インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「農的な暮らし」を志向したことがあった

1989年、大学を卒業したものの路頭に迷っていた私は、九州のとあるフリースクールで共同生活を始めました。このフリースクールは「水俣生活学校」といって、水俣病事件における患者支援や調査研究などを行っていた財団法人・水俣病センター相思社の一部門として設立されていたものでした。水俣病を生み出してしまったような社会のあり方を反省し、そうではない「オルタナティブ」な社会や暮らしのあり方を、主に共同生活と農作業を通して模索するという「コミューン」のような「人民公社」のような学校でした。

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それまで東京で暮らしていた私自身、環境問題に強く関心を持っていました。折しもチェルノブイリ原発事故を受けて反原発運動が盛り上がりを見せていた頃でもあります。そうした社会運動や市民運動への関心から、有機栽培された野菜や添加物をおさえた食品を扱う八百屋さんでアルバイトしていましたし、そのお店のお客さんつながりで市民運動の集会やデモなどによく参加していました。その意味では大学を卒業して水俣に行ったのは、ごく自然の流れだったように思います。

その学校で一年間学んだ後、私はそこの「専従」になり、さらに相思社の職員として資料館(水俣病歴史考証館)の展示物作成や相思社の広報誌の編集をするようになりました。当時相思社は、水俣病患者家族が取り組んでいた有機栽培の甘夏産直事業をめぐって、在庫欠乏時に有機栽培ではない甘夏を混ぜて売るという「事件」を起こして一大スキャンダルとなり、組織再編のまっただ中にありました。私はその直後に相思社の職員になったのですが、いわばその再編の激動のなかで「運良く(?)」職を得たようなものでした。

もともと相思社はその出自からして、患者運動の支援という、その意味では左翼的な色合いの強いところでした。ただ私は、そうした左翼的な思想にシンパシーこそ感じていましたが、学生運動の頃よりずっと後の世代であることもあって、どちらかと言えばそういう運動には無頓着というか知識のないまま働いていたように思います。先日ひょんなことから当時の相思社のあり方を研究されている方の論文を拝見したのですが、そこに当時の私のこんな文章が引用されていました。

だから私が水俣に来たのは水俣病事件の「闘い」や「運動」のためじゃありませんでした。 はじめて水俣に来たときなんか,相思社のこともチッソ水俣工場のことも,そのときチッソ正門前で座り込みをしていた「水俣病チッソ交渉団」のテントのことも知りませんでした。いや別に威張ってるわけじゃないんですけど。生活学校に来た日だって,湯堂バス停からの道すがら強烈な堆肥のにおいをかぎながら,「これにも慣れなきゃ」なんて決意!したりしてました。都会でぜいたくな暮らしをしている自分が,水俣に来て農的な暮らしをすることでたとえば水俣病のようなものに対して何か申し訳がたつんじゃないか,というようなことを考えていたと思います 。


平井京之介氏『考証館運動の生成 : 水俣病運動界の変容と相思社

こんな文章を書いたことさえほとんど忘れていましたが、自分なりに必死に何かを考えていたのだろうなということはわかります。特に「都会でぜいたくな暮らしをしている自分が,水俣に来て農的な暮らしをすることでたとえば水俣病のようなものに対して何か申し訳がたつんじゃないか」というのは、まさに当時の私の本音でした。水俣生活学校ではだから「自給自足」のようなことを目指していました。野菜や米を作り、鶏を飼い、タマゴを売り、ミカンの産直事業をやる……。

ただ、いまから振り返れば、というか当時すでに気づいてしまっていたのですが(だから後年、東京に戻ってきてしまいました)、そうしたことに取り組めるということ自体もまた「豊かさ」のなせる技だったのだと思います。農作業や産直事業をすることそのものにも、現代の資本主義的な社会システムが深く関わっていて、その恩恵を受けることなくそれらを続けることなどできないのですから。本当の意味での「自給自足」にはほど遠い、贅沢なお遊びみたいなものだったーーその点では、私個人における「農的な暮らし」も「都会でのぜいたくな暮らし」も、そこにさしたる差はなかったのかもしれません。

生活学校で実践したことひとつひとつはいまでも貴重な体験として自分のなかに残っていますが、当時の私はいまにも増して未熟だったというか、世の中のことがほとんど見えていなかったのだなと思います。

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▲水田の開墾をしているところ。当時の写真はこれ一枚しか残っていません。