インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

異議申し立てと逸脱の混同について

もうすぐ2022年を迎えようという今となってはちょっと信じられないくらいですが、かつて喫煙がほとんどどこでも自由に行われていた時代がありました。

ほとんど、というのは病院など医療施設や小中学校の施設内などではさすがに行われていなかったような記憶があるからですが、そういった場所以外では、喫煙が野放しだったのです。オフィスも大学の構内も、駅のホーム上も。長距離列車や飛行機の機内でさえ吸えた時代があるんですよ。旧式の航空機など,座席の肘掛けに灰皿がついていることなどついこないだまであったのです。

学生時代は、誰もがタバコを吸っていました。当時はなぜかタバコとバイクが学生のステイタスシンボルで(うちの学校が特殊だった可能性はあります)、クラスメートのかなりの人がタバコを吸い,バイク(あるいはスクーター)に乗っていました。先日ふと思い出して書いた、大学卒業後に働いていた水俣病関係の財団でも、当時はどこでも喫煙可でした。私は当時からタバコの煙がとても苦手でしたが、煙に閉口しながらも「そういうものだ」と受け入れていました。

ところが、くだんの水俣生活学校でしばらく暮らすうちに、私はタバコの煙に我慢ができなくなり、少なくとも屋内では「禁煙」にしようではないかと提案しました。思えば、既存の習慣なりルールなりに自分の意思で抵抗を示そうとしたのは、たぶんあれが初めてだったのではないかと思います。それも最初はただぐずぐず不満を言っていたところを、共同生活していた何人かの方から(この方々も喫煙者でしたが)、自分が嫌だと思っていること、不合理だと思っていることは、きちんと意思表示をした方がよいと促されてのことでした。

しかし、周囲の反応は激烈なものでした。「禁煙」とは何事か、喫煙する権利を奪うというのか、誰かが誰かの行為を「禁じる」などという非民主的なことが許されるのか、と反対の声がまきおこったのです。だったらお前が趣味にしている編み物(当時は編み物が趣味だったのです)の編み棒がふれあう音を忌避する人がいて「禁編み物」を打ち出されたらどうするのだ……などという、笑い話のような(しかし本当にあったのです)反論さえありました。

なかば恫喝めいた脅しを受けたこともあります。左翼界隈、というかリベラルな考え方を持っている方々(適切なカテゴライズが思い浮かばないので,雑駁とは思いつつもとりあえずこう書きます)であっても、いやリベラルな考え方を持っているからこそ、禁煙という他人の権利を抑圧するような制度には賛成できないということだったのでしょうか。

いや、いまこう書いていてもちょっと目眩がするというか、笑っちゃうような論旨なのですが、とにもかくにもそんな状況だったのです。私は、水俣病を生みだしてしまったような社会のあり方を批判する私たちがタバコの煙の害に無頓着なのは矛盾しているのではないか、どちらも他人の健康や生存を脅かしているという点で選ぶところはないじゃないかというような反論をしたことを覚えていますが、言下に「それは言い過ぎだ。それとこれとは問題の質がまったく違う」というようなことを言われました。それでも、様々な議論ののちに「あんたが嫌だと思っているのなら」といういわば同情というか惻隠の情もあってか、屋内だけは禁煙になりました。

そうやって一応の解決を見たこの問題は、しかしのちのちまでくすぶり続けました。特に若かった私が調子に乗って、屋外における喫煙についてもその煙の流れる方向によっては副流煙の被害を受けると批判のトーンを強めたことで、同僚との間に少なからず亀裂が入ることになりました。私が後年水俣を離れた遠因にもなっていると今にして思います。

さすがに現代では上述したような反論はなされないでしょう。たぶん私が勤めていたその職場でも、完全に分煙が行われているはずです。水俣を離れてからは、かの地を一度も訪れたことはないので、実情は分かりませんが。

しかし、世の不公正や不正義とたたかう旨を高く掲げている左翼界隈やリベラルと呼ばれる人々がなぜあんなにも偏狭だったのか(もちろん問題を提起することを促してくれた方もいたわけで、一概にすべてがそうだとは言えませんが)、その後もずっと疑問に思い続けてきました。そしてこれは、かつてはかなり積極的に関わっていた左翼系・リベラル系の社会運動や市民運動を一歩引いて眺めるようになったひとつの理由にもなっているような気がしていました。

f:id:QianChong:20211224121652j:plain:w300
▲当時個人で出していたニュースレター。幼稚な論旨に顔から火が出そうですが。

ジョセフ・ヒース氏とアンドルー・ポター氏の共著で、もう15年以上も前に書かれた『反逆の神話』には「異議申し立てと逸脱の区別」という一節があって、そこにはこう書かれています。

意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立てと逸脱は区別しなければならない。異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対しているときに生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行っていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。(新版:155ページ)

f:id:QianChong:20211224114443j:plain:w200
反逆の神話〔新版〕「反体制」はカネになる (ハヤカワ文庫NF)

なるほど、およそ30年前の当時の社会にあっては、ところ構わず行われる喫煙が「正当な社会規範を破る反逆行為」として認識されてはいませんでしたが、現在でなら、例えば電車内やオフィス内での喫煙は、まさにそうした行為だと見なされるでしょう。そう考えれば、私たちはこの30年間をかけて、少なくともタバコ問題に関してはようやく「異議申し立てと逸脱」の混同を克服しつつあるのだと言えるのかもしれません。

とはいえ、他の諸問題に関しては左翼界隈やリベラルと呼ばれる人々の「旧弊」がいまだ改まっていないところがあるようにも思えます。リベラルの退潮が伝えられて久しいいま、「新版」を得たこの本は再び広く読まれるべきかと(新版の帯には東浩紀氏が「ぼくたちはいつまで文化左翼のゲームを続けるのだろうか」と書かれています)。これから先、他の諸問題に関しても、喫煙をめぐってかつて行われていたような異議申し立てと逸脱の混同を克服していけるのかどうか、私自身の問題として考え続けなければと思っています。