせよ、深くじっくりと楽しむにせよ、多くの楽曲のなかから「出会い」を得なければ始まりません。だからこうしたサービスでその出会いの機会を飛躍的に増やすことは、悪いことではないのかもしれません。しかし、聞き飛ばしたことがある方ならたぶん同意してくださるでしょうけど、聞き飛ばすときはイントロだけ聞いて、あるいは「サビ」と思われる後半三分の一くらいのところに当たりをつけてクリックして聞いて、その数秒の印象だけで楽曲を判断するようになります。これが音楽を「雑に扱う」行為でなくてなんだというのでしょう。
そうであれば私は、新しい音楽作品との出会いは、こうしたサービスの「リコメンド」ではなく、深い知識と審美眼を持った音楽評論に依りたいと思います。それはなにも音楽評論家のようなプロの意見でなくてもかまいません。ネットでの評判やヒットチャートに依ってもいいのです(上述したようなサービスにもヒットチャートはありますから、そこだけは利用してもいいのかなとは思いますが)。
ともあれ、私はこれからも音楽ストリーミング配信サービスは利用しないつもりです。時代遅れといわれようとも、そのぶん信頼できる音楽評論を探すことに努力を傾けましょう。まずは、今回拝読したこの記事で紹介されていた、山下達郎氏の新譜『SOFTLY』を聞いてみることにしようかな。